芥川龍之介が「蜘蛛の糸」を発表して百年。高二の秋の文化祭,クラスの仮装行列のテーマが 蜘蛛の糸だった。お釈迦様の極楽タワーの竹を近所から切り出し,地獄の焔と煙の絵を描いた。犍陀多に続いて蜘蛛の糸(登山部の赤いザイル)に群がる地獄の亡者だったころ。
2024年1月23日火曜日
藤岡作太郎
2022年11月16日水曜日
三宅雪嶺記念館
2022年7月16日土曜日
石川県立図書館
2022年7月5日火曜日
てらまちや風心庵
日経朝刊の文化欄をみていたら,「かなざわ風鈴」という言葉が目に入った。著者は金沢工業大学の土田義郎先生で,環境心理,サウンドスケープの専門家だ。音が出る玩具や雑貨の収集をはじめていたが,2013年に正方形の紙を組み合わせたかなざわ風鈴を考案した。
2017年には,寺町の町家再生プロジェクトの一環として,古民家を再生したゲストハウス「てらまちや風心庵」をオープンしており,そこで収集した風鈴が展示されている。地図でしらべると,昔,大叔父の越桐與三次郎さん(あじちのおじさん)が住んでいた家の近くだった。数年前に亡くなった母が入院していた石田病院からも近く,新規開店した中華料理屋に入ったが,その数軒となりだ。
1棟貸しで,1泊平日6400円~(5名利用の1名),休前日7949円~(5名利用の1名),風鈴制作・灯り制作1名1600円なのでなかなかリーズナブルかもしれない。
2022年6月24日金曜日
沖縄「慰霊の日」
6月23日は,沖縄戦(1945.3.26-1945.9.7)から77年目(ななじゅうしちねんめ)を迎える「慰霊の日」だった。NHKでは左手に情緒的で反戦的なエピソードを積み上げつつ,右手では"防衛費"の増額と憲法の"改正"があたかも既定路線であって,なんの問題もないかのような印象操作を続けている。
さて,6月23日という日付は,なんとなく,沖縄戦で米軍が勝ち日本軍が負けた日なのかと思いこんでいたが,そんな単純なことでもなかった。沖縄戦を戦った第32軍の司令官の牛島満(1887-1945)と参謀の長勇(1895-1945)が自決して,日本軍の組織的な戦闘ができなくなった日だった。降伏の手続きを経なかったので掃討戦は継続し,6月23日以降にも多くの人命が失われた。7月2日には,連合国軍が終了宣言を出したものの,降伏調印式が行われたのは9月7日だった。
昭和19年の沖縄の人口は59万人,昭和21年には51万人に減っている。沖縄県による沖縄戦戦没者の推計によれば,全戦没者20万人(平和の礎には24万人が刻まれる),軍人軍属9.4万,一般県民9.4万,米軍1.3万とある。沖縄出身の軍人軍属と県民を合わせれば,12.2万人であり,県民全体の1/4近くに達している。
1977年夏の米島君との沖縄旅行については少し書いた。民宿に一泊した次の日に,南部戦跡をめぐるバスツアーに参加した。途中で,日本軍の地下壕の跡に立ち寄ったのだが,それが,豊見城市の旧海軍指令壕だった。ここでも6月13日に海軍司令官の大田実が自決している。その後ひめゆりの塔に向かったはずだがあまりはっきりおぼえていない。
金沢の卯辰山には,殉難豊川女子挺身隊の像がある。高校相撲大会の応援のときに,それをみながら米島君が,日本でミュージカルをつくるならばテーマはひめゆりの塔だと力説していた。そのとき自分はピンと来ていなかったが,数年後にはいっしょに沖縄を訪れることになった。
2022年5月17日火曜日
越中大門
越中大門は富山県射水市にある北陸本線の駅だ。北陸新幹線の開通後は,並行在来線の廃止にともなって第3セクターのあいのかぜ富山鉄道が運営している。
ところで,Unreal Engine 5 は,エピックゲームズというアメリカのコンピュータゲーム・ソフトウェアの開発会社がつくった,ゲームエンジンである。3次元コンピュータグラフィックス生成用のプログラムを3Dエンジンとよんでいたが,この延長上の概念に相当する。
Unreal Engine 5 は2020年に発表された。この機能を利用して,Lorentz Dragoというイタリアの3D環境アーティストが個人でモデリング,テクスチャリング,ライティング,アニメーションのすべてを手がけたものが,越中大門の駅の3DCGアニメーションだ。YouTube で2分49秒のコンテンツだけれど,見た目にはまったく現実の駅を撮影したものといわれてもわからない。途中で昼のシーンが急に夜に変わったところではじめてコンピュータによる合成画像だと気付く。
この技術がメタバースに組み込まれると,視覚上はほとんど現実と区別のつかない仮想世界体験が得られるかもしれない。
越中大門は,子どものころ母の実家の滑川まで里帰りするとき,蒸気機関車が牽引する鈍行列車で通過したなじみ深い駅だ。当時の北陸本線の駅を確認すると次のようになっていて,越中大門はちょうど金沢と滑川の中間あたりにある。
(現IRいしかわ鉄道)金沢−東金沢−森本−津幡−倶利迦羅−(現あいの風とやま鉄道)石動−福岡−西高岡−高岡−越中大門−小杉−呉羽−富山−東富山−水橋−東滑川−滑川
ものごころついてから小学校5-6年ごろまで通ったのだが,西高岡,東富山,東滑川はあまり記憶に残っていない。東滑川はまだ開業していなかったかもしれない。北陸線の電化が進んで蒸気機関車が廃止になるころには,里帰りについていくこともなくなってしまった。
何度かトンネルをくぐるのだが,そのたびに蒸気機関車の煙が入らないよう窓を閉めていた。高岡駅のホームなどで母がアイスクリームを買いに降りるのだが,時間内に帰ってこられるかどうかドキドキしながら待っている小学生であった。
2022年4月14日木曜日
うさみ亭マツバや
大阪のきつねうどんの起源には諸説あるが,うさみ亭マツバやが元祖だというのがなんとなく有力らしい。一度行こうと思っていたので,午後の文楽のついでによってみた。
心斎橋筋を北に向かい,ちょっと右に折れると間口の狭いこじんまりした店があった。11:00開店で,11:30ごろについたが,既にお客さんがかなり入っている。早速きつねうどんとミニ親子丼のセットを注文した。
感想:味は普通。麺はやや太めでもっちゃりする。うどんの断面が丸くて箸から滑りました。油揚げも普通だ。これならば自宅で食べるスーパーの30円の生麺(断面は四角)+市販の味付け油揚げと大差ない。ただ,ミニ親子丼は昔ながらの玉子とじ状態でおいしかった。
食べているうちにも次々にお客さんが入ってきて,2階の席にも案内されている。隣の席ではおじさんが大阪弁で商売の話をしつつ「僕はしっぽくうどんにするわ」。お二人さんは,しっぽくうどんときつねとじうどんであり,なかなか味のある会話が流れてくる。
そういえば,金沢にいたころは,甘く炊いた大判の揚げのきつねうどんは存在しておらず,刻んだ揚げがのったいなりうどんだった。近所のうどん屋お多福の出前で,土曜の午後に天ぷらうどんとセットで食べていた。夏休みには泉丘高校のESSの部室に集まって勉強していたが,高橋君らと向かいのうどんやで大盛りのいなりうどんとかき氷を食べるのが日課だった。
入るときは気づかなかったが,大将がレジに座ってお会計をしていた。
2022年1月29日土曜日
スタイル
『スタイル』は1936(昭和11)年6月に,宇野千代(1897-1996)によって編集発行された月刊雑誌である。その1937(昭和12)年の記事がtwitterで紹介されていた。
「おしゃれな」というタイトルのコラムで,金澤,神戸,横浜,名古屋の4都市が紹介されている。美川町出身の詩人村井武生(1904-1946)によるその金澤の記事は次のようなものだった。
森の都 "金澤" も主要街はすつかり十三間道路に舗装され,北陸一の近代都市としての名に反かないが,一歩裏通りへ入ると昔ながらの屋敷町が曲折し,百萬石のお城下町の落ち着きを見せてゐる。百貨店はやがて約一萬坪に増築の宮市大丸と丸越の二つ,そこから呑吐される若い女性はもち洋装が身について来た。
銀座と浅草とを一緒にしたやうな市の中央香林坊は金澤の誇る歓楽街,どこへ出しても羞かしくない完備した喫茶店 "芝生" や白椿,又,酒場にはターバン,珍味庵など。二つの劇場と七つの常設館で近代人としてのスタイルを調へ,大学や専門校らはインテリを急造する。
郊外の粟ケ崎,金石等の海水浴場は丑の日などには六七萬の裸群が踊り,宝塚,松竹に次ぐ粟ケ崎少女歌劇団のスターは,当地方では映画女優以上の人気を持つ。遠出には随所に温泉があり近く飛行場も完成,秋ともなれば兼六園の幽邃賞すべく,競馬の興奮も一興,又夢向山公園へのドライブも快適であらう。
芝生といえば,柿の木畠にあった軽食・喫茶の店で,高校のクラブの友達と卒業後にコンパをしたところだが, 十数年前には閉店したようだ。
自分が子供のころ,粟崎遊園はとっくになくなっていたが,手取遊園や卯辰山のヘルスセンターはまだあった。幼稚園から小学校低学年までの頃,親戚とあるいは学校の遠足で手取遊園へ遊びに行った。
2022年1月26日水曜日
金沢商工人名録(昭和3年)
曽祖父の越桐与兵衛を検索していたら2件見つかった。
ひとつは,昭和3年に発行された金沢商工人名録である。まえがきに「本人名録は,金沢市内に於ける昭和二年度営業収益税の納税者を基礎として編纂したものである。本年版は編輯方法に変改を試み,且つ索引に於ても,分類別索引,品名別索引並に広告索引を付加した。之に依って検出を容易ならしむるであらう」とある。当時の小さな商店から,株式会社までさまざまな業種が網羅されている。内容は後日改めて紹介する。
もう一つは,奈良文化財研究所の木簡データベースに収録されたものだ。木簡といっても明治時代のものだと思われる。「/田丸町専光寺筋/越桐与兵衛様∥○/糸□印/素麺/○五□□入∥・○金田□○駄□\○七月廿二日○θ(「〈〉」)」ということで,どこかから夏のお歳暮に素麺をもらった際の送り状かもしれない。いまなら,クロネコヤマトの配送状だ。木簡は,木ノ新保遺跡の用水路の合流部で見つかっている。サイズは162mm×46mm×7.5mmなので,スマートフォンのようなものか。
商工人名録はテキスト化されていたが,面白そうなので原本のpdfファイルのダウンロードを試みた。なんのことはない,そもそも全文pdfファイルへのリンクがあるではないか。下記は骨折り損のくたびれ儲けコードである。
#!/usr/bin/perl
# 01/26/2022 K. Koshigiri
# extract pdf from kanazawa shouko-jinmeiroku 1928
# kanazawa.pl ni nf
# get pdf files as ni.pdf - nf.pdf
\$ni=@ARGV[0];
\$nf=@ARGV[1];
\$url="https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shoukoujinmeiroku/shoukoujinmeiroku_";
for (\$n = \$ni; \$n<=\$nf; \$n++) {
system("lynx -source \$url$n.pdf > \$n.pdf");
2022年1月25日火曜日
水洗式便所
グリル狸からの続き
グリル狸の水洗便所の話をしたところだ。で,水洗式便所に出会ったのはそれが最初だったとしたが,正確には少し違う。和風の水洗便所が初めてだったので,驚いたのだった。
幼稚園に上がる少し前に,駅前の田丸町にあった家から金沢市立工業高等学校のグラウンドの横手にあった泉野町ヨ114-4の地に引っ越した。そこは祖父母と叔父が住んでいた寺町2丁目の家から歩いて5分くらいのところだ。昭和38年に始まった金沢市の住居表示変更によって,一番に泉野町から寺町1丁目に変わった地域だ。
桜畠(寺町3丁目)のあたりには,祖父である越桐弥太郎の弟の越桐與三次郎の一家が住んでいた。寺町台地から犀川を見下ろすことのできる端にあって,非常に見晴らしのよい立派な家だった。その近くにある料亭の仁志川で最近法事をしたところである。
金沢弁で分家のことをあじちというので,あじちのおじさんの家ということになっていた。その家の玄関を上がると広い廊下から洋風の長い階段が2階に続いていて,1階の右手には洋風の腰掛け式の水洗便所があった。そのトイレを子どものころにどうやって使っていたのかははっきりしないのだけれど,便座が木製のスツール型だったことは記憶にある。
小学校4年になって,寺町1丁目の自宅を建て替えることになり,自分だけ半年ほど祖母の家に預けられることになった。父母と妹達は笠舞町の借家の2階に移った。祖母の家もその少し前に洋風に改造されて(叔父が結婚するときだった),古い和式便所は残したまま,新しい浴室の隣に和風の水洗便所が設けられた。水洗便所は苦手だったので,もっぱら古い和式便所の方を利用していた。
小学校5年の夏には寺町1丁目の新しい自宅ができた。ここも和式の水洗便所になっていた。昔の家の和式便所にはバキュームカーがきて汲み取りをしていたが,その風景も臭いもなくなってしまった。
2022年1月24日月曜日
グリル狸
かつて金沢にあった洋食の名店が「グリル狸」だ。いまはもうない。
大阪の長堀橋で20年以上営業していた洋食Katsuiが,天理の山辺の道にある天理市トレイルセンターに移転して数年経った。オーナーの勝井さんが天理市出身であり,指定管理者の募集に応募したものだ。
国立文楽劇場のパンフレットには,洋食Katsuiと姉妹店の御堂筋ロッジの宣伝が毎回掲載されていたので,何かの機会に家族で食べに行ったがなかなかよかった。天理に来てからは年に1度は訪れている。その洋食Katsuiのホームページに勝井ファミリーとして,金沢のグリルNew狸が紹介されていた。
あれっと思って調べてみたら,グリルNew狸は1967年から石引町で営業しているが,もともとは片町のグリル狸からのれん分けでスタートしたようだ。その片町のグリル狸の方は1997年には閉店しているらしい。
グリル狸は,三島由紀夫(1935-1970)の美しい星(1962)に登場している。主人公の一家の娘であり,自分を金星人だと認識している大杉暁子が金沢を訪問して,同じ金星人の青年竹宮と金沢を巡るのが第三章であり,ほとんど金沢の街案内のようになっている。
暁子が竹宮と内灘に行く前の段,「二人は再び香林坊へ戻って,狸茶屋という店で小さいステーキの午餐を摂った」とある。香林坊と書いているが,実際には,片町の金劇の向いにある歓楽ビルの裏手の細い裏道のあたりだった。
そのグリル狸は金沢でも有名な洋食屋の一つだったが,小学生のころに一二度連れて行かれたことがある。それほど大きな店ではなく,狭い階段を上がった二階の小部屋のテーブルを家族で囲んだ。トイレに行くと当時珍しかった水洗便器がある。
子供だったが,大人と同じようにコースのスープ皿が並べられ,お玉ですくわれたものが振る舞われた。白いじゃがいものポタージュだ。そんなものはそれまで見たこともなかったので恐る恐る口にしたが,とても美味しくてびっくりした記憶がある。ホットオレンジジュースもここで初めて経験したが,それはまた別の機会だったのかもしれない。
P. S. 以前紹介した,ステーキのひよこの大将も,グリル狸で修業していたらしい。なお,ネットの記事ではグリル狸のことを狸茶屋としているものが多いが,その名前で看板は出していなかったのではないか。三島の文章に引きずられているのではないか。
2022年1月23日日曜日
柳宗悦
柳宗悦(1889-1961)の民藝のアクセント問題で,日本民芸館に本人が民藝を発音する音源があるということだった。それならば YouTube にもあるのではないかと探してみると,NHKラジオアーカイブス〜声でつづる昭和人物史 が見つかった。
この番組は,NHKの過去のアーカイブから政治家や実業家,文化人などの肉声が含まれるものを取り上げてその人となりや考えを紹介するものだ。柳宗悦の後編は,1959年10月の日本民藝協会での挨拶だった。彼が病気で入退院を繰り返して出席できなかったため,録音での挨拶が披露されたために記録に残っている。柳宗良の声には張りがあって気力も十分な話しぶりだった。番組は,宇田川清江(1935-)アナウンサーとノンフィクション作家・評論家の保阪正康の解説で進行する。
柳宗悦は,民藝が単独で出てくる箇所では,はっきりとミ‾ン_ゲ_イと発音している。しかし,宇田川も保阪もミ_ン‾ゲ‾イ‾なのであった。NHKが監修しているはずだけれど。
柳宗悦の父の柳楢悦(1832-1891)は,海軍少将・貴族院議員・測量学者であり,日本数学会の前身の東京数学会社を神田浩平(1830-1898)と共に設立している。なお,柳宗悦の母,楢悦の後妻の勝子は嘉納治五郎(1860-1938)の次姉である。
柳宗悦の妻の柳兼子(1892-1984)はかつては「声楽の神様」と称されるクラシックの声楽家であり,85歳まで公式のリサイタルを続けていた。長男の柳宗理(1915-2011)は戦後日本のインダストリアルデザイナーの草分けであり,金沢美術工芸大学の教授を務めた。このため,金沢美術工芸大学には,柳宗理記念デザイン研究所が設けられている。
2021年11月28日日曜日
中村歌右衛門
人間国宝の歌舞伎の中村歌右衛門(六代目:1917-2001)といえば,文化勲章受章者でもあり女形の最高峰として過去の映像をみるくらいなのだが,初代の中村歌右衛門(1714-1791)は,医師の子として金沢に生まれた。そんなわけで,屋号は加賀屋だったのが,四代目のときに成駒屋にかえている。
その初代中村歌右衛門の墓所が金沢にある。知りませんでした。東山寺院群の一角にある日蓮宗の真成寺(しんじょうじ)は,鬼子母神が祀られていることで有名とのこと。寺町寺院群にも浄土真宗の寺はなかったが,このあたりもそうなのか。
2021年8月21日土曜日
金沢美術工芸大学
金沢美術工芸大学が輩出したゲーム・アニメ・漫画関係者といえば,宮本茂,細田守,米林昌宏,東村あきこなど,錚錚たるメンバーがそろっている。その金沢美術工芸大学が,2023年度を目処として,金沢大学の工学部の跡地に移転するらしい。その隣で,2022年度に開館するのがが新しい石川県立図書館だ。
1972年の移転前の金沢美術工芸大学は,本多町の赤レンガの校舎であり,今は石川県立歴史博物館になっている。となりの石川県立美術館や国立工芸館とともに,本多の森公園の一角をしめている。この赤レンガの校舎で写生大会があったような気がするが,それは妹達の写生大会の記憶が転移しただけかもしれない。
2021年7月25日日曜日
水素エネルギー
なぜか今ごろになって水素エネルギーがはやっている。 いや,今ごろだからこそなのかも。東京オリンピックの聖火台は,新国立競技場の10km南東にある,東京臨海部の有明とお台場の間にかかる幅60mの歩行者専用橋「夢の大橋」に設置されている。
聖火台のデザインは,天理市駅前のコフフンを手がけた佐藤オオキのnendoだ。この水素は福島県のたぶん浪江町の施設で製造され,電気分解のエネルギーには太陽光発電が用いられている。なお,着色の必要から炭酸ナトリウムが添加されている。オレンジの炎のもとになるナトリウムD線の二重項は明日の前期最終授業で取り上げるところだった。
ENEOSが東京五輪の公式パートナーなので,聖火リレーや聖火台の水素はここが供給しているようだ。水素エネルギーのパイオニアであるIWATANIではない。
1974年に太田時男(1925-2009)の「水素エネルギー」がクリーム色のカバーにモデルチェンジしたばかりの講談社現代新書から出版されすぐに買って,第1刷がいまも手元にある。そろそろ原発問題が社会化しはじめたときであり,物理学科のクラスで原発をめぐる討論の際に読んだばかりの知識を片手に斜め左上から水素エネルギー論を展開して顰蹙を買っていた。いまから50年近く前の話だ。
太田時男先生は金沢生まれで,京都帝国大学の物理を出た後に,金沢の高等師範や金沢大学に勤めていた。その後,米国を経由して横浜国立大学工学部の教授になったころ,この新書を書いている。あとがきの末尾は「一九四九年七月 多忙に紛れたミスのあることを恐れつつ 太田時男」となっていておもいっきりミスっている。
金沢一中/泉丘の出身なのかあるいは金大附属なのか,はたまた四高だったのかはわからなかった(太田時男先生のご逝去を悼む 岡崎健)。
「水素エネルギー(太田時男)」の目次ちょうどオイルショックに直撃されつつも,まだ未来に希望があった時代のことである。
Ⅰ 水素エネルギーの登場
1 太陽と水と人間と
2 石油エネルギー圏からの脱出
3 水素エネルギー・システム
Ⅱ 作る・使う・運ぶ
1 水素を作る
2 水素システムの青写真
3 水素を使う
4 水素を運ぶ
Ⅲ 水素エネルギー時代へ
1 水素は危険か
2 水素研究の現状
3 二十一世紀への展望
2021年7月4日日曜日
国土地理院の空中写真
国土地理院が,地図・空中写真閲覧サービスを提供している。これはタイムマシンみたいものだ。すべての年代を網羅しているわけではないけれど,今はなくなってしまった風景の一部を見ることができる。
早速,明治から1990年頃までの金沢の実家付近を探してみると,1946.11,1947.11,1948.5,1952.11,1953.4,1962.5,1966.7 ,1973.5,1975.10,1982.10,1983.5,1987.10 などのデータが見つかった。
空中写真については,「本サービスでダウンロード可能な空中写真は,出典の明示等を行っていただければ利用可能です(申請不要)」ということだ。
1962年にはここに住んでいたが(1957-1972),今はなき金沢市立工業高等学校とそのグラウンドが見える。泉野小学校,野田中学校,金沢泉丘高等学校の旧校舎もはっきりとわかる。
2021年6月30日水曜日
氷室開き
NHKの列島ニュースで金沢局から氷室開きがとりあげられていた。冬の間に積もった雪や氷を室に蓄えて,夏にかけて利用する氷室の起源は,奈良県天理市福住町の都祁氷室にあるらしい。金沢でも,江戸時代には湯涌温泉あたりに氷室がいくつか設けられていた。
金沢の氷室からは,加賀藩が江戸の徳川将軍に氷を献上していた。7月1日がその献上する氷の出発の日であり「氷室の日」となっていて,その前日6月30日が氷室開きになっている。もっとも江戸時代は旧暦の六月朔日が氷室の日だったようだ。
いまではどうかわからないが,小学校のころは氷室の日に学校で氷室万頭が配られた。もしかすると半ドンくらいの勢いだったかもしれない。いまみると氷室万頭はけっこうおいしそうなのだけれど,当時はそれほどでもなかったな。
[1]金沢ふるさと学習 指導資料(金沢市)
[2]金沢の人はどこの氷室饅頭を食べているのか(高井寧香)
2021年6月6日日曜日
ゼロの焦点
録画されていた 松本清張のゼロの焦点(犬童一心監督,2009年)をみた。戦後,昭和32年の金沢や能登が舞台になっていて,当時の街の雰囲気がていねいに作られていた。金沢駅の構内アナウンスでは「0番線(七尾線)ホーム」が出ており,昔のホームの雰囲気が彷彿とされた。
雪の降る金沢市内の浅野川沿いの雰囲気,古い町並みと鉄製の広告看板,雪まじりの道のあるきにくさ,市電の4番線で野町や白菊町の工場に向かう様子,金沢弁の使い方など丁寧に描写されている。金沢市長選の婦人候補の陣営で支援者が歌う金沢市民の歌(昭和24年制定)が特に良かった。
ストーリーは,社会派推理作家の松本清張の特徴がはっきりとして,その後のサスペンス劇場の断崖クライマックスの嚆矢となるものだった。広末涼子,中谷美紀,木村多江がくすんだ北陸の冬景色の中に際立った色彩を放っていた。
能登金剛の巌門は小学校4年か5年の修学旅行でも定番のルートになっていたが,旧作のゼロの焦点(野村芳太郎監督,1961年,久我美子−高千穂ひづる−有馬稲子)では,巌門から15km北のヤセの断崖が舞台になっている。今回もそうだったのか。
アマゾンのこのレビューでは,映画の脚本上の違和感がいくつか指摘されており,概ね同感である。なお,金沢市の歌には他に金沢市歌(1923年)と金沢市民憲章の歌(1980年)がある。
2021年5月31日月曜日
平和町児童図書館
社会教育センターからの続き
社会教育センターに併設されていた石川県立図書館は閉架で利用しなかったと書いたが,金沢で図書館といえば,小学生のころに平和町の児童図書館に通っていた。金沢市立図書館の分館の一つであり,現在も開館している。
小学校5年か6年のころに,政岡良一君か横谷富夫君あたりに連れていかれてからときどき通うようになった。寺町の家から歩いて20分くらいだろうか。小柄で無口なおじいさんが窓口を担当していて,利用者もほとんどいなかったが,子供むけの本を読んだり借りて帰ったりした。
夏目漱石の坊っちゃんを借りたのはこの児童図書館だったが,10回くらい繰り返して借りた気がする。あとは,当時発刊されたばかり国土社の発明発見物語全集(1964)だ。板倉聖宣さんらが編集していて,科学史の立場から科学の全分野をていねいに紹介するものだった。ほとんど読んだがいずれも名著だった。20年後に新しく編集されて17冊のシリーズとなっていた。そこには,大教大の理科教育研究室の鈴木善次先生も名を連ねているのだった。
国土社 発明発見物語全集(1964)
1.ピタゴラスから電子計算機まで:数学
板倉聖宣編
2.コロンブスから人工衛星まで:宇宙
板倉聖宣編
3.デモクリトスから素粒子まで:原子
板倉聖宣編
4.らしん盤からテレビジョンまで:電気
板倉聖宣編
5.時計からオートメーションまで:機械
板倉聖宣編
6.くるまから宇宙旅行まで:交通
岩城正夫編
7.酸素ガスからナイロンまで:化学
大沼正則編
8.鉄からプラスチックまで:物質
大沼正則編
9.家畜から人工生命まで:生物
道家達将編
10.おまじないから病気のない世界へ:医学
道家達将編
2021年5月30日日曜日
アメリカ文化センター(3)
アメリカ文化センター(2)からの続き
金沢のアメリカ文化センターが廃止になった1967年は中学2年。その後この建物は社会教育センターの分室となっていた。
泉丘高校ではE.S.S.(英語研究部)に所属していたが,金沢市内の高校や大学のE. S. S.の連合会があって,その集まりがこの旧アメリカ文化センターで開催されていた。
この連合会が主催する英語劇の大会があって,1年のときはクリスマスキャロルのスクルージを演じたのだった。大会の会場は,当時まだ金沢城址にあった金沢大学の学生会館だった。その後の講評などを,英語弁論大会の際に旧アメリカ文化センターで行っていたような気がする。もしかすると弁論大会は別の日だったのかもしれない。
その英語弁論大会は大学生や短大生によるもので,金沢大学の方の話が素晴らしかった(多分最優秀賞)のと,金沢女子短大?の方の環境問題の方は内容がよくわかったような気がした。外国人の方の講評で「環境汚染」は"polution"というのだと初めて知った。まだ環境問題が取り上げられ始めたばかりの頃だった。
この弁論大会以外にもESS連合会の集まりがあって,1年と2年のときに出席した。1年のときは例の最優秀賞の方と同じテーブルだった。金沢大学附属高校出身の才媛だった。英語の歌を流して歌詞を筆記するというクイズがあり,正解は,"Love is a many splendored thing"(慕情)だったけれど,splendoredでつまづいて全滅だった。
2年のときは,部長の高橋裕之君と出席することになった。中学校の同級生だった小堀信幸君が錦丘高校かどこかの代表で来ていて同席だった。このときも自己紹介か何かでパニックっていたのだった。
また別の機会だったのか天気の良かった土曜日の午後,1階の図書閲覧室で同級生の米本君に出会った。彼はここで自習しているとのことで,何やら秘密の話を聞かされたのだった。