「弱さ」を競い合う社会 「曖昧な弱者」存在認識をという表題である。
日本経済新聞に掲載された伊藤の図を引用するが,自分の理解を深めるために若干修正している。一番気になっているのは,マスメディアは政治経済エリート側に包摂されてしまっているのではないかということ,リベラル・保守,左派・右派の従来の定義とスコープが機能しているのかということであり,それぞれ?を付けている。
オカケンさん[1]の助けを借りて,伊藤昌亮の論説を解読すると次のようになる。
左派やリベラル派にとって明白な弱者とは,搾取された労働者や貧困化の女性・若者であり,アイデンティティポリティックスの対象とされる,在日外国人,被差別部落,沖縄・アイヌ,障害者,LGBTQなどである。文化エリートはこれらとの連帯を強く主張する。
一方で,OECD諸国の中でも著しく「小さい」日本政府(OECD諸国最低レベルの社会福祉費と教育費)は,その福祉・教育機能を,企業や家庭に投げてきたが,グローバリズムの嵐の中でそのシステムは崩壊し,いわゆる中流階級は消滅して,激しい二極分化が生じた。
この結果,大量に生じているのが,従来の明白な弱者カテゴリーでは十分にすくい上げられない,曖昧な弱者である。社会的にはっきりと認知・共感されない彼らは,そのフラストレーションを,「あいつらだけ認知されるのはずるい(在日特権言説,生活保護・高齢者バッシング)」と明白な弱者に対して牙をむく。
それは,アメリカのトランプ現象やヨーロッパの移民排斥右翼の台頭とまさに軌を一にする動きになっている。こうして,ネットワーク上には,政治的な意図を持ってDAPPIなどが着火すれば容易に燃え上がるネトウヨ的な素地が醸成されてきたのだ。
ただ,これらに保守・右派というレッテルを貼ってよいかどうかは疑問だ。たしかに,リベラル勢力に対抗するためだけに,宗教右派は明白な弱者たたきを繰り返しているが,日本維新の会に代表されるようなネオリベラリズムは保守とはいえない。むしろ,既存秩序を崩壊させる中で,新しい権益を掠め取ろうという作戦に立っているので話は複雑だ。
[2]曖昧な弱者とその敵意―弱者バッシングの背景に(伊藤昌亮)
[3]ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか(伊藤昌亮)
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