Q(koshix):日本の物理学者で量子力学の黎明期から日本への移入に尽力した杉浦義勝(1895-1960)について,できるだけ詳しくその来歴や業績などを年代を追ってまとめてください。同世代の仁科芳雄に比べてインターネット上に公開されていて手に入る情報量が少なくて探し切れずに困っています。A(ChatGPT Deep Research):杉浦義勝(1895-1960)について、彼の来歴や業績を年代順に詳しくまとめるために、信頼できる情報源を徹底的に調査します。以下の点を確認させてください:・彼に関する特に重点を置きたい分野(例:量子力学の導入過程、日本の物理学教育への貢献、研究業績など)・既にお探しになったが見つからなかった情報(例:特定の論文、大学での具体的な役職、弟子や共同研究者など)・参考にしたい具体的な書籍や文献(もしあれば)これらの点を補足いただければ、より詳細で正確な情報を提供できるよう努めます。Q(koshix):量子力学の導入過程や研究業績を中心に彼全体像がわかるようにお願いします。弟子や共同研究者などその波及効果についても知りたいです。A(ChatGPT 4o research):(7分かけて22件の情報源を調査)**杉浦義勝(1895–1960)は、日本における量子力学導入の草分け的存在です。**東京帝国大学理学部を卒業後、長岡半太郎の下で理化学研究所に入り、1926年から欧州に留学しました。ゲッティンゲン大学ではマックス・ボルンに学び、コペンハーゲンではニールス・ボーアの薫陶を受けています。1927年に帰国した杉浦は、日本人として黎明期の量子力学を応用した優れた成果を挙げ、日本への量子力学の移入に大きな役割を果たしました。その功績により、従来「仁科芳雄が日本に量子力学を伝えた」とされてきた通説に再考を促し、仁科と並んで日本の量子物理学発展に寄与した人物として再評価されています。以下では、量子力学の受容過程、研究業績、弟子・共同研究者、そして学術界・教育界への影響の観点から、杉浦の来歴と業績を詳述します。1.量子力学の導入過程における杉浦の役割欧州留学と最新理論の紹介:杉浦は1926年から約1年間の欧州留学で、当時構築されつつあった量子力学を直接習得しました。ゲッティンゲンではボルン、コペンハーゲンではボーアの元で研鑽を積み、P.A.M.ディラックやJ.R.オッペンハイマーとも親交を結んでいます(1927年夏、ゲッティンゲンでディラックとオッペンハイマーと撮影された写真が残っています)。仁科芳雄ともコペンハーゲンで行動を共にし、欧州で最新理論を学ぶ仲間でした。こうした留学経験を通じて、杉浦は量子力学の知見を日本に持ち帰る準備を整えました。帰国後の講義と普及活動:帰国した1927年以降、杉浦は精力的に新理論の紹介と教育に取り組みます。例えば1928年2月には「新量子力学と其の応用」と題する集中講義を行い、シュレーディンガーやド・ブロイの波動力学と古典光学(ハミルトン‐ヤコビ理論)を関連づけて解説しました。これは日本で初めて体系的に量子力学を紹介した講義の一つであり、ボルンによる光学再解釈など当時最先端の業績も含めて紹介されています。杉浦の講義は学生や若手研究者に強い刺激を与え、朝永振一郎(のちのノーベル物理学賞受賞者)も東京帝大在学中に杉浦の量子力学講義を熱心に聴講した一人でした。杉浦は才能ある学生に課題を与えて指導し、朝永には自身が携わっていた水素分子の量子論計算に関する問題を与えています。このように杉浦は講義や演習を通じて、当時の日本の若手物理学者に量子論の考え方を浸透させていきました。翻訳・著作活動:杉浦は新知見を日本語で提供することにも尽力しました。留学中から執筆した論文だけでなく、帰国後は講義録や専門書の形で知識を普及させています。たとえば1930年頃には私家版の講義録『量子力学の応用』をまとめており、1936年から1940年にかけて『電磁光学』『量子光学』などの著書を刊行して量子論の各分野を解説しています。1939年には共立社の「量子物理学」叢書の一巻として『原子核物理学(実験)』を著し、当時発展しつつあった核物理学の知見も紹介しました。これらの著作や翻訳相当の解説書によって、杉浦は日本語で読める最新の物理学情報を提供し、日本の物理教育カリキュラムに量子力学を定着させることに貢献しました。仁科芳雄との比較:日本への量子力学導入において、仁科芳雄と杉浦義勝はいわば車の両輪でした。仁科は主に欧州での研究活動(ボーアの下での原子物理研究)や帰国後の理研での実験的基盤整備によって量子物理学を押し進めました。一方、杉浦は理研の研究員として理論的成果を上げつつ、大学や専門書を通じた教育・啓蒙活動で量子力学を広めています。歴史的には仁科の名が前面に出がちでしたが、近年の研究では「日本に量子力学を伝えたのは仁科と杉浦の両名である」と再評価されています。実際、仁科が欧州から論文を取り寄せ読んでいるだけでは十分でなかったところを、杉浦が自ら欧州で学び直接講じたことが、日本の物理学界全体の理解を大きく深めたとされています。両者の協力と相補的な活動により、日本の量子論研究の地盤が1920年代末から築かれていきました。2.杉浦義勝の研究業績水素分子の量子論的研究:杉浦の代表的業績は、水素分子における化学結合の量子論的解明です。1927年、欧州留学中にウォルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンが提唱した水素分子の結合理論(ハイトラー=ロンドン法)を発展させ、結合エネルギー計算のための複雑な積分を初めて解きました。ハイトラー=ロンドン法では定性的に水素分子の結合が説明できましたが、杉浦の計算により結合エネルギーや平衡核間距離が定量的に求められ、実験値との比較が可能となったのです。この成果は当時の日本人研究者による量子力学応用として画期的であり、後にヘンリー・アイリングは「水素分子結合解明に最初に成功したのは杉浦義勝である」と述べ、**ハイトラー=ロンドン=杉浦法(HLS法)**と呼び得ると評しています。杉浦の論文「水素分子基底状態の性質について」(独語)は1927年の『Zeitschrift fur Physik』に掲載され、国際的にも引用されました。この業績により、量子化学(特に原子価結合論)の分野で杉浦は名を残すことになりました。原子スペクトル・解析力学の研究:杉浦は量子力学以前から原子分光学の研究に従事しており、長岡半太郎の下で原子スペクトルの理論に取り組んでいました。量子力学の形成期にも一貫してスペクトル研究を続け、新理論をいきなり受け入れるのではなく古典論との連続性を意識していたことが指摘されています。例えば古典解析力学のハミルトン–ヤコビ理論を用いて量子論の問題にアプローチし、分光学への応用を模索しました。こうした視点から、マックス・ボルンが提唱した「量子力学から見直した光学理論」の体系的紹介も行っています。杉浦の業績は今日では物理学と量子化学の両分野にまたがり、従来の物理学史研究では見落とされがちでしたが、実は物理学(量子論)と化学(量子化学)の架け橋となる重要な研究を成し遂げていたと評価されています。その他の研究と国際交流:杉浦はその後も理化学研究所で理論物理の研究を続け、1930年代には電子論や光学分野でも著述を残しました。1936年刊行の『電磁光学』および1940年刊行の『量子光学』では、自身の研究と最新の知見を踏まえ電磁気学から量子光学への展開を論じており、戦前期における量子論の体系化に寄与しています。国際的な繋がりも深く、留学時代に親交を結んだオッペンハイマーとは帰国後も交流が続き、1935年に理研の同僚が米国バークレーのオッペンハイマーを訪ねる際には杉浦の紹介状が大いに役立った逸話が残っています。欧米の研究者(ボルン、ボーア、ディラック、オッペンハイマーら)とのネットワークは、杉浦自身の研究活動のみならず日本への最新知識の導入にも貢献し、彼の国際感覚は日本の物理学の視野を広げました。3.弟子・共同研究者とその継承門下生と後進の育成:杉浦は教育者・指導者としても卓越しており、多くの若手を指導しました。直接の門下生として名が挙がる人物は多くありませんが、彼の講義を受けた学生たちが後に日本の物理学を担っています。前述の朝永振一郎はその代表例で、杉浦から与えられた課題(分子の積分計算)に取り組んだ経験が、後の量子電気力学研究の素地になったとも言えます。また京都帝大で同期だった湯川秀樹も杉浦の講義に刺激を受けた一人であり(湯川自身、大学院時代に量子力学の勉強会を主宰しましたが、その背景には杉浦ら先達の教えがあります)、湯川の中間子論もこうした量子論普及の延長線上に位置付けられると指摘する声もあります。戦前戦後を通じて、杉浦の薫陶を受けた学生・研究者たちが日本の理論物理学を支えていったのです。共同研究と交流:杉浦自身の研究は理論が中心でしたが、理研では仁科芳雄や小谷正雄ら同僚とも緊密に交流し、理研内における理論物理研究グループの一翼を担いました。たとえば小谷正雄(のち東大教授)は1930年代に分子の量子論的研究を推進しましたが、その着想は杉浦の業績に負うところが大きいとされます。実際、小谷研究室は戦前から原子・分子の積分計算に着手し、戦後もその研究を継続して世界的に著名な「分子積分表」(1955年)を刊行しています。この小谷正雄は杉浦の直接の弟子ではありませんが、杉浦が切り拓いた量子化学の道を発展させた後進と言えます。さらに戦後、杉浦は自身が所長を務める立教大学理論物理学研究所に武谷三男を招き入れました。武谷は湯川博士の弟子筋にあたる理論家ですが、杉浦の下で素粒子理論の研究をリードし、立教の若い学生たちを指導しています。このように杉浦は自らの弟子のみならず、他機関の有望な研究者とも協働し、研究環境を提供することで日本の物理学の継承と発展に貢献しました。国際的な人的ネットワーク:杉浦の人的交流は国内に留まらず海外にも広がっていました。欧州で知り合った物理学者とは書簡を交わし続け、研究情報や人材紹介を行っています。前述のオッペンハイマーへの紹介状の件はその一例で、他にもコペンハーゲン時代の縁でニールス・ボーア研究所と理研の間で情報交換がなされるなど、杉浦は非公式な「学術外交官」としても機能しました。こうしたネットワークは、杉浦の弟子や後輩たちが海外留学する際にも役立ち、日本人研究者の国際交流を後押しする遺産となりました。4.学術界・教育界への影響理研から大学へ:杉浦は戦前・戦中は理化学研究所の研究員として活躍し、日本学術振興会の委員や学術研究会議の会員も務めるなど、学術界の発展にも寄与しました。戦後になると、彼は研究の場を大学へと移し、新制大学における理学教育の充実に力を注ぎます。1949年、杉浦は私立大学として日本初となる理学部(立教大学理学部)の創設に中心メンバーとして関与し、初代理学部長および物理学科教授に就任しました。戦後混乱期において私学で理学部を設置するのは画期的であり、杉浦はカリキュラム編成から設備拡充、人材登用まで指導的役割を果たしました。当時、理学部創設にあたり「理論物理学研究所」も立ち上げ、研究と教育の両立を図った点は特筆されます。ここでは素粒子理論の武谷三男を迎えるなど、戦前からの先端研究者を教育界に招き入れたことで、学生は最先端の研究に触れながら学ぶ機会を得ました。物理教育への貢献とカリキュラム改革:杉浦は自身の研究経験を踏まえ、教育面でもカリキュラム改革を推進しました。戦前から執筆していた教科書・専門書類は、戦後も物理教育に活用されました。彼の著書群(光学、電子物理学、原子核物理学など)は、日本の大学で量子論や現代物理学を教える貴重な教材となり、戦後世代の物理学者・技術者の育成に寄与しました。また理学部長として、講義科目に量子力学や相対論といった当時最新の内容を組み込み、旧来の教育からの脱却を図っています。これは、古典物理学中心だった日本の大学教育に革新をもたらし、湯川秀樹や朝永振一郎ら戦前世代が成し遂げた成果を、次世代に体系的に伝える重要な役割を果たしました。戦後日本の科学への貢献:杉浦の戦後の活動は、日本の科学界再建にもつながりました。戦中・戦後に物理学研究が停滞する中、私立大学で理論研究の火を絶やさなかったこと、さらには学術団体での活動(学術会議や学振)を通じて研究費や方針の整備に関与したことは、日本の科学復興に寄与しています。例えば、立教大学で育った学生や研究者が後に他大学や産業界で物理・化学分野を発展させたり、杉浦自身が培った量子化学的手法が化学や材料科学で活かされたりと、その影響は幅広い分野に及びました。加えて、戦前に築いた国際的人脈を活かして海外からの知見導入にも努め、戦後孤立しがちだった日本の科学界に国際的視野をもたらしました。こうした功績から、近年では杉浦を「もう一人の日本近代物理学の父」と位置づける評価もなされています。仁科芳雄が研究体制の構築者だとすれば、杉浦義勝は知の伝道者・育成者として、日本の物理学基盤を支えたと言えるでしょう。参考文献:杉浦義勝の業績に関する詳しい検討として、中根美知代「量子力学の日本への移入と杉浦義勝」、Nakane, Michiyo “Yoshikatsu Sugiura’s Contribution to the Development of Quantum Physics in Japan” PUBMED.NCBI.NLM.NIH.GOV、などがあります。これらは仁科・杉浦両氏の役割を再評価した研究で、本回答でも一部内容を参照しました。そのほか、杉浦自身の論文、彼の書簡や同時代人の回想、立教大学理学部創設に関する記録などを総合することで、上述のような杉浦義勝の全貌が明らかになります。今後も日本の科学史の中で、杉浦の果たした役割に一層光が当たることが期待されます。
芥川龍之介が「蜘蛛の糸」を発表して百年。高二の秋の文化祭,クラスの仮装行列のテーマが 蜘蛛の糸だった。お釈迦様の極楽タワーの竹を近所から切り出し,地獄の焔と煙の絵を描いた。犍陀多に続いて蜘蛛の糸(登山部の赤いザイル)に群がる地獄の亡者だったころ。
2025年3月6日木曜日
杉浦義勝(1)
2025年1月19日日曜日
国際量子科学技術年
Uber quantentheoretische Umdeutung kinematischer und mechaniseher Beziehungen.Von W. Heisenberg in Gottingen. (Eingegangen am 29. Juli 1925.)In der Arbeit soll versucht werden, Grundlagen zu gewinnen fur eine quantentheoretische Mechanik, die ausschliellich auf Beziehungen-zwischen prinzipiell beobachtbaren Grossen basiert ist.運動学的・力学的関係の量子論的再解釈についてW. ハイゼンベルグ ゲッチンゲンに於て (1925年7月29日受領)この著作では、主として観測可能な量間の関係のみに基づく量子論的力学の基礎を得るための試みがなされている。
2025年1月13日月曜日
高峰譲吉
吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。
2025年1月12日日曜日
ケプラーの法則
Q(koshix):放送大学の物理の授業で,ケプラーの法則における太陽から惑星までの距離の算出は三角測量によるという説明がありました。地球が太陽に対して半年(半周期)動く間の年周視差から求めるという説明です。しかし,この半年の間に対象の惑星も動いてしまうので,その説明はおかしいと思います。なおかつ,ケプラーの第2法則(面積速度一定)を導くには,一定の時刻ごとの惑星の距離を細かく求める必要があります。ケプラー当時の正しい惑星までの距離の算出方法を教えてください。A(ChatGPT 4o):ケプラー(1571-1630)の時代(16-17世紀)には、正確な天体の距離を測定する直接的な手段は存在せず、彼が導いた法則は全て当時の天文学的観測データを基にした理論的な成果です。特に惑星までの距離に関しては、ケプラーが自身で測定したのではなく、師であるティコ・ブラーエ(1546-1601)が収集した膨大で正確な観測データを利用しました。以下、ケプラーがどのように惑星の軌道や距離を導き出したかについて説明します。1.ケプラーのデータの基盤:ティコ・ブラーエの観測ティコ・ブラーエは肉眼による観測で非常に精密な惑星の位置データを記録しました。このデータは地球から見た惑星の位置(天球上の角度)であり、視線方向に沿った正確な距離を含むものではありません。しかし、ケプラーはこのデータを用いて、惑星の相対的な位置関係と軌道の形状を特定しました。2.惑星の軌道と距離を決定する方法ケプラーが惑星の距離を導き出したプロセスは以下の通りです:(1) 軌道形状の特定ケプラーは火星の運動を解析し、地球中心ではなく太陽中心の楕円軌道であることを発見しました。特にケプラー第1法則(楕円軌道)を導くためには、火星が地球の位置に応じてどのように見えるかを計算し、楕円形状に適合させました。(2) 相対的な距離の算出ケプラー第3法則(公転周期の2乗が軌道長半径の3乗に比例する)を導く際、惑星の軌道の大きさを相対的な値として計算しました。この段階では、惑星の距離が具体的な長さ(例えばキロメートル)として測定されたわけではありません。(3) 地球の公転周期を基準とした計算地球の軌道を基準にして、火星など他の惑星の公転周期や位置を求めました。このプロセスで、地球が太陽の周りを公転していることを前提とした解析が行われます。惑星の位置はティコ・ブラーエの観測データと地球の軌道位置(半年ごとの視角差)を組み合わせて計算されました。(4) 具体的な距離の単位の確立ケプラー自身は「天文単位(AU)」という現代の距離単位を使うことはありませんでした。彼の計算は全て相対的なスケールで行われており、具体的な数値距離は後世の科学者が導きました。特に19世紀に恒星の年周視差が測定されるまで (注) 、天文単位をメートルやキロメートルに変換する手段は存在しませんでした。3.あなたの疑問に対する回答ケプラーの時代には「三角測量」や「年周視差」を利用して直接惑星の距離を測定することは不可能でした。年周視差は恒星の距離を測るための手法であり、ケプラー当時は恒星までの視差すら測定できていませんでした。ケプラーの法則は、視差や三角測量を直接使わず、惑星の相対的な位置とティコの観測データから導き出された理論です。惑星が動いてしまうという点に関しては、ケプラーが惑星の動きや相対的な位置関係を細かく解析することで克服しています。彼はティコの観測データを楕円軌道に適合させることで、惑星の位置を追跡し、時刻ごとの距離を計算しました。補足実際に太陽と惑星の距離が具体的な単位で測定されたのは、以下の進展を経てからです:・1672年:天文学者ジョヴァンニ・カッシーニが火星の視差 (注) を測定。・19世紀:恒星の年周視差が測定され、天文単位の具体的なスケールが確立。ケプラーの法則は、相対的な解析による成果であることを理解すると、当時の方法論の精巧さがより明確になります。
2024年11月28日木曜日
ロバート・オッペンハイマー:藤永茂
2024年11月24日日曜日
朝永振一郎
2024年8月17日土曜日
経度問題
Q(koshix):経度問題の歴史的経緯に関する蘊蓄をお願いします。A(Claude 3.5 Sonnet):経度問題の歴史的経緯について説明いたします。これは航海と地図作成の歴史において非常に重要な課題でした。1.問題の背景:経度を正確に測定することは、船舶の位置を特定し、安全な航海を行うために不可欠でした。緯度の測定は比較的簡単でしたが、経度の測定は長年にわたり困難な課題でした。2.初期の試み:16世紀から17世紀にかけて、様々な方法が提案されました。例えば、木星の衛星の動きを観測する方法などがありましたが、海上での実用性に乏しいものでした。3.経度法の制定:1714年、イギリス議会は経度法を制定し、実用的な経度測定方法を開発した者に多額の賞金を提供することを決定しました。4.ジョン・ハリソンの貢献:時計職人のジョン・ハリソンは、精密な航海用時計(クロノメーター)の開発に取り組みました。彼は約30年の歳月をかけて、H1からH5までの5つの時計を製作しました。5.クロノメーターの成功:ハリソンのH4は1761年と1764年の航海試験で優れた性能を示し、経度問題の実用的な解決策となりました。6.影響と普及:ハリソンの技術は徐々に改良され、19世紀には多くの船舶でクロノメーターが標準装備となりました。これにより、航海の安全性と効率が大幅に向上しました。この歴史的経緯は、科学技術の進歩が実際の問題解決にどのように貢献するかを示す興味深い事例です。経度問題の解決は、航海技術の発展だけでなく、精密機械工学の進歩にも大きな影響を与えました。Q(koshix):ハリソンの物語にはもっと紆余曲折があったのではないでしょうかA(Claude 3.5 Sonnet):ご指摘の通りです。ジョン・ハリソンの物語には多くの紆余曲折がありました。より詳細に説明いたします。1.困難な始まり:ハリソンは田舎の大工の息子として生まれ、正式な教育を受けていませんでした。彼の時計製作の技術は独学で身につけたものでした。2.最初の挑戦:1730年代、ハリソンは最初の海洋時計H1を製作しましたが、これは重すぎて実用的ではありませんでした。その後、H2、H3と改良を重ねましたが、いずれも満足のいく結果を得られませんでした。3.H4の breakthrough:1759年、ハリソンは画期的なH4を完成させました。これは従来の時計とは全く異なる、ポケット時計サイズの革新的な設計でした。4.試験航海と論争:1761年と1764年の試験航海でH4は素晴らしい性能を示しましたが、経度委員会は更なる試験を要求しました。これはハリソンにとって大きな失望でした。5.政治的な障害:経度委員会の一部のメンバー、特に王立天文台長のネヴィル・マスケリンは、天文学的方法を推奨しており、ハリソンの機械式解決策に反対していました。6.賞金獲得の遅延:ハリソンは何度も賞金の支払いを要求しましたが、委員会は新たな条件を付け加え続けました。これにより、ハリソンは完全な賞金を受け取るのに数十年を要しました。7.王室の介入:最終的に、ハリソンはジョージ3世に直接訴えかけました。王の支持を得て、1773年に議会は特別法を制定し、ハリソンに残りの賞金を支払うことを決定しました。8.晩年の苦闘:ハリソンは80歳を過ぎてようやく正当な評価を得ましたが、その時には既に健康を害していました。彼は1776年に83歳で亡くなりました。9.遺産と再評価:ハリソンの業績は、当時は十分に認められませんでしたが、後世になってその重要性が再評価されました。現在では、彼は航海技術と時計製作の革新者として高く評価されています。ハリソンの物語は、革新的なアイデアが既存の権威や制度と衝突する際の困難さを示しています。同時に、粘り強さと信念の力を表す感動的な物語でもあります。
2024年5月5日日曜日
オッペンハイマー
2023年9月6日水曜日
日下周一
2022年10月28日金曜日
キュリー夫人
2022年8月9日火曜日
マックス・ボルン
オリビア・ニュートン・ジョン(1948-2022)が亡くなった。
1974年ごろに最初のヒットが出ているが,すでに洋楽ポップスを聴かなくなっていた時期だ。したがって,復習してみたけれどほとんど知らない曲だった。同世代の歌手でもメリー・ホプキン(1950-)ならば,1968年に悲しき天使がヒットしたので,ちゃんとキャッチアップしていたのだけど。
オリビア・ニュートン・ジョンが,行列力学の創始者の一人マックス・ボルン(1882-1970)の孫だというのは,有名な話だ。ボルンは,量子力学の確率解釈で良く知られているが,そもそもヴェルナー・ハイゼンベルク(1925-1976)が最初に発見した量子規則が,当時,物理学ではあまり使われていなかった行列の形で表現できることを指摘したのがボルンであり,1925年のボルン・ヨルダンや1926年のボルン・ハイゼンベルク・ヨルダンの論文で,量子力学の基本原理が確立したわけだ。
オリビア・ニュートン・ジョンはマックス・ボルンの娘イレーネの子供であるが,息子グスタフの子供にも,人類学者・音楽家のジョージナ・ボルンと,俳優のマックス・ボルン(フェリーニのサテリコンに出演)がいる。ひ孫も含めてなんだか芸能人がたくさん輩出されているのだった。
2022年5月22日日曜日
石原純
2022年4月24日日曜日
ラザフォード
月曜日の授業の課題を考えていた。
先週のオリエンテーションの後,ゴールデンウィーク明けまでは,現代物理学の歴史の概論を講義する予定なので,現代物理学の基礎を築いた物理学者について調べてもらうことにする。で,Wikipediaの日本語版と英語版の記述量がかなり違うことを知ってもらうというのを目的として,英語版にはあって日本語版にない情報を選んで簡単に紹介してもらうという趣旨にした。
そのため,物理学者の一覧を作るべく調べていると,ノーベル物理学賞の受賞者にラザフォードの名前がない。原子の構造にたどり着いた一番肝腎な人物なのに,いったいどうしたことでしょう。というわけで,トイレからでて落ち着いてノーベル化学賞の方に,ソディやデバイなどとともに無事にリストされていた。
ちなみに,宿題に出したのは60名のリストからさらに精選した以下の24名とした。
ヴィルヘルム・レントゲン W. C. Rontogen (1845-1923)
アルバート・マイケルソン A. A. Michelson (1852-1931)
アンリ・ベクレル A. H. Becquerel (1853-1908)
ジョゼフ・ジョン・トムソン J. J. Thomson (1856-1940)
マックス・プランク M. Planck (1858-1947)
ピエール・キュリー P. Curie (1859-1906)
ヘンリー・ブラッグ W. H. Bragg (1862-1942)
フィリップ・レーナルト P. Lenard (1862-1947)
ビーター・ゼーマン P. Zeeman (1865-1943)
マリ・キュリー M. Curie (1867-1934)
ロバート・ミリカン R. A. Millikan (1868-1953)
ジャン・ペラン J. B. Perrin (1870-1942)
アーネスト・ラザフォード E. Rutherford (1871-1937)
フレデリック・ソディ F. Soddy (1877-1956)
マックス・フォン・ラウエ M. von Laue (1879-1960)
ジェイムス・フランク J. Franck (1882-1964)
マックス・ボルン M. Born (1882-1970)
ピーター・デバイ P. Debye (1884-1996)
ニールス・ボーア N. Bohr (1885-1962)
エルヴィン・シュレーディンガー E. Schrodinger (1887-1961)
アーサー・コンプトン A. Compton (1892-1962)
ルイ・ド・ブロイ L. V. de Broglie (1892-1987)
ヴォルフガング・パウリ W. E. Pauli (1900-1958)
ボール・ディラック P. A. M. Dirac (1902-1984)
2022年2月23日水曜日
ヘルゴラント
ヘルゴラントは,ドイツの北部,北海に浮かぶとても小さな島である。
ゲッチンゲンのハイセンベルクは,1924年9月から1925年4月末までコペンハーゲンのボーアの理論物理学研究所に在籍した。5月に入って,花粉症を避けるためにヘルゴラントに10日ほど滞在し,そこではじめて量子力学の正しい法則にたどり着いた。ゲッチンゲンのボルンのところに戻ったハイゼンベルクは,1925年の9月に "Über quantentheoretische Umdeutung kinematischer und mechanischer Beziehungen" (運動学的・力学的関係の量子論的再解釈) という,今日の量子力学の出発点となる論文を出す。
ループ量子重力理論の研究で有名なカルロ・ロヴェリが,量子力学が誕生したこの島の名前をつけた一般向けの著書 "Helgoland" が2020年に出版された。2021年には冨永星による邦訳,「世界は「関係」でできている:美しくも過激な量子論」が出ている。書名がヘルゴランドのままだったら,誰も買わなかったかもしれない。
この本の内容は,ハイゼンベルクによる量子力学の誕生から出発して,ロヴェリが提唱している関係量子力学(Relational Quantum Mechanics)のエッセンスを説くものらしい。というのもまだ,読んでいないので目次しかわからないからだ。
これを,意識の科学に関わっている,神経科学者の土谷尚嗣と数理物理学者で小嶋泉の学生だった西郷甲矢人が取り上げ,意識ラジオの中でロヴェリの著書を巡る対談をしていた。彼らはさらに,脳科学の大泉匡史などにつながっていた。意識を圏論で定式化できる関係によって理解しようとする流れが,関係量子力学とのつながりを発見したということか。
世界は「関係」でできているー美しくも過激な量子論
カルロ・ロヴェッリ 冨永星
第一章 奇妙に美しい内側を垣間見る
1 若きハイゼンベルクの突拍子もない思いつきー「オブザーバブル」
2 シュレーディンガーの紛らわしいΨー確率
3 この世界の粒状性ー量子
第二章 極端な思いつきを集めた奇妙な動物画集
1 重ね合わせ
2 Ψを真剣に受け止めるー多世界と,隠れた変数と,自発的収縮と
3 不確定性を受け入れる
第三章 みなさんにとっては現実,でもわたしにとっては現実でない事柄とは?
1 かつて,この世界が単純にみえたことがあった
2 関係
3 希薄で曰く言いがたい量子の世界
第四章 現実を織りなす関係の網
1 エンタングルメント
2 三人一組の踊りが織りなすこの世界の関係
3 情報
第五章 立ち現れる相手なくして,明瞭な記述はない
1 ボグダーノフとレーニン
2 実体なき自然主義ー状況依存性
3 土台がない? ナーガルージュナ(龍樹)
第六章 「自然にとっては,すでに解決済みの問題だ」
1 単純な物質?
2 「意味」は何を意味しているのか
3 内側から見た世界
第七章 でも,それはほんとうに可能なのか
2022年2月18日金曜日
MAUD委員会
1940年2月に書かれた,フリッシュ=パイエルスの覚書は,上司であるバーミンガム大学のマーク・オリファント(1901-2000)に渡された。フリッシュより4歳,パイエルスより7歳上だ。ことの重大さが理解され,3月には,イギリス防空科学調査委員会議長の化学者,ヘンリー・ティザード(1885-1959)宛てに送付された。
これにより,ディザードが4月に設置した委員会は,G. P. トムソンを議長として,ジョン・コッククロフト,ジェームズ・チャドウィック,フィリップ・ムーン,オリンファントが加わった。6月にはMAUD委員会と称されるようになる。ただし,ドイツからの亡命者であった,フリッシュとパイエルスは加えられていない。なお,MAUDの由来は次のようなものだ。
1940年4月9日,ドイツがデンマークに侵攻した日,ニールス・ボーアはフリッシュに電報を打っていた。その電報は「コッククロフトとモード・レイ・ケントに伝える」という奇妙な行で終わっていた。当初、これはラジウムまたは他の重要な原子兵器関連の情報をアナグラムで隠した暗号だと考えられていた。一つの提案は、「y」を「i」に置き換えて「radium taken」を生成することだった。1943年にボーアがイギリスに帰国した時。このメッセージがジョン・コッククロフトとボーアの家政婦でケント州出身のモード・レイに宛てたものであることが判明した。こうして、委員会は「MAUD委員会」と名付けられた。(Wikipedia MAUD Committeeより)。
MAUD委員会は7月には報告書をまとめている。その第一部を訳出してみた。
MAUD委員会報告書「ウランの爆弾への利用について」現在の知見の概要
1.一般的な記述
ウランの原子エネルギーを軍事目的で利用する可能性を調査する作業は1939年以来行われており,現在では進捗状況を報告することが望ましいと思われる段階に達している。
この報告書の冒頭で強調したいのは,私たちがこのプロジェクトに参加したのは,調査しなければならない問題であると感じながらも,信じるよりは懐疑的であったということである。プロジェクトを進めるにつれ,大規模な原子エネルギーの放出は可能であり,それを非常に強力な戦争兵器にする条件を設定することができると,ますます確信するようになった。
我々は,有効なウラニウム爆弾を作ることが可能であるという結論に達した。この爆弾は,約10kgのウランを含み,1800トンのT.N.T.爆弾に匹敵する破壊力を持ち,さらに大量の放射性物質を放出する。このため,爆弾が爆発した場所の近くでは長期間にわたって人命が危険にさらされる。
爆弾は,通常のウランに140分の1程度含まれる活性成分(以下,「235U」と略記する)作られる。235Uと他のウランとの特性(爆発性以外)の差が非常に小さいため,その抽出は非常に困難である。1日当たり1kg(または1ヵ月当たり3個の爆弾)の生産工場は,約500万ポンドかかると推定され,そのうちのかなりの割合はエンジニアリングに費やされ,タービン製造に必要なのと同じ高度な技術を要する労働力を必要とするだろう。
このような多額の支出にもかかわらず,物質的にも精神的にも破壊的効果が非常に大きいため,この種の爆弾の製造にはあらゆる努力が払われるべきであると我々は考えている。所要時間については,帝国化学工業がメトロポリタン・ビッカースのガイ博士と協議した結果,最初の爆弾の材料は1943年末までに準備できると推定している。これはもちろん,まったく予期しない性格の大きな困難が生じないことを前提としている。
ウリッジのファーガソン博士は,核物質の接合に必要な高速度を出す方法(第3項参照)を完成させるのに必要な時間は1〜2ヵ月と見積もっている。この点については,材料の生産と同時に行うことができるので,これ以上の遅れは予想されない。たとえ爆弾が完成する前に戦争が終結したとしても,その努力は無駄にはならない。ただし,完全な軍縮が行われる可能性は低く,これほど決定的な可能性を持つ兵器なしでいる危険を冒す国はないだろうから。
ドイツが重水と呼ばれる物質の確保に多大な苦労をしたことは知っている。初期の段階では,この物質が我々の仕事にとって非常に重要な意味を持つのではないかと考えていた。実際,これが原子エネルギーの放出に役立つのは,直ちに戦争に利用できそうにない過程に限られるようだが,ドイツ人はもうこのことに気づいているかもしれない。また,私たちが現在取り組んでいる研究は,有能な物理学者なら誰でも思いつきそうなものであることを述べておく。
これまでのウランの最大の供給地はカナダとベルギー領コンゴで,それに付随するラジウムのために活発に探されてきたので,未踏の地域以外にかなりの量のウランが存在するということはないと思われる。
2.原理
この種の爆弾は,原子に内在する膨大なエネルギー貯蔵量と,活性成分であるウランの特殊な性質によって可能である。この爆発は,通常の化学爆発とはメカニズムが大きく異なり,235Uの量がある臨界量より多い場合にのみ発生する。臨界量以下の場合には非常に安定している。したがって,このような場合は完全に安全であり,我々はこの点を特に強調したい。
一方,臨界量を超えると不安定になり,非常に速い速度で反応が進行し,増殖し,未曾有の大爆発を起こす。従って,爆弾を爆発させるのに必要なのは,臨界値より小さいが,接触すると臨界値を超える質量を持つ活性物質(235Uの塊)を2個集めることである。
3.接合の方法
この種の爆発で最大の効率を得るためには,2つの半球を高速で結合させる必要があり,二重銃の形で通常の爆薬を同時に発射することによってこれを行うことが提案されている。
この銃の重量は,もちろん爆弾自体の重量を大幅に上回るが,1トン以上にはならないはずであり,現代の爆撃機の搭載能力の範囲内であることは間違いない。銃を含めた爆弾はパラシュートで投下し,これが地面に設置したときに雷管によって銃が発射されると考えられる。投下時間は,飛行機が危険地帯から脱出するのに十分な長さにすることができ,これはとても大きいので,非常に正確な狙いは必要ない。
4.予想される効果
1,800トンのT.N.T.爆弾が爆発するとどのような被害が出るかについては,1917年に米国ハリファックスで起きた大爆発が最もよく知られている。次の記述は「火薬の歴史」からのものである。「この船には200トンの雷管,55トンの軍用綿,2,100トンのピクリン酸が含まれており,合計2,355トンであった。爆発範囲は四方に及び,この範囲ではほぼ完全に破壊されていた。構造物の被害は大きく半径1.8kmから2.0kmに及び,ある方向では発生源から2.8kmまで及んだ。爆破片は5〜6km飛び,16kmさきの窓ガラスが割れ,一例では98kmまで破損した」。
この記述を検討する際には,爆発物の一部は水面下,一部は水面上に位置していたことを忘れてはならない。
5.資材の準備と費用
我々は,通常のウランから235Uを抽出する方法について詳細に検討し,多くの実験を行った。我々が推奨する方式は,この報告書の第Ⅱ部に記載されており,より詳細には付録Ⅳに記載されている。この方法は基本的に,非常に細かいメッシュのガーゼを通してウランの化合物を気体拡散させるものである。
この報告書に添付した規模とコストの見積もりでは,現在存在するガーゼの種類だけを想定している。比較的小さな開発で,より小さなメッシュのガーゼを作ることができ,同じ生産高であれば,より小型で安価な分離プラントを建設できる可能性がある。
この爆薬の1kg当たりのコストは非常に大きいが,放出されるエネルギーと与えられるダメージの点から考えると,普通の爆薬といい勝負になる。実際には,かなり安いのだが,我々が圧倒的に重要だと考える点は,この物質がもたらす集中的な破壊,大きな道徳的効果,そしてこの物質の使用によって,通常の爆薬による爆撃と比較して,航空労力の節約になることである。
6.議論
この方式の際立った難点の一つは,主要な原理を小規模で試すことができないことである。最小臨界サイズの爆弾を作るだけでも,多大な時間と経費がかかる。しかし,我々はこの原理が正しいことを確信しており,臨界サイズについてはまだ不明な点があるが,我々ができる最善の推定が一般的な結論を無効にするほど間違っている可能性はほとんどない。我々は,現在の証拠が,この計画を強く推し進めるのに十分であると感じている。
235Uの製造に関しては,実験室規模でほぼ可能な限り行ってきた。この方法の原理は確かなものであり,その応用は化学工学の一分野としてそれほど難しいとは思われない。しかし,より大規模な研究が必要であることは明らかであり,必要な科学者を見つけることが難しくなりつつある。
さらに,この兵器が今から2年後に利用可能になるとすれば,工場の建設計画を開始する必要があるが,20段のモデルがテストされるまでは,本当に大きな支出は必要ないだろう。また,最終的には製造の監督者となる人材の育成に着手することも重要である。235Uの濃度を測定する装置など,開発すべき補助的な装置も数多くある。さらに,私たちが使おうとしているガス状の化合物である六フッ化ウランを大量に製造するための化学的側面を,かなり大規模に開発する必要がある。
以上のことから,この戦争で有効な兵器として期待するのであれば,この作業をさらに大規模に継続するかどうか,決断することが重要な段階に来ていることがわかるだろう。今,大幅に遅れるようなことがあれば,この兵器が実用化される時期が相当程度遅れることになる。
7.米国での活動
アメリカはウラン問題に取り組んでいるが,その努力の大部分は,爆弾の製造よりも,動力源としてのウランに関する我々の報告書で述べたようなエネルギーの生産に向けられていると,我々は聞いている。実際,私たちは米国と情報交換をする程度の協力はしており,米国は私たちのために1つか2つの実験的作業を引き受けた。私たちは,235Uを分離する工場をどこに設置するかが最終的に決定されるにせよ,大西洋の両側で開発作業を進めることが重要であり,望ましいと考えている。この目的のために,委員会の一部のメンバーが米国を訪問することが望ましいと思われる。そのような訪問は,この問題を扱っている米国の委員会のメンバーから歓迎されると聞いている。
8. 結論と勧告
(i) 委員会は,ウラン爆弾の計画は実行可能であり,戦争において決定的な結果をもたらす可能性があると考える。
(ii) 委員会は,この作業を最優先し,可能な限り最短時間で兵器を得るために必要な規模を拡大して継続することを勧告する。
(iii) アメリカとの現在の協力関係を継続し,特に実験的研究の分野でそれを拡大すべきである。
[1]The MAUD Report 1941
[2] 放射能・放射線の発見から原爆開発の始まりまで(今中哲二)
2022年2月17日木曜日
アインシュタイン=シラードの手紙
フリッシュ=パイエルズの覚書からの続き
比較のために,DeepLの助けを借りて訳出してみた(ときどき重要な部分がとばされているので注意が必要)。核分裂連鎖反応に必要なウランは数トンであるという知識の段階で出された手紙である。
連鎖反応は,1933年にレオ・シラード(1898-1964)によって初めて理論的に予言され,1939年に,フレデリック・ジョリオ=キュリー(1900-1958),エンリコ・フェルミ(1901-1954),シラードの3グループによって実験的に検証された。その直後の手紙である。
村上陽一郎が,そのマッチポンプ的な振る舞いに目をつぶっておかしいくらいに美化していたシラードだが,藤永茂が指摘していたように,彼の複合的な野心というものがもろに表現された手紙だと思う。残念ながら,その大半は空振りに終ってしまったが,原爆への道は開かれた。
アルバート・アインシュタイン
オールドグローブ・ロード
ナッソーポイント
ロングアイランド州ペコニック1939年8月2日
F. D. ルーズベルト
アメリカ合衆国大統領
ホワイトハウス
ワシントンD. C.
閣下
エンリコ・フェルミとレオ・シラードの最近の研究は,原稿で私に伝えられましたが,私は,ウランという元素が近い将来,新しい重要なエネルギー源になる可能性があると予想しています。このような状況の発生は,米国政府の側で注意深く観察し,必要であれば迅速な行動をとることを要求しているように思われる部分があります。そこで私は,以下の事実と勧告に注意を喚起することが,私の義務であると考えます。
この4ヵ月の間に,フランスのジョリオ,アメリカのフェルミとシラードの研究により,大量のウランで核連鎖反応を起こすことが可能であることが判明しました。これにより,膨大なエネルギーと大量のラジウム元素のような放射性物質が生成されます。現在では,これが近い将来に実現できるということはほぼ確実と思われます。
この現象は,爆弾の製造にもつながり,極めて強力な新型爆弾が製造される可能性があります(絶対ではありませんが)。この種の爆弾を一つ,船で運んで港で爆発させれば,港全体とその周辺の領土の一部を破壊することは大いに可能です。しかしながら,このような爆弾は,空輸するには重すぎることがわかっています。
米国には,中程度の量の非常に質の悪いウランの鉱石しかありません。カナダと旧チェコスロバキアに良質の鉱石がありますが,ウランの最も重要な供給源はベルギー領コンゴです。
このような状況を考えると,米国で連鎖反応を研究している物理学者グループと米国政府との間に何らかの恒常的な接触を維持することが望ましいと思われるでしょう。これを実現する一つの方法は,あなたの信頼が厚く,おそらく非公式な立場で奉仕できる人物にこの仕事を任せることかもしれません。その人の任務は次のようなものです。
a) 政府諸官庁に働きかけ,今後の開発状況を知らせるとともに,米国へのウラン鉱石の供給確保という問題に特に注意を払いながら,政府の対応について勧告を行うこと。
b) 現在,大学の研究所の予算の範囲内で行われている実験的研究を,資金が必要であれば,この目的のために寄付をする意思のある個人との接触を通じて,また,おそらく必要な設備を持つ産業研究所の協力を得ることによって,加速すること。
ドイツは,占領したチェコスロバキアの鉱山からのウランの販売を実際に停止したと聞いています。ドイツのヴァイツゼッカー国務次官の息子がベルリンのカイザーヴィルヘルム研究所に所属しており,そこでアメリカのウランに関する研究の一部が繰り返されていることを考えると,ドイツがこのような早い行動を取った理由が理解できるかもしれません。
本当にありがとうございました。
アルバート・アインシュタイン
2022年2月16日水曜日
フリッシュ=パイエルスの覚書
ハイゼンベルグ原子炉からの続き
マンハッタン計画につながったのは,アインシュタイン=シラードの手紙ではなく,フリッシュ=パイエルスの覚書だったということで,その前半をDeepLを使いながら訳してみた。後半は,ウラン235の臨界質量を計算するための物理的なパートである。
オットー・ロベルト・フリッシュ(1904-1979)は叔母のリーゼ・マイトナー(1878-1968)とともに,オットー・ハーン(1879-1968)と学生のフリッツ・シュトラウスマン(1902-1980)のウランへの中性子線照射実験が意味するところを初めて理論的に明らかにし,「核分裂」という言葉を作った科学者である。フリッシュはナチスドイツをのがれて,バーミンガムのルドルフ・パイエルス(1907-1995)のところに身を寄せていた。
原文を読んでみると,ウランの臨界量を除いて非常に正確で重要な内容が,要点をはずさずに簡潔にまとめられていることに驚く。フリッシュやパイエルスはその後,マンハッタン計画に加わり,ウランの正確な臨界量を導くことに成功している。
ウランの核連鎖反応に基づく「超爆弾」の建設について
添付の詳細報告書は,原子核に蓄積されたエネルギーが爆発力の源となる「超爆弾」建設の可能性について述べたものである。この超大型爆弾の爆発で放出されるエネルギーは,1,000トンのダイナマイトの爆発によるエネルギーとほぼ同じである。このエネルギーは小さな体積の中で解放され,その中で一瞬,太陽の内部に匹敵する温度を発生させる。このような爆発の爆風は,広範囲に渡って生物を死滅させることになる。その規模を見積もるのは難しいが,おそらく大都市の中心部をカバーするだろう。
さらに,爆弾が放出するエネルギーの一部は放射性物質の生成に使われ,これらは非常に強力で危険な放射線を放出する。この放射線の影響は爆発直後が最も大きいが,徐々に減衰し,爆発後数日間は被災地に立ち入った人は死亡する。
この放射能の一部は風に乗って運ばれ,汚染を広げ,風下数キロのところで人が死ぬこともある。
このような爆弾を製造するためには,相当量のウランを処理して,天然ウランに約0.7%含まれる軽い同位体(U235)を分離させる必要がある。このような同位体を分離する方法は,最近開発された。しかし,この方法は時間がかかり,化学的性質が技術的な困難をもたらすウランにはこれまで適用されてこなかった。しかし,これらの困難は決して乗り越えられないものではない。大規模な化学プラントの経験が十分でないため,コストについて信頼できる見積もりはできないが,法外なコストでないことは確かである。
これらの超爆弾には,約1ポンド(450g)という「臨界サイズ」が存在するという性質がある。分離したウランの同位体がこの臨界量を超えると爆発するが,臨界量以下であれば絶対に安全である。したがって,爆弾は2つ(またはそれ以上)の部分に分けて製造され,それぞれが臨界サイズより小さく,輸送時にはこれらの部品が互いに数インチ(10cm〜)の距離を保っていれば,早すぎる爆発の危険はすべて回避されるであろう。爆弾には,爆発させようとするときに2つの部品を一緒にする機構が備えられているはずである。部品が結合して臨界量を超えるブロックを形成すると,大気中に常に存在する透過放射線の効果で,1秒かそこらで爆発が開始される。
爆弾の部品を結合させる機構は,臨界条件に達したばかりの時に爆発する可能性があるため,かなり速く作動するように手配しなければならない。この場合,爆発の威力ははるかに弱くなる。これを完全に排除することは不可能だが,このような方法で失敗する爆弾は,例えば100個のうち1個だけであることを容易に確認することができるし,いずれの場合でも爆発は爆弾そのものを破壊するのに十分強力なので,この点は重大ではない。
このような爆弾の戦略的価値について論じる能力はないと思われるが,次の結論は確かなようである。
1 兵器としての超爆弾は,事実上,これを防ぐことができない。爆発の力に対抗できるような材料や構造物はないだろう。もし,この爆弾を要塞(ようさい)線を突破するために使おうと考えるなら,放射性物質のために数日間,誰もその地域に近づくことができず,防御側がその地域を再占領することもできないことを心に留めておく必要がある。いつなら安全に再突入できるかを最も正確に判断できる側が有利となる。これは,爆弾の位置を事前に知っている攻撃側となる可能性が高い。
2 放射性物質が風に乗って拡散するため,多数の民間人を犠牲にすることなく爆弾を使用することは不可能であろう。つまり自国内で使うには適していないのだ。(海軍基地付近での深海爆雷としての使用も考えられるが,その場合でも爆破による大浸水と放射性物質による市民生活の大きな損失が予想される)。
3 同じアイディアを他の科学者も持っているという情報はないが,この問題に関係する理論的データはすべて発表されているので,ドイツが実際にこの兵器を開発していることは十分に考えられる。同位体を分離するためのプラントは,人目を引くような大きさである必要はないので,これが事実かどうかを見極めるのは難しい。この点で参考になるのは,ドイツの支配下にあるウラン鉱山(主にチェコスロバキア)の開発状況や,ドイツが最近海外で購入したウランに関するデータだろう。同位体を分離する最良の方法を発明したK・クルシウス博士(ミュンヘン大学物理化学教授)が工場を管理している可能性が高いので,彼の居場所や状況も重要な手がかりになるかもしれない。
一方,ウラン同位体の分離が超大型爆弾の製造を可能にすることに,ドイツではまだ誰も気づいていない可能性もある。この報告を極秘にすることは極めて重要である。なぜならば,ウランの分離と超大型爆弾の関係を噂されると,ドイツの科学者が正しい考えを持つようになるかもしれないからである。
4 ドイツがこの兵器を所有している,あるいは将来所有することになるという前提で考えるならば,有効で大規模に使用できるシェルターが存在しないことに気づかなければならない。最も効果的な応戦方法は,同様の爆弾による反撃であろう。したがって,たとえこの爆弾を攻撃手段として使用するつもりがないとしても,できるだけ早く,できるだけ迅速に生産を開始することが重要であると思われる。必要な量のウランを分離するのは,最も好ましい状況でも数ヶ月の問題であるから,そのような爆弾がドイツの手にあることが分かってから生産を開始するのでは明らかに遅すぎるし,したがって,この問題は非常に緊急であると思われる。
5 予防措置として,このような爆弾の放射性影響に対処するために,探知部隊を用意することが重要である。危険地帯に測定器を持って近づき,危険の程度と予想される期間を判断し,人々が危険地帯に入るのを阻止するのがその任務である。というのも,放射線は非常に強い場合は即死するが,弱い場合は遅発性であるため,危険地帯の端にいる人は手遅れになるまで警告を受けることができないからである。
探知部隊は,自分自身を守るために,危険な放射線を吸収する鉛板で装甲した自動車や飛行機で危険地帯に入る必要がある。機内は密閉され,汚染された空気を避けるために,酸素はボンベで運ばなければならない。
また,探知員は,人間が短時間に浴びても安全な最大線量を正確に把握していなければならない。この安全限界は現在のところ十分な精度でわかっておらず,この目的のための生物学的研究が早急に必要である。
上記の結論の信頼性については,まだ誰も超爆弾を作ったことがないので,直接の実験に基づくものではないといえるが,最近の核物理学の研究により,非常にしっかりと確立された事実に基づいていることがほとんどである。唯一の不確定要素は,原爆の臨界サイズに関するものである。私たちは,臨界サイズはおよそ1ポンドかそこらだと確信しているが,この推定には,まだ確証の得られていないある理論的な考え方に頼らざるを得ない。もし臨界サイズが私たちが考えているよりかなり大きければ,爆弾の製造方法に関する技術的な困難はさらに増すことになる。この問題は,少量のウランを分離した時点で明確に解決することができ,問題の重要性に鑑み,少なくともこの段階に到達するために直ちに措置を講じるべきだと考えている。
[1]The Frisch-Peierls Memorandum (Stanford University)
[2]Report by the M. A. U. D. Committee on the use of the Uranium for a Bomb
2022年2月15日火曜日
イプシロン作戦
コペンハーゲンからの続き
第2次世界大戦中のコペンハーゲンにおけるハイセンベルクとボーアの対談の意味を考えるために,ナチスドイツ敗戦後のイギリスのファーム・ホールにおける会話がしばしば取り上げられる。Wikipediaは英語版しかないので,簡単に紹介すると,
イプシロン作戦とは,第二次世界大戦末期に連合軍が,ナチスドイツの核開発計画に携わっていたと思われるドイツ人科学者10人を拘束した計画のコードネームである。科学者たちは,1945年5月1日から6月30日にかけて,連合軍がアルソス作戦の一環として主にドイツ南西部の大捜索を行った際に捕らえられた。
1945年7月3日から1946年1月3日まで,イギリス・ケンブリッジ近郊のゴッドマンチェスターにあるファームホールという盗聴器付きの家に収容され,彼らの会話を聞くことでナチスドイツがどれだけ原子爆弾の製造に近づいていたかを調べることが最大の目的であった。
1945年8月6日、広島に原爆が投下されたことを知らされた科学者たちは,みな衝撃を受けたという。中には,その報告が本物かどうか,まず疑う者もいた・・・そして,アメリカの爆弾はどのように作られたのか,なぜドイツは爆弾を作らないのか,について考えた。
この記録は,物理学者,特にハイゼンベルクが,原子爆弾に必要な濃縮ウランの量を過大評価していたか,意識的に過大評価していたこと,ドイツのプロジェクトはせいぜい原子爆弾の仕組みについて考える,ごく初期の理論段階にあったことを示しているようだ。
2022年2月14日月曜日
コペンハーゲン
ライプチヒ実験炉事故からの続き
1942年6月のライプチヒ実験炉事故の1年前に遡る。ハイゼンベルグは,1941年から1944年にかけて,ドイツの占領地であったヨーロッパの各地をドイツ文化宣伝局の代表として訪ずれている。そのひとつに,1941年9月,コペンハーゲンのニールス・ボーアへの訪問があった。
ベルンシュタインによる,Hitler's Uranium Club には次のような記載がある。
9月16日の夜,ボーアとハイゼンベルグは個人的な会談を行った。この会談の意図と内容は、今でもこの歴史の中で最も議論の多い出来事の一つである。ひとつだけ確かなことがある。ボーアはこの会談から非常に動揺して帰ってきた。ハイゼンベルクはボーアに対して核兵器の可能性を提起したようである。何のためかは全く不明である。ハイゼンベルグが何を意図していたにせよ,ボーアにはドイツが原子爆弾の研究をしているという印象が残ってしまった。
この謎の多い会談をとりあげたのが,マイケル・フレインに よる戯曲「コペンハーゲン」だ。2000年にブロードウェイで初上演され,その翌年には日本の新国立劇場にかかっている。登場人物は3名だけ。ニールス・ボーア(1885-1962)と妻のマルガレーテ・ボーア(1890-1984)とヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976)だ。
実際には,ボーアと会ったのは,ハイゼンベルクとカール・フリードリヒ・フォン・ワイツゼッカー(1912-2007)であり,ハイゼンベルク=ボーア会談を提案して主導したのはワイツゼッカーだという証言もある。ワイツゼッカーは,会談の結果をナチ軍部に報告している。
2022年2月12日土曜日
ライプチッヒ実験炉事故
ハイゼンベルグ原子炉からの続き
ナチスドイツの原爆開発については,まじめに学んだことがなかった。優秀な科学者の多くが英米に亡命してしまい,残されたのはハイゼンベルクやハーンなどわずかであり,ノルウェーの重水工場が連合国によって破壊されたために,完全に頓挫していたというイメージだけだった。
実際には,兵器としての原子爆弾開発にはほど遠い状況だったが,原子炉での連鎖反応については,実験炉での検証が何ヶ所かで進んでいた。その一つがハイガーロッホ炉だったが,もうひとつがライプチヒ実験炉だった。
なぜ,政池さんらの日本物理学会誌のハイガーロッホ炉の記事に,ハイゼンベルグ原子炉という名前がついていたかというと,ハイゼンベルグ自身がその開発に関与していたからだ。ライプチヒ実験炉で起こった世界初の原子炉災害は,Wikpediaによれば次のようなことだった。
1942年6月23日,ナチスドイツのライプチヒで,実験用の初期型原子炉L-IVが水蒸気爆発と原子炉火災という史上初の原子力事故を引き起こした。
ヴェルナー・ハイゼンベルクとロベルト・デッペルが開発したライプチヒL-IV原子炉は,ドイツで初めて中性子伝播の兆候を示した直後,重水漏れの可能性をチェックすることになった。その際,空気が漏れて中のウラン粉に引火した。燃焼したウランがウォータージャケットを沸騰させ,原子炉を吹き飛ばすのに十分な蒸気圧を発生させた。燃えたウラン粉は研究所中に飛び散り、施設内でより大きな火災を引き起こした。
これは,運転開始から20日後,ガスケットに気泡ができたため,ヴェルナー・パッシェンがデッペルの要請で装置を開けたときに起こった。光るウラン粉が6メートルの天井に飛び,装置は1000度まで加熱された。ハイゼンベルクは助けを求められたが,なす術が無かった。
それ以後,ハイゼンベルグは原子炉の実験から手を引いている。まあ,世界初のシカゴ原子炉実験を成功させたフェルミのような特別な人でなければ,ハイゼンベルグといえども理論家には難しい課題だった。ハイゼンベルグはその後,1942年9月にS行列の理論3部作を発表する。これはこれですごいことなのだった。
[1]ドイツの原子爆弾開発|German nuclear weapons program(注:Wikipedia日本語版はかなり内容が薄い)
[3]Why Hitler Did Not Have Atomic Bombs(Journal of Nuclear Engineering)