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2024年5月29日水曜日

一乗谷朝倉氏遺跡博物館

渦潮からの続き

ファミリーツアーの宿泊地は休暇村ということでスタートした。南紀勝浦→伊良湖→讃岐五色台→近江八幡→竹野海岸→コロナ→コロナ→紀州加太→南淡路→越前三国と10年を迎えた。近畿地方の休暇村(京都,大阪,奈良にはない)はオールクリア。

2020年のコロナの年,一段落した夏休みに全国旅行支援のGo To トラベル事業が始まった。そこで,里帰りや盆休みの娘たちの予定を編み込み家族で福井県をまわった。夏の暑い日の一乗谷の朝倉氏遺跡は夫婦だけで訪ねたが,足羽川沿いの道路の北にある資料館はパスした。この度,新しい一乗谷朝倉氏遺跡博物館として,道路の南側にオープンしていた。

新しい博物館は,体験型の展示物や,朝倉館原寸再現や,発掘遺構展示などが組み合わされたとても見ごたえのあるものだった。建物の設計は,東京大学名誉教授の内藤廣であり,隣の年縞博物館も設計している。去年の夏に訪れた高知県立牧野植物園の牧野富太郎記念館もそうだった。島根県芸術文化センターはNHKの番組で特集されていた。


写真:牧野富太郎記念館(左上)・島根県芸術文化センター(右上)
  年縞博物館(左下)・一乗谷朝倉氏遺跡博物館(右下)


2024年5月8日水曜日

あのベンチ

琵琶湖東岸のさざなみ街道を南下し,彦根市街地を通りすぎてしばらくいくと「あのベンチ」がある。

NHKのドキュメント72時間で取上げられた回も見逃していて,予備知識ゼロだった。ゴールデンウィークの最終日は曇天で,そろそろ雨が降りそうな空模様だ。さぞや混んでいるだろうと到着すると,誰もいない小さなベンチが栴檀の木の前に琵琶湖を向いてポツンと置かれている。

そうこうしているうちに,車やバイクがどんどんやってきて,またあっという間に去っていく。ここは,誰もいない時間を選んで1人でぼんやりと長時間すわっているための場所なのである。観光名所ではありません。


写真:情緒ゼロのアングルから見たあのベンチ(撮影 2024.5.6)

2023年5月24日水曜日

渦潮

友ヶ島からの続き

昨年は友ヶ島に渡ったファミリーツアー。今年の目的地の一つは鳴門の渦潮だった。

徳島県鳴門市と淡路島の間の鳴門海峡で発生する渦潮だ。よくある写真のイメージのような大きな渦がひとところで持続しているものかと思っていたら,さにあらず。どちらかといえばカルマン渦のような雰囲気だ。ただ,障害物にあたって左右に別れてできる渦とはちょっと違っていて(橋脚や浅瀬を原因とするものもあるかもしれないが),説明によれば海峡中央部の速い流れと周辺部の遅い流れの速度差が原因のように書いてある。渦の寿命は長くても10秒程度とのことだった。

土曜日は大鳴門橋(1976=1985->)に設置された渦の道(海上45m)という遊歩道+展望台から渦潮を観察した。これは新幹線を通す予定がなくなってしまったので,用途転換したのかと思っていたが,そもそも明石海峡大橋(1988=1998->)が道路単独橋として建設された段階で,新幹線の芽は摘まれていたのだった。そのため鉄道は瀬戸大橋(1978=1988->)を経由することになった。

そうか,阪神淡路大震災(1995.1.17)のときは明石海峡大橋は建設途上だったのか。神戸側と淡路島側の両主塔はできあがって,ストランドとよばれる鋼線も張り終えられていた。その3990mの橋の全長が地震による地盤の変位で1m伸び3991mになった。1mあたり,0.25mmのズレということになる。

橋ではなくて,渦の話だった。これがなかなか難しい。たぶん都会で流れ星を探すときのように忍耐強く綺麗な渦ができるのを待つ必要がある。船からだと近くて迫力もあるのだけれど,角度がちょっと足りない。船から空中ドローンと水中ドローンを飛ばしてその画像と併用したらどうかな。


写真:渦のつもり(2023.5.21撮影)

2022年7月5日火曜日

てらまちや風心庵

 日経朝刊の文化欄をみていたら,「かなざわ風鈴」という言葉が目に入った。著者は金沢工業大学の土田義郎先生で,環境心理,サウンドスケープの専門家だ。音が出る玩具や雑貨の収集をはじめていたが,2013年に正方形の紙を組み合わせたかなざわ風鈴を考案した。

2017年には,寺町の町家再生プロジェクトの一環として,古民家を再生したゲストハウス「てらまちや風心庵」をオープンしており,そこで収集した風鈴が展示されている。地図でしらべると,昔,大叔父の越桐與三次郎さん(あじちのおじさん)が住んでいた家の近くだった。数年前に亡くなった母が入院していた石田病院からも近く,新規開店した中華料理屋に入ったが,その数軒となりだ。

1棟貸しで,1泊平日6400円~(5名利用の1名),休前日7949円~(5名利用の1名),風鈴制作・灯り制作1名1600円なのでなかなかリーズナブルかもしれない。


写真:かなざわ風鈴(金沢旅物語から引用)

2022年6月24日金曜日

沖縄「慰霊の日」

 6月23日は,沖縄戦(1945.3.26-1945.9.7)から77年目(ななじゅうしちねんめ)を迎える「慰霊の日」だった。NHKでは左手に情緒的で反戦的なエピソードを積み上げつつ,右手では"防衛費"の増額と憲法の"改正"があたかも既定路線であって,なんの問題もないかのような印象操作を続けている。

さて,6月23日という日付は,なんとなく,沖縄戦で米軍が勝ち日本軍が負けた日なのかと思いこんでいたが,そんな単純なことでもなかった。沖縄戦を戦った第32軍の司令官の牛島満(1887-1945)と参謀の長勇(1895-1945)が自決して,日本軍の組織的な戦闘ができなくなった日だった。降伏の手続きを経なかったので掃討戦は継続し,6月23日以降にも多くの人命が失われた。7月2日には,連合国軍が終了宣言を出したものの,降伏調印式が行われたのは9月7日だった。

昭和19年の沖縄の人口は59万人,昭和21年には51万人に減っている。沖縄県による沖縄戦戦没者の推計によれば,全戦没者20万人(平和の礎には24万人が刻まれる),軍人軍属9.4万,一般県民9.4万,米軍1.3万とある。沖縄出身の軍人軍属と県民を合わせれば,12.2万人であり,県民全体の1/4近くに達している。


1977年夏の米島君との沖縄旅行については少し書いた。民宿に一泊した次の日に,南部戦跡をめぐるバスツアーに参加した。途中で,日本軍の地下壕の跡に立ち寄ったのだが,それが,豊見城市の旧海軍指令壕だった。ここでも6月13日に海軍司令官の大田実が自決している。その後ひめゆりの塔に向かったはずだがあまりはっきりおぼえていない。

金沢の卯辰山には,殉難豊川女子挺身隊の像がある。高校相撲大会の応援のときに,それをみながら米島君が,日本でミュージカルをつくるならばテーマはひめゆりの塔だと力説していた。そのとき自分はピンと来ていなかったが,数年後にはいっしょに沖縄を訪れることになった。


写真:卯辰山の殉難乙女の像(朝日新聞から引用)

2022年6月21日火曜日

ギフテッド

 日曜の朝,親戚の一統さんからFacebook Messageが入っていた。姪の鈴木涼美芥川賞候補になったというのだ。自分からすると,鈴木涼美は祖父のいとこのひ孫にあたる(かなり遠い・・・)。

さっそく鈴木涼美を調べてみると,父が鈴木晶,母が灰島かりとあった。なんだ人違いじゃないのと思ったが,よくよく確かめると自分の知っている遠い親戚の本名に行き着いた。私の祖父である越桐弥太郎のいとこが越桐信で,その娘が鈴木千恵子さんだ。そのファミリーだった。

1965年,小学校6年の夏休み,家族全員で東京旅行するという企画がもちあがった。妹が小学校4年と1年のころ。父にどこに行きたいか聞かれて,東京タワーと国立科学博物館をあげた。寝台列車で東京に向かい,ひとあたり東京の街を回って,大田区にあった鈴木千恵子さんのお宅に泊めてもらう。千恵子さんには息子と娘がいて,中学生と小学生だった。その妹の部屋で本を見せてもらったが,雨月物語があった。お兄ちゃん(=鈴木晶)と話した記憶はあまりない。

日本橋の白木屋デパートで食べた天ぷらそばがおいしくてびっくりしたこと,千恵子さんが予定になかった後楽園遊園地にいっしょに行こうと提案してくれて,乗り物が楽しかったこと,科学博物館のミイラには驚いたが,時間が足りなくて全館回りきれなくて残念だったことなどなど。

千恵子さんが旅行で金沢に来て家に泊まっていったこともある。お兄ちゃんは勉強がよくできて,東大に入ったいう話だったが,今では,舞踊評論家,舞踊史家,翻訳家として多くの著作がある有名な先生だった。

なお,一統さんの母上の越桐三枝子さんは俳人だ。


写真:後楽園遊園地のジェットコースター(東京ドームから引用)
(ジェットコースターには乗ってなかったかもしれないが・・・)

P. S. (2023-3-22)
妹に確認したところ,千恵子さんに連れていってもらった銀座の風月堂で食べたポタージュが忘れられないということだった。そういえば,そんな場面もあったかもしれない。そこから国電で鈴木家に向かったのだが,お兄ちゃんだけ私鉄で帰り,どちらが先につくかと競争していたらしい。なお,白木屋の天ぷらそばも後楽園も憶えていないらしい。

2022年5月30日月曜日

友ヶ島

コロナ禍で中断していたファミリーツアーが再開したので,久々の旅行で紀州へ向かった。

目的地の一つが紀淡海峡にあり,和歌山と淡路島の間に位置する友ヶ島だ。明治22年(1889年)に大阪湾を防御するために,由良要塞の建設が始まった。日清戦争が明治27年(1894年),日露戦争が明治37年(1904年),その時代のことだ。

由良要塞は,淡路島の由良地区,友ヶ島地区(沖ノ島+虎島),紀伊半島の加太・深山地区から成り立ち,その後,四国の鳴門地区も編入された。このうちの,深山砲台群と友ヶ島砲台群を訪れた。友ヶ島はラピュタのイメージ島として宣伝されているが,現地ではそんな宣伝臭はあまりない。林の中の廃虚となったレンガ造の雰囲気や,砲台跡の地下の弾薬庫跡の暗闇などなかなかおもしろかった。

友ヶ島へは,加太港から友ヶ島汽船定期便が一日4往復の運行をしている。2隻の船(ともがしま号・友ヶ島V号)が片道20分ほどで加太と友ヶ島を行き来する。連休や土日はかなりの賑わいが戻ってきており,時間通りに乗船場にいくと2時間待ちなどざららしい。事前の予約システムはなく,現地の窓口でおばちゃんから物理的な整理券をもらって,並んだ順に切符が購入できる仕組みだ。

ところが,乗客が増えると時刻表はほとんど関係なくて,始発前に臨時便は出るは,臨機応変にピストン輸送モードに切り替わるは,そのアバウトさが大変素晴らしい。もちろん,紀伊水道の内側の大阪湾内とはいえ安全面の配慮は十分だと思われる。

近ごろは,なんでもかんでもネットでの予約システムを使うことになっている。人間の判断の余地を極限まで少なくして,機械に最適化を頼りながらフレキシビリティを追求するというのが流行りなのだ。自動車のナビや自動運転もその延長線上にある。しかし,友ヶ島汽船の古典的なおばちゃん力と船長の力強い柁捌きには一日の長があるように見えた。


写真:友ヶ島V号 定員48人(撮影 2022.5.29)

2020年8月21日金曜日

グリフィス記念館

 足羽川沿いの宿のすぐそばに福井市グリフィス記念館があった。ウィリアム・グリフィス(1843-1928)は,明治維新の頃,ラトガース大学で福井藩士の日下部太郎と出会ったのを契機に,1870年に来日して福井藩校の教師となる。この記念館は,その当時外国人教師のための居住用としていた建物を復元したものである。グリフィスはその後東京大学の前身である開成学校に移籍して,1875年にはアメリカ合衆国に帰国し,日本を紹介する「皇国(The Mikado's Empire)」を執筆する。亡くなる前年の1927年には日本を再訪し,福井でも大歓迎を受けた写真が展示されていた。


写真:福井市グリフィス記念館(2020.8.13)



2020年8月20日木曜日

気比神宮

福井県敦賀市にある 気比神宮は,越前国一宮の官幣大社。おとなりの加賀国一宮の白山比咩神社は国幣中社,能登国一宮の気多大社は国幣大社。気比神宮は畿内から北陸道への入口に位置しており,北陸道総鎮守として古代から重要な位置づけがされていた。

朱塗りの大鳥居を見逃してしまった。Wikipediaによれば,三大鳥居の定義も様々なので,まあいいことにする。敦賀赤レンガ倉庫まではいったが,肝腎の日本三大松原のひとつである気比松原も見逃した。これも次回にしよう。


写真:敦賀の地名の由来となった角鹿神社(2020.8.13)

2020年8月19日水曜日

一乗谷朝倉氏遺跡

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のせいで, 福井市の一乗谷朝倉氏遺跡への観光客は増えていたようだが,お盆休みの最中にもかかわらず新型コロナウイルス感染症のためにそこまで混雑してはいなかった。が,猛暑炎天下に影のない遺跡を歩き回ることになる。

福井市の中心を流れる足羽川を東に上ってクルマで30分ぐらいのところから南に向う支流の一乗谷川をはさんで南北に3kmにわたって一乗谷朝倉氏遺跡がひろがっている。手前の足羽川沿いには福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館があったがここはパス。当主の館や侍屋敷,寺院,職人や商人の町屋,庭園から道路に至るまで戦国時代の町並みのうち一部が再現されている。こちらは福井市が管理しているようだ。春や秋で行楽シーズンをずらして人が少ないときにゆっくりと散策するのがおすすめ。


写真:一乗谷朝倉氏遺跡当主館跡(2020.8.14)


2020年8月18日火曜日

かこさとし ふるさと絵本館

ならの大仏さま:かこさとし とつながる

かこさとし ふるさと絵本館「砳」(らく)は,彼の生地である福井県の越前市にあった。敦賀の気比神宮から雨とトンネルの8号線をくぐり抜けてなんとかたどりついた。来場者はほどんどいないが,検温とアルコール消毒ののち連絡先を記帳した。ここでは,かこさとしの作品が収蔵・展示されている。1階には,絵本や紙芝居を読める絵本の部屋,工作のできる遊びの部屋があり,2階には原画や複製原画が展示されていた。館外にはだるまちゃんの遊具などもあって,こじんまりしているがかこさとしファンにはたまらない場所である。近くの8番ラーメン武生店も繁盛していた。

写真:かこさとし ふるさと絵本館の駐車場辺り(2020.8.13)



2020年8月17日月曜日

永平寺

永平寺は福井駅から東にクルマで 30分ぐらいの山中にある。永平寺門前の新しい宿をチェックアウトして土産物屋が並ぶ道をたらたらと上がっていくと右手に寺の入口がある。境内は巨木と苔の絨毯に覆われており,今夏は観光客も少ない。山門をくぐって外から拝観するのかと思っていたらそうではなく,参禅者向けの宿泊施設でもある吉祥閣に誘導された。中に入ってしばらく待っていると,雲水による5分くらいの拝観順案内があって建物の上階に向う。このあたりの雰囲気は天理教の施設内と少し似ている。ここから絵天井のある傘松閣を経由して,僧堂・仏殿・承陽殿・法堂・大庫院・山門と回った。たくさん居るはずの修行僧はどこにいあるのか,写真撮影は禁じられていたけれども,それほど目にすることもなかった。これまでにいろいろと拝観したお寺の中では最も規模が大きいものの一つだろうか。あ,土産物屋のボリュウムも含めれば,モンサンミシェルには負けるかも。その後,てらまえで昼食をとって福井駅に向う。


写真:永平寺境内(2020.8.15)


2020年7月23日木曜日

カリーニングラード

欧州のSpotify利用可能国をみていたら,ポーランドの北でバルト三国との間に小さな空白地帯があった。あれ?こんなとこに国があったっけと,調べてみたらロシアの飛び地のカリーニングラード州であった。その主要都市はカリーニングラードで,そもそもはドイツ騎士団がつくった東プロイセンの中心都市であるケーニヒスベルクだった。そこは,カント,オイラー,ヒルベルトの出身地であり,あの一筆書きで有名なケーニヒスベルクの橋はここにある。


図 ケーニヒスベルクの橋(Wikipediaより引用)


2020年6月25日木曜日

セグウェイ

セグウェイが7月15日をもって生産中止されることになった。2001年に鳴り物入りで発表され注目を集めていたけれど,日本では公道を走れないし,あの価格だったのでまあ仕方がないのかもしれない。

最初にセグウェイに乗ったのは,2010年の夏休み,アラスカ州アンカレッジ市内のセグウェイツアーだった。次の日に日本に帰るということで,アンカレッジのホテル(ヒストリック・アンカレッジ)の近くを散策していたらセグウェイの市内ツアーを見かけた。はじめはスルーしたのが,やっぱり試してみようかということになってお店に戻ると,もう定員を締め切ったという。あす日本に帰るので,そこをなんとかとねばると,やさしいおじさんは2人を追加してくれた。

ヘルメットを借りて,近所の空き地まで行って,操作に慣れるためにしばらく練習したが,そんなに難しくはなかった。ツアー参加者は我々を含めて6〜8人くらいか。市内の普通の歩道や車道をゾロゾロと進むのである。アラスカ鉄道のアンカレッジ駅の向こう側を回るコースは小一時間くらいだったか。途中に公園,展望台,坂道などもある楽しいコースだったが,なんとか無事に出発点に帰り着いた。アンカレッジは人口30万弱で,そんなに混雑した街ではないとはいえ,面倒な規制でがちがちの日本と違って普通に市内を走れるのがすごいと思う。

その後,日本に帰ってしばらくした秋の日,明日香の高松塚記念公園辺りでセグウェイツアーがあるというのをどこかで見つけて,早速家族で申し込んだ。こちらの方も最初に少し練習をした後で,晴れた日の公園内をスルスルと列をなして進むのであった。最後の最後にバランスをくずしてしまって,全コースをクリアできなかったのが残念。

 

写真:アンカレッジ市内のセグウェイツアー(2010.8.30)


2019年10月31日木曜日

沖縄

沖縄に旅行したことが2回ある。

1度目は1977年に,神戸港から真鍋さんペアに見送られながら船で与論島へ向かう米島誠二君との二人旅。与論島に2泊した後の那覇は,沖縄返還後間もない時期で,到着した晩は食べたステーキはアメリカのように?安かった。船を降り,当日の宿泊先を決めていない我々のような旅行者に宿を案内する人が集まってきた。1500円でいいよというおじさんの言葉に誘われて,国際通りの北(辻のあたりだったろうか)の民宿に2泊ほどした。当時は,返還後の1975年に沖縄復興のてこ入れとして沖縄国際海洋博覧会が開かれた後の沖縄旅行ブームが終わり,民宿の経営はたいへんだったのだろう。首里城跡の博物館や,守礼の門まで歩いたような気がする。まだ,首里城の復元は始まっていなかった。帰りも牧志市場から国際通りに向けて歩いて下った。毒のある大きなカタツムリは触らないように注意しなければならない。

2度目は 家族旅行だ。1992年に復元が完成して数年後の首里城を訪れた。子どもたちが小学生の頃だったと思う。宿泊は沖縄中部にあるビーチ(かりゆしビーチ?)のリゾートホテルで,子どもたちと午後から半日海水浴をしただけで,南国の強い日光にやられてしまった。夕食後どんどん体調が悪くなり,水風呂で癒そうとしたが,皮膚呼吸ができずに苦しんだ。翌日,首里城観光へ向ったが,太陽光線を浴びると苦しいので,日陰を選びながらやっとの思いでたどりついた。そんなわけで,首里城の印象より,日焼けで苦しんだ思い出の方が強いのであった。


2019年9月26日木曜日

ミキモト真珠島

三重県鳥羽のミキモト真珠島に行った。真珠博物館→海女スタンドでの実演御木本幸吉記念館→パールプラザと見て回る。白い磯着の海女さん2人による実演では,磯笛という浮上後の呼吸法からくる口笛が印象的だった。海女さんをのせてきた船はいそぶえだし,昔,物理学教室の旅行で宿泊したKKRの保養所はいそぶえ荘だったと思うがどうだろう。

養殖アコヤガイによる真円真珠の製法は,御木本幸吉が商業化に成功したが,見瀬立平と西川藤吉が技術を確立し実用化(特許取得)したとされている。これに対して,英国人のウィリアム・サヴィル・ケント発明したものであることを強調した論説がある。真珠博物館を見ていて,真珠の選別にはロボットとディープラーニングの組み合わせが使えそうだと思ったが,まだ実用化されていないのだろうか。

ミキモト真珠島と関連するのが,三重県出身の江戸川乱歩パノラマ島奇譚だ。鳥羽には江戸川乱歩館があるが,平日は予約制のようだった。

2019年6月11日火曜日

余部鉄橋「空の駅」

例年高齢の3ファミリー旅行の目的地の1つが余部鉄橋「空の駅」だった。かつて転落事故があったあの余部鉄橋の一部がエレベータで上る展望台となって,新しい橋梁と駅ができていて,無料で見学することができる。地上にはカメの駅長の「かめだ・そら」ちゃんもいてなかなか楽しかった。

2019年2月27日水曜日

Sofitel Legend Metropole Hanoi

今日,明日とベトナムのハノイにある,ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ハノイで,第二回の米朝首脳会談が行われている。あいかわらず,Wikipedia日本語版には記事がなく,英語版のSofitel Legend Metropole Hanoiはこちら

2016年の5月に家族旅行でベトナムのハノイを訪問した。ハロン湾ハノイ市内の観光である。そのとき,後半の2泊ほどをこのホテルに宿泊した。そのときの写真。

写真:ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ハノイの中庭(2016.5)

いろいろな著名人も宿泊している歴史のある重厚なホテルである。ベトナム戦争が終結する少し前に,ジェーン・フォンダが泊まったときの資料が展示されていた。ベトナム戦争のキーワードによって,脳内でジョーン・バエズに変換して記憶されていたのを今回訂正した。ジェーン・フォンダはSFマガジンの解説でドキドキしたあのバーバレラロジェ・ヴァディム監督作品)であった。

2019年1月2日水曜日

初夢

初夢の定義については,複数の説があるようだ。NHKの番組でもやっていた。

(1)節分から立春にかけての夜に見る夢
(2)大晦日から元旦にかけての夜に見る夢
(3)元旦から二日にかけての夜に見る夢
(4)二日から三日にかけての夜に見る夢
その昔は(1)で,江戸時代は(4),最近は(3)が多いとある。

自分が子どものころのお正月は一大行事であって,大晦日の夜のお風呂はかなり緊張して身を清め,全身新しい下着に身を包んで気合いを入れ,妹が9時からの紅白歌合戦を見始める前には就寝し,(2)の初夢を見るべく努力していた(宝船の絵は使いません)。

一富士二鷹三茄子は,一姫二太郎三なすび,の隣に記憶されているが,一は曾我兄弟の仇討ち場所の富士の裾野,二は忠臣蔵の浅野家の紋所の鷹,三は伊賀越鍵屋の辻の地場産物の茄子,の日本三大仇討ちシリーズの暗示だ,などという話は子どもには教えてもらえなかった(親も知らなかったのかもしれない)。

P. S.  長女が1歳の頃,家族で伊賀に旅行したときに,伊賀越の漬物をお土産に買ったような気もするが,今見ると茄子はメインにはなっていない。伊賀では金谷にも行きました。伊賀肉の思い出は他にもある。2005年ごろに教育実習の研究授業の参観指導で,三重県の津あたりまで行ったことがある。実習生のK山君の母上が実習先の中学校までわざわざ差し入れを持ってきて下さった。ありがとうございました。

P. P. S.  今年はぎっくり腰のため,寝返りも夜中のトイレもつらく,初夢どころではない。


画像はWikipedia「初夢」より

「初夢の辻褄合ってしまひけり」(片山由美子 1952-)