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2025年3月10日月曜日

巨泉と前武(ヤングの時代)

リクエストコーナーからの続き

当時の日曜日のラジオの洋楽ポップス番組といえば,午前中の「巨泉のヤング作戦」があった。1968年5月,大橋巨泉(1934-2016)と浅野順子(1948-)の司会にスイッチしたころから聞き始めている。「牛も知ってるカウシルズ,うっしっし」などのダジャレギャグで曲名が紹介されていた。

浅野順子(寿々子)はりぼんの表紙を飾り,子役として映画にも出演している。最後に出演した映画は鈴木清順(1923-2017)のけんかえれじい(1966)だ。1969年8月に大橋巨泉と浅野順子が結婚したのにはあっと驚いた。その後も二人の司会で番組は続いていたのだろうか。

巨泉といえば,土曜午後のテレビのビートポップスも何度かみた記憶がある。ゾンビーズのふたりのシーズンが流行っていた頃だ。毎週釘付けになってもよさそうな番組だったけれど,そこまで熱心に見続けた記憶がないた。テレビをみている時間帯ではなかったのか。


必ずしも洋楽ポップスの番組ではなかったが,深夜放送への扉を開いたのが毎夜10時から20分の「ヤング・ヤング・ヤング」だ。東芝の提供で,パーソナリティは前田武彦(1929-2011)。自分が聞き始めたときはおとなしい榊原るみ(1951-)がアシスタントだった。穏健なマエタケの説教がちょっと気になることもあるマンスプレイニング的な番組だった。万里村れい&ザ・タイムセラーズの「今日も夢みる」は準テーマソングなのかな?

一時は毎日のように聞いていたはずだ。

1969年10月,井原高忠(1929-2014)のプロデュースで大橋巨泉と前田武彦の二人が進行を務めた「巨泉・前武ゲバゲバ90分」が始まった。構成作家として井上ひさし(1934-2010)が入り,100本以上のナンセンスなショートギャグの連続からなるアッと驚く為五郎な番組だった。翌年3月までの半年に1970年から第2期の半年が続いた。

このクオリティの番組はいまではもうできないだろう。


写真:ゲバゲバ90分のイメージ(みんカラから引用)


それはそうと,このころの番組にはやたらヤングというキーワードが含まれている。例えば,ヤング720(1966-),ABCヤングリクエスト(1966-),MBSヤングタウン(1967-),セイ!ヤング(1969-),ヤングおー!おー!(1969-),アタックヤング(1970-),ステージ101*(1971-),レッツゴーヤング(1974-),OBCヤングラジオ(1981-),ヤングスタジオ101(1986-)なんということでしょう・・・(* レギュラー出演グループ名が ヤング101 )。

P. S. 上のリストでは,ヤンタンくらいしか聴いていない。調べてみるとそれは
   1978/04 - 1979/03 笑福亭鶴瓶、浅川美智子、中村行延
   1978/04 - 1980/09 原田伸郎、大津びわ子笑福亭笑光、伊東正治
   1978/04 - 1979/09 笑福亭鶴光、角淳一、佐々木美絵
の時代(D1の頃)だった。

[2]昨日のつづき(1959-1971)・春夏秋冬(1956-1982)
[3]前田武彦 小沢昭一 大橋巨泉  2010/05/23(ボクらの時代,ChamekoETC)(2011, 2012, 2016)
[4]永六輔 大橋巨泉 藤田潔 2011/10/23-30(ボクらの時代,ChamekoETC)(2016, 2016, 2021)
[5]ビートポップス 1970.1.31(tonehender)

2025年3月9日日曜日

リクエスト・コーナー

オールジャパン・ポップ20 からの続き

オールジャパンポップ20は,短い時間で沢山の曲を紹介する必要があるので,エアチェックには向いていない。最も助けになったのがNHKのリクエストコーナーだ。1968年,FMに移行する前のAM日曜午後3:00バージョンの頃も聴いていたかもしれない。
 同じ1965年4月に『リクエストコーナー』が、第2放送の午後3時からの1時間番組で始まる。ポピュラー音楽のリクエストにこたえる若者向けディスクジョッキー番組である。季節やその時々の話題にちなんだ特集も随時企画した。1969年(3月1日)のFM 本放送スタートにともなってFMに移行し、日曜午後6時からの1時間番組となる。1981年度より生放送となり、最新音楽情報とともに、全米ヒットパレードに加えて全英ヒットパレードも特集で紹介した。司会は番組スタート時より最終回の1985年3月30日までの20年間、石田豊アナウンサーがつとめた。(NHKラジオ放送史 第5章 から引用)

 


写真:ビリー・ヴォーン楽団の真珠貝の歌(Funky Moose Records から引用)


ネットで検索すると,ビリー・ヴォーン楽団の真珠貝の歌ではじまるNHK-FM リクエスト・コーナーの思い出が沢山見つかる。石田豊アナウンサーの落ち着いた声と,音楽を最後までフルコーラスでかけてくれるところが有り難かった。午後6:00からだと,夕飯とぶつかりそうなものなのだが,どうしていたのだろうか。

他にもエアチェック向けの番組はいくつかあった。日曜には前回登場した出雲崎君がよびに来て,トランジスタラジオをのせた自転車で音楽を聴きながら一緒に近所をうろついていたこともある。これではエアチェックにならない。

あるとき,出雲崎君がウォーカー・ブラザーズの金沢のファン倶楽部の集まりを見つけてきた。土曜の午後,長土塀にあるビクターの営業所に向かった。そこは,怪しいビルの2階で,怖そうな女子高生以上のお姉様方が集まっている。県立工業の制服の方も見受けられる。男性は中学生男子の我々2名だけでビビった。ファン倶楽部代表の女性の進行で,スコット・ウォーカーのレコード(行かないで)などを淡々と聴くのだ。途中でウォーカーブラザースに関するクイズが出題されたりする。出雲崎君がそれに答え(ファンだと実証でき)て無事に帰宅した。


[1]15 お休み前の人気番組『夢のハーモニー』(NHKラジオ放送史5章)
[2]NHK-FM「リクエスト・コーナー」の思い出(やせっぽちのヒロシのブログ)
[3]FMリクエストコーナー(300 rzu)

2025年3月8日土曜日

オールジャパン・ポップ20

中原中也と金沢からの続き

みのもんた(1944-2025)の訃報がニュースになっていた。

しばらく前は最も人気のあるMCの一人だったが,自分の記憶にあるみのもんたはラジオの洋楽番組オールジャパンポップ20の司会だ。「♪みのみの〜,もんた,みのもんた」という軽いジングルを出雲崎君と笑いながら話題にしていた。

洋楽ポップスを聴き始めたのは中2のころだ。2年5組で同級の小林博人君がビートルズが面白いと教えてくれたのは以前書いたとおりだ。3年6組になって,ウォーカー・ブラザーズのファンだった出雲崎栄一君やビージーズが好きだという山田雄治君が,ポータブルのレコードプレーヤを持ち寄って,なけなしの小遣いで買ったレコードに耳を傾けていた。

ところで,みのもんたがオールジャパンポップ20の司会を始めたのが1969年の春頃らしい。とするとこれは高校1年になってからだ。出雲崎君も山田君も家はすぐ近所だったから,高校になってからもときどき会っていたのだろう。

みのもんた登場前の1968年,中3のころからオールジャパンポップ20をかかさずに聞くようになり,毎週のベスト20と投票数をこまめにノートに記録していた。1969年,高校1年になってトランジスタラジオとテープレコーダによるエアチェック体制が整ったころがピークだったかもしれない。このころのベスト20はほとんど曲名とメロディが対応する。1970年から71年になると,自分の中のブームはやがて下火になっていった。

野田中3年の修学旅行は東京見物だった。春の夜,新宿コマ劇場でおてもやんを観劇して,花の香りが排気ガスの匂いで上書きされる繁華街の歩道に出たところで,当時の洋楽ベスト10が掲示された立て看板を見つけた。なんだかなつかしくてワクワクした。
1968年4月2週頃のオールジャパンポップ20 
 1.ジャッキー,スコットウォーカー
 2.マサチューセッツ,ザ・ビージーズ
 3.マジカル・ミステリー・ツアー,ビートルズ
 4.初恋の並木道,ナンシー・シナトラとディーン・マーチン
 5.ウーマン・ウーマン,ザ・ユニオン・ギャップ
 6.ワールド,ザ・ビージーズ
 7.雨に消えた初恋,ザ・カウシルズ
 8.ノー・ノー・ノー,ザ・ヒューマン・ベインズ
 9.すてきなバレリ,モンキーズ
 10.星のベイビー,ザ・ファウンデーション(この曲は覚えていない)
1968年5月2週頃のオールジャパンポップ20(看板の内容は↓?) 
 1.すてきなバレリ,モンキーズ
 2.ワールド,ザ・ビージーズ
 3.レディマドンナ,ビートルズ
 4.マジカル・ミステリー・ツアー,ビートルズ
 5.ジャッキー,スコットウォーカー
 6.あの娘は今夜…,ボイス・アンド・ハート(この曲は覚えていない)
 7.ささやく瞳,ウィルマ・ゴイク
 8.ホールド・オン,ウォーカー・ブラザーズ
 9.初恋の並木道,ナンシー・シナトラとディーン・マーチン
 10.ノー・ノー・ノー,ザ・ヒューマン・ベインズ

 


図:Imagen3 はこんなものを出してきたが・・・orz

P. S. おてもやんは宝塚歌劇団の作品である。1968年の新宿コマ劇場は雪組が1968年5月3日から28日まで公演しているので,修学旅行はその期間だったことがわかる。

[1]オールジャパンポップ20(MURAKAMI Chifumi)


2021年7月27日火曜日

夏休み子ども科学電話相談

夏休み子ども科学電話相談はNHKのラジオ番組だ。毎週日曜日の午前10時05分から午前11時50分まで放送されているが,東京オリンピック2020のせいで今年は8月8日と22日だけになった。夏休みの宿題のヘルプを考えていたこども達にとってはちょっと残念かもしれない。

そこで,インターネットの有志が夏休み子ども科学インターネット相談をYouTube上に立ち上げた(NHKのものとはまったく関係がなく,無保証・無答責です)。7月25日にアップロードされた第1回目は,いきなり考古学で「Q.各文明で大切だった宝石は? Q.書記坐像の人は何を書いてるの?」というものだった。googleドキュメントにこの質問や回答者のリストがみられる。

高校生の時に北陸放送ラジオの番組で,同じような子ども電話相談室があった。児童文学者のかつおきんや(1927-2020)さんと,理系は理科教育センターの先生みたいな人が二人で対応していたと思う。覚えている質問は「仏教の三千大世界とアインシュタインの相対性原理の関係はどうなっているのですか」というものだ。リアルタイムの番組なので,なかなか質問をセレクトするのが難しく,回答者も困っていた。

2021年2月13日土曜日

ラジオの身体

 YouTubeで瀬戸弘司が「ラジオの身体」というワードで語っていた。瀬戸弘司のYouTubeは装飾過多なのでやや苦手だったのだけれど,ドリキンとの対談を見てから若干印象が変わった。瀬戸弘司は福井市出身で,藤島高校を出て東工大に進んだ劇団員だ。ユーチューバとしても2010年から活動している。ちなみに,同じ頃から活動しているユーチューバーのかずさん(カズチャンネル)も福井市在住で散財三兄弟の一角を構成している。

瀬戸弘司が,最近のYouTubeのトレンド変化を特徴づけるキーワードとして使ったのが「ラジオの身体」である。彼が舞台出身であって「舞台の身体」を持っていることに対する比較とした表現だ。ラジオの身体性は,ポッドキャストが2005年に登場してしばらく後,2010年前後に話題になりはじめ,日本のメディア研究者でいえば飯田豊や水越伸なども取り上げている。もちろん,瀬戸の着想はこれらとはまったく独立なものだと思う。

これとは別に,今年になってClubhouseが音のSNSとして流行をはじめた。Clubhouseについては様々な捉え方があるが,その中には音声メディアとしてラジオと比較したものもでてきている。インターネット空間にジャックインしながら生活するという状況を考えたときに,視覚と聴覚がどのようにその時間を専有されつつ,現実世界と切り結んでいくかというのは今後の議論の重要な鍵となるかもしれない。まあ,いきなりgoogle glassというわけには行かなかったわけだけれど。

2020年9月13日日曜日

テレビからの脱出

 なんやかやいいながら,つけっぱなしにしておくと情報がだらだらと流れてきて,ときどき意識を集中させると,飛び込んでくるというのが,これまでのラジオやテレビのニュース・報道系バラエティの作法だったかもしれない。ところが,いわゆる「芸人」によって言論が支配される段階になると,ちょっとテレビが垂れ流す嘘情報を話半分にきくことも限界に近づいてきた。

最近その間隙をうめるのがインターネット(youtube系)の対話番組である。菅野完(4850人),のりこえネット(7690人),DARTHREIDER(1.8万人),一月万冊(5.9万人)。ゲストとの対話がベースになっているものは,ちょっとキャスターとの馴れ合いが気になるけれど,1時間や2時間はすぐに聞いてしまう。まあ,2005年ころから続くポッドキャストの後継者ということなのだろう。

2019年3月1日金曜日

NHK-FM放送開始50周年

NHKが1969年の3月1日にFM放送を開始してから50周年を迎え,3月1日から3日間にわたって,特別番組を放送している。1969年といえば,高校1年生だった。その頃,親にねだって買ってもらったSONYのテープレコーダサーボマチックF1(TC-222)と家にあった古いトランジスタラジオでAM放送のエアチェック(洋楽ポップス+日本のフォーク少々)をするのが趣味となっていた。その後,半裸ケーブルでイヤホンジャックから結線していたラジオから,SONYのトランジスタラジオ(TFM-110F)に更新してもらったように思う。

写真:SONY TC-222 ヤフオクより引用
写真:SONY TFM-110F ゴールデン横丁より引用
写真:SONY-TAPE 100 オープンリール復刻図鑑より引用

ノートに楽曲名や演奏者を記録しながら,SONYの直径5インチ(テープ幅1/4インチ)の家庭用オープンリールテープ10数枚に楽曲がたまっていった。サーボマチックF1は,テープスピードが 4.8 cm/sと 9.6cm/s に切り替えられるようになっていたが,テープ代を節約したい高校生は,音質を無視して 低速で録音していた。この場合の1本のテープの録音時間は1時間くらいだったと思う。したがって1本に15-20曲程度入ることになる。10本で200曲か。いまだと,iPhoneに楽々4000曲保存できるのであった。

写真:SONY CF-1600 ヤフオクより引用

1972年に大学に入ってしばらくすると,もうオープンリールの時代ではないということで,SONYのラジカセ(CF-1600)に乗り換えた。なんと景気の良い時代であったこと。NHK-FMでは大学の同級生の佐藤秀明君の影響でクラシックを聴くようになり,やはり同級生の佐藤正泰君にならって,FM-fanを何度か購入したこともあった。