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2025年1月11日土曜日

果蔬図巻

伊藤若冲(1716-1800)の果蔬図巻が初公開されたというので,京都嵐山渡月橋側の福田美術館を訪れた。

若冲の75歳以前に制作された作品で,ヨーロッパの個人が所収していたものだ。若冲作品を多数コレクションしている福田美術館が2023年にこれを購入した。52種類の珍しい野菜や果物が列をなしている絵巻物。同趣旨の菜蟲譜のほうは4倍近い11mもある巻物で,どこかで見たような気もするけど,たんなる記憶の捏造かもしれない。

福田美術館の利用案内(ふりがな付き)によれば,
・撮影さつえい禁止きんしのサインがあるもの以外いがいは撮影さつえい可能かのうですが、フラッシュはご遠慮えんりょ願ねがいます。
・館内かんないの動画どうがを撮影さつえい希望きぼうの方ほうは、事前じぜんにご連絡れんらくください。企画きかく書しょの提出ていしゅつをお願ねがいする場合ばあいがございます。
・当館とうかん提供ていきょうの画像がぞうやお客様きゃくさまご自身じしんが館内かんないを撮影さつえいした画像がぞうなどを営利えいり目的もくてきに使用しようすることは固かたく禁きんじます。

展示室には,動画撮影はご遠慮下さいとだけあった, ちょっと心配だったので案内の人に聞いてみたが,写真撮影はできますとのことだった。そのかわり,今回の図録集は販売されていない。

52ある野菜や果物の名前はすべて説明図で示されているが,42番だけ不明になっている。ニンニクの実をばらしたような白い実の集まりなのだが,後ろの方から百合根じゃないのという声が聞こえてきた。まあ,福田美術館の総力をあげても解明できなかったのだろう。



写真:若冲の果蔬図巻(福田美術館で撮影 2024.1.7)



2023年1月30日月曜日

京大OCW

高等教育研究センター(2)からの続き

騒動になってから半年たち,京都大学からオープンコースウェアを継続することが発表された。現行OCWコンテンツを維持とし,新しいOCW2.0(仮称)や検索システムKU-Search(仮称)を構築するとのこと。そのために,コンテンツ企画・支援室(仮称)を設けるらしいが,京都大学情報環境機構の情報環境支援センターに位置づけられるのかな。

この機会に他大学のOCWはどうなったかをgoogleにOCW +site:ac.jpを入れて検索した。

  (338通常講義,477公開講義,81最終講義,95国際会議,90その他)
  (5078講義ノート,40動画音声)
  (150学部講義,50大学院講義,170公開講座)
  (48テレビ講義,43ラジオ講義,131テレビC,152ラジオC)
  (269コンテンツ)
  (92学部講義,48大学院講義,264公開講座)
  (136コンテンツ)
  (352授業,251最終講義,)

googleで見つかるのものは,京大,東工大,東大がほとんどを占めていた。阪大と東北大がOCWで引っかからない。なぜなら彼らはMOOCの名前を使って,阪大はedX,東北大はJMOOCにアウトソーシングしているからだった。

それでは,OCWとMOOCの違いはなんなのだろうか。JOCW(日本オープンラーニングコンソーシアム)が解消発展したOEジャパンに定義があった。
OCW(Open Course Ware):大学や大学院などの高等教育機関で正規に提供された教材を,インターネット上に無償で公開する活動

MOOC (Massive Open Online Course):インターネットにアクセスできれば誰でも無償もしくは安価に利用できるオンライン講義

OE(Open Education):世界中のすべての人が質の高い教育経験と資源にアクセスできるようにすることで,人類の発展に貢献しようとする教育ムーブメント


OER(Open Education Resource):教材の作成者が利用者に対し,その教材の修正や改変の許可を与えてる学習資料,クリエイティブ・コモンズ・ライセンスなどにより著作権の一部もしくは全てを放棄することで,他の人々は自由にアクセス・再利用・翻訳・修正できる。
インターネットがブレイクして10年後,今から20年前にOCWは一時流行しかけていたけれど,やがて下火になって現在に至っている。GIGAスクール(一人一端末)の時代に,OERの重要性はますます高まっているはずなのだが・・・


図:MOOCのイメージ(Wikipediaから引用)




2022年8月8日月曜日

高等教育研究センター(2)

高等教育研究センター(1)からの続き

8月4日,京都大学の高等教育研究開発推進センターの廃止のお知らせが公開された。2022年9月30日を持って廃止されたあと,コンテンツの一部は,教育学研究科高等教育学コースのHPに移管されるとあるが,ほとんどはそのまま無残にも捨てられるようだ。廃止されるセンタースタッフの所属は上記の教育学研究科に確保されている。

今後のICT活用教育関連の各プラットフォームの対応について,は,JMOOC(gacco)のうち,国際高等教育院附属データ科学イノベーション教育研究センターから提供する講義のみ継続ということで,その他は全滅なのである。

(1) 京都大学OCW

(2) MOOC(edX)

(3) SPOC(KoALA

(4) JMOOC(gacco)

(5) サポートサイト(CONNECT)

(6) 高大接続を促進するためのポータルサイト(KNOT)

確かに,あれもこれもと欲張ってゴチャゴチャしていたので,整理が必要であったかもしれない。OCW閉鎖への対応についてはアナウンスがでているが,以下の回答に関係者の無念さがにじんでいる。

京都大学のOCWは今後どうなるのですか

10月以降の状況については当センターではお答えしかねます。OCWは今世紀に入りオープンエデュケーション/教育のオープン化と呼ばれるムーブメントの中で広がってきた取り組みで,2019年にはユネスコでOER*勧告(ICTを利用した教育のオープン化に関わる教材のグローバルな普及促進に関する勧告)が全加盟国の一致でなされています。今後、国内でも教育のオープン化に関わる取り組みが広がってくると思われます。2005年の立ち上げ以降,その一端を担ってきた本学のOCWがこのような形で失われることは残念でなりません

[1] 京大OCW閉鎖の件に寄せて:これからの可能性だったものの一つ(digitalnagasaki)

2022年8月2日火曜日

高等教育研究センター(1)

昨日,京大の科学哲学の伊勢田哲治(1968-)さんが,次のようにツイートしていた。
京都大学の教育に関する情報共有・情報発信をしてきた高等教育研究開発推進センターが9月末で廃止されるとのこと。組織としては廃止されるとしても業務は移管されて残るのだろうと思っていたら、OCWやMOOCやCONNECTも含めてほとんどの業務がそのまま廃止の予定だという。
えぇーっ!である。早速,京都大学高等教育研究開発推進センターのホームページを見たが何も書いていない。しかし,センター長の飯吉透さんの任期が,2022年4月から6ヶ月(普通はありえない)となっていたので多分そうなのだろう。

放送教育開発センター(1978-2003)改めメディア教育開発センター(1997-2009)の廃止,教育情報ナショナルセンター(2001-2011)の廃止につぐ,日本のICT教育システムがまったく長続きしない問題の大ヒット事案だ。

各大学の高等教育研究センターは,国立大学の教養部解体の過程で1990年代半ばに登場した。ちょうどインターネットの商用化がスタートしたころだが,当初は,ICTとの関連が強調されていたわけではない。その後,OCW/MOOC,YouTubeからコロナ禍下でのZoom/オンライン授業へと,高等教育におけるICT対応の中心的な役割も果たしてきた。本当に,この盥の水をすべて流してしまうのだろうか?
東北大学
http://www.ihe.tohoku.ac.jp
大学教育研究センター(1993-)
高等教育開発推進センター(2004-)
高度教養教育・学生支援機構(2014-)

東京大学
https://www.he.u-tokyo.ac.jp
大学総合教育研究センター(1996-)
[全学センター→学内共同教育研究施設(2019-)]

名古屋大学
https://www.cshe.nagoya-u.ac.jp
https://www.cshe.nagoya-u.ac.jp/link/jpcenter.html( 国内の高等教育研究センター)
高等教育研究センター(1998-)

京都大学
http://www.highedu.kyoto-u.ac.jp
高等教育教授システム開発センター(1994-)
高等教育研究開発推進センター(2003-)
(2022-)

大阪大学
https://www.celas.osaka-u.ac.jp
https://www.tlsc.osaka-u.ac.jp
全学共通教育機構(1994-)
大学教育実践センター(2004-)
全学教育推進機構(2012-)

2021年11月24日水曜日

天狗刺し

 NHKの新人落語大賞NHK新人演芸大賞から派生している。今年は奇数年なので,大阪のNHKホールで開催された。東西107名の参加者から勝ち抜いた6名のファイナリストの中に,笑福亭松鶴(六代目)の弟子の笑福亭松喬(六代目)の弟子の笑福亭生喬の弟子の笑福亭生寿が出るというので珍しく落語の録画を見ていた。

抽選で最後になった,桂米朝(三代目)の弟子の桂米二の弟子の桂二葉が「天狗刺し」で大賞を獲得した。5名の審査員の評価は納得のいくもので,二葉は全員から満点の10点を得て,女性初の大賞となった。なお,笑福亭生寿は第2位の得点だった。

主人公が,新しい商売としててんすき屋(天狗のすき焼き屋)を始めるといって,材料の天狗を捕獲する(刺す)ために鞍馬山へ行く。奥の院の坊さんを天狗と間違えて捕まえた主人公は,京都の町に下りてくる。

さて,米朝の話では次のような下げになる。向うから大きな青竹を10本ばかり担いで来る奴がある。男はもう真似する奴が現れて天狗を捕まえに行くとのかと思い,商売仇を呼び止める。男「お前も鞍馬の天狗さしか」竹を持った男「いやあ、わしは五条の念仏ざしじゃ」

念仏尺(ねんぶつざし)とは,「近江の伊吹山から念仏塔婆が掘り出され,それに精確な尺度が刻んであったので,これを模して念仏尺と名づけた」あるいは「西本願寺大谷本廟のあたりで採れる竹を使っていたことから「念仏」の名称になったという。精密、精巧であったため、緒方洪庵もメートル法を尺貫法に換算する際、基準として用いた」という竹の物差しのことだ。しかし,今では誰も知らないので,これでは落ちない。そこで,二葉は,坊主の衣と天ぷらの衣をかけた下げにうまくアレンジしていた。


写真:鞍馬の天狗像(京都旅屋のページから引用)

2021年7月18日日曜日

女紅場

 法事で京都の街を歩いていたら,丸太町の鴨川縁に女紅場(にょこうば)の碑があった。京都府立第一高女がなんとかとあったので,調べてみた。

女紅場とよばれた女子の教育機関にはいくつかの類型があるようだが,この京都の女紅場は1872年に設置された日本最初の公立の女学校であり,後の京都府立第一高等女学校の前身だった。現在は京都府立鴨沂高等学校である。

大阪でこれに対応するのが,1874年に堺県に設置された女紅場であり,後の大阪府立泉陽高等学校だ。ここは大阪で2番めに古い高等女学校となった。なお,大阪で最も古い女学校というのは,1882年に設置された府立大阪師範学校の附属裁縫場を起源として大阪府女学校となった,現在の大阪府立大手前高等学校である。


写真:丸太町鴨川西岸にある女紅場の碑(Wikipediaより引用)

[1]女学校(Wikipedia) 

2020年9月23日水曜日

同志社大学京田辺キャンパス(1)

同志社大学の京田辺キャンパスを訪れるのは初めて。近鉄京都線の興戸駅から歩くのだが,行きは道を間違えたため北から大きく回って正門に至った。台風12号が接近していたので雨になったらどうしようと心配していたけれど,秋晴れの遠足日和だった。

京田辺キャンパスは79万㎡なので大阪教育大学の柏原キャンパス67万㎡の1.2倍程度だけれど,建物や芝生などの配置のせいで広々と感じられる。まだ授業が始まっていないので学生さんはまばらだった。図書館のオープンスペースなども利用禁止になっていたが,秋学期からは対面授業も再開されるようだ。

大阪教育大学ではmoodleの利用支援員をしているのだけれど,同志社大学のe-classは勝手が違うので今日は立場が逆転して利用支援をしてもらうために情報メディアセンターを訪問したのだった。ていねいに教えていただいたので30分でほぼ問題は解決した。moodleとe-class一長一短である。


写真:同志社大学京田辺キャンパスのローム記念館(2020.9.23)

2020年3月4日水曜日

あぶり餅

京都の紫野今宮神社には名物のあぶり餅屋がある。境内前に2軒ありそのうちの一文字屋和輔,一和のほうに入った。新型コロナウイルス感染症の影響で,京都は観光客が少なく,あぶり餅屋も手持ちぶさた。庭のみえるお座敷に通されたが,我々夫婦の他には誰もいない。名物のあぶり餅はおいしかった。その縁起によれば,一条天皇(980-1011)の頃に悪疫がはやり,今宮神社で悪疫退散の祈願をした。そのときに初代が,この阿ぶり餅を神前に供え,そのお下がりを喰う人が疫病をのがれたとのこと。一和の創業は長保二年(1000)とある,すごすぎる。というわけで,疫病退散の今宮神社と一和を訪れたのはまことにタイムリーだったわけである。

疫病対策に大仏を建立したり,祇園祭を始めたり,あぶり餅を普及させたりと,奈良や京都では昔から工夫をこらし,その成果が観光資源として現在まで続いている。疫病の社会に対するインパクトはこれほどまでに大きい。このたびの新型コロナ疫でも後世に残るような文化資産につながる対策を考案する必要があるのではないかいな。



写真:あぶり餅の一和(2020年3月3日撮影)




2020年1月19日日曜日

科学者の墓

京都の八坂神社円山公園の南に,親鸞聖人の墓所(東本願寺)がある大谷祖廟とそれに隣接する東大谷墓地が続いている。朝永振一郎の墓もその一角にある。湯川秀樹の墓は知恩院の裏山らしい仁科芳雄の墓は東京都府中市の多摩霊園だが,その横にも朝永振一郎の墓碑があるようだ。

[1]科学者の墓(世界恩人巡礼大写真館)
[2]物理学者の墓を訪ねる(山口栄一)
[3]科学者の魂を探して(日経xTECH)
   自由な研究風土が開いた物理学大国への道
   日本の物理学と技術イノベーションのルーツ
[4]ウエストミンスター寺院(ロンドン)
[5]パンテオン(パリ)
[6]ヴァルハラ神殿
[7]ガリレオの墓(全優石)
[8]ドイツの切手に現れた技術者科学者たち(関東化学)
   (2)グーテンベルグ
   (3)コペルニクス
   (5)ケプラー
   (6)ゲーリケ
   (8)ライプニッツ
   (9)オイラー
  (10)カント
  (14)ガウス
  (21)フラウンホーへル
  (22)キルヒホッフ
  (24)ヘルムホルツ
  (25)レントゲン
  (26)ツァイス・アッベ・ショット
  (29)ハーン
  (31)プランク
  (34)アインシュタイン



(写真:東大谷墓地にて 2020.1.18撮影)

2019年12月16日月曜日

福田美術館

 2019年の10月,京都の嵐山渡月橋近くの桂川沿いに,アイフルの創業者の福田吉孝が設立したのが福田美術館である。福田の娘の川畑美佐が館長を務めている。

江戸時代の京都画壇などを中心に1500点の作品を所蔵しているコンパクトな建物で,2つのギャラリー,1つのオープンギャラリー,カフェなどで構成されている。カフェからは庭園ごしに桂川と渡月橋を見晴らすことができる最高のロケーションである。隣の渡月橋に近い側に星野リゾートの外国人富裕層向け超高級ホテルが建設中なのであった。

10月1日から1月13日まで,開館記念福美コレクション展をⅠ期Ⅱ期に分けて開催している。美術館にしては珍しく月曜日でなく火曜日が休館日となっていたので月曜に妻と訪れた。目玉の若冲の「群鶏図押絵貼屏風」もよかったが,木島桜谷(このしまおうこく)の「駅路之春」もやさしく,北斎の天狗や天文学者もおもしろかった。そういえば,木島桜谷はNHKの日曜美術館で「寒月」が取り上げられていたのを見たことがあった。橋本関雪の「後醍醐帝」は残念ながら第Ⅰ期の展示のみだったので見ることはできなかった。




写真:福田美術館カフェからの眺めと館内(2019.12.16撮影)

2019年3月3日日曜日

旧三井家下鴨別邸

京都の下鴨神社の南にある旧三井家下鴨別邸で,平成31年2月7日から3月19日まで,主屋の三階望楼の特別公開をしていたので夫婦で行ってみた。毎年この時期に一ヶ月程度公開しているらしい。明治の末に三井家の祖霊社がこのあたりに移されたので,大正の末に木屋町にあった別邸を休憩所として移築したそうだ。戦後は国に譲渡され,家庭裁判所の所長宿舎として使われた後,近代和風建築として重要文化財に指定された。一帯の敷地は八千坪にもなるが,一部は京都家庭裁判所となっている。

あいにくの雨模様だったが,到着すると順番に十名程度ずつ登ってもらいますとのことだった。二階の待合室で説明を聞いてから,それほど待たずに登ることができた。昔は五山の送り火もすべて一望できたようだが,いまは,左大文字と妙法の一部がみえるにとどまる。南側の木立を整理すれば,鴨川と高野川の合流地点がきれいに見えるはずなのに惜しい。

三井家から広岡家に嫁入りした広岡あさをモデルにした「あさが来た」が2015年度下半期のNHKの朝ドラとして放映され,その縁の品なども展示されていた。この建物が当時の撮影にも登場したそうで,放送当時は表まで行列ができるほどのにぎわいだったそうだ。

二階から急な階段の脇に張った太い組み紐につかまりながら,恐る恐る登っていくと三畳ほどの四方が開けた望楼になる。雨戸が下から引き出す方式が珍しいという説明を受けた。プライバシーの問題があるので,三階の望楼からの撮影は禁止である。

十分ほど説明があって,降りた二階には,伊藤若冲の「樹花鳥獣図屏風」の高精彩複製品(キャノン)が展示されていた。一階にはしゃれたデザインの洗面所や風呂場などがあり,瓢箪池のあり庭園にでて散策したが,そこからは建物の全体が一望できた。

 
写真:三井下鴨別邸(2019.3.3)

若冲の樹花鳥獣図屏風に続く)

2019年2月26日火曜日

折田先生像

昨日今日は,国立大学の個別学力検査,前期試験の日。
ネットでは例年のように京大の折田彦市先生の像が話題になっていた。

写真:折田彦市(Wikipediaより)

折田彦市先生は,旧制第三高等学校の初代校長で,1950年に製作された銅像が今に伝わっている。1991年ごろから落書きの連鎖が始まり,これを避けるために1997年には像が総合人間学部図書館の地下に収納された。しかし,このムーブメントは治まることはなく,台座と像のパロディが受験シーズンなどに毎年繰り返して作られることになった。

ちょうどその1991年から1997年にかけて,総合人間学部の情報科学実習を担当していたので,折田先生の像の変化はしばしば目にしていたのだった。例えば,こんなページや,そんなページや,あんなページからのリンク)が見つかる。そして,そのリンクの先には1996年の日本のWWWサーバ一覧(なつかしい)などもある。

P. S.  折田先生の胸像は,現在は,京都大学の百周年時計台記念館1Fの歴史展示室に安置され,やすらかな余生を過ごしていらっしゃるようだ。

2019年2月16日土曜日

総合人間学部の情報科学実習(2)

総合人間学部の情報科学実習(1)からの続き)

さて,全学共通の情報学科目に対応する情報科学実習であるが(今ならば情報基礎演習[全学向]に相当),システムとしては情報処理教育センターの日立の汎用機HITAC680(大型計算機センターは富士通でした)のVOS3上のFORTRANで,川崎辰夫先生と冨田博之先生が書かれたテキストを使ったプログラミングの演習であった。

普通教室の机に埋め込んで固定されたノートブック型パソコンを端末として使うというもので(机の蓋をすると普通教室に戻る),なんだかややこしかった。実習室の確保のための苦肉の策のようだ。システム更新の後は,普通のデスクトップPC(コンピュータ端末)の並んだ実習室になった。

最初は汎用機OS上のFORTRANをTSS端末から使うという形だったものが,UNIXも使えるようになったので,UNIXのfortranでの実習に変えてもらった。最後の方は,Cでやって下さいとのことで,言語はCに変わったが,例題のレベルもつくりも,fortran実習に毛が生えた程度。ようやく電子メールも使えるようになると,受講生との連絡は楽になった。

授業中でも空いている端末は,受講していない学生さんが自由に使ってよいことになっていた。あるときその様子を見ているとIRCを使ったチャットだった。BBSは大型計算機センター時代からROMだったし(阪大大型計算機センターのBBSでは西野友年さんが活躍していた),netnewsのfjグループにもなじんでいたが,なるほどこんな時代なのかと思った。

実習室の前に端末が数台並んだ部屋(総合人間学部の情報関係の方々のたまり場?)があり,はじめのうちはここで午前中から授業の準備をさせていただいた。やがて使えなくなってしまい,普通の非常勤講師控え室でまわりの会話に耳を澄ませながらお弁当を食べていた。

1990年の末に欧州原子核機構(CERN)ティム・バーナーズ=リーが World Wide Web を開発するのだが,1993年 NCSA Mosaic の登場で爆発的に普及して今日に至る。そのできたてのMosaicが実習室の後ろの端末にインストールされていた。テキストベースのgopher/ archieは使っていたけれど,イメージが付加されるのは画期的であった。


情報科学実習でお会いした方々:

川崎辰夫先生:一度だけご挨拶してお顔を拝見したかも。2011年に80歳で亡くなられた。

冨田博之先生:お世話係なのだけれど,年に一度お会いするかどうだった。あのディラックが晩年を過ごしたフロリダ州立大学に行かれたとおしゃっていた。その後,「ケルビンの 「19世紀物理学の二つの暗雲」に関する誤解(2003)」という面白い記事を拝見することになる。

櫻川貴司さん:当時,一世を風靡していたProlog-KABAの岩波本の著者であったのでお名前は知っていた。この実習のもろもろのお世話は,基本的には櫻川さんにしていただいた。大変お忙しそうで,つかまえてシステムのパスワードを教えてもらうのに苦労した。

新出尚之さん:最初は情報処理教育センターの所属だったが,奈良女子大の助手になられ,非常勤講師として情報科学実習を担当されていた。システムトラブルの時に助けてもらった。

筒井多圭志さん:当時京大の医学部の大学院に所属されていて,櫻川さんといろいろだべっていた(ペンギンとよばれていたみたい)。後に,ソフトバンクのCTOやCS(チーフサイエンティスト:最高研究者)になるとは。ウェブの仕組み等を教えてもらった(例:チルダはどこを指しているのか)。

青木薫さん:青木さんとはちょうど入れ替わりで(青木健一さんが金沢大学に移られるタイミングだったのかな),冨田先生の打ち合わせで一度だけお目にかかった。京大の原子核理論(クラスター模型や反対称化分子動力学AMD法で有名な堀内先生の研究室)出身なので,夏の学校や学会などでちょっとすれ違ってはいたのだが,覚えてらっしゃらないようだった。

村上正行さん:私の授業のTAをつとめてくれた院生さん。総合人間学部の一期生であり,その後,京都外国語大学に就職された。教育工学や高等教育がご専門である。TAは何人かいたのだが,なぜか彼だけが記憶に残って現在に至る。この4月からは,阪大全学教育推進機構の教授だ。

2019年2月15日金曜日

総合人間学部の情報科学実習(1)

田村松平が1967年3月に63歳で京都大学の教養部を定年退官してから,25年後に教養部は廃止され,その半年前の1992年に総合人間学部が設置された(京都大学総合人間学部,大学院人間・環境学研究科の沿革)。

ちょうどその頃に,当時の教養部,引き続き総合人間学部の非常勤講師となって,情報科学実習を担当した。1991年から1997年にかけてである。京大の非線形動力学研究室で木立さんの先輩にあたる,川崎辰夫先生や冨田博之先生が教養部の所属で,FORTRANによる情報科学実習を担当されていた。木立さんから白羽の矢を立てられた私は,毎週1回京大の教養部(後に総合人間学部)に通うことになった。

その当時,大阪教育大学も大阪府下の三分校から柏原キャンパスへの統合移転が進んでいた。私自身も1991年には,附属学校池田地区の裏手にあった大阪教育大学の池田宿舎から,奈良県天理市に引っ越した。京都までは近鉄京都線で1本である(まあ,そこから地下鉄とバスを乗り継ぐのでなかなか百万遍にはたどりつかないのだが)。

京都大学情報環境機構(2005-)を構成している学術情報メディアセンター(2002-)は,全国共同利用の京大大型計算機センター(1969-)と総合情報メディアセンター(1997-)にルーツをもつが,後者の源流が情報処理教育センター(1978-)であった。私が担当した情報科学実習は,この情報処理教育センターの第4次システムと第5次システムを使って運用されていた期間に対応する。

1991年から1997年というと,1991年の12月には大阪教育大学に情報処理センターが設置され,1992年には柏原キャンパスが開校して共通講義棟A205(現在の講義準備室)に情報処理センター管理室が開設されたころ。1996年には540㎡の情報処理センター棟(E棟)も竣工しており,ちょうど本学ではキャンパスネットワークの整備が急速に進んだ時期でもあった。

総合人間学部の情報科学実習(2)に続く)

2019年2月14日木曜日

田村松平

田村文庫の続き)

田村松平について,ネット上での情報をさらに調べると次のようなものが見つかった。

(1)日本における量子力学の受容の最初期のものとして,京都大学学術情報リポジトリ紅に,量子力学の紹介記事「新量子論,物理化學の進歩(1928),2(1):1-38」が掲載されていた。「物理化學の進歩」は,京都大学の物理化学教室が発行している学術誌であり,バックナンバーの電子化も行われているようだ(吉村洋介さん)。

(2)田村松平の没年は1995年ではなく1994年であった(Wikipediaはさきほど修正済)。
京大リポジトリにある京大広報 No. 474 855p 1994.11.01 に次の記事があった。

訃報 田村松平 名誉教授
 
 本学名誉教授 田村松平 先生は,9月24日逝
去された。享年90。             

 先生は,昭和2年京都帝国大学理学部物理学科
を卒業,本学理学部副手,講師,助教授を経て同
25年本学教授(分校)に就任,物理学及び科学史
の講義を担当された。同38年教養部に配置換,同
42年停年により退官され,京都大学名誉教授の称
号を受けられた。              
 先生の専門は素粒子論で,特に,場の量子論を
中心とする研究は,その後のこの分野における研
究に対する先駆的な役割を果たしたものであり,
高い評価を受けている。また,先生は物理学史を
中心とする科学史に対する造詣が深く,該博なる
学識と透徹した論理に基づいての科学史研究が評
価されている。               
 先生は教養部における講義以外に大学院理学研
究科の教育も担当され,深い学殖と円満な人格を
もって後学の育成に尽力された。       
 ここに謹んで哀悼の意を表します。     
              (総合人間学部)

(3)田村松平と60年安保の関わりについての二次資料があった。
田村文庫のところで紹介した記事には,安保でデモにいった話があった。

(4)物理教育学会の論文誌,物理教育6巻3号(昭和33年)に,昭和33年度の物理教育シンポジウム(昭和33年10月20日,京都大学)の特集記事(高校や大学における物理実験について)が掲載されている。そのシンポジウム「物理実験をはばむものとその対策」に田村松平が参加している。田村は昭和25年に分校の教授に就任しており,昭和38年に正式に制度化された教養部に配置替えとなる。学生の教養教育を長年担当していたのでシンポジウムによばれていたのだろう。ただ,田村は理論物理(素粒子論)が専門であり,学生実験は持っていないのでシンポジウムの発言もなかなかコメントがしづらそうな様子がみられる。

P. S. 旧制の第三高等学校を前身として,京都大学の分校を経由して教養部が設置されるまでの経緯は複雑であり,京都大学百年史,部局史編2第14章(旧教養部)を参照する必要がある。