芥川龍之介が「蜘蛛の糸」を発表して百年。高二の秋の文化祭,クラスの仮装行列のテーマが 蜘蛛の糸だった。お釈迦様の極楽タワーの竹を近所から切り出し,地獄の焔と煙の絵を描いた。犍陀多に続いて蜘蛛の糸(登山部の赤いザイル)に群がる地獄の亡者だったころ。
2024年4月18日木曜日
オイラーのφ関数
2023年12月5日火曜日
物体O
2023年10月14日土曜日
物理学科同窓会(2)
2023年5月3日水曜日
木庭二郎
2023年5月2日火曜日
若杉山
2023年3月6日月曜日
プログラミング遍歴(1)
2022年10月31日月曜日
門の会
阪大マンドリンクラブの歴史 (注:昭和41年〜昭和52年まで)
S. 41. 1 松本守氏 阪大マンドリンクラブを創設・・・(中略)S. 47. 1 部長 塚本氏→西村氏教養部 スト突入4 高松にて合宿 合宿中流れたはずの後期試験がありとの報にあわてて帰阪するも試験は流れる5 箕面帝釈寺にて新入生歓迎合宿はじめて外国人留学生入部和歌山での選曲をめぐってビートルズ派とオリジナル派論争7 和歌山特別演奏会司会者のうまさか,とにかく部員と観客が一体となって演奏を楽しんだ8 信州黒岩にて合宿山の上の池で泳ぐ 合宿でもハイキング恒例化 はじめて酒が入る(コンパ以外で)S. 47.12 第4回定期演奏会そのまま泊まり込みコンパへへ突入S. 48. 1 部長西村氏→徳井氏大量留年時代に入る4 土庄(小豆島)にて春合宿 自動車(若者)バス(幼児)自転車組(老人)と分かれて小豆島を動きまわる銀杏祭に出演し大好評…酒を飲んで演奏した人がいたとか…7 九重高原にて夏合宿 寒さのためカゼ大流行ハイキングの帰り人と車の競争…人が勝つ10 服部緑地YHにて合宿11 第5回定期演奏会S. 49. 1 部長 徳井氏→井元氏3 加古川演奏会に向けて加古川へ数十回でかける(車の所有者ガソリン代に泣く 有留も泣く)小豆島にて4度めの春合宿5 加古川特別演奏会(会場前から長蛇の列,マンドリンの人気に一同驚くやら喜ぶやら)教養部スト突入 麻雀大流行S. 49. 8 白馬大池(信州)にて夏合宿11 びわこ青少年の家にて強化合宿第6回定期演奏会S. 50. 1 部長 井元氏→土岐氏・・・6 奈良特別演奏会・・・(以下略)第4回定期演奏会 1972.12プロバンズ序曲・森の写影・海の悲劇LP「ABBY ROAD」より・カストリュークの歌・海に来たれメリアの平原にて・マッサリア・劇的序楽第5回定期演奏会 1973.11青春の思い出・夜想的間奏曲・情熱的組曲夢うつつ・過去への憧れ管弦楽組曲第2番序曲小英雄・マルネリラ・序曲ニ短調第6回定期演奏会 1974.11バートバカラック特集祝典輪舞曲序曲5番ハ長調祈り・イタリアの覚醒・恵まれた結婚
2022年10月30日日曜日
待兼山俳句会
二〇〇一年,(株)博報堂の社内俳句会「源八句会」に参加。二〇〇六年,待兼山俳句会に投句を始め,現在に至る。「雲」同人,俳人協会会員。著書に「たのしい回文」「笑う回文教室」(創元社)
瀬戸さんは 基礎工学部の情報工学科を卒業したのだけれど,本人もおっしゃっているように,文科系人間,言葉の人だったのだ。これにビートルズマニアが加わっている。 それは広告会社博報堂にぴったりの人材だった。
待兼山俳句会の会員は,ほとんど高齢者なのだけれど,つらつらと眺めていると向井邦夫先生の名前があった。大阪教育大学でフランス語を教えており,瀬戸さんより10歳年上だ。阪大の文学部・大学院を修了されている。フランス語の先生といえば,なんだか近寄りがたい人が多かったので,在職時代に向井先生とお話したことはなかった。
P. S. 半導体の大塚穎三先生や元総長の平野俊夫先生のお名前もあった。「待兼山」第4集に寄稿された会員の年齢構成は60代以下が2名,70代が8名,80代が19名,90代が6名だ。出身学部等は,文学部11名,薬学部6名,浪高6名などとなっていた。
[1]せとちとせ(Instagram)
2022年10月29日土曜日
せとちとせ(2)
2022年10月16日日曜日
山所池
2022年10月15日土曜日
物理学科同窓会(1)
2022年6月15日水曜日
熊ノ郷準
日経朝刊の交遊抄に阪大医学部長の熊ノ郷淳(1966-)さんが,阪大医学部の1年後輩の竹田潔さん(阪大免疫学フロンティア研究センター拠点長,審良静男の弟子)との関係について書いていた。
熊ノ郷というのは珍しい名前だけれど,和歌山にルーツがあるらしい。たぶん阪大理学部数学科の教授だった熊ノ郷準(1935-1982)と関係があるのではと調べると,Web上にご本人の記事があった。やはり熊ノ郷淳は,熊ノ郷準先生の息子だった。
淳さんが中学3年のときに,父に脳腫瘍がみつかり1年の闘病生活の後に若くして亡くなっている。それが契機となって,大阪教育大学附属高校池田校舎から阪大医学部に進学する。最初は脳神経外科医を目指していたのだが,適性がないことに気付いて岸本忠三(1939-)の下で免疫学の研究に進んだ,というようなことが書かれていた。
学部のころ,豊中キャンパスの生協の書棚に,岩波書店から出版されていた熊ノ郷準の「擬微分作用素」をみかけた。例の薄いけれど高い本のシリーズだ。阪大理学部の廊下でご本人のお顔を見たこともあると思う。大学院を修了してから,森田研究室のセミナーに通っていたころ,理学部の掲示板に,熊ノ郷先生が亡くなられた(47歳だった)ので御遺児のための奨学金を募りますという張り紙があったのが強く印象に残っている。
2022年4月12日火曜日
真木悠介
4月10日の夜7:00のNHKニュースで,見田宗介(1937-2022)の訃報が流れた。そういえば昔よく読んだものだと本棚を探したけれど見あたらなかった。何度か本の断捨離をしたときに,寄付に回してしまったようだ。
テレビでは,「現代社会の理論 −情報化・消費化社会の現在と未来−」を見田の代表作の一つとしてあげていた。調べてみたらこれは1995年の岩波新書であり,そのころには読む気がしなくなっていたので買わなかった・・・たぶん。大学1,2年の頃に,筑摩書房の箱入りのシリーズで,真木悠介名義の「人間解放の理論のために」とか,見田宗介名義の「現代日本の心情と論理」を買って愛読していた。いずれも,1971年の出版である。
当時は,ディヴィッド・リースマンの「孤独な群衆」から始まって,社会学の本を何冊か読んでいた。大学の教養の人文科学・社会科学では,哲学,倫理学,心理学,政治学,経済学は履修したが,社会学は取らなかったので,その埋め合わせもあり,「社会学のすすめ」から始まって色々と読みあさった・・・たぶん。
社会学といえば,1972年に阪大教養部の助教授だった井上俊(1938-)の「死にがいの喪失(1973)」はまだ本棚で生き延びていた。当時は真木悠介の本の方が良いと思っていたはずなのだけれど。
2021年12月13日月曜日
嗚呼黎明
旧制大阪高等学校(2)からの続き
旧制大阪高等学校の全寮歌が「嗚呼黎明」だ。大正12年に作られた曲だが,面倒なことに歌詞・楽曲ともにJASRAC管理の下にある。なわけで,歌詞を全文引用することは憚られる。前詞はいいのかな。歌詞本文は,岡林信康の「友よ夜明け前の闇の中で・・・夜明けは近い」と同じ趣旨に違いない。
東天紅を染むる金剛の峯にこれを嘯かば当時の体育会系の部活動か応援団ならばこれを歌っていたのかもしれないが,なぜか我々昭和47年入学の阪大理学部物理学科のクラス(定員40名)の2年の研修旅行(赤目四十八滝)ではみんなで肩を組んで歌うことになった。引率は,クラス担任である教養部数学の水野克彦先生だった。多分,それ以前のコンパなどで「これくらいはちゃんと歌えるようにしておかないと」というアドバイスがあったからのような気もする。
天下の惰眠一時に破れ,
夕陽沈む茅渟(ちぬ)の海にこれを叫ばゝ
魑魅魍魎も影を潜めん。
(大正十五年三月佐々木喜市)
2021年12月12日日曜日
旧制大阪高等学校(2)
旧制大阪高等学校(1)からの続き
戦後新制大学が発足する際に,旧制高等学校は新制大学の教養部として組み込まれることになった。阪大は,ナンバースクールの対応物がなくて,官立の大阪高等学校(旧制)と府立の浪速高等学校(旧制)がその役割を果たした。他の旧帝国大学は,北海道大学と九州大学を除いて,一高,二高,三高,八高などがこれに相当している。四高,五高,六高,七高は,旧帝大以外の新制大学の教養部を形成した。
東京大学
1877 東京大学
開成学校(1872-),東京医学校(1874-)
1877 工部大学校
1886 帝国大学
1890 東京農林学校(1886-)
1897 東京帝国大学
1949 東京大学
第一高等学校(1886-),東京高等学校(1921-)
京都大学
1897 京都帝国大学
1949 京都大学
第三高等学校(1894-)
東北大学
1907 東北帝国大学
1912 仙台医学専門学校(1901-),仙台高等工業学校(1907-)
1949 東北大学
第二高等学校(1887-),仙台工業専門学校(1906-),
宮城師範学校(1943-),宮城青年師範学校(1944-)
九州大学
1903 福岡医科大学
1911 九州帝国大学
1949 九州大学
福岡高等学校(1921-),久留米工業専門学校(1939-)
北海道大学1876 札幌農学校
1907 東北帝国大学農科大学
1918 北海道帝国大学
1949 北海道大学
函館水産専門学校(1935-)
大阪大学
1919 大阪医科大学
大阪府立大阪医科大学(1915-)
1931 大阪帝国大学
1933 大阪工業大学(1929-)
1949 大阪大学
大阪薬学専門学校(1917-),大阪高等学校(1921-),浪速高等学校(1926-)
名古屋大学
1931 名古屋医科大学
愛知県立愛知医科大学(1920-)
1939 名古屋帝国大学
1949 名古屋大学
第八高等学校(1908-),名古屋高等商業学校(1920-)
岡崎高等師範学校(1945-)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -金沢大学
1949 金沢大学
第四高等学校(1887-),金沢高等工業学校(1920-),金沢医科大学(1923-),
石川師範学校(1943-),金沢高等師範学校(1944-)
熊本大学
1949 熊本大学
第五高等学校(1887-),熊本高等工業学校(1906-),熊本医科大学(1929-),
熊本薬学専門学校(1925-),熊本師範学校(1943-),熊本青年師範学校(1944-)
岡山大学
1949 岡山大学
第六高等学校(1900-),岡山医科大学(1922-),岡山農業専門学校(1946-),
岡山師範学校(1943-),岡山青年師範学校(1944-)
2021年12月11日土曜日
旧制大阪高等学校(1)
安倍晴明からの続き
11月21日に大阪の阿倍野あたりに散歩に出かけてからはや三週間経った。北畠のあたりから阿部野神社をまわり,安倍晴明神社にいたるコースだった。
その北畠の東を走るあべの筋の脇にURの阪南団地がある。ここはかつての旧制大阪高等学校の跡地である。それほど広いわけではない。大高跡地であることを示す石碑と,当時からあるチシャノキとその説明を書いた記念碑があった。青春の像もあるというので探したが見つからなかった。後で調べると阪大豊中キャンパスの大高の森に移設されていた。
天理大学の創設者で,天理教第二代真柱の中山正善(1905-1967)は,旧制大阪高等学校から東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科に進んでいるが,その縁から旧制大阪高等学校の学生集会所であった黎明館を天理大学に移築して今に至っている。
大阪帝国大学から新制の大阪大学へ移行する際に,旧制大阪高等学校(官立,1921-1950)と旧制浪速高等学校(府立,7年制,1926-1950)がその後の教養部を形成した。石橋から坂道を上ってきて最初に見える,街兼山の古い大学の建物(イ号館,ハ号館)などはその旧制浪速高等学校の建物だった。
かつて教養部長を務めた物性物理実験の大塚穎三先生(1929-2013,中田博保さんの師匠)は,旧制浪速高等学校の出身であり,「大塚穎三名誉教授に聞く : 大阪大学の思い出」というインタビュー記事の中に当時の話がでてくる。
2021年8月20日金曜日
KEK50周年
KEK(高エネルギー加速器研究機構)が 50周年を迎えた。1971年4月に前身のKEK(高エネルギー物理学研究所)が筑波学園研究都市の北端でスタートしてから50年たった2021年4月には,各種記念行事の先頭を切ってKEK50周年記念オープニングセレモニーが開催されている。
高エネルギー物理学研究所(KEK)には一度だけいったことがある。設置されてから5年目の1976年3月に8GeVの陽子シンクロトロンが運転を開始した(12月に12GeVに増強)ので,たぶんその少し前の建設中のころだったと思う。大学3年の秋か4年の春に物理学科のクラス(40名)が,全国の物理の研究所を回るという研修旅行が杉本健三先生(1923-2012)によって企画されて,ほぼ全員が参加した。
このような研修旅行は,それまではなかったもので,どうもできが悪いクラスに刺激を与えるべく発案されたのかもしれない。名大プラズマ研,東大物性研,東大核研,高エネルギー研,ソニー中央研(盛田昭夫が社長の時代だ)をまわって横浜で解散した。
杉本先生らが引率し,各研究所で重要な役割を果たしていた阪大物理の先輩方が暖かく迎えてくれた。核研の古い宿舎で一泊(この朝食がたいへん貧しかった),できたての筑波大学の新しい寮で一泊(この朝食が最高においしかった)という2泊3日の行程である。
筑波の夕食後のミーティングで,原子力発電の安全性をめぐって,先生方と一部学生の間で険悪なやりとりがなされるなど,なかなか刺激的なツアーだった。東大核研では藤原さんと近所のパチンコ屋に繰り出して,初めての勝利を獲得したのが印象深い。
このツアーで一番すごかったのがKEK(高エネルギー研)の加速器群であった。750keVのコッククロフト・ウォルトン,20MeVリニアック,500MeVブースターシンクロトロンなどをみたけれど,肝腎の主リングの12GeV陽子シンクロトロンのトンネルはみていないかもしれない。
2021年7月22日木曜日
AlphaFold2(2)
AlphaFold2(1)からの続き
再びAlphaFold2が話題になっていたのでなにかと思ったら,「米Alphabet傘下の英DeepMindが、遺伝子配列情報からタンパク質の立体構造を解析するAI「AlphaFold v2.0」(以下AlphaFold2)をGitHub上で無償公開し、ネット上で注目を集めている」ということだった。
AlphaFold2解体新書をみれば詳細がわかりそうな気がする。論文は,Highly accurate protein structure prediction with AlphaFoldであり,実装が,alphafold@github となっている。ただし,実際にインストールしようとすると,最低でも,2.5TB以上のSSD/HDD容量 (必須),CUDA11に対応しているNVIDIA製GPU(推奨),大容量(32GB以上)のRAM(推奨)が必要なので素人は手を出してはいけません。
大学に進学するとき,第1志望を物理学科,第2志望を生物学科にしたほど,生物学というか生命科学がこれからは重要だという認識があった。大学の教養部では巌佐耕三先生の生物学を履修した。AlphaFold2のニュースから阪大で受けた生物学の授業が連想された。その授業の先生の名前が思い出せなくて調べていたら,巌佐耕三先生だったということがわかったが,2017年に亡くなられていた(阪大理生物同窓会誌 Vol. 14 2017)。
筑摩書房の「生物学のすすめ」をテキストとしていた巌佐先生の授業でたたきこまれたのが,生物の本質が,DNA/RNAからアミノ酸配列(1次構造)が定まり,これからタンパク質の立体構造(3次構造)が決まって様々な生理機能を果たすということに依拠しているということだった。
つまり,ゲノム配列を簡単に求められるようになった時代に,それからタンパク質の立体構造を容易に推定できることの重要性がどれほどのものかということだろう。
それにしても,物理科学も生物科学も機械学習全盛の時代に相転移しつつある。
2021年3月29日月曜日
鈍春
今井 vs 美々卯からの続き
うどんといえば,阪急宝塚線の蛍池に住んでいたころ,駅前東口の武岡パン屋の北側に「鈍春(どんぱる)」という創作うどんの店ができたのは,1975-6年だったろうか。インターネットで検索すると断片的な記憶が散乱しているが,2000年代のはじめごろには廃業していたようだ。鳴門わかめうどんが1つの柱で,「春一番」という名のうどんが思い出深い。大ぶりの丼にたっぷりの出汁と太めの手打ち麺。ここに,まったく生臭さを感じない鳴門灰わかめの入った肉うどんの上にすだちと生姜がのっている。だしは完璧だけれど,米島君を連れて行ったときの感想は,「めんがもうひとつ」というものだった。
グラタンうどんとか他の洋風メニューなどもいろいろあったのだけれど,「春一番(もしかしたらこれは別のものを指しているのかもしれないような気がする・・・)」がもっともお気に入りだった。あるとき,隣の豊中駅の近くのうどん屋に入ったとき似たようなメニューがあって,蛍池の鈍春と関係があるんですかと聞くと兄弟分のようなものだという返事があった。残念ながらわかめがちょっと生臭くて鈍春の味とは全く違うのものであり,兄弟分ではなかったようだ。
1980年頃には,阪大豊中キャンパス正門西の中央環状線沿いの清風荘に鈍春の支店ができて,大坪先生と入ったことがある。年末の博士論文の追い込みの大晦日か小晦日で,生協食堂もしまっているときの昼食だった。味は申し分なかったし,場所もそれなりだと思ったが,残念ながらあっという間に閉店してしまった。それからは,もう鈍春を訪れることもなくなっていた。
なお,阪大生協図書館下食堂のきつねうどんは1972年には30円で,その後50円になった。これも毎日のように食べていたけれども,まったく飽きずに食欲を満たしてくれた。
[1]蛍池駅周辺スレッド・うどんのうまい店(2002年にはまだ店は営業していたようだ)
[2]お手軽料理 うどんグラタン(新・さったんの独り言)
2020年12月2日水曜日
AlphaFold2(1)
twitter界隈では,AlphaFold2が騒ぎになっている。タンパク質の立体構造を求める競技でこれまでの手法から飛び抜けた成果を得る深層学習の方法が考案されたということらしいが,専門外の自乗なのでよくわからない。田口善弘さんが相当に凄いといってるのでたぶんそうなのだろうと思う。
タンパク質の立体構造というとDNAの立体構造と並んで,X線結晶解析の応用分野の花形だったような気がする。教養の化学の授業担当が,阪大の吹田にあった蛋白質研究所(1958-)助教授の芦田玉一先生(後に名大工学部)で,デュワーの「新しい化学入門」が教科書だった。この教科書は量子力学の成果をフルに生かした化学の教科書であり,物理学科の我々にはふさわしいものだったかもしれない。
五月祭のときだったろうか,何かのきっかけで,芦田先生にお願いして物理学科の数名でタンパク質研究所を見学させてもらった。たぶん,佐藤秀明くんが言い出しっぺで,みんなでそれに便乗したのではなかったか。日本で初めて構造が決定されたタンパク質であるカツオ・チトクロームCの立体構造模型を見せていただいた。秀明くんは,英語の藤井治彦先生の授業でも,ジェームズ・ワトソンの「二重らせん」をテキストにできないかという交渉をしていたのだけれど,こちらは残念ながら却下されたのであった。