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2024年3月13日水曜日

ツイッター買収の波紋(2)

ツイッター買収の波紋(1)からの続き

NHKの番組では,PBSフロントラインのディレクターであるジェイムズ・ジャコビーが関係者へのインタビューを重ねていく。そのなかで焦点化していくのが言論の自由の問題である。
合衆国憲法修正第1条(1791)は,
連邦議会は、国教を樹立し、若しくは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない。また、言論若しくは出版の自由、又は人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。
ということで,連邦議会に対する制限を規定している。これは,私企業が運営するネットコミュニティを対象としたものではない。ところが,ネットメディアは政府と同じもしくはそれ以上の力を持つようになったのではないかというものだ。

Twitter社が,選挙結果の改竄があったと主張するフェイクニュースやヘイトスピーチを制限したことに対して,米国の共和党や親トランプ派がこぞって異議をとなえた。それだけにとどまらず,親トランプメディアを使って,トランプ大統領補佐官がTwitter社の担当者を個人的に糾弾するにまで至った。まったく酷い話だ。

イーロン・マスクによるTwitter買収後は,永久凍結されたトランプや他のヘイターのアカウントは復活されることになった。


同じ構図が,週刊文春の記事についても指摘されることになる。性被害にあった弱者を支えるという名目で,週刊誌が「強者」を越える力を持っているのではないかという話だ。これは,今に始まったことではなく,昔(1978-)からマスコミは第四の権力とよばれていた。

しかし,その様相は変化している。新聞や雑誌の発行部数の構造的な減少とともに,週刊文春などが突出してスクープを追っているように見られる事態が発生している。テレビなども含めてほとんどのマスコミは,意識的もしくは無意識的な権力迎合へと傾いている(資本主義システムの中では当然の帰結かもしれないが)。そして,わずかなスクープは,無責任で抑制の効かないSNSによって大きく増幅されることになった。

一方で,あれもこれもまとめてフェイクニュースというレッテルをはって制限しようという権力側からの動きがある。ファクトチェックという言葉の嘘っぽさ。どうなることか。

2024年2月1日木曜日

曖昧な弱者

1月30日の日経朝刊の経済教室の伊藤昌亮(1961-)の記事が目を引いた。

「弱さ」を競い合う社会 「曖昧な弱者」存在認識をという表題である。



図:今日の左右対立の構造(伊藤昌亮 日本経済新聞から引用して改変)

日本経済新聞に掲載された伊藤の図を引用するが,自分の理解を深めるために若干修正している。一番気になっているのは,マスメディアは政治経済エリート側に包摂されてしまっているのではないかということ,リベラル・保守,左派・右派の従来の定義とスコープが機能しているのかということであり,それぞれ?を付けている。

オカケンさん[1]の助けを借りて,伊藤昌亮の論説を解読すると次のようになる。

左派やリベラル派にとって明白な弱者とは,搾取された労働者や貧困化の女性・若者であり,アイデンティティポリティックスの対象とされる,在日外国人,被差別部落,沖縄・アイヌ,障害者,LGBTQなどである。文化エリートはこれらとの連帯を強く主張する。

一方で,OECD諸国の中でも著しく「小さい」日本政府(OECD諸国最低レベルの社会福祉費と教育費)は,その福祉・教育機能を,企業や家庭に投げてきたが,グローバリズムの嵐の中でそのシステムは崩壊し,いわゆる中流階級は消滅して,激しい二極分化が生じた。

この結果,大量に生じているのが,従来の明白な弱者カテゴリーでは十分にすくい上げられない,曖昧な弱者である。社会的にはっきりと認知・共感されない彼らは,そのフラストレーションを,「あいつらだけ認知されるのはずるい(在日特権言説,生活保護・高齢者バッシング)」と明白な弱者に対して牙をむく。

それは,アメリカのトランプ現象やヨーロッパの移民排斥右翼の台頭とまさに軌を一にする動きになっている。こうして,ネットワーク上には,政治的な意図を持ってDAPPIなどが着火すれば容易に燃え上がるネトウヨ的な素地が醸成されてきたのだ。

ただ,これらに保守・右派というレッテルを貼ってよいかどうかは疑問だ。たしかに,リベラル勢力に対抗するためだけに,宗教右派は明白な弱者たたきを繰り返しているが,日本維新の会に代表されるようなネオリベラリズムは保守とはいえない。むしろ,既存秩序を崩壊させる中で,新しい権益を掠め取ろうという作戦に立っているので話は複雑だ。



2023年9月1日金曜日

関東大震災朝鮮人虐殺事件

今年は,1923年9月1日に発生した関東大震災100年にあたる。

8月30日のNHKクローズアップ現代では「集団の狂気なぜ ~関東大震災100年虐殺の教訓~」というタイトルでこれが取り上げられていた。森達也監督の映画「福田村事件」を軸として,集団化した人間の怖さと,歴史的な教訓にどう向き合うかを中心に話が進んだ。

東京都の小池知事が6年前から,朝鮮人犠牲者追悼碑前で開かれる追悼式典への追悼文を送らなくなったことには触れないだろうなと思って見ていたが,非常に控えめではあるが取り上げられていた。全然斬り込めていなかったけれど。小池知事の影響下の東京都人権部は,さらに悪質なことに,東京都人権プラザ(港区)で2022年11月30日まで開催中の飯山由貴さんの個展「あなたの本当の家を探しにいく」の付帯事業で,関東大震災での朝鮮人虐殺に言及した映像作品《In-Mates》の上映を禁止している

日本政府も同様であって,ロイターによれば
政府は9月1日に発生100年となる関東大震災を巡り、当時の朝鮮人虐殺への論評を避ける構えだ。松野博一官房長官は30日の記者会見で「政府内において事実関係を把握する記録が見当たらない」と強調し、コメントしなかった。反省や教訓の言葉もなかった。虐殺を巡っては、事実そのものを疑問視したり否定したりする言説が後を絶たず、歴史の歪曲や風化が懸念される。

日本会議を始めとする,右側の歴史修正主義者の圧力に次々と屈する事態が発生しているのだった。

本当に,政府内において事実関係を把握する記録がみつからないのかどうか,気になって,google で,朝鮮人虐殺 + 関東大震災 + site:go.jp で検索してみると確かに余り見つからない。衆議院や参議院における代表質問関連,国立国会図書館や科学技術振興機構のJ-STAGEの文献類以外はほとんどない。

一次史料ではないが,内閣府の防災情報のページにある「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成21年3月 1923 関東大震災【第2編】」にはかなり詳しい話が載っていた。また,外務省の外交文書デジタルコレクションには,関東大震災関係 2中国人等被害関係 という資料は存在している。当時は韓国併合(1910-1945)の時代だから,朝鮮人は外務省マターにはならなかったのだろう。


追伸:菅野完が,森達也を批判した返す刀で「集団化した人間の怖さ」だけを強調することの問題点を指摘していた。日本では,地震などによる大災害は頻繁に発生している。なぜ,関東大震災のときにこれほどひどい虐殺事件が発生したのか。その特殊性を帝国主義的な社会構造や植民地主義的世界観により以下のように説明している。

その特殊性とはすなわち、正力松太郎が流した官製デマであったり、当時の官憲が震災前から虎視眈々ととりわけ共産主義者を弾圧しようとねらっていた(日本共産党の結成は、1922年つまり震災の前年だ)という時代背景であったり、ロシア革命への介入戦争であったシベリア出兵直後だったという社会背景であったりじゃないのかね?(菅野完,Facebook 2023.9.5)

 

2023年8月15日火曜日

ビジネスと人権

7月24日から8月4日まで,国連連合人権理事会による「ビジネスと人権」ワーキンググループの訪日調査が行われた。

最終日に日本記者クラブで記者会見が行われた。70分の説明の後,30分ほどの質疑応答があったけれど,申し訳程度に1件だけダミーの質問があった以外は,すべてジャニーズ事務所セクシャルハラスメント問題に費やされていた。なんなのだろう。

実際には,訪日調査の速報は下記引用部のような配分になっていた。()内は当該節の文字数である。

つまり,ジャニーズ問題より多くの部分が,技能実習生制度(雇用主による度重なるヘイトスピーチなど,韓国人・中国人労働者に対する外国人差別の事例を含むや,自然環境=東京電力福島原発の廃炉作業に関わる多重下請けと強制労働の問題に費やされていた。さらに,福島原発の処理水の排出と米軍基地周辺におけるPFASも取り上げられている。

リスクのあるグループとして最初に取り上げられているのは,女性とLGBTQI+の話題であって,日本会議や統一教会と強く相互作用している自由民主党宗教右派が頑強に抵抗しているテーマであった。なお,ジャニーズ問題を含むメディアとエンターテインメント産業の項でも女性記者に対するハラスメントや差別が言及されている。

最初に,GPT-4のプラグインを使ってこの英文報告ファイルを読み込んで要約させたが,どうもおかしいので原文を確認したところ,その要約は全く的を外していた。それで,DeepLに和訳させて下記のデータを整理したのだけれど,実は,報告の日本語版もちゃんと存在していたのだった。
国連ビジネスと人権作業部会訪日ミッション(7月24日~8月4日) (14160)

【1】はじめに(1084)

【2】日本におけるビジネスと人権の一般的背景(5140)
2−1 人権を保護する国家の義務(1193)
2−2 人権を尊重する企業の責任(3766)
2−3 救済へのアクセス(2088)
・国家に基づく司法メカニズム(528)
・国家に基づく非司法的苦情処理メカニズム(777)
・国家を基盤としない苦情処理メカニズム(705)

【3】利害関係者グループおよび問題関心分野(6605)
3−1 リスクのあるステークホルダー・グループ(2804)
(1)・女性(565)
(2)・LGBTQI+(467)
(3)・障害者(514)
(4)・先住民族(632)
(5)・部落(457)
(6)・労働組合(117)
3−2 テーマ別分野(3451)
(1)・健康、気候変動、自然環境(1662)
(2)・技能実習生訓練プログラムと移民労働者(927)
(3)・メディアとエンターテインメント産業(804)

【4】結論(825)


図:ビジネスと人権の関係(ヒューマンライツ・ナウから引用)


2023年6月26日月曜日

通俗道徳と日本資本主義


日本会議の研究でおなじみ,天理市出身の菅野完(1974-)が,FaceBookおよびYouTubeで展開していた論(1:08:30あたり->)が腑に落ちた。

その趣旨は次のようなものだ。欧米ではプロテスタンティズムが資本主義を産み出したが,日本では江戸時代に上方で商品経済の勃興とともに発生した通俗道徳がその後の資本主義発展に大きな役割を果たした。

通俗道徳というのは,「勤勉・倹約・礼儀・孝行などの道徳的規範を履行していれば富や幸福が訪れる」というものだ。それ以前は「全ては前世の宿業」という仏教的な因縁思想が主流だった。通俗道徳により,成功している人=道徳的規範を履行した人,不幸な人=道徳的規範の履行に欠損がある人,という認知が進むことになる。

ある人が不幸な場合,その原因は本人の道徳的瑕疵に着せられ,社会構造への批判的検討や歴史的経緯に対する考察は入りえない。不幸な人が告発する行為は,礼儀という徳目違反と見なされて,さらに不道徳ポイントが追加される。それだけでなく,成功者がこの不道徳事例を見逃すことによる減点をさけるために,不幸な告発者への道徳的批判に邁進することになる。

このような通俗道徳の土壌の上には「人権」や「権利」などの意識は芽生えようがない。欧米(プロテスタンティズム)では全ての人が神との平等な契約にさらされており,これによって人権意識が育まれたのとは大きな違いがある。

そのため,日本の資本主義は欧米のそれとは異なり,人権という片方の車輪を欠いたまま成長してしまったというわけだ。1945年の敗戦で,脱輪はいったん解消されたが,その後75年経過して再び脱輪の道を進んでいる。実際,女性差別,外国人差別,LGBTQ差別,などは放置されたまま,いや悪化の一途を辿っている。これが菅野完の論のあらすじだった。

結論:通俗道徳論 ≒ 自己責任論 ≒ 日本型新自由主義(自民党・維新支持者の論理)
noiehoieさんには「通俗道徳の倫理と資本主義の精神」という新書をはやく書いてほしい。


2022年8月24日水曜日

ファシズムの初期兆候

アメリカ・ワシントンD.C.にあるアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館の"Early Warning Signs of Fascism"と題された展示ポスターに掲げられているファシズムの初期兆候の14項目は以下のとおりである。 
01.  強力かつ継続的なナショナリズム(Powerful and Continuing Nationalism)
02.  人権の蔑視(Disdain for Human Rights)
03.  団結させるための敵の設定(Identification of Enemies as a Unifying Cause)
04.  軍事の最優先(Supremacy of the Military)
05.  はびこる性差別(Rampant Sexism)
06.  支配されたマスメディア(Controlled Mass Media)
07.  国家安全保障への執着(Obsession with National Security)
08.  宗教と政治の結合(Religion and Government Intertwined) 
09.  企業の力の保護(Corporate Power Protected)
10.  労働者の抑圧(Labor Power Suppressed)
11.  知性や芸術の蔑視(Disdain for Intellectuals and the Arts)
12.  刑罰強化への執着(Obsession with Crime and Punishment)
13.  身びいきや汚職の蔓延(Rampant Cronyism and Corruption)
14.  不正な選挙(Fraudulent Elections)
ワシントン・マンスリーの2017年1月の記事(The 12 Early Warning Signs of Fascism)では,上記のうち04と14を除いた12項目が,トランプ政権にあてはまる兆候だとしている。安倍政権以降の自公政権+維新についても同様かもしれない。その項目の多くが統一教会,日本会議,神道政治連盟などの活動と共鳴しているように見える。

2022年3月3日木曜日

水平社宣言

1922年の3月3日に,京都市の岡崎公会堂で,全国水平社の創立大会が開かれ,そこで, 水平社宣言が採択された。その100周年になる。奈良県御所市にある水平社博物館もリニューアルされて,3月3日にオープンする。

全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。

 長い間虐められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によつてなされた吾らの爲めの運動が、何等の有難い効果を齎(もた)らさなかつた事實は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によつて毎に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたは)るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。

 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、實行者であつた。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剝ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剝取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖い人間の心臟を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。

 吾々が穢多である事を誇り得る時が來たのだ。

 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によつて、祖先を辱しめ、人間を冒瀆してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何なんであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃(がんぐらいさん)するものである。

 水平社は、かくして生れた。

 人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ。    

大正十一年三月


写真:水平社創立の綱領と宣言(水平社博物館から引用)

2022年2月6日日曜日

反知性主義(2)

反知性主義(1)からの続き

問題は,大阪・関西である。橋下徹と大阪維新によって,反知性的主義的な空気が横溢している。 かつて,上岡龍太郎が関西のテレビ界のご意見番だった時代があった。いまでは,右翼的な政権擁護発言や陰謀論発言によって,ホンコンを中心とした吉本軍団が報道バラエティ番組を牛耳っており,吉村とのタッグで連日洗脳活動を続けている。維新が関西の議席を席捲するわけなのだ。

橋下は,自らの言動への批判に対して「学者のいうことなんて」と反知識人的な言辞を振りまいて対抗した。そして,大阪府立国際児童文学館を解体し,文楽協会に対する大阪府・市の補助金をだまし討ちのような形で引き上げ,大阪人権博物館をつぶした。公共空間を民営化の名のもとに売り渡し続けた。それが松井,吉村によって継続されている。

橋下とそのまわりの維新メンバーらが,民族差別や病弱者差別をふりまくさまは,ほとんどナチスの前兆現象と重なって見えてくる。トランプや安倍を例にあげるまでもなく,反知性主義とレイシズムは容易に結合する。

町山智弘水道橋博士との対談で指摘していた話が興味深かった。1961年に来日したデイヴィッド・リースマンが日本には反知性主義がないことに驚いていたが,国民の多くがドストエフスキーの小説に親しんでいるような知性的な国は他にはなかったとの見立てだ。この知的・文化的な集積の中で日本の高度成長も可能になった。

その文化的な集積の中心であった関西には1500年の歴史があって,畿内は常に東国よりも文化的に上位に位置していた。ところが,大阪維新の台頭によってこれが見る影もなくなってしまった。大阪には本来豊かな文化的風土があったのだが,いつのまにか,最近の吉本芸人による下品な笑いが大阪の文化だといわれるまでになってしまった。

2021年8月1日日曜日

人権と多様性

 教養学科が廃止させられ=教育協働学科に改組したときの,教養基礎教育のカリキュラム改正で,流行に便乗してダイバーシティ教育をキーワードの一つにした。まあ,もう一つ何かあったかもしれなけれど,ほとんどそれしかなかった。このとき,大阪教育大学の人権教育の歴史を背景としてという説明を考えていた。あまり強調する機会はなかったかもしれない。

きょうのTwitterで@metsaihmisetさんや@ShinHori1さんが次のように語っている。

Shin Hori :最近は,「権利」「平等」「差別否定」等という"強い"言葉を使いたくないので,「多様性」という"弱い"言葉を使ってごまかしているケースが目立つように思える。

Shin Hori :「多様性を実現するために差別を解消しよう」という訳のわからないことを言ってる人さえいる。差別解消はそれ自体で完結しており,"多様性"のための手段ではない。例えば女声に参政権が付与されたのは,多様性を実現するためではないし,"多様性"という言葉を使う必要さえない。

Albert Rasimus:生まれながらにして人は全て同等の権利(自然権としての人権)を持つため多様性とは無関係に人権は守られるべき権利とされています。結果として多様になるのであって権利が同等だからです。

Albert Rasimus:現行日本国憲法は自然権としての人権を認めていますが自民党はこれを気に入らないので改正したいのです。九条は建前です。危険を煽ることで九条は賛否両論となります。人権を奪いたいと言えば反対されるのは明白だからそちらに目を向けて賛成を増やしたいのです。憲法は人権という観点から見るべきです。

一方で,自分も陥りがちな観点として,生物多様性による環境適応の柔軟性や進化を念頭に,「人間社会においても多様性が実現しているほうが,社会としての安定性や継続性に寄与することが可能だろう」という準(疑似?)科学的な見方がある。

こちらのほうは,いわゆる「新自由主義」と親和性が高く,ともすれば多様性+自由競争という選択が,既存権益の温存につながるという残念な帰結をもたらしてしまう。そんなわけで,多様性の議論には人権というしっかりと地に足のついた観点が欠かせない。

あるいは,多様性=人権に気付いているからこそ,自民党宗教右派は,LGBTに反対し,選択的夫婦別氏制度を拒否し,多様な家族のあり方を否定する。


2019年9月14日土曜日

関東大震災とジェノサイド

法被婆酢泥が迫る今日この頃。

東京オリンピック2020は,旭日旗を振り回すだけでなく,無意味なかき氷ばらまきまで行うことになりそうな始末。目も当てられない。毎年9月1日に東京で開かれている関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典に3年連続で追悼文を送らずして虐殺否定論者を支援している小池百合子東京都知事は,橋本聖子五輪担当相と口をそろえてオリンピックへの旭日旗の持ち込みを推奨している。

千葉の台風15号停電断水被害を見聞きするにつけ,あらためて関東大震災のときのことを学ばなければと痛感する。加藤直樹(鹿島拾市)の「九月,東京の路上で―1923年関東大震災 ジェノサイドの残響」は,外山恒一がどこかで書いていたからだろうか,買って読んだのだけれど,もうひとつピンと来なかった。

内閣府の防災情報のページには,「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月1923 関東大震災」があるので,とりあえず,第4章 混乱による被害の拡大の「第1節 流言蜚語と都市」と「第2節 殺傷事件の発生」を読めとどこかにあったような気もしたが,これでは全く不十分なのだと思われる。2003年の日弁連の勧告書「資料 関東大震災人権救済申立事件調査報告書」なども。

[1]関東大震災時の朝鮮人虐殺について参考となる資料・書籍やサイト一覧

2019年9月6日金曜日

徴用工判決をめぐって

2018年の11月5日に「元徴用工の韓国大法院判決に対する弁護士有志声明」が出されている。

その内容は,いたってシンプルであり納得できるものだ。
1 元徴用工問題の本質は人権問題である
2 日韓請求権協定により個人請求権は消滅していない
3 被害者個人の救済を重視する国際人権法の進展に沿った判決である
4 日韓両国が相互に非難しあうのではなく,本判決を機に根本的な解決を行うべきである

しかし,日本中の多くの人々は政府の説明(国どうしの約束は守らなければならない)のほうを支持しているようだ。

2019年8月5日月曜日

表現の自由

日本国憲法

第二十一条 集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。
○2 検閲は,これをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない。
日本国憲法の下でも,表現行為が他者とのかかわりを前提としたものである以上,表現の自由には他人の利益や権利との関係で一定の内在的な制約が存在する。内在的制約とは,第一には人権の行使は他人の生命や健康を害するような態様や方法によるものでないこと,第二には人権の行使は他人の人間としての尊厳を傷つけるものであってはならないことを意味する。 (Wikipedia 日本語版「表現の自由」より)


2019年5月6日月曜日

日本国憲法

5月3日は,憲法記念日だった。インターネットには,まだ自分の知らない興味深いコンテンツがいろいろと埋蔵されている。発見したのは「最高法規の意志」。日本国憲法の体系的な構造をわかりやすく図解するとともに(下図参照),憲法九条改正議論の問題点,あるいは,人権の根拠に対する具体的な例による楽しい解説など,深く考えられたサイトだ。

一つのポイントは,体系的な憲法の構成を考えると,安易な部分的改正は憲法の体系に大きな不整合と意味の変質をもたらしてしまうということ。第九条がもともと全文として位置づけられていて,「総則規程」として「統治規程」全体を縛るものであることから,そこに,三権の一つである行政権配下の一行政組織としての自衛隊を書き込むことのバランスの悪さは際立っている。と同時に国の方向性を大きく歪めてしまう。

図:日本国憲法の体系(「最高法規の意志」からの引用)