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2024年2月23日金曜日

お水おくり

東大寺修二会からの続き

東大寺二月堂修二会のお水取りは3月12日の深夜に行われる。二月堂前の若狭井(閼伽井)という井戸から観音菩薩にお供えする「お香水」を汲み上げる儀式である。

この「お香水」は若狭国から10日かけて地下を通って若狭井へ届くという伝説がある。福井県小浜市の若狭神宮寺では毎年3月2日に若狭井へ水を送る「お水おくり」の神事が行われている。

若狭井というのは聞いたことがあったけれど,小浜で「お水おくり」しているというところまで考えが及ばなかった。写真をみるとばかなり本格的な神事が行われていた。


写真:3月2日に行われる「お水おくり」(おばまナビから引用)

[1]「若狭井」から香水をくみ二月堂本尊にお供え(読売新聞オンライン)
[2]二月堂の謎の井戸「若狭井」(東大寺・御朱印)
[3]お水おくり(おばまナビ)

2024年2月22日木曜日

東大寺修二会

工場跡事務室からの続き

工場跡事務室の前の道路をそのまま東にまっすぐ進むと,奈良公園管理事務所を左手に見ながら,東大寺の大仏殿の裏を通り過ぎて,東大寺の二月堂まで十分弱で到着する。石畳の階段をたらたらと上ると二月堂の入り口だ。


写真:修二会(お水取り)のお松明(撮影 2024.02.18)

入り口の前の広場には,3月1日から始まる修二会で使われるお松明の長い竹が並べられていた。寄進者の名前などが書かれている。二月堂の階段を上がると,ニュースでよくみる練行衆がお松明を持って走り回る回廊に至る。東大寺の修二会は,お水取りの3月12日ではない平日に一度だけ見に来たことがあった。冷え込んだ夜だったような気がするが,今日は暖かい。

帰宅してテレビをつけると,東大寺修二会の油量りの行事のニュースがあった。修業中にともす燈油を計量する行事だ。3つの桶に合計63Lの専用の油が量り取られていたけれど,お松明の火もこれで点火するのだろうか。この燈油を納めているのが,愛知県岡崎市の太田油脂株式会社で,宮内庁・伊勢神宮・東大寺御用達,日本の灯り お灯明油「和灯(わあかり)」というものらしい。過去の写真では一斗缶5缶(72L)が並べられていた

お松明に使われる竹は京田辺市の講社などから納められる。その真竹は長さ7m,太さ10cm,重さ40kg程度である。毎日10本,3月12日だけ11本使われる。ChatGPTやGeminiに尋ねてみても正しい答えは得られない。

[2]<お水取り>「お松明」用 二月堂へ直進(読売新聞オンライン)
[3]修二会(東大寺二月堂お水取り)(奈良観光通信)
[4]東大寺二月堂のお水取り、修二会(しゅにえ)(東京木材問屋協同組合)



2023年11月12日日曜日

奈良の神社寺院

融通念仏宗からの続き

散歩の犬棒で思い出したが,うちの近所の寺には融通念仏宗が多いような気がする。早速,調べてみよう。日本の神社・寺院検索サイト「八百万の神」という,センスのよい有難い場所がある。誰が運営しているかというと,株式会社 INFO UNITE というあまり聴いたことのない会社だった。とりあえずなんとなくニュートラルな印象で,他にも日本の住所というデータベースを運営している。なんなのだろうか。

その結果を以下に整理した。まず。奈良県の神社・寺院数を市町村別に見たベスト7だ。五條とか宇陀などがかつては相対的に栄えていたのかもしれない。
奈良市   396   12%
五條市   238   7%
宇陀市   229   7%
橿原市   214   7%
大和郡山市 193   6%
桜井市   156   5%
天理市   155   5%
その他   1602  50%
また,神道の系列別のベスト7は次のようになる。八王子神社も散歩でよく見かける。
春日系列  146  20%
八幡系列  139  19%
祇園系列  83  11%
天神系列  81  11%
八王子系列 39  5%
伊勢系列  35  5%
稲荷系列  24  3%
その他   188  26%
問題の仏教の宗派別のベスト7は次のとおりで,融通念仏宗は第3位,奈良県ではけっこう存在感を示していた。
浄土真宗本願寺派 424  24%
浄土宗      318  18%
融通念仏宗    205  11%
高野山真言宗   164  9%
真宗大谷派    100  6%
曹洞宗      74  4%
真宗興正派    67  4%
その他      441  25%
なお,天理市には融通念仏宗の寺が25あった。なるほど近所でよく見かけるわけだ。


写真:融通念仏宗本山は大阪市平野区の大念彿寺(Wikipediaから引用)

2023年11月11日土曜日

融通念仏宗

朝の散歩でたまに珍しいものに出会う。犬も歩けば棒に当たる

11月8日の水曜日,北東に向って天理喜殿町セブンイレブンまで往復の散歩。ひまわり保育園の近くの八幡神社の向いに融通念仏宗大念仏寺の大きめののマイクロバスが停まっていた。中には運転手だけが待っている。こんな朝早くから法事でもあるまいし?そのまま北東に向かった。

帰り道,どこかから鉦の音が響いてくる。やっぱり法事なのだろうか。しかし,あいかわらずマイクロバスは空のままだ。さらに進むと,止んだと思った鉦の音が大きくなってきた。そちらの方をみると遠くに黒衣の坊さんが歩いているようだ。そのあたりには確か墓地があるが,そこに向かって田んぼの中のあぜ道を5人ばかりが鉦を鳴らしながら進んでいた。

うーん,これはいったい何だろう。本当にあのマイクロバスと関係があるのか。あのなんの変哲もない田んぼの中の小さな墓地に一体何があるのだろうか。謎は謎をよぶばかりだ。

かくして,人間は僅かな情報から,これらを結びつける説明や物語を紡ぎ出そうとする。


写真:鉦の音のなる方向に見えたのは(撮影 2023.11.08)

[1]融通念仏縁起絵巻(Wikipedia)
[2]融通念仏縁起絵巻(クリーブランド美術館)
[3]融通念仏縁起絵巻(シカゴ美術館)


2022年10月17日月曜日

亀趺

朝の散歩で,Googleマップを眺めていたら前栽のあたりの名所旧跡マークで「(きふ)」というのがでてきた。さっそくいってみた。

前栽駅の北東徒歩7分にある黄檗宗の雲井寺といっても,無人の小さなお堂とお稲荷さんなどがあるだけだ。その一角に亀趺がある。雲井寺の地蔵堂というのが前栽駅前にあり,こちらの方は前をよく通るのでお馴染だった。

亀趺というのは石碑の台石の一種で,大亀の形をしている。これは実は亀ではなく,龍の九子の一つで龍になれなかった「贔屓(ひいき)」という想像上の霊獣だ。贔屓は「一生懸命努力して力を出すさま」を意味するとされた。やがて「特別に便宜を図ったり,力添えをする」という今の意味に転じた。

亀趺はもともと中国の貴族階級の風習だったが,江戸時代に日本でも取り入れられた。日本の亀趺(平勢隆郎)によれば,大名家の墓や神格の顕彰に用いられるようだが,なぜ,前栽の小さな寺にあったのだろう。

亀趺の上の碑の三面に銘文があったので,解読を試みたが,花崗岩が風化しているので,ちょっと全部はわからなかった(たぶん15%くらいは誤りかもしれない)。とくに第三面はほとんどだめだったので二面分だけ。

建立放蕩納妙連経
毎冩一字一華一香
合唱三拝喜捨一銭
皆成彿道以此功徳

八彿出世寺受授記
多宝證明韻言善哉
修瑜枷地右縁無縁
共雪昔雲財法二也


写真:天理前栽雲井寺の亀趺(2022.9.26撮影)

[1]亀趺を持つ石碑の系譜(藤井正直)
[2]亀趺を持つ石碑の系譜(二)(藤井正直)
[3]亀趺を持つ石碑の系譜(三)(藤井正直)
[4]日本近世の亀趺碑(平勢隆郎)
[5]日本近世の亀趺碑−その続(平勢隆郎)
[6]ひかり拓本(奈良文化財研究所)

2022年7月21日木曜日

教行信証

親鸞(1173-1263)の著作であり,全六巻からなる「顕浄土真実教行証文類」は,浄土真宗の根本経典であり,教行信証と略称されている。

これを調べたのは,藤場俊基(1954-)師(石川県野々市市常讃寺住職)の論文に,顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるいというキーワードがあり,何か特別な難しいことを研究しているのかと気になったからだ。よくみると教行信証のことであり(聞いたことがない固有名詞から,名前はよく目にする言葉に変わった),特殊な内容ではなくて浄土真宗のど真ん中ストライクの話だった。

そもそも,なぜ藤場俊基師かといえば,彼はたぶん金沢泉丘高等学校の1年後輩で同じE. S. S. に所属していた藤場君(たぶん)だからなのです。藤場君は白峰村の出身で,ぽっちゃりして笑顔が似合う好男子だった。ネクラで人見知りしがちの自分とは違って,大変社交的であり,英語劇では半ズボンに帽子姿で,高橋裕之君のつくった木枠のとりもちにひっかかる役をしていた。

藤場君は,文系で早稲田の政経に進んだはずだ。明石書店の略歴によれば,早稲田を出て三和銀行に勤めた後に,大谷大学の大学院博士課程に進んでおり,いまでは真宗関係の著書も数ある有名人だった。YouTubeにも講演がいくつかあり,よくよく見れば面影が少し残っているような気がする。
総序:顕浄土真実教行証文類序
教巻:顕浄土真実教文類一
行巻:顕浄土真実行文類二・・・巻末に偈頌(げじゅ)「正信念仏偈(正信偈)」
別序:顕浄土真実信文類序(類三の前)
信巻:別序+顕浄土真実信文類三
証巻:顕浄土真実証文類四
真仏土巻:顕浄土真仏土文類五
化身土巻:顕浄土方便化身土文類六(本+巻末・後序)

P. S. 正信偈は,法事(真宗大谷派)の際に,毎度唱和しているので,教行信証とは実はおなじみだったのだ。

[1]関係における意味としての「仏陀」 -「教巻」に顕れる親鸞の仏陀観と真実の教の決定-(藤場俊基)
[2]『末法灯明記』の引用と親鸞(前)(藤場俊基)

2022年6月29日水曜日

信貴山朝護孫子寺

摂州合邦辻からの続き

今年は寅年なので,信貴山朝護孫子寺に注目が集まっているはずだ。信貴山登るなら今年がいいねということで,自宅から西に15km,車で30分のところにある信貴山寺に行ってきた。

実は,これは初めてではなくて2回目である。1回目は大学2年のゴールデンウィークだった。八尾(志紀)の柳田さんの家にお泊まりで行ったメンバーは誰だったか,楠本さんの他,藤原さんもいたかなあ。講義ノートを販売する作戦の倫理的問題について議論が巡らされたときだ。

次の日に恩智駅からいけば近いよということで,楠本君と二人で信貴山に上ることになった。信貴山寺は,恩智駅からほぼ東に5kmにある。Googleマップで道を確認して見たがみあたらない。しかし,ちゃんとハイキングコースがあって,2-3時間ほど歩くと迷わずにお寺まで到達できた。そのころにも大きな寅があったのだろうか,全く印象には残っていない。

さて,今回は,入り口の大寅(電動らしい)で記念撮影したあと,成福院,玉蔵院,本堂(戒壇巡り),千手院とまわったが,信貴山観光センターも霊宝館も臨時休業で,信貴山縁起絵巻(複製)も拝観できなかった。境内の電気工事のせいだ。戒壇巡りもコーナーの非常灯が消灯しているので,気をつけるように注意された。

本堂拝観の後,時間が余ったので信貴山城趾まで登ることにする。出発点から頂上まで560m20分と書いてあるけれど,両手に竹杖の高齢者夫婦にはその倍の時間がかかってフラフラになる。残念ながら力尽きて松永屋敷跡まではたどり着けなかった。

587年7月3日,聖徳太子が物部守屋を討伐したのを機に創建し,毘沙門天=多聞天を本尊とする信貴山寺だが,境内は鳥居だらけだった。真言宗でも高野山とはちょっと空気が違う。毘沙門天が戦いの神になったのは,仏教に取り込まれた後であり,そもそもは,「五穀豊穣,商売繁盛,家内安全,長命長寿,立身出世」という現世利益を授ける七福神の一柱なので,信貴山寺の売り出し方は本来の姿なのだろう。



写真:信貴山朝護孫子寺(撮影 2022.6.28)

[1]志貴山縁起上(国立国会図書館デジタルコレクション)
[2]志貴山縁起中(国立国会図書館デジタルコレクション) 
[3]志貴山縁起下(国立国会図書館デジタルコレクション)

2021年11月6日土曜日

白骨の御文

本願寺第八代の 蓮如上人(1415-1499)が,布教のために教義を手紙の形で書いたものが御文(御文章)である。小学校6年の修学旅行は東尋坊へのバス旅行だった。その途中で蓮如の北陸布教の中心地であった吉崎御坊に立ち寄っている。金沢も浄土真宗(一向宗)の重要な活動地域の一つだったので,蓮如に関わる事跡には事欠かない。

さて,法事では,終盤に御文の中でも有名な白骨の御文を読み上げられることが多い。なんだかよくわからないお経(阿弥陀経,無量寿経,観無量寿経)や正信偈の後にこれが来ると,何回も耳にしているうちになんとなく意味というか雰囲気がわかってくる。

真宗大谷派では,以下のような文節の区切りの最後の一字を下げて読み上げることになっていた(浄土真宗本願寺派の御文章のyoutubeを見るとやはりちょっと違うようだ)。

夫(それ),人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに↓,おほよそ,はかなきものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)↓,まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり↓。

さればいまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)ノうけたりとゆう事をきかず↓。一生すぎやすし↓。いまにいたツてたれか百年の形躰(ぎょうたい)をたもつべきや↓。我やさき人やさき↓,きょうともしらずあすともしらず↓,おくれさきだつ人は↓,もとのしずく,すえの露よりもしげしといえり↓。

されば朝(あした)には紅顔あツて↓夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり↓。すでに,無常の風きたりぬれば↓,すなわちふたつのまなこたちまちにとじ↓,ひとつのいきながくたえぬれば↓,紅顔むなしく変じて↓,桃李(とうり)のよそおいをうしないぬるときは↓,六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまツてなげきかなしめども↓,更にその甲斐あるべからず↓。

さてしもあるべき事ならねばとて↓,野外(やがい)に送ツて夜半(よわ)のけむりとなしはてぬれば↓,ただ白骨のみぞのこれり↓。あわれといふも中々おろかなり↓。されば,人間のはかなき事は↓,老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば↓,たれの人も早く後生(ごしょう)の一大事を心にかけて↓,阿弥陀佛トふかくたのみまいらせて↓,念彿もうすべきーものなり。 あなかしこ,あなかしこ。

2021年4月8日木曜日

高野山町石道

 町石道(ちょういしみち)は,和歌山県九度山町(くどやまちょう)の慈尊院から高野山までの参詣道である。弘法大師が母のいる慈尊院に月に九度通ったことから九度山の名前が付いたということだけれど,往復に丸一日費やすことになりそうで,他の仕事に差し支えるのではないかと思う。

町石というのは一町(109m)ごとに置かれた道標のことであり,根本大塔から慈尊院までの22kmの道のりに180基,根本大塔から奥之院の弘法大師御廟まで4kmで36基と,あわせて216基あるとのこと。ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部を構成している。慈尊院から高野山までは6-7時間のコースだとのこと。

高野山町石道の途中に丹生都比売神社がある。空海の高野山開創の伝説を構成する紀伊國一宮なので,ちょっと期待していたのだけれど,周辺にへび出没注意の看板があるくらいで一般参詣者には見所もなく残念だった。せめて,弘法大師を高野山に案内した犬の子孫?の二匹の神犬を見ることができれば良かったのだけれど,公開日ではなかったのだ。



写真:慈尊院と丹生都比売神社(撮影:2021.4.7)


2021年4月7日水曜日

奥之院参道

 高野山の奥之院参道は,一の橋から弘法大師の御廟がある奥之院まで北西に2 km続いている。,杉木立の中に墓所や供養塔,慰霊碑などが20万基あまり並んでいる。織田信長,明智光秀,石田光成などの戦国大名や豊臣家,前田家などの大名家と,主に関西系の企業,パナソニック,クボタ,住友,南海,江崎グリコなどに普通の個人の墓が時間と空間を超えて入り混じる不思議な空間だった。

一の橋,中の橋をすぎて,休憩所の先の御廟ノ橋を渡ると撮影禁止の聖域に入る。高野山大学の新入生らしき一団が研修のためなのか,教員(僧侶)に引率されて奥之院についての説明を受けながら回っていたので,その後についていった。弘法大師の御廟に向かって般若心経の斉唱が始まったので,大人しく聞きながらお参りしていました。


写真:高野山奥之院参道(2021.4.6撮影)




2021年3月26日金曜日

宇宙寺院

お彼岸の正信偈の唱和の後で,いつものように住職のお話が始まった。彼は大変活動的な方で話題も豊富である。で,宇宙寺院の話が出てきた。調べてみると,醍醐寺が2023年に浄天院劫蘊寺という名前で人工衛星を打ち上げるらしい。なかなか画期的な話である。宇宙条約でも南極条約でも,軍事利用は禁止されているが,宗教利用についての言及はなさそうだ。

醍醐寺は真言宗なので,ご本尊の大日如来は宇宙と親和性が高い。これが浄土真宗になるとちょっと微妙らしい。阿弥陀様は西方浄土にいらっしゃるが,宇宙に出るとどちらを向いて仰ぐことになるのかウロウロしそうである。

各宗派がどんどん人工衛星を打ち上げて宇宙からお経やらコーランやら聖書の福音が降り注ぐのはどうかと思うが,すでにインターネット上では似たような状況になっているので,どうということはないかもしれない。それよりも,月基地や火星旅行で人が死んだ時の宗教的な取り扱いがややこしそうであった。

2021年2月26日金曜日

六十六(2)

 令制国の六十六カ国に関連するものとして,六十六部(六部)がある。よりていねいにいえば,六十六部廻国聖。人々の喜捨を受けながら六十六令制国を廻り,各地の有力社寺(一之宮,国分寺,その他)に写経した法華経を奉納する民間宗教者だ。中世からはじまり,明治政府が1871年(明治4年)に平民が六十六部と称して米銭などの施しを乞う行為を一切禁止するまで続いた。現在の御朱印の起源とも考えられているのか。

娘夫婦が以前住んでいた千葉県流山市には六部廻国の記念石塔である六部尊があった。

[1]近世六十六部廻国聖日記 ―安房国長狭郡平塚村高梨吉左衛門の記録から ―

[2]六十六部廻国とその巡礼地(小嶋博巳)

[3]「六十六部」とは何か(徳島県立博物館)

[4]御朱印の起源 ―六十六部(古今御朱印研究室)

[5]日本廻国六十六部と四国遍路 ―浄慶の納経帳から ―(稲田道彦)

[6]近世末期、御室配下の六十六部集団について (小嶋博巳)

[7]明治初年の六十六部の本山問題(小嶋博巳)

2020年9月19日土曜日

お彼岸

 Wikipediaによれば,彼岸は日本の雑節の1つで春分秋分の日を中日とする七日間ということである。今年2020年の秋分の日は秋の四連休の最終日である9月22日火曜日なので,9月19日が彼岸の入りになる。中日は先祖に感謝し,残りの6日で六波羅蜜を修めなければならないのでたいへんだ。ほぼ67年間生きてきたので134セットとりこぼしつづけている。

  1. 布施(檀那,だんな)与えること施すこと。財物を施すこと(財施),教えを施すこと(法施),安心を与えること(無畏施)の三種。
  2. 持戒(尸羅,しら)戒律を守ること。
  3. 忍辱(羼提,せんだい)苦難や迫害に堪え忍ぶこと。
  4. 精進(毘梨耶,びりや)実践にたゆまず努力すること。
  5. 禅定(禅那,ぜんな)瞑想により精神統一すること。
  6. 智慧(慧,え)真理をみきわめ悟ること。
1969年11月号のSFマガジンはちょうど51年前のお彼岸頃にとどき,マレイ・ラインスターの中編「彼岸世界(前編)」が訳出されていた。タイトルは印象深かったので記憶に残っているが,ストーリーはまったく憶えていない。なお英語では"The Other World(1949)"というタイトルであり,"6 Great Short Novels of Science Fiction(1954)"にも取り上げられているくらいなので,それほど駄作ということではないかと思われる。
1. "The Blast" by Stuart Cloete (from Colliers, April 1947)
2. "Coventry" by Robert A. Heinlein (from Astounding, July 1940)
3. "The Other World" by Murray Leinster (from Startling Stories, November 1949)
4. "Barrier" by Anthony Boucher (from Astounding, September 1942)
5. "Surface Tension" by James Blish (from Galaxy, August 1952)
6. "Maturity" by Theodore Sturgeon (from Astounding, February 




2020年8月22日土曜日

福井大仏

福井大仏は,足羽川にかかる九十九橋を北に5分くらいの光照寺にある。もともとは朝倉氏の一乗谷にあった石仏が,江戸時代に現在地あたりの天台宗光照寺に移されたものだ。これが,1945年の福井空襲や1948年の福井地震で損壊したものを,1958年に金銅製の大仏として再建したものらしい。座高は7mで,胎内に一千余年前の弘法大師の自作と言い伝えられる伽羅木の聖観音像を持っているようだが,これは見られなかった。

なお,座高17mの屋内仏である越前大仏が勝山市にある。いろいろややこしい経緯を経ているのをテレビでも放映していた。いまも拝観できるのだろうか。なお,東大寺の大仏は座高15mなので,これより2mも大きなものだ。勝山の福井県立恐竜博物館恐竜渓谷ふくい勝山ジオパークに行く機会があれば立ち寄ろうか。


写真:福井大仏(2020.8.14)


2020年8月17日月曜日

永平寺

永平寺は福井駅から東にクルマで 30分ぐらいの山中にある。永平寺門前の新しい宿をチェックアウトして土産物屋が並ぶ道をたらたらと上がっていくと右手に寺の入口がある。境内は巨木と苔の絨毯に覆われており,今夏は観光客も少ない。山門をくぐって外から拝観するのかと思っていたらそうではなく,参禅者向けの宿泊施設でもある吉祥閣に誘導された。中に入ってしばらく待っていると,雲水による5分くらいの拝観順案内があって建物の上階に向う。このあたりの雰囲気は天理教の施設内と少し似ている。ここから絵天井のある傘松閣を経由して,僧堂・仏殿・承陽殿・法堂・大庫院・山門と回った。たくさん居るはずの修行僧はどこにいあるのか,写真撮影は禁じられていたけれども,それほど目にすることもなかった。これまでにいろいろと拝観したお寺の中では最も規模が大きいものの一つだろうか。あ,土産物屋のボリュウムも含めれば,モンサンミシェルには負けるかも。その後,てらまえで昼食をとって福井駅に向う。


写真:永平寺境内(2020.8.15)


2020年7月13日月曜日

七佛通戒偈

橘寺で改修を待っているお堂にはいると,写経コーナーがあった。般若心経ほどの分量はない,七佛通戒偈(しちぶつかいのげ)という非常に簡単なものだった。薄く印刷してあるところを筆ペンでなぞるだけなのである。1枚500円で,自分の祈願項目(四文字)を添えられるので,「世界平和」にした。

 諸悪莫作 ・ 諸善奉行 ・ 自浄其意 ・ 是諸仏教 ・ 南無観世音菩薩
  しょあくまくさ ・ しょぜんぶぎょう ・ じじょうごい ・ ぜしょぶっきょう

意味は,法句経の183にある,「ありとある 悪を作(な)さず ありとある 善きことは
身をもって行い おのれのこころを きよめんこそ 諸仏(ほとけ)のみ教えなり」ということらしい。

なお,七仏とは過去七仏と云われるもので,毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のことだとか。


写真:橘寺の簡易写経,七佛通戒偈(撮影 2020.7.12)



2020年1月19日日曜日

科学者の墓

京都の八坂神社円山公園の南に,親鸞聖人の墓所(東本願寺)がある大谷祖廟とそれに隣接する東大谷墓地が続いている。朝永振一郎の墓もその一角にある。湯川秀樹の墓は知恩院の裏山らしい仁科芳雄の墓は東京都府中市の多摩霊園だが,その横にも朝永振一郎の墓碑があるようだ。

[1]科学者の墓(世界恩人巡礼大写真館)
[2]物理学者の墓を訪ねる(山口栄一)
[3]科学者の魂を探して(日経xTECH)
   自由な研究風土が開いた物理学大国への道
   日本の物理学と技術イノベーションのルーツ
[4]ウエストミンスター寺院(ロンドン)
[5]パンテオン(パリ)
[6]ヴァルハラ神殿
[7]ガリレオの墓(全優石)
[8]ドイツの切手に現れた技術者科学者たち(関東化学)
   (2)グーテンベルグ
   (3)コペルニクス
   (5)ケプラー
   (6)ゲーリケ
   (8)ライプニッツ
   (9)オイラー
  (10)カント
  (14)ガウス
  (21)フラウンホーへル
  (22)キルヒホッフ
  (24)ヘルムホルツ
  (25)レントゲン
  (26)ツァイス・アッベ・ショット
  (29)ハーン
  (31)プランク
  (34)アインシュタイン



(写真:東大谷墓地にて 2020.1.18撮影)

2019年11月15日金曜日

東大寺七重塔

奈良東大寺の創建当時,東西に七重塔があったようだ。最近の東塔の発掘調査でも東塔を囲む回廊の東門の跡が見つかっている。塔の高さは70mとも100mともいわれており,東大寺はその再建を目標としているとのこと。ほんとですか。

日本で一番高い木造の塔は,54.8mの東寺の五重の塔だ。世界で一番高い木造建築物は,58.5mのカナダのブリティッシュコロンビア大学の学生寮だ。70mとか100mは可能なのだろうか?建築基準法上は燃えなければ可能みたい

その東大寺の七重塔は,1970年の大阪万博の際に古河グループの古河パビリオンとして復元されたことがある。ただしこれは木造ではなくプレハブ構造で1年で作ったようだ。その際に作られた七重塔相輪のレプリカは,東大寺大仏殿の横に設置されている。

金沢から大阪まで,雷鳥の臨時特急に乗って万博に行ったのは高校2年の夏休みだった。が,古河パビリオンにはあまり印象がない。岡本太郎のデザインで,小松左京のコンセプトによる内部展示を楽しみにしていただけにちょっと期待外れだった70mの太陽の塔には登ったけれど。


2019年11月9日土曜日

興福院特別公開

奈良市法蓮町の興福院(こんぶいん)は奈良時代に創建された浄土宗知恩院派の鄙びた尼寺だ。奈良高校の裏手辺りの佐保山の丘陵地に立地し,本堂からは奈良の町並みが一望できる。普段は一般公開されていないのだが,今年20年ぶりの特別公開が行われ,予約無しで拝観することができた。秋晴れの日に参詣客がそぞろ訪れていたが,さすがにここまでは外国人観光客が到達していない模様。

国重要文化財の客殿には,襖絵や袱紗などが展示されていた。雨ざらしになりそうな渡り廊下の階段を登って,足を踏み抜きそうな橋部を慎重に踏み渡っていくと本殿に至る。本殿にあるご本尊は,国重要文化財である天平時代の阿弥陀三尊像だ。木心乾漆阿弥陀如来の印相は珍しい中品下生のもので,両脇侍は観音菩薩と勢至菩薩。庭も美しく手入れされており,くちなしの若芽が養生中だった。


写真:興福院の大門と本堂(2019.11.08撮影)


2019年11月5日火曜日

南円堂と北円堂

家人に勧められて,興福寺国宝特別公開【南円堂,北円堂】に行った。秋晴れの爽やかな朝,すでに30人ほどが興福寺に設置された特別展の ticket counter に並んでいた。重要文化財南円堂では,東向きの国宝木造不空羂索観音菩薩座像(康慶作)のまわりに国宝木造四天王立像(康慶作)が多聞天(北東)持国天(南東)増長天(南西)広目天(北西)と囲んでおり,本尊の左手と右手の脇に国宝木造法相六祖座像(康慶作)が玄賓,行賀,常騰と玄昉,善集,神叡が据えてあった。南円堂よりひとまわり小さな国宝北円堂には国宝木造弥勒如来座像(運慶作)の背後に国宝木造無著菩薩立像と世親菩薩立像(運慶作)が,脇の左右に法苑林菩薩と大妙相菩薩が,そして国宝木心乾漆造四天王立像が囲んでいる。

運慶の無著菩薩は前回見たときは凄い印象があったが今回は弥勒如来ともども,康慶の迫力に負けてしまった。南円堂は何周もして四天王像の特徴を観察した。両足の上げ方や火焔光背の炎の向きの対称性,両手に持つ武具と宝物,衣装や兜,体型などすべてが緻密に計算されて形造られて本尊の周りを囲んでいた。一般に,四天王は持国天(東)増長天(南)広目天(西)多聞天(北)とそれぞれの守護範囲が決まっているのだが,本尊の向きとこの四方を護持する関係で実際の方位は異なる場合もあるようだ(見張りのお坊さんに尋ねてみた応答からの推測)。

その後,再建された中金堂にも回ってみたが,こちらは着飾った新婚外国人カップルがプロカメラマンを従えて中金堂を背景に記念スチール写真の撮影会をやっているような状況で,これはこれで大変雰囲気にマッチしていたが,中に収められた江戸時代の釈迦如来座像などは今一つだった。国宝木造四天王立像や重要文化財薬王・薬上菩薩立像なども再建された中金堂の空間の雰囲気になじめず,残念な状況だった。


写真:南円堂と北円堂(撮影 2019.11.05)