芥川龍之介が「蜘蛛の糸」を発表して百年。高二の秋の文化祭,クラスの仮装行列のテーマが 蜘蛛の糸だった。お釈迦様の極楽タワーの竹を近所から切り出し,地獄の焔と煙の絵を描いた。犍陀多に続いて蜘蛛の糸(登山部の赤いザイル)に群がる地獄の亡者だったころ。
2023年8月20日日曜日
教育と倫理(4)
2023年2月12日日曜日
大泉サロン
大泉サロン(おおいずみサロン)は、かつて東京都練馬区南大泉に存在した借家で、漫画家の竹宮惠子と萩尾望都が1970年から1972年にかけて2年間同居し交流の場となった際の呼び名である。「24年組」と呼ばれ、のちに日本の少女漫画界をリードした女性漫画家達が集った。(Wikipedia 大泉サロン)
「大泉サロン」には、山田ミネコ(1949年生)、ささやななえこ(1950年生)、伊東愛子(1952年生)、佐藤史生(1952年生)、奈知未佐子(1951年生)、それに少女同人サークル「ラブリ」(石川県金沢市)の坂田靖子(1953年生)、花郁悠紀子(1954年生)、波津彬子(1959年生)、たらさわみち、城章子など、いわゆる24年組と呼ばれる世代を中心とする若手女性漫画家やアシスタントが集まった。
2022年12月22日木曜日
ウルトラQ
「ウルトラQ」は、1966年から1967年にかけて放送された「ウルトラマン」シリーズの第1作です。この番組は、地球を守るために、人間から姿を変えた異星人が、異星生命体との戦いを繰り広げるという内容です。
Please explain the story of Ultra Q which is the TV program in Japan mid 1960's
「ウルトラQ」は、1966年1月2日から7月3日まで日本で放送されたサイエンスフィクションテレビシリーズです。ウルトラシリーズの最初の作品であり、その後に多くの他の特撮番組や映画が加わることになりました。番組は、奇妙な現象を調査する科学者やジャーナリストたちを描いており、彼らは様々な怪物や宇宙生物と出会います。主人公は写真家としてチームに加わる若い女性、江戸川ゆり子です。彼らは世界中を旅し、チームのリーダーである岩本教授が備える技術的に先進的な車両や武器を活用しながら、奇妙で危険な状況に遭遇します。「ウルトラQ」は日本で人気を博し、いくつかの続編シリーズを生んでいます。その中でも「ウルトラマン」は文化的現象となり、今でも最も有名な特撮番組の一つとして知られています。日本のサイエンスフィクションの代表的作品とされ、特撮ジャンルに長く影響を与えています。
2022年11月9日水曜日
ブルーダイアリー
2022年7月23日土曜日
速記部と英語部
英語部と理科部からの続き
あれは中学校2年の秋だったかのかどうか,そろそろ高校受験が気になり出した頃。クラスでは,グループで手分けして高等学校の様子を聞き取りに行くという作戦が展開されていた。自分は第一志望の金沢泉丘高校のグループに手をあげたが,他は興味本位の女子生徒が中心のチーム編成となった。
野田中は,金沢大学附属,泉丘,二水という進学校を校区にかかえ,泉丘への進学者数も年間40名でトップの位置をしめていた。午後の授業が終ってから30分ほど歩いて泉丘高校にたどり着いた。職員室の戸を開けると先生はほとんどおらず,一人だけおじいさん先生がぽつんと座っていた。おそるおそる今回の訪問の目的を切り出して,話をうかがうことにする。その先生は数学の先生だったが,わけのわからない中学生の質問に親切に丁寧に答えてくれた。
1時間ほどのヒアリングが終わり,校舎を見学してから帰ろうかと古い建物を見て回ったが,夕方であたりはもうす暗くなっていた。蛍光灯がついている教室があったので覗いてみるとと十人くらいの高校生が集まっている。度胸がある女子が声をかけると,速記クラブの仲間だという。そこで聞いた内容のほうが,高校生活の具体的なイメージがわかってずっと役に立つものだった。
そうか,速記クラブというものがあるのかと,記憶の片隅にメモしつつ,自宅まで30分の暗い夜道を帰っていった。
その後,無事に金沢泉丘高校に入学したが,そのころには速記部はほぼ消滅状態だったようだ。倉橋君に誘われて入ったE. S. S. の同学年の小幡さんが,速記部の最後の2人のうちの1人であったというのは後に知ることになる。
そんなこともあって,親に頼んで早稲田速記の通信教育を受けていたのはいつごろだったろう。おもしろかったけれど,いつものように飽きっぽくて長続きせずに挫折したのだった。
2022年7月22日金曜日
英語部と理科部
教行信証からの続き
藤場俊基君は,金沢泉丘高等学校の E. S. S. で1年後輩だったが,それに関連した話。
中学生になったとき,両親が部活動は英語部に入ったらどうかと強く勧めてきた。そもそも,小学校1-2年のときに,近所にいた父親の会社の人に英語を習いに行かされたことがある。これからの子どもには英語を学ばせる必要があるだという認識が親にあったのだろう。
それをかーるく無視して,小学校のときと同様に理科部に入った。当時の野田中の理科部は,主に化学の実験をすることが多かった。というのも,化学の担当のO先生が,まったくやる気がなくて,生徒の自由活動にまかせるという完全放任主義だったので,実験という名目のいたずら好きの悪ガキが集まってきたからだ。
部活動の時間というのか放課後は,理科準備室の鍵が空いている中を,生徒が自由に出入りして適当な実験しているというカオスな状態だった。今から思えば考えられない危険きわまりない有り様だ。カラーの実験手引きカードがあって,数人ずつの友人グループが,それぞれ見様見真似で薬品を引っ張り出して試していた。ただ,理科の授業で基本的実験操作はみんな学んでいるので,それなりになんとかなったように思われた。
我々のチームが最初に取り組んだのが石鹸づくりである。肉屋で牛脂をただで手に入れ,水酸化ナトリウム溶液中で加熱してよく攪拌してから冷やし固めるのだが,なにやら怪しい塊ができただけだった。
次に取り組んだ実験が,塩化ナトリウムの結晶をつくるというもので,飽和食塩水をシャーレに入れて長時間放置したところ,1cm角の平たい結晶ができるにはできたけれど,ちょっといまいちだった。そこで,蒸留水を自前で用意しようということになった。
池田先生はその後,ときどき様子をみて話しかけてくれるようになった。
高等学校に入って,理数科の同級生だった倉橋君に誘われて自分が,E. S. S. に入部すると報告したころには,親は既に英語部活動を勧める雰囲気ではなくなっていた。受験勉強の方が大事だということだったのか,なんなのだろう。
2022年1月28日金曜日
野田中学校
鹿賀丈史(1950-)が金沢の出身だというのは知っていたのだが,金沢市立野田中学校の先輩だった。同窓会名簿をみると,勝田重勝という名前で,第17期の3年2組,林義直先生のクラスに載っている。Wikipediaには,本名が勝田薫且(しげかつ)となっているので,たぶんそうだと思う。
鹿賀丈史は,小学校時代は一時東京にいたようなのだが,材木町小学校を卒業している。高校は二水高校だ。たぶん,近所に住んでいたのだろうが,残念ながら3学年違いなので世界線が交差することはなかった。
上に登場した数学の林義直先生は,自分が2年のときの担任だった。平成3年から5年まで,野田中の第14代校長を務めている。野田中の同窓会名簿をみていたら,阪大マンドリンクラブと金沢泉丘高等学校の先輩だった,徳井久康さんや,小学校・中学校が同じで高校との同級生だった,荒井秀典君が教諭を務めていた。
当時の野田中学校(1949-)は,十一屋小,泉野小,富樫小の3校が校区だった。やがて,郊外の人口増に伴って新しく高尾台中学校(1981-)が新設され,富樫小は伏見台小(1974-)や扇台小とともにそちらの校区に編入された。野田中は十一屋小,泉野小,長坂台小(1981-)を校区としている。
なお,田中美里も十一屋小学校らしいが,中学校からはミッション(北陸学院中学校・高等学校)に進んだので野田中ではない。幼稚園が若草幼稚園なら後輩なのだが,噂によると寺町の幼稚園とのことなので,これもどうやらちがうようだ。
2020年7月29日水曜日
ひまわり
2020年2月29日土曜日
昭和のプログラミング教育(4)
金沢泉丘高校理数科の2年になって,カシオのAL-1000の次に取り組んだのがアナログ計算機である。
野田中学校3年のときの技術の先生が黒丸の眼鏡をかけた辻先生といって,やんちゃな生徒まで含めて全員が恐れるたいへん怖い先生だった。電気や電子回路が専門のようで,技術準備室には分解・組立中のテレビなどが山積していた。電気の授業では,電気工事士の実技試験のような設定で,木の板に碍子を固定して電線を貼るというものがあって,クラスから2名選ばれた。ドライバーなどの工具を与えられ持ち時間10分くらいで取り組んだ。もう一人は誰だったかはっきりしないが,なんと自分も選ばれてしまったのだ。練習も何もなしで「始め」といわれてもウロウロするだけで碍子一つ取り付けれずに終了した。チーン。もう一人は途中までできていたが,自分はあまりにも不器用だった。
3年の技術の授業の後半にはいよいよ真空管式ラジオの回路図が登場した。五球スーパーか何かのキットを買ってもらって真空管式ラジオを実際に組み立てたのは高校生になってからだったが,それまでも,はやくから電子工作のおもちゃは家にあり,ハンダごてを使ってトランシーバーのキットに挑戦したりと,小学生の時の鉱石ラジオから始まった電子回路への興味はとても大きかった。授業にも真剣に取り組み(ラジオの実習はなかったと思う),試験前には教科書の回路図を完全に記憶していた。試験では微分回路と積分回路が出て,そこだけが間違っていた。採点の方が誤りだったので,恐る恐る先生に申し出たところ,無事に訂正してもらえてよくできたと褒められた。
話が長くなったが,その積分回路と微分回路を使うと,高校数学で出てくるような微分方程式(当時は高等学校の数学でも簡単な微分方程式を扱っていた)を解くことができる。この原理を利用したのがアナログ計算機であり高専などでも使われていた。20年ほど前に,インターネットで探してみると神戸高専のホームページに丁度自分たちが高校時代に使っていたものの写真が見つかった。それからしばらくするとそのページも無くなってしまい,今では完全に過去の遺物となってしまった。
北國新聞の記事にある楠先生の収集資料の中には,昭和48年9月に全国理数科高等学校長会によって発行された理数科紀要の第1集があり,その一部のデータを送っていただいた。当時,非常にがんばってこのアナログ計算機の実験に取り組んでレポートを書いたので,楠先生に取り上げられて,あちこちの発表に利用されたようだ。同級生の北原さんと連名になっているが,ほとんど私の作品だ。昔はよく勉強していたことがわかる。
2019年8月23日金曜日
星稜高校
星稜高校は当時の金沢経済大学と同じ稲置学園の経営だったが,このあたりは複雑なことになっているようだ。金沢の代表的な私立高校だったが,当時はまだ野球部もそれほど有名でなく,大学への進学コースも充実してはいなかったので,今は様変わりしている。
筒井君は中学卒業のころに金沢市内から宇ノ気町に引っ越してしまった。一度だけ手紙をもらったので,自転車でその住所まで尋ねたことがあったが(それは高校時代のことだろうか),家にはたどり着かなかったような気もする。
その星稜高校の野球といえば,次の記憶がある。
1976年 夏の甲子園2回目の出場でベスト4,小松辰雄がすごかった(このときは友達と夏の信州合宿にきており,ラジオでニュースをききながら応援していた)。
1979年 夏の甲子園で和歌山の箕島高校と延長18回の大熱戦,大学から帰ってテレビをつけるとちょうどいいところで,そのまま釘付けになって応援していた。
1995年 夏の甲子園で帝京に2−1で破れて準優勝。このときの印象はない。
2019年 夏の甲子園で履正社に5−3で破れて準優勝。決勝戦はテレビでみていたが,疲れがでていたのか,攻めや守りの精度がやや足りなかった。いくつかの盗走塁失敗で,せっかくのヒットが無駄になっていた。それでも履正社を相手に良く頑張ったと思う。
2019年5月15日水曜日
金沢市立西南部中学校
西南部中学校には全国大会でも優勝したことのある相撲部があって,その卒業生が次の3名の大相撲力士だ。
遠藤聖大(1990.10.19,184cm 154kg,追手風部屋) 2005年度卒業
輝大士(1994.6.1,193cm 170kg,高田川部屋) 2009年度卒業
炎鵬晃(1994.10.18,168cm 99kg,宮城野部屋) 2009年度卒業
石川県は何故か相撲が盛んで,たいていの中学校や高等学校には相撲の土俵があった。近所の金沢市立工業高校の土俵で子どもの時から良く遊んでいた。高校生になると,今ごろの季節に卯辰山で催される高等学校相撲金沢大会の応援に1年生全員が駆り出されていた。七尾商業の舛田茂=後の舛田山(1951.4.10-)が個人優勝していたころである。