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2024年4月22日月曜日

香炉峰の雪

NHKの今年の大河ドラマは,平安時代を舞台にした「光る君へ」だ。

主演の吉高由里子(紫式部)は好きじゃないし,サマータイムウイカ(清少納言)も苦手なのだ。NHKの番宣番組の二人のザラザラした不作法な掛け合いは聞くに堪えなかった,二人ともどういう性格なのよ。それはそれとして,大河ドラマといえば,いつも戦国時代のチャンバラもしくは徳川物語ばかりでうんざりしていたので,ほっとする。

「光る君へ」はここまでのところ,ほとんど柄本佑(藤原道長)が主人公の物語のようにみえる。平安時代の時代考証がどうなのかは別として,古典や歴史で学んだことを復習しながら,学びそびれたことを調べながら,現代劇の一種としてみるのは楽しい。

昨日は,清少納言が中宮定子に,香炉峰の雪の話題を持ちかけられたシーンがでてきた。古文の教科書に載っていたので,なんとなく頭に残っているのだけれど,どこがポイントなのかいまいち理解できていなかった。復習したところ,ポイントは白居易(白楽天)の故事にあった。教養主義ですね。

これが白居易の七言律詩
香 炉 峰 下 新 卜 山 居 草 堂 初 成 偶 題 東 壁

日 高 睡 足 猶 慵 起
小 閣 重 衾 不 怕 寒
遺 愛 寺 鐘 欹 枕 聴
香 炉 峰 雪 撥 簾 看
匡 廬 便 是 逃 名 地
司 馬 仍 為 送 老 官
心 泰 身 寧 是 帰 処
故 郷 何 独 在 長 安
Wikibooksからの現代語訳は, 
(第一句)太陽が高くのぼり、睡眠時間も十分なのに、まだ起きたくない。
(第二句)小さな家にふとんを重ねて寝ているので、寒さの心配はない。
(第三句)遺愛寺の鐘は、枕を高くしてじっと聴き
(第四句)香炉峰の雪は、すだれを高く上げて眺める
(第五句)ここ廬山は、世間一般の名声から逃れるためには相応しい地。
(第六句)司馬という官職も老後を過ごすためには相応しい官職だ。
(第七句)心も身も安らぐ場所こそが帰るべき場所。
(第八句)どうして故郷は長安だけであろうか、いや故郷は長安だけではない。
雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子しまゐりて、炭櫃に火おこして、物語などしてあつまりさぶらふに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も「さる事は知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人にはさべきなめり」と言ふ。 

写真:北香炉峰かどうかはわからない廬山の日の出(Wikipediaから引用)

2024年4月20日土曜日

紀元二千六百年記念日本万国博覧会

神武天皇即位紀元というものがある。

皇紀元年=西暦紀元前660年,皇紀2600年=1940年ということになっている。まあ,日本書紀の素朴解釈で明治初期に定義されたものに過ぎないのであまり意味はない。しかし,今から16年後の2040年=紀元2700年ということなので,用心しておいたほうがよいかもしれない。

フォーククルセダーズが,紀元二千六百年というアルバムを出していたはずだという記憶があった。これは誤っていて,正確にはパロディーになっている紀元弐阡年(1968) だった。たぶん妹が買ったのではないか。あるいは自分?紀元貮阡年以外は,おおむね思い出せる。
Side1:紀元貮阡年,帰って来たヨッパライ,悲しくてやりきれない,ドラキュラの恋,水虫の唄,オーブル街
Side2:さすらいのヨッパライ,花のかおりに,山羊さんゆうびん,レディー・ジェーンの伝説,コブのない駱駝,何のために
当時この紀元二千六百年を記念して様々な行事が催されている。ただ,国際的な三大行事である夏季オリンピック東京大会,冬季オリンピック札幌大会,日本万国博覧会は,1937年に始まった日中戦争のために中止及び延期となった。

この延期になった紀元二千六百年記念日本万国博覧会のチケットが,1970年の大阪万博や,1984年の愛知万博で,利用可能になっていた。どうやら,今回の2025年の大阪・関西万博でもそうなるらしい。まだ残っているのだろうか?


写真:紀元2600年記念万博の入場券(東京都中央区立郷土資料館から引用)

2024年2月21日水曜日

工場跡事務室

このあたりの梅の名所はどこかしらとGeminiに聞くと,一番に出てきたのが片岡梅林(奈良市高畑町1149)だった。Google mapで確認すると,奈良公園の浮御堂の隣である。早速向かった。人類はますますコンピュータに支配されつつある。知識も行動も感情も戦争も。

片岡梅林は梅の香りがして,白梅,白梅,紅梅,白梅とまばらに花盛りだった。さらに歩くと奈良国立博物館の裏手の仏教美術資料研究センターの横を抜けて東大寺の参道入口までやってくる。ここまでくるとあたりは冬枯れの鹿と外人観光客でいっぱいだ。鹿のフンを掃除してくれているおばさんと,中国語のピンポンの中をかき分けて南大門をくぐり,右に曲がり丘を越えて左に曲がると,喫茶スペース工場跡事務室に到着した。

普段はあまり営業していないらしいが,無事にそこで昼食にありつけることになった。乳酸菌飲料のフトルミンの製造や,食料菌類の研究をしていた工場が製造を中止して30年後,今から15年ほど前に工場跡のカフェとしてオープンしたものだ。外観は今にも壊れそうな昔ながらの古びた建物である。

奈良市の登録有形文化財喜多家住宅(主屋・蔵・離れ)と旧長壽會細菌研究所(工場・製品庫)から成り立っている。大正末期から昭和初期に立てられた建物だ。主家の方はモダンなデザインの洋館だが公開していないのかもしれない。


写真:喫茶スペース工場跡事務室立ち入り禁止区画

2023年9月1日金曜日

関東大震災朝鮮人虐殺事件

今年は,1923年9月1日に発生した関東大震災100年にあたる。

8月30日のNHKクローズアップ現代では「集団の狂気なぜ ~関東大震災100年虐殺の教訓~」というタイトルでこれが取り上げられていた。森達也監督の映画「福田村事件」を軸として,集団化した人間の怖さと,歴史的な教訓にどう向き合うかを中心に話が進んだ。

東京都の小池知事が6年前から,朝鮮人犠牲者追悼碑前で開かれる追悼式典への追悼文を送らなくなったことには触れないだろうなと思って見ていたが,非常に控えめではあるが取り上げられていた。全然斬り込めていなかったけれど。小池知事の影響下の東京都人権部は,さらに悪質なことに,東京都人権プラザ(港区)で2022年11月30日まで開催中の飯山由貴さんの個展「あなたの本当の家を探しにいく」の付帯事業で,関東大震災での朝鮮人虐殺に言及した映像作品《In-Mates》の上映を禁止している

日本政府も同様であって,ロイターによれば
政府は9月1日に発生100年となる関東大震災を巡り、当時の朝鮮人虐殺への論評を避ける構えだ。松野博一官房長官は30日の記者会見で「政府内において事実関係を把握する記録が見当たらない」と強調し、コメントしなかった。反省や教訓の言葉もなかった。虐殺を巡っては、事実そのものを疑問視したり否定したりする言説が後を絶たず、歴史の歪曲や風化が懸念される。

日本会議を始めとする,右側の歴史修正主義者の圧力に次々と屈する事態が発生しているのだった。

本当に,政府内において事実関係を把握する記録がみつからないのかどうか,気になって,google で,朝鮮人虐殺 + 関東大震災 + site:go.jp で検索してみると確かに余り見つからない。衆議院や参議院における代表質問関連,国立国会図書館や科学技術振興機構のJ-STAGEの文献類以外はほとんどない。

一次史料ではないが,内閣府の防災情報のページにある「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成21年3月 1923 関東大震災【第2編】」にはかなり詳しい話が載っていた。また,外務省の外交文書デジタルコレクションには,関東大震災関係 2中国人等被害関係 という資料は存在している。当時は韓国併合(1910-1945)の時代だから,朝鮮人は外務省マターにはならなかったのだろう。


追伸:菅野完が,森達也を批判した返す刀で「集団化した人間の怖さ」だけを強調することの問題点を指摘していた。日本では,地震などによる大災害は頻繁に発生している。なぜ,関東大震災のときにこれほどひどい虐殺事件が発生したのか。その特殊性を帝国主義的な社会構造や植民地主義的世界観により以下のように説明している。

その特殊性とはすなわち、正力松太郎が流した官製デマであったり、当時の官憲が震災前から虎視眈々ととりわけ共産主義者を弾圧しようとねらっていた(日本共産党の結成は、1922年つまり震災の前年だ)という時代背景であったり、ロシア革命への介入戦争であったシベリア出兵直後だったという社会背景であったりじゃないのかね?(菅野完,Facebook 2023.9.5)

 

2023年6月30日金曜日

ヒトは衰退するのか

6月26日の日経朝刊1面トップの記事のタイトルが「ヒトは衰退するのか」だった。テクノ新世 岐路に立つ人類という特集記事の初回なのだ。来月から購読料が値上げされる日経の気分はほとんどSFになっている。他の全国紙ではなかなか考えにくい取り扱いかもしれない。

一つはAIによって,人間の仕事(欧米の場合)の4分の1が自動化されるという話である。これは,ゴールドマン・サックスの2023年3-4月のレポートに基づいているのだけれど,彼らは"Generative AI could raise global GDP by 7%"というタイトルをつけていて,受け取り方や強調の仕方が違う。

もう一つが,地球上の人工物の総重量が生物のそれを越えたというものである。これはワイツマン科学研究所の2020年のnature論文からきているので,早速調べてみたところ原論文が見つかった。なんとなく機械やプラスチックの総量が生き物を越えたのかというイメージだったけれど,そういうわけでもない。


図:地球上の人工物の総重量と生物の総重量(Elhacham et. al. より引用)

上の図が日経朝刊で引用されたものだが,バイオマスの値は乾燥重量であった,人工物は,コンクリート,骨材,レンガ,アスファルトがほとんどを占め,これに金属とプラスティックが続く。下の図では,水を含んだバイオマスの重量の値も示されている,これならば,2037年くらいになる。また,廃棄物がグレーで示されている。こちらもかなりの値になる。

人為的な気候変動説については必ずしも十分には信用できなかったが,これを見ると考えが変わるかもしれない。

2023年6月27日火曜日

安丸良夫

通俗道徳と日本資本主義からの続き

菅野完の話は,安丸良夫(1934-2016)の民衆思想史に基づいたものだ。歴史学者というと頭に思い浮かぶのは網野善彦(1928-2004)で,安丸良夫は聞いたこともなかった。

岩波講座の日本歴史はこれまでに5次にわたって出版されているが,その第4次シリーズ(1993-1995)の編集委員が,朝尾直弘・網野善彦・石井進・鹿野政直・早川庄八・安丸良夫だった。なお,第5次シリーズ(2013-2015)の編集委員は,大津透・桜井英治・藤井譲治・吉田裕・李成市であり,こちらで聞いたことがあるのは吉田裕(1954-)くらいか。

安丸良夫は,富山県東礪波郡高瀬村(現在の南砺市森清)の出身なのだが,これはわが家のルーツがある越中桐の木村(南砺市桐木)や松の木村(南砺市松木)から6kmほど東にある。安丸の通った福野高校は5km東だ。真宗篤信地帯の農村出身であることが,その後の彼の思想に大きな影響を与えたとのこと。

1953年に京大文学部に入学し,大学院生のときにアルバイトで大本出口なお(1837-1918)のおふでさきの解読作業に携わる。1965の「日本の近代化と民衆思想」で彼の理論が展開された。戦後日本の啓蒙主義的な時代思潮のなかで前近代的・封建的などとされて来た「通俗道徳」(勤勉、倹約、孝行、正直などの民衆的な日常道徳)が,じつは民衆の自己規律と自己鍛錬の様式であり,それを通じて膨大な人間的エネルギーが発揮され,近代化していく日本社会を基底部で支えた,というものだ(マックス・ヴェーバーのプロ倫を想像すると理解しやすい)。

「歴史をおしすすめる根源的な活動力は民衆自身だ」という主張は,様々な批判や反発を招いたようだが,それに対する安丸の見解は参考文献の[1] [2] にみられる。民衆というキーワードを強調しなければ,菅野完の通俗道徳≒自己責任論≒新自由主義にすんなりつながるのだけれど。

[1]「民衆思想史」の立場(安丸良夫)
[2]「民衆史」と戦後歴史学(安丸良夫)

2023年3月2日木曜日

ヤポネシア

ヤポネシアは,戦後奄美大島に住んだ作家の島尾俊雄(1917-1986)が考えた造語だ。 樺太や千島列島から日本本土,琉球列島までの地理上の日本列島弧を指す。

学術用語としても定着しており,2018年度から2022年度までの科研費の新学術研究で「ゲノム配列を核としたヤポネシア人の起源と成立の解明」というテーマの研究が進められている。研究代表者の国立遺伝学研究所斎藤成也さんの講演をいくつかYouTubeで見ることができる。

大陸と陸続きだった日本列島に最初に住み着いたのが狩猟生活をしていた縄文人で,その後朝鮮半島や琉球列島などを経由して渡来した弥生人が農耕文化をもたらした。縄文人は北海道のアイヌと沖縄にその血を濃く残しているというのが,これまでのボンヤリした理解だった。これが,東大の埴原和郎(1927-2004)による二重構造説らしい。

それが,DNAのゲノム解析の技術が進んだことで,縄文人や弥生人や古墳人のDNA解析が進み,この三者がはっきりと異なる特徴を持っていることが明らかになり,日本人の起源は二重構造ではなく三重構造ではないかというのが最近の研究成果らしい。この場合,古墳人につながる集団は弥生時代の日本に様々な技術を持ち込んで,卑弥呼によるヤマト王権の成立につながることになる。


図:縄文人,弥生人,古墳人,現代人の遺伝的特徴

この論文では,金沢市の岩出横穴墓の古墳人のデータが用いられている。小学校の修学旅行では,安宅の関や実盛の首洗い池とともに,加賀市の法皇山横穴古墳を訪ねているが,ここも古墳時代のかなり大規模な古墳群である。

[1]ヤポネシア人のゲノム解析(斎藤成也,生体の科学 2020)
[2]私たちは何者か~DNAで迫る現代日本人への道(NHK 2021 )

2023年2月27日月曜日

レコード煎餅

水木十五堂からの続き

第11回水木十五堂賞授賞式のやまと郡山城ホールには,桂文我が収集した落語関係資料の一部が公開されていた。その中に,桂春団治の煎餅缶というのがあったがサラッと通り過ぎた。

帰ってから調べてみると,それはなんとレコード煎餅というものだった。必ずしも確かではないネット情報とYouTubeでの桂文我自身の話を組み合わせると次のようなことらしい。

まず,Wikipediaのレコードの項には次のようにある。
1924年に神戸で煎餅レコードが販売されていた。タイヘイレコード設立者の森垣二郎が作ったものとされ,童謡が収録されていた。これを見た落語家の初代桂春団治(1878-1934)が1925年に,今度は大阪市の住吉区にあった「ニットーレコード(日東蓄音機)」の協力のもと,やはり煎餅レコードを作った。湿気ない様に缶にパッケージされていた。春団治のレコードの価格は8枚入りの1缶が1円50銭,10枚入りの1缶が1円95銭だった[19][20]。1926年1月に天理教の大祭の人出の多さを当て込んで売り出されたが,値段の高さや,あいにくの雨で煎餅の多くが湿気ったことなどでほとんど売れず,春団治は大損した。落語やコントなどが収録され,「聴き飽きたら食べる」というコンセプトだった。
 一方,次のような話もある[2]。
せんべいで作ったレコードは大正期の終わりに京都市内のお菓子屋が始めたという。実際に制作されたせんべいのレコードは兵庫・神戸市にある有馬温泉名物の温泉せんべいのように表面がすべすべしたもので,水飴でコーティングしてそこに溝を入れ,竹の針を落として聴く。神戸では「桃太郎」や「金太郎」,そして「花咲かじいさん」のような童謡を吹き込んだせんべいのレコードが売られていた記録も残っていた。
(中略)
レコードは初代師匠の十八番の落語などを吹き込み,いずれも専用の竹針を入れた8枚入りと10枚入りの2種類を売り出して,「鈴鹿馬子唄」の歌詞を拝借した「昔はウマが物云う鈴鹿の関,今は煎餅で物云う春団治」というキャッチコピーで売り出した。
発売されたのは,1926年の天理教の大祭の3日間だけだったが,全国から信者が集まっていたために,缶だけが残されたものがあって,ヤフーオークションにかかった。落札価格は35万円。桂文我はその後会津若松地方で見つけたということだ。


写真:桂春団治のものいふせんべい(大和郡山市資料から引用)


2023年2月26日日曜日

水木十五堂

奈良県大和郡山市が主催する水木十五堂賞というのがある。

水木要太郎(1865-1938)(雅号:十五堂)は,現在の愛媛県伊予市出身だが,東京高等師範学校を出た後,奈良県尋常師範学校の教員となって大和郡山市に住むことになる。奈良県尋常中学校(現,奈良県立郡山高等学校)の教員や奈良女子高等師範学校(現,奈良女子大学)の教授として勤めた。
大和の歴史や地誌の研究を進める一方,漢詩,和歌,俳句,書画,狂歌から茶道,演劇等を通じ,多くの文人や芸術家と交流し,幅広い分野であらゆる収集を行い,その数7,000点あまり,『水木コレクション』として,今日に受け継がれている。
中近世の古文書,近世の刊本,近世から近代の絵地図,文化人の書状など多岐にわたる膨大な資料群であり,学術的に貴重な資料も多く含まれている。
特に異彩を放つのが,『水木の大福帳』と呼ばれる半紙四分の一大の帳面であり,300冊以上にものぼる大福帳には,多くの学者や文人,芸術家などあらゆる階層の人たちが署名やコメント,似顔絵などを残している。まさに時代の息吹が直接伝わる貴重な資料である。(大和郡山市ホームページより引用)
古事記1300年を記念して,文化伝承の重要性を発信する取り組みとして大和郡山市が2012年に設けたのが水木十五堂賞だ。その今年(第11回)の受賞者が落語家の四代目桂文我であり,今日はその授賞式と記念講演会に出かけた。第4回授賞式で,辻本一英氏(阿波木偶箱回し保存会)の話を聞いて以来7年ぶりだった。

桂文我は,10万点にもおよぶ落語関係の資料を収集するとともに,埋もれた上方落語の発掘と復活を続けている。記念講演では旅ネタ「東の旅」から伊勢参宮までの一部と「三十石」の抜粋が演じられた。

記念座談会での文我の話が面白かった。落語公演日が決まると3,4日前に,ワープロで話を全部さらうのだそうだ。そして,当日はそのままには演じない。観客との相互作用=対話によってライブの演目が形づくられていくということだった。ChatGPTのようなAI対話システムが検索に代替できるできないの議論がある。そもそも検索とは何か,知識は相互作用で構成され,ネットワークの中に維持されるものだとすれば,むしろ対話のほうが本質なのかもしれない。


写真:水木十五堂の大福帳(大和郡山市資料から引用)
天理大学附属天理図書館蔵・国立民俗博物館提供写真


2023年2月24日金曜日

大奥

よしながふみ原作の歴史改変ジェンダーSFマンガ大奥が,NHKでドラマ化された。あまり真面目に視聴していない大河ドラマの徳川家康よりよほどおもしろいのだ。10月にはシーズン2も予定されている。

さて,高等学校で日本史をとらなかったため,徳川歴代将軍についてもあまりよくわかっていない。そこで,Bing ChatやChatGPTに聞いてみた。
『歴代の徳川将軍について調べています。次のような形式の将軍在位順のテーブルを作ってください。|第○代|名前|在位期間(16xx-17xx)|在位年齢(30-50)|生没年(16xx-17xx)|父|母|』

何となくそれらしいアウトプットはできたもののWikipediaでチェックした(それもどうかという話だが)。半分くらいは間違っているが,そこそこの結果が出てきた,あとは手動で校正したところ,次のようになったので,テレビ視聴の参考資料とする。

第 1代|徳川家康|1603-1605|在位年齢:49-51|1543-1616|松平広忠|伝通院 |
第 2代|徳川秀忠|1605-1623|在位年齢:26-44|1579-1632|徳川家康|西郷局 |
第 3代|徳川家光|1623-1651|在位年齢:19-47|1604-1651|徳川秀忠|崇源院 |
第 4代|徳川家綱|1651-1680|在位年齢:10-39|1641-1680|徳川家光|宝樹院 |
第 5代|徳川綱吉|1680-1709|在位年齢:34-63|1646-1709|徳川家光|桂昌院 |
第 6代|徳川家宣|1709-1712|在位年齢:47-50|1662-1712|徳川綱重|長昌院 |
第 7代|徳川家継|1713-1716|在位年齢: 7-10|1709-1716|徳川家宣|月光院 |
第 8代|徳川吉宗|1716-1745|在位年齢:32-61|1684-1751|徳川光貞|浄円院 |
第 9代|徳川家重|1745-1760|在位年齢:33-48|1712-1761|徳川吉宗|深徳院 |
第10代|徳川家治|1760-1786|在位年齢:23-49|1737-1786|徳川家重|至心院 |
第11代|徳川家斉|1787-1837|在位年齢:14-64|1773-1841|徳川治斉|お富の方 |
第12代|徳川家慶|1837-1853|在位年齢:44-60|1793-1853|徳川家斉|香琳院 |
第13代|徳川家定|1853-1858|在位年齢:29-34|1824-1858|徳川家慶|本寿院 |
第14代|徳川家茂|1858-1866|在位年齢:12-20|1846-1866|徳川斉順|実成院 |
第15代|徳川慶喜|1867-1868|在位年齢:30-31|1837-1913|徳川斉昭|貞芳院 |

徳川家康が征夷大将軍だったのは2年ほどだったとか,家継が子供であっという間に亡くなったとか,いろいろ知らないことが多い。結局,大河ドラマの綱吉と吉宗と家定(篤姫)の記憶でしか定着していないのだった。

NHKのテレビ放送が1953年2月1日に始まって70周年だ。

2022年11月8日火曜日

世阿弥の佐渡状

NARASIAからの続き

なら歴史芸術文化村の文化財修復・展示棟地下では,「奈良県指定の文化財」という特集展示があった。奈良県の国宝・重要文化財の数は1311件で,東京都(2729件),京都府(2144件)についで,全国3位。なお,彫刻と建物では全国1位だ。奈良県の国宝・重要文化財のほぼ半分の614件は奈良市にあり,次は斑鳩町の220件,3番目が天理市110件となっている。

今回の特集は,奈良県指定文化財の展示であり,最後のコーナーに世阿弥(1363-1443)が配流されていた佐渡から金春大夫に宛てて送った「宝山寺観世世阿弥能楽伝書 佐渡状」が展示されていた。生駒市の寶山寺の所蔵品。

本文末に「不思議ノゐ中ニテ候間、料紙ナンドダニモ候ワデ、聊爾ナルヤウニカ思シ召サレ候ラン。(信じられぬほどの田舎の島で,この通りろくな紙もありはせぬゆえ,無礼なと思われるかもしれません)」とあるように,薄く粗末な紙にしたためられていた。

この手紙は世阿弥の絶筆ともいわれている足利義満(1358-1408)には重用されていたはずの世阿弥がなぜ佐渡に流されてしまったのか。足利義持(1395-1423)のときに冷遇が始まり,足利義教(1394-1441)の時代にはついに都を追われてしまう。世阿弥の甥の音阿弥(1398-1468)との権力闘争に敗れてしまったか。その義教も最後は暗殺されている。

世阿弥は大和結崎座の出身。奈良県川西町にある近鉄橿原線の結崎駅は,毎朝の散歩コースの南西限界に位置する。このあたりが観世能の発祥の地だ。なんとか,大河ドラマで取り上げてほしいリストに追加されないか。もう,戦国時代と徳川幕府と明治維新はうんざりなんです。


写真:世阿弥の佐渡状(生駒市デジタルミュージアムから引用)

[2]補厳禅寺納帳(奈良県田原本町)
[4]世阿弥北川忠彦

2022年11月2日水曜日

戦争と人間(2)

戦争と人間(1)からの続き

三部作の映画で描かれた(言及された)事件はおよそ次のようなものだった。

    三・一運動(1919.3.1) 万歳事件
    https://ja.wikipedia.org/wiki/三・一運動
    三・一五事件(1928.3.15)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/三・一五事件
    済南事件(1928.5.3)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/済南事件
    張作霖爆殺事件(1928.6.4)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/張作霖爆殺事件
    易幟(えきし)(1928.12.19) 張学良
    https://ja.wikipedia.org/wiki/易幟
    間島共産党暴動(1930.5.30)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/間島共産党暴動
    霧社事件(1930.10.27)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/霧社事件
    中村大尉事件(1931.6.27)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/中村大尉事件
    万宝山事件(1931.7.2)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/万宝山事件
    満州事変(1931.9.18)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/満洲事変
    第9師団
    https://ja.wikipedia.org/wiki/第9師団_(日本軍)
    第一次上海事変(1932.1.28)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/第一次上海事変
    満州国設立(1932.3.1)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/満洲国
    五・一五事件(1932.5.15)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/五・一五事件
    国際連盟脱退(1933.3.27)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/国際連盟
    相沢事件(1935.8.12)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/相沢事件
    二・二六事件(1936.2.26)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/二・二六事件
    関東軍防疫部設置(1936.4.23)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/731部隊
    盧溝橋事件(1937.7.7)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/支那事変
    第二次上海事変(1937.8.13)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/第二次上海事変
    国共合作(1937.9.22)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/国共合作
    南京事件(1937.12.1)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/国共合作
    国家総動員法(1938.4.1)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/国家総動員法
    重慶爆撃(1938.12.26)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/重慶爆撃
    ノモンハン事件(1939.5.11)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/ノモンハン事件

参謀の辻政信は,ノモンハン事件でも相変わらずろくでもない動きをしていた。この映画では南京事件はあまり強調されていなかった。調べていたら,金沢の第九師団が第二次上海事変に動員されていて,その延長で南京事件に深く関わっていた(岡野君江)ことがわかった。

「戦争と人間」の映画は,東京裁判に至る第四部まで制作する予定だったが,資金が集まらずに第三部で終ってしまったようだ。このため,いろいろと伏線が回収されずじまいの不満が残る。完結編の後半はほとんどノモンハン事件の戦闘シーンであり,戦争の残虐さを表現するということだったかもしれないが,良かったのか悪かったのか・・・。

2022年6月24日金曜日

沖縄「慰霊の日」

 6月23日は,沖縄戦(1945.3.26-1945.9.7)から77年目(ななじゅうしちねんめ)を迎える「慰霊の日」だった。NHKでは左手に情緒的で反戦的なエピソードを積み上げつつ,右手では"防衛費"の増額と憲法の"改正"があたかも既定路線であって,なんの問題もないかのような印象操作を続けている。

さて,6月23日という日付は,なんとなく,沖縄戦で米軍が勝ち日本軍が負けた日なのかと思いこんでいたが,そんな単純なことでもなかった。沖縄戦を戦った第32軍の司令官の牛島満(1887-1945)と参謀の長勇(1895-1945)が自決して,日本軍の組織的な戦闘ができなくなった日だった。降伏の手続きを経なかったので掃討戦は継続し,6月23日以降にも多くの人命が失われた。7月2日には,連合国軍が終了宣言を出したものの,降伏調印式が行われたのは9月7日だった。

昭和19年の沖縄の人口は59万人,昭和21年には51万人に減っている。沖縄県による沖縄戦戦没者の推計によれば,全戦没者20万人(平和の礎には24万人が刻まれる),軍人軍属9.4万,一般県民9.4万,米軍1.3万とある。沖縄出身の軍人軍属と県民を合わせれば,12.2万人であり,県民全体の1/4近くに達している。


1977年夏の米島君との沖縄旅行については少し書いた。民宿に一泊した次の日に,南部戦跡をめぐるバスツアーに参加した。途中で,日本軍の地下壕の跡に立ち寄ったのだが,それが,豊見城市の旧海軍指令壕だった。ここでも6月13日に海軍司令官の大田実が自決している。その後ひめゆりの塔に向かったはずだがあまりはっきりおぼえていない。

金沢の卯辰山には,殉難豊川女子挺身隊の像がある。高校相撲大会の応援のときに,それをみながら米島君が,日本でミュージカルをつくるならばテーマはひめゆりの塔だと力説していた。そのとき自分はピンと来ていなかったが,数年後にはいっしょに沖縄を訪れることになった。


写真:卯辰山の殉難乙女の像(朝日新聞から引用)

2022年6月16日木曜日

浄瑠璃坂の仇討

 初夢の一富士二鷹三茄子でおなじみの日本三大仇討ちのうちのひとつ,曾我兄弟の仇討ちが前回の鎌倉殿の13人のテーマだった。大掛かりなロケ映像もあってなかなかよかったけれど,三谷幸喜のストーリーによれば,これは仇討ちではなくて,源頼朝に対する謀反の話だった。

浄瑠璃のテーマとして,完全に定着している曾我物なので,いまさら違いましたといわれても困るのだった。まあ,曾我兄弟の仇討ち(1193)は12世紀末であり,赤穂浪士の討ち入り(1703)や鍵屋の辻の決闘(1634)は,江戸時代なので,この際,浄瑠璃坂の仇討(1672)を加えた江戸時代の三大仇討ちを復活させるほうがよいのかもしれない。初夢は,一鷹二茄子三浄瑠璃になるのだろうか。

浄瑠璃坂の仇討ちなんてまったく聞いたこともなかったが,宇都宮藩の内輪の刃傷沙汰が原因で40名を越える討ち入りに至るという,赤穂浪士の討ち入りの前哨戦のような話だった。なお,浄瑠璃坂は,被害者となる奥平隼人が身をよせた戸田屋敷の場所であり,江戸の市谷(現在の新宿区鷹匠町)にある。


写真:2017年の浄瑠璃坂(Wikipedikaから引用)

[1]浄瑠璃坂の討入り|竹田真砂子(てくてく神楽坂)

2022年5月22日日曜日

石原純

石原純(1881-1947,いしわらあつし)といえば,岩波新書でアインシュタイン・インフェルトの「物理学はいかに創られたか」の訳者で,相対論や量子論についての仕事もあるというのは知っていた。

石原純は,寺田寅彦とともに岩波の雑誌「科学」を創刊し初代編集主任を務めた。科学ジャーナリズムによる物理学(相対論や量子論)の普及への寄与が大きい。それだけでなく,正岡子規門下の伊藤左千夫に師事するアララギ派の歌人でもあり,同人誌「アララギ」の発刊に参加している。

医者や科学者が,短歌や俳句の世界でも活躍している例はたくさんある。寺田寅彦,斎藤茂吉,水原秋桜子,高野素十,西東三鬼,有馬朗人などなど。ところが,石原純の場合はその先があった。

1921年,妻子を持つ身ながら,アララギの歌人原阿佐緒(1888-1969,宮城県大和町)と恋愛事件を起こし,東北帝国大学を教授職を辞職して,ともにアララギを脱会するに至る。石原は,1933年に妻子のもとに帰り,1945年末に交通事故で重傷を負って,1年後の1947年に亡くなった。


写真:Wikipediaから引用した原阿佐緒のポートレート

2022年5月21日土曜日

袈裟と盛遠

鎌倉殿の13人で,市川猿之助の扮する怪しい坊さんが,頼朝の周辺でなにやら平家追討に画策する場面が時折でてくる。前回は,義朝のドクロといわれるものを持ち出して,義経を京都から呼び戻す作戦に加わっていた。

これが,文覚上人(遠藤盛遠)であり,芥川龍之介の短編「袈裟と盛遠」で知られる盛遠の出家後の姿だった。菊池寛の戯曲「袈裟の良人」が原作となった衣笠貞之助の「地獄門」(1954年第7回カンヌグランプリ)にもつながっている。古典落語には「袈裟御前」という演目があり,笑福亭鶴光の話をYouTubeで聞くことができる。

袈裟御前をめぐる物語は,「袈裟御前の生涯」などに詳しい。遠藤盛遠が袈裟御前に懸想しなければ,彼女を斬り殺したことを悔いて出家し,文覚になることもなかった。となると,頼朝に平家討伐を迫って後白河法皇から院宣を入手していない世界線が存在する。コニー・ウィリスのタイムトラベルSFの日本版にふさわしいテーマだ。


写真:Endo Musha Morito Approaching Kesa's Bedroom(月岡芳年 Wikimedia Commons)

2022年5月18日水曜日

堀河夜討

NHKの大河ドラマ「 鎌倉殿の13人」は,平家が滅亡して義経が追われる段階に入ってきた。

人形浄瑠璃や歌舞伎の演目と重なるところが多いのでたいへん勉強になる。「義経千本桜」をはじめとして,「ひらかな盛衰記」「一谷嫩軍記」「源平布引滝」「近江源氏先陣館」「鬼一法眼三略巻」「鎌倉三代記」「梶原平三誉石切」「御所桜堀河夜討」などがこのテーマに関連した主な作品であり,文楽劇場でも何度か観ている。

今回は,1185年に頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が,京都の六条堀河邸または六条室町亭にいる源義経を夜討するという史実に基づいた話だったが,ドラマでは義経の正妻の郷御前(三浦透子)がからむということになっていた。これが,浄瑠璃作品になると,平時忠の娘が正妻の郷の君になって,弁慶の隠し子が出てくるとか,もっと話がややこしくなったりするわけだ。


写真:堀河夜討の図(勝川春章,神奈川県立歴史博物館より引用)

2022年5月15日日曜日

沖縄返還50周年

今日は,1972年5月15日の沖縄の施政権返還から50周年,沖縄旅行の話は以前書いている。

1972年は,3月の3日から5日まで大学入試があり,4月からは大阪での生活がはじまった年だ。阪大物理学科の同窓会でも入学50年を迎えてという話があったがどうなることやら。

というわけで,1972年にあった様々なイベントは全て50年目を迎えることになる。そこで,Wikipediaをざっと調べて,自分の印象に残っているものをリストアップしてみた。千日前デパートビル火災と日中共同声明の記事が日本語版Wikipediaの1972年にはなかったが,英語版の1972年にはあった。

入試前の2月にいろいろな事件が集中していてたいへんだった。大学入試で金沢と大阪を往復した雷鳥の中で,パイオニア10号の記事をみて感動したのをおぼえている。カール・セーガンの発案で,地球外知的生命に向けてのメッセージを記録した金属板が搭載されていたからだ。

2月02日 横井庄一帰国
2月03日 札幌オリンピック開幕
2月21日 ニクソン訪中
2月28日 あさま山荘事件終結
3月01日 ローマクラブ「成長の限界
3月02日 パイオニア10号打ち上げ
3月07日 連合赤軍リンチ殺人事件発覚(山岳ベース事件
4月16日 川端康成ガス自殺
5月13日 千日前デパートビル火災
5月15日 沖縄返還・沖縄県発足
5月30日 テルアビブ空港乱射事件
9月05日 ミュンヘンオリンピック事件
9月29日 日中共同声明 日中国交正常化
12月7日 アポロ17号打ち上げ(アポロ計画終了)
12月28日 金日成国家主席就任


写真:パイオニア10号に搭載された知的生命体へのメッセージ金属板

[1]日本復帰への道(沖縄公文書館)

2022年5月14日土曜日

仏滅の周期

 トイレのカレンダーを見ていると,周期性のある仏滅の位置が今月末あたりでズレている。

六曜は,暦に記載される日時・方位などの吉凶、その日の運勢などの事項である暦注のひとつである。先勝(せんしょう)・友引(ともびき)・先負(せんぶ)・仏滅(ぶつめつ)・大安(たいあん)・赤口(しゃっこう)の六種がこの順に毎日繰り返す。

調べてみると,六曜の周期性の乱れは次のルールによる。旧暦の月の朔日が一月と七月は先勝,二月と八月は友引,三月と九月が先負,四月と十月が仏滅,五月と十一月が大安,六月と十二月が赤口と,あらかじめ定まった六曜が朔日に割り当てられており,これから順に並べていくことになる。そこで旧暦の月Mと日Dがわかれば,(M+D-2) mod 6 を計算しよう。この剰余の集合 { 0, 1, 2, 3, 4, 5 } に対して,先ほどの六曜の集合 {先勝, 友引, 先負, 仏滅, 大安, 赤口} を順番に対応させれば,各月各日の六曜が決まる。

今年の5月30日は旧暦の皐月朔日(5月1日)になるので,大安にセットされる。このため仏滅が,新暦の5/7−5/13−5/19/−5/25−5/31 という系列からずれて,6/4になったというわけだ。

あまり役に立たない豆知識シリーズ終了。

2022年3月2日水曜日

クリミア

ロシアによる ウクライナ侵略問題の前にあったのが,ロシアによるクリミアの併合だった。高校のときに世界史を履修していたにも関わらず,世界史の常識に欠けているので,復習することに。

(1)ロシア帝国は1721年から1917年まで続き,その首都は,バルト海に面したサンクスペテルブルグ=ペトログラードだった。バルト海といえば,バルチック艦隊の母港は,かつては現在のラトビアにあるリバウ。現在は,リトアニアとポーランドに挟まれたロシアの飛び地であるカリーニングラードオイラーの橋の問題で有名なケーニヒスベルク)。なぜか,ロシア帝国の第8代皇帝のエカチェリーナ二世が,ポプラ社のコミック版世界の伝記にあって,小学生の人気ベスト10に入っている。どういうことなの?

(2)エカチェリーナ二世が1784年にクリミア半島をロシアに編入した。クリミア戦争は1853年から1856年にわたり,ロシア帝国とオスマン帝国の間でクリミア半島の周辺などで戦われた。黒海周辺をロシア帝国が支配することで,海軍力が増強されることに危惧をいだいたイギリスとフランスがオスマン帝国側に参戦する。クリミア半島南部の黒海艦隊の母港のセヴァストポリが陥落し,クリミア戦争はロシア帝国の敗北で終る。1905年のロシア第一革命が戦艦ポチョムキンの反乱につながる。

(3)1917年のロシア革命後,ボリシェヴィキがロシア帝国の各地の内戦を制圧する。その過程で誕生したクリミア・ソビエト社会主義共和国はロシア共和国に帰属するものとなり,1921年に,ロシア・ソビエト社会主義共和国(ロシア),ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国(アゼルバイジャン・アルメニア・グルジア),ウクライナ社会主義ソビエト共和国白ロシア・ソビエト社会主義共和国(ベラルーシ)の4ヵ国によってソビエト社会主義共和国連邦が成立した。1945年の国際連合の原加盟国51カ国には,ロシア連邦に加え,ベラルーシ,ウクライナが入っている。

(4)1954年,当時のフルシチョフソビエト連邦共産党中央委員会第一書記(1958年のソビエト連邦第4代閣僚会議議長=首相就任より前)は,ウクライナ融和策として,ペレヤスラフ協定300周年を記念し,ソ連の領土内の管轄変更としてクリミア半島をロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管させた。なお,フルシチョフはウクライナ人であり,ウクライナのとの国境付近のロシアで生まれ,その後,ウクライナに移住している。

(5)1991年のソビエト連邦の解体後,クリミア半島の帰属や国境線の確定を巡って,ロシア,ウクライナ,ベラルーシの協議が行われたが,ロシアは,ウクライナの核兵器廃棄の方を優先して,クリミア半島をウクライナの領土と認めた。ただし,セヴァストポリの黒海艦隊の母港としての租借権や,クリミア半島東部のケルチ海峡の自由航行権,海底資源の共同開発を条件とした。

(6)このような歴史的経緯から,クリミア半島にはロシア系住民が多いため,ウクライナ国内におけるクリミア自治共和国としての位置を確立する。これが,住民投票などを経て,ロシアへの帰属を決議することになるのが,2014年のクリミア危機である。ロシア軍の装備を持つ,リトル・グリーンメンとよばれる覆面の武装集団がこの過程で暗躍している。



写真:クリミア半島の周辺(世界史の窓より引用)

[1]ウクライナ情勢から見た地域と国家(塩川伸明,2014)

[2]クリミアの歴史(Wikipedia)