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2023年8月20日日曜日

教育と倫理(4)

教育と倫理(3)からの続き

仲矢さん自身が,「もし居眠りするのであれば,それはその人に居眠りする理由が存在するのだ」として,居眠り検出器であることを否定しているのだが,一般には個人を特定した居眠り検出器のようにみられている。立ち歩きなどの問題行動検出器だとは説明しにくいし,実際それが授業支援に役立つというのは理解しにくいだろう。

そこで「これ国会で使ってください」という皮肉なコメントがつくことになる。


中学校時代の国語の教生の先生で,学期にわたってクラスに入ってくれた方がいた。度のきつい眼鏡をかけた先生だったが,もう名前も忘れてしまった。彼女が,授業を始める前に最初に全員に向かって話したのが,「私は寝ている生徒がいても起して叱ることはありません」ということだった。それぞれの生徒には色々な事情があって,授業中に眠ってしまうことがあるかもしれないけれど,それは認めますということだ。中学3年の東京修学旅行の最後の訪問地が羽田飛行場で,すでにやめていたその先生が久しぶりにみんなに会いに来てくれていた。


一方,豊福さんの原理主義的な主張もなかなかハードルが高い。インフォームドコンセントまではよいけれど,はたしてデータハンドリングを学習者当事者に任せることが可能なのだろうか。

テキストデータとしての学習履歴などは可能だと思うが,センサーから取得した生データのようなものはどうなるのだろうか。一律ONとOFF以外のケースはなかなか面倒なことになりそうだし,データの完備性は損なわれざるを得ない。

教育という営みの非対称性は認めるにしても,完全にイーブンな形は想像しにくい。それは,これまでの古い教育観に完全に染まった自分に学習者視点が欠けているからかもしれないし,あるいは過度なポリティカルコレクトネスのようにも思う。芦田宏直さんならまた別の物語を展開するだろう。

2023年2月12日日曜日

大泉サロン

冥王代からの続き

竹宮惠子と丸山茂徳が徳島大学時代に何の部活で接点があったのかを探していたところ,竹宮惠子の大泉サロン時代の話に引き込まれた。
大泉サロン(おおいずみサロン)は、かつて東京都練馬区南大泉に存在した借家で、漫画家の竹宮惠子萩尾望都が1970年から1972年にかけて2年間同居し交流の場となった際の呼び名である。「24年組」と呼ばれ、のちに日本の少女漫画界をリードした女性漫画家達が集った。(Wikipedia 大泉サロン)
藤子不二雄まんが道にでてくるトキワ荘のような話かと思うと,残念ながらそうではなかった。アマゾンの[3]の書評で御伽草子が「芸術家の決闘,あるいは,萩尾望都へのアンフェアな罵倒に対する逆襲」として,1万6千字費やしてしまうような物語だった。

一方,Wikipediaには次の記載がある。
「大泉サロン」には、山田ミネコ(1949年生)、ささやななえこ(1950年生)、伊東愛子(1952年生)、佐藤史生(1952年生)、奈知未佐子(1951年生)、それに少女同人サークル「ラブリ」(石川県金沢市)の坂田靖子(1953年生)、花郁悠紀子(1954年生)、波津彬子(1959年生)、たらさわみち、城章子など、いわゆる24年組と呼ばれる世代を中心とする若手女性漫画家やアシスタントが集まった。
このうち,坂田靖子花郁悠紀子(開発公子),波津彬子(開発明子)は金沢市立野田中学校の同窓生である。坂田さんは,3年6組(山田清三先生)の同級で20期卒,開発姉妹は21期と26期だ。坂田さんは病気で1年遅れたために自分と同じ学年になっていたようだ。

彼女達がまんがを描いていたことは妹から聞いて知っていた。同人サークルに妹が誘われていたのかどうかはっきりしないのだが,同人誌のようなものをちらっと見せてもらった記憶がある。卒業アルバムには坂田康子とあったような気もするが,50周年の同窓会名簿は靖子で採録されていた。竹宮惠子のマンガは全く読んでいないのだが,萩尾望都は妹から借りて何冊も熟読したのだった。

[3]一度きりの大泉の話(萩尾望都)
[4]少年の名はジルベール(竹宮惠子)
[5]増山法恵(萩尾望都と竹宮惠子を大泉サロンで結ぶ)

P. S. 2023.3.22
妹に確認したところ,彼女が中学2年から3年のころに(1969-70),坂田さんの主催する同人誌ラヴリに参加して,実際に作品を作って投稿していたらしい。ちょうど同人ラブリが創設されてまもなくのころだ。手書き同人誌を湿式コピーしたものがあったのだが処分してしまったらしい。

2022年12月22日木曜日

ウルトラQ

ウルトラQは,円谷プロダクションによる空想特撮テレビシリーズの第1弾として1966年1月から7月にかけて放映された。この武田薬品提供枠では,月光仮面(1958-1959),豹(ジャガー)の眼(1959-1960),隠密剣士(1962-1965)なども見ていた。月光仮面やジャガーの眼は自分がまだ幼稚園のころだ。小学生のころ,風呂敷被って月光仮面ごっこをしている絵日記を書いた記憶や真っ赤なサタンの爪が印象的だった絵本を読んだ記憶もある。

ウルトラQは,当時の中学1年生にとって丁度手ごろなSFドラマだった。アウター・リミッツなどもうすこし高級で怖いものもたまに見る機会があったけれど,民放のチャンネルが限られている田舎町にはなかなか文化の香りが届かない。その後,ウルトラマン(1966.7-1967.4),ウルトラセブン(1967.10-1968.9)ときて中学生を卒業することになる。

高校になると,この枠は桜木健一・吉沢京子・近藤正臣の柔道一直線(1969.6-1971.4)になってしまう。柔道が得意でピアノもひける同級生の上出君が,若き日の近藤正臣がピアノの上を跳ね回って演奏するシーンに感心していたのが印象的だった。なんだったのだろう。


さて,「ウルトラQとウルトラマンの関係について」とChatGPTに日本語で尋ねてみると,次のような残念な答しか返ってこなかった。
「ウルトラQ」は、1966年から1967年にかけて放送された「ウルトラマン」シリーズの第1作です。この番組は、地球を守るために、人間から姿を変えた異星人が、異星生命体との戦いを繰り広げるという内容です。
ところで,ChatGPTは,英語では十分訓練されていて日本語に比べてずっとマシな答えを返すという話だ。そこで,英語で尋ねてみた。
Please explain the story of Ultra Q which is the TV program in Japan mid 1960's
答えをDeepLで翻訳すると次の通りだった。だいぶマシなのである。
「ウルトラQ」は、1966年1月2日から7月3日まで日本で放送されたサイエンスフィクションテレビシリーズです。ウルトラシリーズの最初の作品であり、その後に多くの他の特撮番組や映画が加わることになりました。

番組は、奇妙な現象を調査する科学者やジャーナリストたちを描いており、彼らは様々な怪物や宇宙生物と出会います。主人公は写真家としてチームに加わる若い女性、江戸川ゆり子です。彼らは世界中を旅し、チームのリーダーである岩本教授が備える技術的に先進的な車両や武器を活用しながら、奇妙で危険な状況に遭遇します。

「ウルトラQ」は日本で人気を博し、いくつかの続編シリーズを生んでいます。その中でも「ウルトラマン」は文化的現象となり、今でも最も有名な特撮番組の一つとして知られています。日本のサイエンスフィクションの代表的作品とされ、特撮ジャンルに長く影響を与えています。
岩本教授というのはちょっと余計だが,かなり適確な回答が返ってきた。


写真:ウルトラQのタイトル(円谷プロから引用)

2022年11月9日水曜日

ブルーダイアリー

久々に家人の所用で梅田まで出る。冬に入り来年の手帳を買う季節がやってきた。

手帳を使い始めたのは,中学校のころだ。父が,北國銀行の古い手帳の残部をくれることがあって,なんとなく持ち歩いていた。手帳というのは,自分が必要とする知識をコンパクトに収めて携帯するものだと認識していた。田舎の中学生に行事や業務の予定はない。

理科の図鑑を沢山読んでいた小学校低学年のころ,宇宙の重要なデータを小さな紙に書きまとめ持ち歩いていたことがある。最も重要だと考えたのが光の速度で,1秒間に30万km,2秒で60万km など,かけ算のテーブルよろしく表にしていた。他に何を記載していたかよく憶えていないが,太陽や月や惑星のデータだったかもしれない。まあ,こども理科年表ですね。

理科で月を扱う単元の最初の時間(小学校2年),「月について知っていることはありますか」との先生の発問に,ハイハイハイと大きな声いっぱいに手を上げて無事あてられたものの,「月は地球の衛星で・・・」と頭でっかちの思いばかり先走り,その後の言葉が続かなかった。

高校時代,米島君に北國銀行の手帳を見せて自慢していたら,彼は,タナベ経営ブルーダイアリーをどこからか探し出してきた。確かにそちらの方がスマートで機能的だった。自分でこのブルーダイアリー・ジュニアを毎年買うようになったのは大学に入ってからだろうか。それ以来50年は使っていることになる。手元の引き出しには1990年からの30年分が置いてある。

ブルーダイアリーはその後,行事予定記録帳やパスワードメモ帳として活用されるのだが,定年前後から書くべき予定もなくなってしまい,アイディア計算ノートに変貌してしまった。それでも毎年購入していないと落ち着かない。

阪急百貨店のこじゃれた文房具コーナーで探すものの,高橋書店の手帳や能率手帳しか置いていない。しかたなく,紀伊国屋書店までひとっ走りしたのだが,ここも高橋書店やモレスキンやシステム手帳に占領されている。店員さんに尋ねて探し回った結果,ようやく隅の方に埋もれていたブルーダイアリー・ジュニアが発掘された。

ネットで検索してみると,タナベコンサルティングのブルーダイアリーは店頭販売から撤退してネット販売だけになっていた。ようやく買い求めることができた2023年のブルーダイアリーは外装がシックな紺の網目に変更されていた。手書きの手帳はいつまで続くことだろう。


写真:外装が濃青から紺に変更されたブルーダイアリー・ジュニア

2022年7月23日土曜日

速記部と英語部

英語部と理科部からの続き

あれは中学校2年の秋だったかのかどうか,そろそろ高校受験が気になり出した頃。クラスでは,グループで手分けして高等学校の様子を聞き取りに行くという作戦が展開されていた。自分は第一志望の金沢泉丘高校のグループに手をあげたが,他は興味本位の女子生徒が中心のチーム編成となった。

野田中は,金沢大学附属,泉丘,二水という進学校を校区にかかえ,泉丘への進学者数も年間40名でトップの位置をしめていた。午後の授業が終ってから30分ほど歩いて泉丘高校にたどり着いた。職員室の戸を開けると先生はほとんどおらず,一人だけおじいさん先生がぽつんと座っていた。おそるおそる今回の訪問の目的を切り出して,話をうかがうことにする。その先生は数学の先生だったが,わけのわからない中学生の質問に親切に丁寧に答えてくれた。

1時間ほどのヒアリングが終わり,校舎を見学してから帰ろうかと古い建物を見て回ったが,夕方であたりはもうす暗くなっていた。蛍光灯がついている教室があったので覗いてみるとと十人くらいの高校生が集まっている。度胸がある女子が声をかけると,速記クラブの仲間だという。そこで聞いた内容のほうが,高校生活の具体的なイメージがわかってずっと役に立つものだった。

そうか,速記クラブというものがあるのかと,記憶の片隅にメモしつつ,自宅まで30分の暗い夜道を帰っていった。

その後,無事に金沢泉丘高校に入学したが,そのころには速記部はほぼ消滅状態だったようだ。倉橋君に誘われて入ったE. S. S. の同学年の小幡さんが,速記部の最後の2人のうちの1人であったというのは後に知ることになる。

そんなこともあって,親に頼んで早稲田速記の通信教育を受けていたのはいつごろだったろう。おもしろかったけれど,いつものように飽きっぽくて長続きせずに挫折したのだった。


図:早稲田式速記の五十音(早稲田式の歴史から引用)

2022年7月22日金曜日

英語部と理科部

教行信証からの続き

藤場俊基君は,金沢泉丘高等学校の E. S. S. で1年後輩だったが,それに関連した話。

中学生になったとき,両親が部活動は英語部に入ったらどうかと強く勧めてきた。そもそも,小学校1-2年のときに,近所にいた父親の会社の人に英語を習いに行かされたことがある。これからの子どもには英語を学ばせる必要があるだという認識が親にあったのだろう。

それをかーるく無視して,小学校のときと同様に理科部に入った。当時の野田中の理科部は,主に化学の実験をすることが多かった。というのも,化学の担当のO先生が,まったくやる気がなくて,生徒の自由活動にまかせるという完全放任主義だったので,実験という名目のいたずら好きの悪ガキが集まってきたからだ。

部活動の時間というのか放課後は,理科準備室の鍵が空いている中を,生徒が自由に出入りして適当な実験しているというカオスな状態だった。今から思えば考えられない危険きわまりない有り様だ。カラーの実験手引きカードがあって,数人ずつの友人グループが,それぞれ見様見真似で薬品を引っ張り出して試していた。ただ,理科の授業で基本的実験操作はみんな学んでいるので,それなりになんとかなったように思われた。

我々のチームが最初に取り組んだのが石鹸づくりである。肉屋で牛脂をただで手に入れ,水酸化ナトリウム溶液中で加熱してよく攪拌してから冷やし固めるのだが,なにやら怪しい塊ができただけだった。

次に取り組んだ実験が,塩化ナトリウムの結晶をつくるというもので,飽和食塩水をシャーレに入れて長時間放置したところ,1cm角の平たい結晶ができるにはできたけれど,ちょっといまいちだった。そこで,蒸留水を自前で用意しようということになった。

ない知恵を絞って,アルコールランプ,三脚,石綿金網,スタンド,丸底フラスコ,冷却管などを組み合わせ,三角フラスコに蒸留水を集めるわけだ。さあ,アルコールランプに火をつけようととしたときに,生物担当の池田良幸先生がこの実験系を見つけて,大きな声で「危ない!」といって制止した。我々は,並ばされて1時間ほどこっぴどく叱られ続けた。実験系が閉鎖系になっていて,蒸気圧で爆発する危険があったのだ。知恵は全く足りていなかった。
図:誤った蒸留の実験系の例(高校化学Net参考書より引用)

池田先生はその後,ときどき様子をみて話しかけてくれるようになった。

高等学校に入って,理数科の同級生だった倉橋君に誘われて自分が,E. S. S. に入部すると報告したころには,親は既に英語部活動を勧める雰囲気ではなくなっていた。受験勉強の方が大事だということだったのか,なんなのだろう。

2022年1月28日金曜日

野田中学校

 鹿賀丈史(1950-)が金沢の出身だというのは知っていたのだが,金沢市立野田中学校の先輩だった。同窓会名簿をみると,勝田重勝という名前で,第17期の3年2組,林義直先生のクラスに載っている。Wikipediaには,本名が勝田薫且(しげかつ)となっているので,たぶんそうだと思う。

鹿賀丈史は,小学校時代は一時東京にいたようなのだが,材木町小学校を卒業している。高校は二水高校だ。たぶん,近所に住んでいたのだろうが,残念ながら3学年違いなので世界線が交差することはなかった。

上に登場した数学の林義直先生は,自分が2年のときの担任だった。平成3年から5年まで,野田中の第14代校長を務めている。野田中の同窓会名簿をみていたら,阪大マンドリンクラブと金沢泉丘高等学校の先輩だった,徳井久康さんや,小学校・中学校が同じで高校との同級生だった,荒井秀典君が教諭を務めていた。

当時の野田中学校(1949-)は,十一屋小,泉野小,富樫小の3校が校区だった。やがて,郊外の人口増に伴って新しく高尾台中学校(1981-)が新設され,富樫小は伏見台小(1974-)や扇台小とともにそちらの校区に編入された。野田中は十一屋小,泉野小,長坂台小(1981-)を校区としている。

なお,田中美里も十一屋小学校らしいが,中学校からはミッション(北陸学院中学校・高等学校)に進んだので野田中ではない。幼稚園が若草幼稚園なら後輩なのだが,噂によると寺町の幼稚園とのことなので,これもどうやらちがうようだ。


2020年7月29日水曜日

ひまわり

もうすぐ梅雨が明けそうだが,列島の各地を線状降水帯の豪雨が襲い,コロナの第一波第二幕の波は人口密集地に達している。今年は冷夏の予想もあって,夏のひまわりの存在感はうすいのかもしれない。

 ひまわりというと金沢市立野田中学校のシンボルであった。

久しぶりにホームページをのぞいてみると,金沢子どもかがやき宣言と野田中学校の目指す学校像がいきなり出てきて,あれあれとなったが,ちゃんと生徒信条は残っていました。

<生徒信条>
一.いつも太陽にむかって咲く ひまわりのように 明るく正しく生きよう
一.たくましく生長する  ひまわりのように  雄々しく元気に伸びよう
一.大きな輪になって咲く ひまわりのように  みんな仲良く協力しよう

有側友雄先生というハンプティ=ダンブティに似た先生がいた。野田中の「ぬし」のような威厳をもった先生だった。生徒指導というか道徳教育の核となり校長先生を差し置いて存在感を発揮していた。全校集会などで悪童どもへにらみをきかせるわけだ。その有側先生は,我々1年生の習字の授業も担当していたが,その最初の授業のときに指名されて,教卓の上に掲げられている生徒信条を読むようにといわれた。

「一(いち) いつも・・・」といったところでストップがかかり,これは一(ひとつ)と読むのだ,と訂正された。生徒信条はクラスの朝礼で毎日発声していたような気もするが,毎朝間違っていたのかもしれない。

有側先生が学年全員の前で講話をすることが何回かあったが,その1回は非常に強く印象に残っている。君たちにとって,頭,体,心,で一番大切なのは何かという問いが投げ掛けられた。幼い中学生の自分は,人間は命あっての物種なので,「体」かなと思ったが,有側先生はそれが「心」であるということをはっきりと語った。そうだったのか,と衝撃を受けた。衝撃を受けるほうがおかしいような気もするが,まあそんなものなのである。



写真:ヒマワリ(2020.8.3撮影)

2020年2月29日土曜日

昭和のプログラミング教育(4)

昭和のプログラミング教育(3)からの続き

金沢泉丘高校理数科の2年になって,カシオのAL-1000の次に取り組んだのがアナログ計算機である。

野田中学校3年のときの技術の先生が黒丸の眼鏡をかけた辻先生といって,やんちゃな生徒まで含めて全員が恐れるたいへん怖い先生だった。電気や電子回路が専門のようで,技術準備室には分解・組立中のテレビなどが山積していた。電気の授業では,電気工事士の実技試験のような設定で,木の板に碍子を固定して電線を貼るというものがあって,クラスから2名選ばれた。ドライバーなどの工具を与えられ持ち時間10分くらいで取り組んだ。もう一人は誰だったかはっきりしないが,なんと自分も選ばれてしまったのだ。練習も何もなしで「始め」といわれてもウロウロするだけで碍子一つ取り付けれずに終了した。チーン。もう一人は途中までできていたが,自分はあまりにも不器用だった。

3年の技術の授業の後半にはいよいよ真空管式ラジオの回路図が登場した。五球スーパーか何かのキットを買ってもらって真空管式ラジオを実際に組み立てたのは高校生になってからだったが,それまでも,はやくから電子工作のおもちゃは家にあり,ハンダごてを使ってトランシーバーのキットに挑戦したりと,小学生の時の鉱石ラジオから始まった電子回路への興味はとても大きかった。授業にも真剣に取り組み(ラジオの実習はなかったと思う),試験前には教科書の回路図を完全に記憶していた。試験では微分回路と積分回路が出て,そこだけが間違っていた。採点の方が誤りだったので,恐る恐る先生に申し出たところ,無事に訂正してもらえてよくできたと褒められた。

話が長くなったが,その積分回路と微分回路を使うと,高校数学で出てくるような微分方程式(当時は高等学校の数学でも簡単な微分方程式を扱っていた)を解くことができる。この原理を利用したのがアナログ計算機であり高専などでも使われていた。20年ほど前に,インターネットで探してみると神戸高専のホームページに丁度自分たちが高校時代に使っていたものの写真が見つかった。それからしばらくするとそのページも無くなってしまい,今では完全に過去の遺物となってしまった。


図1 理数科で使ったアナログ計算機(引用:神戸高専の古いウェブサイトより)


北國新聞の記事にある楠先生の収集資料の中には,昭和48年9月に全国理数科高等学校長会によって発行された理数科紀要の第1集があり,その一部のデータを送っていただいた。当時,非常にがんばってこのアナログ計算機の実験に取り組んでレポートを書いたので,楠先生に取り上げられて,あちこちの発表に利用されたようだ。同級生の北原さんと連名になっているが,ほとんど私の作品だ。昔はよく勉強していたことがわかる。

図2 理数科紀要の中で報告された当時の私のレポート

アナログ計算機は理科の準備室かどこかに設置されていて,放課後一人で残って黙々と楽しい作業を続けた。微分方程式を解いた計算結果は振動や過渡現象のグラフになって出力される。あるとき,配線を間違えてスイッチをいれると警告ブザーが鳴り響き,学校に1台しかない高価な機械を壊してしまったかと肝を冷やした。アナログ計算機は無事だった。なお,図2のレポートをワープロで書いたのは楠先生だ。自分が書いたレポートは手書きであり,ちゃんと返却してもらったのだが,50年のうちに紛失してしまった。


2019年8月23日金曜日

星稜高校

星稜高校といえば,中学3年の同級生の筒井君を思い出す。高校受験を控えて不安な気持ちがクラスに充満したとき,2人でギャグ漫画を書き始めた。カエルが主人公のくだらないギャグで満ちたノートだったが,彼が主に絵を描いていた。それを見て自分たちで笑い転げるというなんだかわからない日々が続いたが,受験前にはもう少し落ち着いて勉強に取り組むべきだった。で,かれは公立の普通高校の受験に失敗して星稜高校に進学した。

星稜高校は当時の金沢経済大学と同じ稲置学園の経営だったが,このあたりは複雑なことになっているようだ。金沢の代表的な私立高校だったが,当時はまだ野球部もそれほど有名でなく,大学への進学コースも充実してはいなかったので,今は様変わりしている。

筒井君は中学卒業のころに金沢市内から宇ノ気町に引っ越してしまった。一度だけ手紙をもらったので,自転車でその住所まで尋ねたことがあったが(それは高校時代のことだろうか),家にはたどり着かなかったような気もする。

その星稜高校の野球といえば,次の記憶がある。
1976年 夏の甲子園2回目の出場でベスト4,小松辰雄がすごかった(このときは友達と夏の信州合宿にきており,ラジオでニュースをききながら応援していた)。
1979年 夏の甲子園で和歌山の箕島高校と延長18回の大熱戦,大学から帰ってテレビをつけるとちょうどいいところで,そのまま釘付けになって応援していた。
1995年 夏の甲子園で帝京に2−1で破れて準優勝。このときの印象はない。
2019年 夏の甲子園で履正社に5−3で破れて準優勝。決勝戦はテレビでみていたが,疲れがでていたのか,攻めや守りの精度がやや足りなかった。いくつかの盗走塁失敗で,せっかくのヒットが無駄になっていた。それでも履正社を相手に良く頑張ったと思う。


2019年5月15日水曜日

金沢市立西南部中学校

JR西金沢駅を西に約1kmほど行くと,金沢市立西南部中学校がある。昭和40年だから自分が小学校6年生のときだ。地域の3中学校が統合して創立した新しい中学校だった。金沢市立野田中学校の応援団員だったので,運動部の試合の応援で行ったことが一度ある。泉中は野球,兼六中にはバスケットの応援にいったのだが,西南部中が何の競技だったかはよく憶えていない。陸上競技かな。応援に行っても恥ずかしくて声が出せず,友達と一緒にモジモジしているだけで全く役に立たない中学生であった。

西南部中学校には全国大会でも優勝したことのある相撲部があって,その卒業生が次の3名の大相撲力士だ。
遠藤聖大(1990.10.19,184cm 154kg,追手風部屋) 2005年度卒業
輝大士(1994.6.1,193cm 170kg,高田川部屋) 2009年度卒業
炎鵬晃(1994.10.18,168cm 99kg,宮城野部屋) 2009年度卒業

石川県は何故か相撲が盛んで,たいていの中学校や高等学校には相撲の土俵があった。近所の金沢市立工業高校の土俵で子どもの時から良く遊んでいた。高校生になると,今ごろの季節に卯辰山で催される高等学校相撲金沢大会の応援に1年生全員が駆り出されていた。七尾商業の舛田茂=後の舛田山(1951.4.10-)が個人優勝していたころである。