ケアの倫理からの続き
A(ChatGPT+Gemini+Claude):
道徳教育の不可能性と可能性:主体化の政治学を超えて
序論:問いの転回――「何を教えるべきか」から「何が起きてしまうか」へ
道徳教育をめぐる議論は、しばしば「何を教えるべきか」という内容の問題に収斂する。構成主義的発達論か伝統的価値観か、正義の倫理かケアの倫理か――こうした二項対立は、より良い教育内容を求めるあまり、道徳教育という営み自体が制度として成立する瞬間に何が起きてしまうのかを十分に問わない。
本稿が提起するのは、より根本的な問いである。そもそも道徳は「教育」できるのか。そして、できないとすれば、我々は何をなしうるのか。
ここで言う「不可能性」は単なる懐疑論ではない。道徳教育の制度化が孕む構造的矛盾を明らかにし、その矛盾を自覚的に引き受けることでしか開けない実践の地平を描くための理論的作業である。そのために、不可能性を三つに区別しておく。
第一に、定義論的(論理的)不可能性である。道徳的行為が外的報酬や評価への志向から自由であることを含むなら、評価と記録を本性とする教育制度に道徳を載せることは自己破壊的である。
第二に、制度論的(実践的)不可能性である。教室は教師の権威、同調圧力、記録と評価の影によって既に構造化されている。そこでは「率直さ」や「葛藤」が自然に現れにくい。
第三に、政治倫理的不可能性である。もし道徳が完全に教育可能であるなら、それは内面にまで統治が貫徹した状態、すなわち全体主義的統制の完成に近い。
本稿はこの不可能性をもって道徳教育の放棄へは向かわない。むしろ不可能性を希望として引き受け、道徳を「教える」ことではなく、道徳教育が生む主体化を可視化し、それに批判的距離を共同で作り続けることとして「可能性」を再定義する。
第一部:道徳教育という制度の考古学――教科化が先鋭化した根本パラドクス
1.教科化が露呈させた矛盾――「評価しない」ことで評価が内面へ浸透する
道徳の教科化は、道徳教育が抱える矛盾を先鋭化させた。制度側はしばしば、数値で序列化しないこと、児童生徒の内面を点数化しないこと、討議を通じて考えを深めることなどを理念として掲げてきた(少なくとも導入期の公式説明ではそうであった)。一見するとこれは、道徳教育が「教え込み」を脱し、自由で開かれた学びになるための工夫に見える。
しかし、ここに教科化のもっとも根源的な逆説がある。数値を避けるほど、評価は消えるのではなく、より微細な形で内面へ移行する。点数ではなく文章で、序列ではなく「成長の様子」として、教師は児童生徒の語りや姿勢を記録する。そのとき子どもは、単に「正しく振る舞う」だけでなく、「正しく語る」「正しく振り返る」ことへと誘導されやすい。道徳は行為の倫理から、自己記述の戦略へと回収される。
ここで重要なのは、「数値評価か否か」ではない。教科である以上、道徳が必ず可視化され、記録され、教師の言語で名指されるという制度的要請そのものが問題である。道徳を評価しないという言説が、むしろ「評価される内面」を精緻に生産する可能性を持つ。教科化は矛盾を解消したのではなく、矛盾の形態を転換したのである。
2.教授の非対称性と自律の要請――「教えないで教える」権力
第二の矛盾は、教授の非対称性と自律の要請の矛盾である。教育は本質的に非対称的な権力関係――知る者と知らぬ者、教える者と学ぶ者――の上に成立する。他方で道徳教育は「自律的主体」を目標に掲げる。しかし他者から与えられた「自律」は、定義上、自律ではない。
このとき道徳教育は露骨な命令ではなく、洗練された形式を取る。討議を促す授業は「教えないで教える」技法である。教材選定、発問、称賛と沈黙の配置、議論の終結点――そこに教師の権力が埋め込まれる。子どもが自分で考えたように見える結論が、実は「望ましい方向へ誘導された自己決定」になりうる。強制が消えるのではなく、強制が内面へ折り畳まれるのである。
3.主体化装置としての道徳教育――内面化された自己統治の技術
フーコーの権力論を借りれば、道徳教育は単なる知識の伝達ではなく、主体化の技術である。価値項目は単なる内容ではない。それは自己を特定の様式で問題化し、規律し、語り直す技術の目録である。子どもは道徳の授業を通じて、自己を「こうあるべき主体」として構成することを学ぶ。
重要なのは、この主体化が外的強制ではなく、内面化された自己統治として機能する点である。アルチュセールの言う「呼びかけ」によって、子どもは自ら進んで特定の主体へと応答し、秩序を再生産する。しかも「評価しない」「押し付けない」「議論する」といった柔らかい公式言説は、主体化を弱めるどころか、「自由と自律の名において」主体化をより内面深く浸透させる可能性がある。ここに制度化された道徳教育の現代的な相貌がある。
4.新自由主義との共謀――分裂する主体の内面化
現代日本の道徳教育が特異なのは、一見矛盾する二つの主体を同時に要請する点にある。経済領域ではグローバル競争を生き抜く自己責任の個人が求められる。他方で文化・道徳領域では共同体への献身と伝統への従属が要請される。この分裂は偶然ではない。新自由主義的統治性は経済的に原子化された個人を必要とするが、その不安定性が生む解体を抑えるために道徳的統合を必要とする。道徳教育は、自由化の副作用を文化規範で塞ぐ補修材として機能しうる。
問題は、この補修が矛盾を解決しない点にある。むしろ個人の内部に矛盾を内面化させ、自己責任と共同体忠誠の両方を引き受けさせることで、より深い分裂を生むのである。
第二部:対抗言説の陥穽――批判が装置へ回収されるメカニズム
第2部の主題は「どの理論が正しいか」ではない。むしろ、批判的理論が教育制度へ輸送される瞬間に、いかにして統治技術へ変換されてしまうか、という回収メカニズムの解剖である。ここには少なくとも三つの変換がある。
第一に、診断(記述)が規範へ変換される。発達段階は本来「こういう推論が出やすい」という観察であっても、「こう到達すべき」という到達目標に化ける。ケア倫理もまた「こういう道徳経験がある」という記述から、「こう振る舞え」という徳目へ化ける。
第二に、対話が産出物へ変換される。制度は授業を成果で管理したがる。討議はプロセスであるはずなのに、感想文、振り返り、評価文の材料として回収される。すると対話は「正しく語れる者が得をする」能力競争に変質し、沈黙や違和感は欠陥として扱われる。
第三に、批判が技法へ変換される。批判は対象の前提を揺さぶる営みである。しかし制度は批判を「批判的思考」という技能に落とし込み、手順化し、評価可能な能力へ変えてしまう。批判は自由の回路ではなく、「批判的であるべき主体」を生産する規範となりうる。
この三変換が、以下の議論を貫く陥穽である。
5.構成主義の神話――普遍性という特殊性、抽象化という政治
コールバーグの道徳的発達理論は、しばしば「科学的」「価値中立的」な道徳教育の基盤とされてきた。しかし理論そのものが特定の文化的・歴史的前提に立脚している。最高段階は啓蒙主義的理性観と社会契約論に根差した「自律的個人」を前提とし、これを「発達」の頂点に置くことは他の倫理観を未熟と位置づける文化的暴力を含む。
だが問題はそれだけではない。コールバーグのジレンマが道徳問題を文脈から切り離し抽象化する時、失われるのは生活感だけではなく、権力と構造である。抽象化はしばしば、構造的不正義を個人の判断問題へ矮小化し、「あなたならどうする?」という内面の清潔さの競技へと倫理を回収する。
とりわけ共同体規範が強い環境では、抽象化された討議形式は同調圧力に最も回収されやすい。討議が自由に見えるほど、実際には「正しい語り」の獲得として主体化が洗練されうる。ここに構成主義的道徳教育の制度的危うさがある。
6.ケアの倫理の陥穽――美徳化が搾取と沈黙の免罪符になる
ギリガンのケアの倫理は、正義中心の道徳観が切り落としてきた関係性・依存・応答性を取り戻す点で重要である。しかし制度に取り込まれると、ケアは容易に「思いやり」「やさしさ」という道徳美徳へ縮約される。縮約が起きると、ケアの政治性が消え、負担の配分の問題が不可視化される。ケアできない者が欠陥化され、ケアが沈黙を強いる(波風を立てないことが思いやりだとされる)方向に回収される。
ゆえにケアの倫理を対抗言説として機能させるには、ケアを政治化し公共化しなければならない。問いは「思いやれるか」ではなく、「誰が、誰のために、どれだけ、どんな条件でケアしているか」でなければならない。
7.多文化主義の隘路――差異承認が「良い多数派」の自己像を支える儀礼になる
多文化主義的解決は魅力的に見えるが、文化の本質化、文化内部の抑圧の不可視化、そして「寛容/対話」という特定の価値の暗黙前提によって、洗練された同化主義になりうる。学校制度に入ると、多文化主義はしばしば「寛容である我々」という多数派の自己像を支える儀礼に変質する。少数者の経験は教材として消費され、差異は「理解される対象」に固定され、権力関係は透明化される。
したがって、対話を増やすだけでは不十分である。語りの所有権、拒否権、退出権、再編集権を含む制度設計がなければ、対話は支配の洗練で終わる。
第三部:不可能性を生きる――矛盾を引き受けた自己言及的実践へ
第1部で道徳教育が主体化装置であることが示され、第2部で批判理論さえ装置へ回収されうることが示された。ここから導かれるのは、道徳教育の放棄ではない。むしろ「可能性」の定義を変える必要がある。道徳教育の可能性とは、道徳を教え込む成功ではなく、主体化の不可避性を可視化し、それに対する批判的距離を共同で作る能力を育てることである。
8.「自律」概念の再構築――依存性の承認から応答可能性へ
従来の自律概念――カント的自己立法、サルトル的選択――は主体を他者や社会から独立した存在として想定しがちであった。しかし我々は常に既に言語、関係、制度の網の目の中にある。脆弱性と依存性は例外ではなく条件である。ならば自律とは、依存からの解放ではなく、依存を承認した上での応答可能性(response-ability)として再定義されるべきである。自律的主体とは自己完結した個人ではなく、相互依存の中で自己と他者の脆弱性に応答しうる存在である。
この再定義は、道徳教育が掲げる自律を内側から反転させる。与えられた自律ではなく、制度に媒介された依存と権力を見抜き、それでもなお応答を再設計する自律である。
9.アゴーン的対話――合意ではなく「非合意を扱う技能」を育てる
必要なのは、正解を教え込む教育ではなく、アゴーン的対話の空間である。ただし、アゴーンは「合意しなくてよい」という放任ではない。重要なのは、非合意を扱う技能を育てることである。相手を黙らせるのでも改宗させるのでもなく、互いに譲れない点を明確化し、それでも共に生きる手続きを探る能力である。
そして決定的に重要なのは、この対話が教師の善意に依存しないよう制度として設計されることである。教室は最初から権力によって構造化されている。ゆえにアゴーン的対話には、権力を隠すのではなく権力を議題化する自己言及的条件が必要になる。教師は「正解の保持者」ではなく「権力の臨時的行使者」として、教材選定・発問・記録の権力を言語化し、その是非を共同で検討する契機を対話そのものに組み込む。
また、評価と記録が避けられない以上、対話が「正しく語れる者が得をする」装置へ堕ちないためのガードレールが必要である。個人の内面を断定する記述の禁止、子どもが記録された自己像を訂正できる手続き、沈黙する権利、途中退出と相談への動線など、自己言及性を権利と手続きとして常設しなければならない。
さらに、情動を開くほど、いじめ・差別・家庭事情・トラウマが噴出しうる。これを教師個人の力量に帰責すれば、新自由主義批判と矛盾する。複数の支援動線や介入基準を制度の側に持たせるセーフガーディングが、対話の前提条件となる。
10.ケアの政治化――親密圏を超えて「配分」と「可視化」へ
ギリガンのケア倫理を対抗言説として活かす鍵は、ケアの政治化である。トロントやヘルドが示すように、ケアとは「世界を維持し、継続し、修復する」すべての活動であり、子育てや介護だけでなく、インフラの維持、環境保全、制度設計を含む。ここにケアを置くと、道徳は個人内面の徳目から、社会の維持・修復の負担の配分へと転換される。
この転換によって、道徳教育は「良い心」を育てる授業から、「誰のケアが可視化され、誰のケアが不可視化されているか」「ケアの責任はなぜ特定のジェンダー、階級、エスニシティに偏在するのか」「公正なケアの分配とは何か」という公共的問いを扱う場へ変わる。道徳を人格教育から構造的不正義の分析へと接続するこの回路こそが、第2部の陥穽(美徳化・私事化・消費)を超えるための必然性となる。
11.実践的提言:矛盾を教材化する――自己言及性の制度化
以上から導かれる実践の要点は、内容の刷新ではない。矛盾の露呈と自己言及性の制度化である。
道徳の授業の中に、道徳教育そのものを問う時間を組み込み続ける。「なぜ道徳を学ぶのか」「誰がこの内容を決めたのか」「評価や記録が私たちの語り方をどう変えるのか」という問いを、子どもと教師が共同で対象化する。主体化装置を反転させる最短の導線は、装置を見えるようにすることである。
次に、価値項目を葛藤なき規範として提示せず、価値間の衝突として提示する。規則の尊重と正義の実現、家族愛と個人の自由など、葛藤を解消せずに保持する力――ネガティブ・ケイパビリティ――を養う。道徳教育の可能性があるとすれば、それは葛藤の耐久力として現れる。
越境的対話もまた重要であるが、それは表層的な交流ではなく、構造的不平等を可視化する対話でなければならない。同時に、語りが教材として消費されないよう、語りの所有権と拒否権を制度として保障する必要がある。
最後に、教師の脱中心化である。教師は「道徳の模範」ではなく「共に惑う者」として迷いを開示する。ただし権力は放棄できない。その矛盾を隠蔽せず、「私はここで権力を行使している」と明示し、批判の対象に差し出す。教師の善意ではなく、手続きとしての透明性が鍵である。
結論:希望としての不可能性――徳は教えられないが、問いは共同化できる
本稿は、道徳教育の不可能性を論じてきた。道徳は評価できない、教授できない、統一できない。しかしそれは絶望ではない。もし道徳が完全に教育可能であるなら、それは内面統治の完成を意味する。不可能性こそが、押し付けられた規範への抵抗、予期せぬ生成、他者性への開かれを保証する。
我々が目指すべきは、矛盾のない完成された道徳教育ではなく、矛盾を可視化し、矛盾と共に生きる技法を共同で作る場としての学校である。そこでは子どもも教師も、正解を知っている者としてではなく、共に問い、惑い、試行錯誤する存在として出会う。
プラトンが『メノン』で問うた「徳は教えられるか」という問いに、本稿はこう答える。徳は教えられない。しかし、徳への問いは共有できる。そしてその共有――制度が生む主体化を可視化し、そこに批判的距離を共同で作り続けること――こそが、我々にとっての徳なのである。
参考文献への示唆
・Michel Foucault, “Technologies of the Self”
・Judith Butler, Precarious Life
・Joan Tronto, Moral Boundaries: A Political Argument for an Ethic of Care
・Virginia Held, The Ethics of Care
・Jonathan Haidt, The Righteous Mind
・Martha Nussbaum, Cultivating Humanity
・Hannah Arendt, “The Crisis in Education”
[1]道徳教育(1)
[2]道徳教育(2)
[3]道徳教育(3)
[4]道徳教育(4)
[5]道徳教育ビッグデータ
[7]教育と倫理(6)