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2020年6月30日火曜日

「役に立たない科学」が役に立つ

エイブラハム・フレクスナーロベルト・ダイクラーフによる『「役に立たない科学」が役に立つ』が,初田哲男さんの監訳によって近々東京大学出版会から登場する。著者は,プリンストン高等研究所の初代および現在の所長である。この本は,この二人のエッセイ,明日の世界(ロベルト・ダイクラーフ),役に立たない知識の有用性(エイブラハム・フレクスナー)を中心に構成されている。後者は1939年にHerpars Magazine に掲載されたものでありすでに著作権が切れており,2013年の3月にあの山形浩生によって「役立たずな知識の有益性」として訳出されている。このタイトル比べただけでも,山形大丈夫かと思ってしまいそうだ。本は読んでいないけれど,2017年12月のダイクラーフの講演資料をみるとその趣旨がとてもよく理解できた。

図 The Usefulness of Useless Knowledge 原著の表紙(引用)


2020年6月2日火曜日

女帝 小池百合子(1)

久しぶりに近鉄百貨店八木店の6Fにあるジュンク堂書店にいった。ここは品揃えも配列もいまいちだけれど,奈良県で近くの書店といえばこのあたりしかないという残念なことになっている。で,「女帝 小池百合子」があったので,手にとってカイロ大学のあたりだけさらっと読んでみた。著者は石井妙子であり,なぜか1冊も読んだことがないにもかかわらず,「おそめ−伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生」の書評と評判だけで自分が信頼をおいているノンフィクション作家だ。

ほんの一部の断片からも,小池百合子を特徴づけるキーワードが「嘘」であることが明確に伝わってきた。そして,これは今の日本の政治の中枢を特徴づけるキーワードでもあった。安倍晋三チームの「嘘」は,憲法解釈をねじ曲げ,法律を無視し,公文書を改ざんし,統計を捏造し,電通やマスコミを使った情報戦に長け,ネットを通じた攻撃の手をやめることがない。そう,大阪維新のキーワードも「嘘」なのであった。橋下−松井−吉村がこの間進めてきた政策の根幹には「嘘」がある。

「嘘」がまかりとおっているのは,半分は我々自身が望んだからなのだと思う。1990年代以降の大災害の連続と政権のかじ取りの失敗による日本(大阪)の凋落や,中国・韓国の成長を見たくなかった我々の心性がその「嘘」を容認して育て上げてついにここまで至ってしまったのだ。コロナ禍はその嘘を暴く効果を持っていると同時に,さらにその「嘘」の毒を拡散する働きをするのかもしれない。

[1]1155夜「おそめ」石井妙子 (松岡正剛)
[2]女帝 小池百合子」“学歴詐称疑惑”を斬る! 郷原信郎の「日本の権力を斬る!(2020.6.2)
[3]東大教授と語る【小池知事のカイロ大学首席卒業】問題について(2020.6.4)
[4]地上波が一切無視する本『女帝小池百合子』の作者が語る衝撃の事実(2020.6.5)
[5]「学歴詐称疑惑」再燃の小池百合子…その「虚飾の物語」を検証する(近藤大介・石井妙子,2020.6.5)

2020年4月6日月曜日

奈良コンベンションセンター

4月1日,近鉄奈良線新大宮駅から徒歩10分の大宮通りと三条通りに挟まれた区域に奈良コンベンションセンターがオープンした。近くのホテルマリオットはまだオープンしていなかったが,おしゃれな蔦屋書店は中川政七商店とコラボレーションしながら開店していた。新型コロナウイルス感染症で不要不急の外出を自粛させられている中,用事があったのと,まあ人はいないだろうという予測のもとに探索に出かけた。実際お客さんはほとんどいなかった。地下の駐車場もガラガラだった。

蔦屋書店がおしゃれであることは認めるけれど,本屋の価値の本質はおしゃれにあるわけではないので,あまり好きではない。見掛け倒しのために洋書を壁面に糊付けするセンスには耐えられないのだった(それはここじゃないけど)。もう一つの大問題。理工書がほとんどないのである。しかも数学と物理は妙にかけ離れた場所に存在していた。なんだかなあ。

もちろんビレッジバンガード(こちらはきらいじゃない)とか丸善などの本のアレンジだって好き嫌いはあるのだろうけれど,ジュンク堂にがっつり並んだ理工書のボリュームを見ると安心するのであった。

そんなわけで,文句をいいながらも,無人支払機を試してみるべく久しぶりに文庫本を一冊買って帰った。親切に使い方を教えていただいてありがとうございました。

2020年3月16日月曜日

日本の歴史

4月12日まで期間限定無料提供されている,小学館版学習漫画少年少女日本の歴史全24巻(22巻+付録2巻)をざっと読み終えた。第22巻の平成編はそれまでのものとトーンが違っており,全く面白くなかった。それ以外はとてもよかった。権力の移行過程に加えて,文化的なトピックスや民衆の動きなどが適当なバランスで記述されており,1巻の中を3〜4つのテーマに分けながら進めていくスタイルはとても理解しやすい。南京大虐殺や三光作戦や慰安婦などもちゃんと触れており,夏目漱石のところには米山保三郎も登場していた。第21巻あたりでは著作権の関係か背景がグレーに処理されていて新聞などの紙面?が再現されていないものがあるのがちょっと残念だった。

歴史といえば,大学時代に井上清(1915-2001)の岩波新書「日本の歴史(上・中・下)」を読んでいたことを思い出した。これもなかなか貴重な読書体験だった。史実の正確性や著者のマルクス主義的歴史観に対してはいろいろ批判はあるようだが,当時はとても新鮮に感じられた。

歴史といえば,小学校高学年のころか,父親が平泉澄(1895-1984)の「少年日本史」をどこからかもらってきて,これを読めと渡されたことがある。パラパラと見たところ直観的にこれはインチキだとすぐわかったのでほとんど読まなかった。父にこれ(皇国史観)はおかしいというと,叱られたような気がする。その頃は家にあった6巻ものの漫画ではない学研かどこかの日本の歴史を読んでいてこちらの方はまともでおもしろかった。


2020年3月6日金曜日

ワン・モア・ヌーク:藤井太洋(1)

2020年3月6日を迎えたので,藤井太洋ワン・モア・ヌークを小説内の時間経過と同期しながら読み始めることにする。藤井太洋はオービタルクラウドとGeneMapperを読んだはずなのだが,どんな話だったのかまったく印象にない。本棚を探してみると,前者はみつからない。退職時の大掃除のときに捨てたのかもしれない。それでも藤井太洋には注目しているのは,そのITへの造形の深さと中国SFブームへの対応姿勢からだろうか。

2020年2月5日水曜日

絵ことばLoCoS

絵ことばLoCosは,非常口のデザインでおなじみの,太田幸夫が1964年に考案した絵文字・絵ことばのシステムである。1964年といえば東京オリンピックが開催され,様々な競技の会場や案内のためのピクトグラムが実用的に広まった年でもある。

LoCoSはLovers Communication System の略で,世界の人が言語や文化の違いを超えて,恋人のように理解しあえるコミュニケーションメディアを目指して考えられた。1971年にウィーン国際会議で注目を浴び,1973年には講談社から「新しい絵ことばロコス」が出版されている。当時大学生の自分は,梅田の紀伊国屋書店で何度もこの本に魅かれて立ち止まり,買おうかどうしようかと散々迷ったのだけれど,結局買わずじまいだった。

それから40年たって,いまなら十分進化したコンピュータとネットワークの機能により,もっと簡単に使えるのではないかと思って,いろいろ調べてみたけれど,誰もそれに着手していないようだった。うーん,もったいない話である。


[1]LoCoS WebSite Design (AM+A, 2007)
[2]LoCoS: 世界をむすぶ絵ことば(Kindle版,2018)

2020年1月9日木曜日

方舟さくら丸:安部公房

元旦の夜,テレビ番組をだらだらと見ていたら,NHKのEテレの「100分de名著」シリーズの特番「100分deナショナリズム」が飛び込んできた。ヤマザキマリ安部公房の「方舟さくら丸」の話をしていて,最初はこれが方舟さくら丸の話とは気付かずにいた。とてもおもしろい切り口でぐいぐいと引き込まれた。4人のゲストが稲垣吾郎の司会の元で,このテーマにも関らず冷静に議論できているのがとてもありがたかった(ふだんの司会の伊集院光もなかなかよい仕事をしていると思う)。

さっそく,自分の本棚を確認すると,新潮文庫の方舟さくら丸を持っていた。しかし,そのイメージは全く記憶に残っていなかった。「箱男」と「密会」も単行本で持っていたはずだが,こちらのストーリーも思い出せない。これにくらべると,「第四間氷期」,「けものたちは故郷をめざす」,「砂の女」,「他人の顔」,「燃えつきた地図」の方はくっきりとした印象が残っている。初期の短編も高校時代の自習時間に図書館でよく読んでいた記憶がある。SFから入門した安部公房だが,「砂の女」と「他人の顔」は大学時代に読んだ文芸作品のベストテンに入る。

番組の方はまとめると次のようなことだった。
大澤真幸 想像の共同体 国民国家・情報技術
島田雅彦 君主論 マキャベリズム・パトリオティズム
中島岳志 昭和維新試論 超国家主義・セカイ系
ヤマザキマリ 方舟さくら丸 棄民・選民
1月5日の再放送を録画して最初からみたが,おもしろかった。

2019年12月26日木曜日

ならの大仏さま:かこさとし

かこさとし絵本にはとてもお世話になった。子どもたちが小さいとき,1960年代から1980年代にかけて出版されたかこさとしの絵本のいくつかは寝る前の読み聞かせの定番だった。「だるまちゃんとてんぐちゃん 」「だるまちゃんとかみなりちゃん」「どろぼうがっこう」「からすのパンやさん」「だるまちゃんとうさぎちゃん」「だるまちゃんととらのこちゃん」などで,親子共々たいへんたのしく読むことができた。

福井県生まれ,東大工学部応用化学科出身で工学博士号を持つ加古里子には,「かわ」「海」「地球」「人間」「宇宙」などのすぐれた科学絵本もあった。しかし,これらについては図書館で借りるか本屋で立ち読みしたくらいで,買うことはなかった(なぜだろう)。ただ,「ならの大仏さま」だけは,1990年ごろに奈良県に引っ越した後に買ったのでいまも手元にある。

久しぶりに奥から引っ張り出してきて読んでみると,これはなかなかの名著であった。小学校高学年のときに読んだ日本の歴史シリーズの最初の巻で奈良の大仏の建立にいたる具体的な物語が書かれていてとてもおもしろく読んだ記憶があったが,それを思い出させるものであった。金の水銀アマルガムからくる毒性の話ものっていたのではないかと思う。非常に具体的であり,科学者の目がすみずみまでとどいているのだ。板倉聖宣のセンスと同じものがある。

2019年11月13日水曜日

大学改革の迷走:佐藤郁哉

ちくま新書1451の「大学改革の迷走」を読了した。478ページでかなり分厚い新書本だが2日で読むことができた。ほとんど,自分が体験してきたことと並行しているので,容易に頭に入ったからだ。著者は東北大学の大学院で心理学を専攻した後にシカゴ大学で社会学の Ph. D. を取り,一橋大学の教授から現在は同志社大学の商学部の教授である。社会調査方法論や組織社会学が専門であり,大学改革の真っただ中でのご自分の経験をも踏まえつつ,社会学者らしい視点が随所に見られる。

各章のタイトルではなくサブタイトルとキーワードを並べたほうがその内容が分かる。
第1章 —和製シラバスの呪縛(シラバス,画一化)
第2章 —和製マネジメント・サイクルの幻想(PDCA,経営ごっこ)
第3章 —残念な破滅的誤解から創造的誤解へ(選択と集中,KPI)
第4章 —実質化と形骸化のミスマネジメント・サイクル(慢性改革病,改革ごっこ)
第5章 —大学院拡充政策の破綻と「無責任の体系」(集団無責任体制)
第6章 —改革劇のドラマツルギー(作劇術)を越えて(道徳劇)
第7章 —「大人の事情」を越えて(エビデンス,EBPM,GIGO)

自分も大学の中で,この壮大なインチキを支えて自他を半ば騙しながら改革ごっこの推進側でもがいていた。したがって,あたかも第三者のように大学改革の迷走の犯人・悪者探しをすることはできないはずなのだが,あらゆる場面で道徳劇への参加の誘惑は強い。

5万人の学生調査で問題を抱えたまま,60万人を対象とする調査を繰り返すという話があったが,41万人の全国学習調査のことだろうか。あるいは,大学3年生60万人を対象とした授業評価調査のことだろうか。

2019年10月24日木曜日

まちライブラリー

先日訪れた東大阪市文化創造館に,「まちライブラリー」という民営のライブラリーが入館していた。まちライブラリーをはじめた,礒田純充(いそだよしみつ)さんの略歴などがここにある。だれでもがどこにでもライブラリーをつくって集うというものらしい。

第1号は礒田さんが天満ではじめたISまちライブラリー(ここはメンバーシップ制だ)。まちライブラリー@東大阪は, No.715 だった。全く好きではないTSUTAYA風にデザインされた本棚に,テーマ別に選書された本が並んでいた。本には寄贈した人のメッセージカードがあって,借りた人がそれを繋ぐことができるようになっていた。

2019年10月11日金曜日

無可有郷

青空文庫で江戸川乱歩のパノラマ島綺譚を読みはじめたら,無可有郷が出てきた。ユートピアのことかと思って調べてみたら,トマス・モアユートピアじゃなくて,ウィリアム・モリスユートピアだよりに行き当たった。そういえば家のリフォームで寝室とトイレに家族が選んでいたのはモリスのデザインの壁紙だった。ユートピアだよりとはまったく結びついていなかった。不覚であった。今朝のニュースではアメリカ合衆国で社会主義がはやっているという。日本はいったいどこへ向かうのだろう。ティール組織にはまったく社会主義のフレーバーは感じられなかった。あの分類だとどうなるのか。

2019年10月4日金曜日

ノーベル賞飴

今年もノーベル賞の季節が巡ってきた。日本の学術論文数や引用数の国際順位の低下から,今後は日本からノーベル賞受賞者がでなくなるのではないかとささやかれている。これについての議論は,元三重大大学学長の豊田長康先生の分析から出発する必要がある。

それはそうとして,小学校6年生の頃(だと思う),アルフレッド・ノーベルの伝記を読んで読書感想文を書いたことがあった。偕成社の児童伝記全集か何かにノーベルの巻があったのだ。ではなぜ,あまたある偉人の伝記の中からノーベルを選んだのかというと,ノーベル賞が鍵だった。

「世界にはノーベル賞をもらうようなすごい科学者がたくさんいるが,その中から一人をえらぶのは難しい。しかし,それらの科学者はノーベル賞という基準で評価されている。とすれば,その共通の基準をつくりだしたノーベルについて知ることで,その他の科学者の全体をカバーできるのではないか」というイメージに近いことを子どもなりに考えて,ノーベルの伝記を読んだのだった。

いいのやらわるいのやら。

追伸:大阪教育大学の物理学教室の卒論発表会では,とてもよかった発表をえらんでノーベル賞飴をあげていたそうなのだが,自分が着任した年にはその習慣がなくなってしまっていた。ノーベル賞飴が製造中止になったためかもしれないが,その年代はよくわからない。ただ,しばらくは卒論要旨集の表紙の模様がノーベル賞のメダルのデザインとして残っていた。

2019年9月25日水曜日

宇治拾遺物語

池澤夏樹個人編集の日本文学全集第8巻を読みながら昼寝した。日本霊異記=伊藤比呂美,今昔物語=福永武彦!,宇治拾遺物語=町田康,発心集=伊藤比呂美というラインナップである。

宇治拾遺物語は,今から800年前の説話文学であり,雀の恩返し,わらしべ長者,こぶとりじいさんなどの話が収められている。上記の翻訳では町田康のフィルターがかかって,とても強力な物語となった。無料で現代語訳を読むには,日本古典文学摘集宇治拾遺物語が美しい。

2019年8月10日土曜日

原発危機と「東大話法」:安富歩

(「安富歩さん」からの続き)

この本を買ったのはいつのことだったろうか。長いこと積ん読状態だったけれど,安富さんのれいわ新選組の参議院選比例区候補としての演説を聞いているうちに再読しようという気になった。

典型的な東大話法者として,池田信夫があげられている。彼は,福島第一原発災害の後,一瞬だけ正気になったブログ記事を書いたことがあったが,その後は安定の新自由主義反動路線の人で,安富をボロクソにけなしている。「京都生まれで東大卒で新左翼崩れでNHKで青木昌彦の下でドクターをとるとこんな結末を迎えるのか」という差別的な言辞を吐きたくさせる方である。

話がそれた。ブログ記事を再編集したものが中心になっているので,とりたてて新鮮な感想は持たなかったが,第4章の「役」と「立場」の日本社会というのは,自分もその考え方にどっぷりと染まっていたので,よくわかった。また,第5章の槌田敦のエントロピー論に立脚した議論も素直に納得できるものだ。

安富歩は,既存の学の枠組みに束縛されず自由に考えることができる希有の人だと思う。2011年の3月に発行された(たぶん東日本大震災以前の対談)京都大学大学院人間・環境科学研究科の雑誌人環フォーラムNo.28に,「<対談>生きるための経済学:安冨歩,間宮陽介, 司会 阪上雅昭」という記事が掲載されている。阪上君は阪大理学研究科で,森田研のとなりの内山研で3〜4学年下の院生だったが,その後,福井大学教育学部を経て京大人間・環境科学研究科の教授となっている。安富さんとは親しいようだった。

この対談では,間宮陽介が典型的な東大話法型の人間であることが透けてみえる。間宮は岩波文庫でケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」を翻訳しているが,山形浩生経済のトリセツボロクソに叩かれていた(まあ,山形のことなので,どこまで真剣に受け止めるべきかは留保したほうがよいのかもしれない)。間宮は物知りで引出をたくさん持っている人であり,安富の考えを正面から受け止めず,既存の知識で斜めにバンバン打ち返していた。その点,阪上君は安富さんを理解した上で対応している。

この続編が,「幻影からの脱出−原発危機と東大話法を越えて(明石書店,2012)」であり,上西充子さんの「呪いの言葉の解き方(晶文社,2019)」にも続いている。

2019年7月9日火曜日

ノウアスフィア

新国立劇場で,テイヤール・ド・シャルダンの生涯を描いた「骨と十字架」の公演が,7月11日から始まる(7月6・7日にプレビュー)。矢島道子さんがMLで紹介しており「ノースフェーラを提案し」と書いていたのでなんだろうと思った。

さて,テイヤール・ド・シャルダンの「現象としての人間」を買ったのは大学生の頃だ。その頃の愛読書の文学や理工書以外で印象に残っているのは,コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」,エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」,ディヴィッド・リースマンの「孤独な群衆」,バローズ・ダンハムの「現代の神話」と並んで,ティヤール・ド・シャルダン(ティと発音すると思い込んでいた)の「現象としての人間」だった。

調べてみると,ノースフェーラ(ヴェルナツキー,ロシア文化界隈,叡知圏)は,noosphereの訳語だった。訳語は1つに定まっておらず「ノウアスフィア(山形浩生,オープンソース界隈)」,「ヌースフィア(怪しい系界隈,精神圏)」などもある。テイヤール・ド・シャルダンやヴェルナツキーがいうには,物質=精神進化の段階により,ジオスフィア(地質圏)→バイオスフィア(生物圏)→ノウアスフィア(叡智圏)が形成されるということだ。

テイヤール・ド・シャルダンは神学者・科学者として,キリスト教と相容れないキリスト教的進化論を提唱した。宇宙の進化は叡智の究極としてのオメガ点を目指しており,その完成がコスミック・キリストの誕生を意味するというストーリーは,小松左京の「神への長い道」などのコンセプトと一致する。小松左京はピランデルロを専門としていたが,テイヤール・ド・シャルダンについてどこまで語っていただろう。いや,自分が「現象としての人間」を手にとったのも,SF界のどこかでそれを目にしたからに違いないとは思う。

テイヤール・ド・シャルダンのオメガ点やノウアスフィアは,科学のフレーバがただよっている論考ではあるが,これはもちろん科学ではなく,あくまでも思弁(スペキュレーション)の一つである。しかし,その概念は今となっては,傾聴に値するものに近づいてきているのではないか。

バイオスフィアとほぼ並行に,世界は意識を持った人であふれ,未だ意識をもたない電子脳(コンピュータ)や電子感覚器(センサー)や電子神経系(インターネット)の大群が,世界中の意識を持ったヒトと,ヒトが作り出した人工物の生態系を網目のように繋ごうとしているのを見て,このグローバルな複雑系を,バイオスフィアに対応するノウアスフィアと呼ぶことには全く抵抗がない。果たして,そのノウアスフィア上に一つのあるいは複数の人工的な意識=神が誕生するのだろうか。

2019年6月12日水曜日

戦争・革命・崩壊・疫病

オーストリアの歴史学者,ウォルター・シャイデルの The Great Leveler: : Violence and the History of Inequality from the Stone Age to the Twenty-First Century が「暴力と不平等の人類史」として翻訳されている。

平成に入ってから,バブルの崩壊とともに日本の成長は終焉し,人々の格差は拡大し続けている。しかし,これを政策的に逆転させることは難しいのかもしれない。すべての人間社会は時間とともにある方向に変化し,それをリセットして平等化を可能にするのは,戦争・革命・崩壊・疫病によるしかないというのがこれまでの歴史からわかった事実であるという主旨らしい(未読なのでわからない)。

「崩壊」とは国家の崩壊であり,昔のブログでは,飢饉と訳していたものもある
ジャレド・ダイアモンド(1937-)
ジャック・アタリ(1943-)
ダロン・アシモグル(1967-)
トマ・ピケティ(1971-)

2019年5月21日火曜日

ねじまき少女:バチガルピ

ハヤカワ文庫 SF1809/SF1810の「ねじまき少女パオロ・バチガルピ)」を読了した。
奥付の日付は2011年なので,そのころに買っているはずだが,長らく積ん読く状態が続き,今年になって8年ぶりにようやく読み始めた。それでもだらだらと時間がかかってしまった。アマゾンの書評はさんざんであった。ヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞・キャンベル記念賞を総なめにしているのだが,翻訳が悪いだの,世界観の欠陥だの,どとまるところを知らないコメントがついていた。

最近,細切れにしか本を読めなくなっていたのだが,この小説も,5人(レイク・アンダーソン,タン・ホクセン,ジェイディー,カニヤ,エミコ=ねじまき少女)の視点を移動しながら語られるので,その分読みやすかった。未来のバンコクのイメージや物語の設定もおもしろかったので,なんでそんなに評判が悪いのだろうか?映画化するには,エミコが暴れるシーンが最後にほしいところではあるが,それはそれ,これはこれ。


2019年4月28日日曜日

A3(2):森達也

A3(1):森達也からの続き)

全文無料公開された「A3」を読み始める前に,連合赤軍が連想されたことはあながち間違いではなかった。両者が戦後日本のある時代を区切る大きな惨劇であったというだけでなく,組織の内部で最初の殺戮へ至る過程や,それが常態化する様子などに何か共通するものが感じられた。そう,階層的な組織で権力の集中を防ぐことができない場合,必ず腐敗は発生するということ。それは最高権力者の絶対悪に帰されるるものではなくて,権力への忖度とそれに呼応する権力の誇示の共鳴によって成長する不可避な構造であるということを,森達也は主張しているように思えた。

オウム真理教の一連の事件,特に地下鉄サリン事件を首謀したのは麻原彰晃なのか,あるいはそれを取り巻いていた幹部連(村井,井上,早川,中川,新美)なのか,いずれの責任が重いのかという問題ではなかった。森はその事件を「本質は分散していた。仮想の特異点の周辺。そこに配置されているのは、側近である幹部信者たち。さらに一般の信者たち。そして外縁には彼らを包囲するこの社会。警察やメディアや司法、そして民意を形成する僕たち一人ひとりだ。この周辺と麻原との相互作用。そこに本質があった」と見立てている。

これは,麻原彰晃とオウム真理教幹部連を絶対悪として断罪してきた日本の司法やマスコミあるいは一般世論の見解とは一致するものではないのだろう。細部では,森のオウム真理教をめぐるジャーナリストとしての活動や考えについての様々な否定的な指摘があるのも事実だ。それにもかかわらず,次のフレーズは印象に残る「サリン事件以降、メディアによって不安と恐怖を煽られながら危機意識で飽和したレセプターは、やがて仮想敵を求め始める。治安状況における意識と実態との乖離を、何とか埋めようとする。検察や警察など捜査権力の暴走は加速し、厳罰化は進行し、設定した仮想敵国への敵意は増大する。隣国との摩擦はこれから増大するだろう。誤認逮捕や冤罪もさらに増えるだろう。自分たちは正義であり、無辜の民であり、害を為す悪を成敗するのだとの意識のもとに」。

あるいは,「人は権威に服従する。集団の動きに従う。あっさりと感覚を停止する。その帰結として惨劇が起きる。だからこそ検証が必要だ。暴走のメカニズムはどのように駆動して、どのように伝播し、最後にはどのように働いたのか。それは事件後の社会の責務のはずだ」ということには同意したかった。残念ながら我々は,いつものように恐怖に駆られ,思考を停止し,法や論理よりも情と空気によって社会を動かし続けている。

2019年4月20日土曜日

A3(1):森達也

森達也のオウム真理教についてのノンフィクション「A3」が無料公開されている。もともと2012年の暮に集英社文庫で出版されていたものをこの度公開した。まだ読み始めたばかりだが,これに共鳴するようにNHKのETV特集で,ドキュメンタリー「連合赤軍 終わりなき旅」を放映していた。A3はこれから読む。

A3(2):森達也に続く)

2019年3月18日月曜日

バラカ:桐野夏生

まわりからどんどん書店が消えていく。昔は,毎日の仕事の帰りには本屋に立ち寄って,新刊をチェックすることができたが,最近はその習慣が失われてしまった。先日,久しぶりに上本町の近鉄の書店(JUNKUDO)に立ち寄ったときに見つけたのが,桐野夏生の「バラカ(上・下)集英社文庫」だった。

桐野夏生の本は,昔「OUT」を図書館で借りて読んだ。その他にいくつか文庫本を買っていたはずだと思って調べると,昨年の部屋の片づけの際に処分していた。確か「柔らかな頬」と「グロテスク」だった。スパーク・ジョイがなかったのである。どんなストーリーだったかを思い出そうとしても印象に残っている部分がない。その点,「OUT」にははっきりした読後記憶がある。桐野夏生は1951年に金沢に生まれているけれど,3歳で引っ越しているので,自分の世界線との交わりはほとんどない。

さて,「バラカ」は,福島の原発事故が起こったもう一つの虚構の日本での出来事を描写している。部分的には納得できるのだが,全体として詰めが十分ではないと感じた。自分が期待していたのは,現実の日本を照射するもう一つの世界の精密な描写だった。著者の関心はその物語世界の中の人物造形や関係の方にあって,それはそれでおもしろかったが・・・後半はご都合主義的なまとめ方のような・・・

P. S. 作中でバラカ/おじいちゃんが愛読するのがカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」だったので,これは読んでみようと思った。