2019年11月6日水曜日

中原中也と金沢

NHKEテレの「にほんごであそぼ」は良い。今は亡きうなりやベベン(国本武春)や文楽の竹本織太夫(豊竹咲甫太夫)や鶴澤清介,野村萬斎など豪華出演陣とよく練られた構成が相俟ってたまに見るととても良い。

昨日は,中原中也(1907-1937)の「サーカス(山羊の歌)」の一部を織太夫・清介コンビが朗読していた。朗読というのかな「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」だけなので。

この詩「サーカス」は中也の金沢時代(1912-1914)の印象がヒントになっているといわれている。青空文庫には「金沢の思ひ出」という小文があり,中也が父に連れられて軽業の興行を見に行った神明館横の空地で,映画館神明館の弁士の息子とやりとりする場面が記されている。この神明館は犀川を寺町台地側に渡ったすぐにある今の神明宮にあった。

この神明宮で私の父の芳一が小林小児科の院長と若いときに喧嘩したと聞いたことがある。その院長の息子の小林博人君は皮膚科医になったが,小学校から高等学校までの同級生だ。野田中の2年のときは同じクラスだったので,特に仲よくしていた。マジカルミステリーツアー,ハローグッドバイ,レディマドンナの時代のビートルズに感化されたのは彼からだった。寺町で小林小児科のあとに皮膚科医として開業していたが,後に病院勤務になっていた。

中原中也の金沢でのゆかりの場所について,金沢の思い出の文を辿りながらたいへん詳しく調べているのがこちらのブログ記事「中原中也の金沢の思い出」である。若干付け加えるとするとタカジアスターゼの弟やその三男の話がある。タカジアスターゼとは高峰譲吉のことである。「高峰譲吉博士③ルーツ高峰譲吉博士④金沢の所縁の地を歩く」によれば「高峰家の菩提寺は,金沢市寺町5丁目の臨済宗国泰寺で,高峰家のお墓には、譲吉博士の父、母、弟3人、妹3人がまつられています」,また「譲吉博士は、大正2年(1913)5月2日,亡き両親の法要のためこの国泰寺を訪れ,金沢第一中学で講演もしています。当時,寺町,大桜向いに弟の家が有ったと聞きます」とのことで,中原中也はちょうどこの時に,高峰譲吉のその弟の家の隣に住んでいたと思われる。

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