2025年3月6日木曜日

杉浦義勝(1)

量子力学100年はハイゼンベルクの論文から始まった。何月に出版されたのかもう一度確認しようと探していたら,杉浦義勝(1895-1960)に行き着いた。Wikipediaには「物理学者の仁科芳雄(1890-1951)と並び「日本の現代物理学の父」といわれる。」と日本経済新聞の中根美知代さんの記事を引用して記されていたが,自分にはもうひとつその認識が足りなかった。

こんなときには,ChatGPTのDeep Researchに頼むに限る。これまでは,Proユーザだけだったのがいつの間にかPlusユーザ向けに月10回まで開放されていた。ようやく試してみることができる。


写真:ゲッチンゲンで下宿を共にしたディラック,杉浦,オッペンハイマー


[1]量子力学の日本への移入と杉浦義勝(中根美知代,2018,日本物理学会誌)
[2]もう一人の「日本の物理学の父」(中根美知代,2021,日本経済新聞)

さて,そのDeep Researchの結果である。
Q(koshix):
日本の物理学者で量子力学の黎明期から日本への移入に尽力した杉浦義勝(1895-1960)について,できるだけ詳しくその来歴や業績などを年代を追ってまとめてください。同世代の仁科芳雄に比べてインターネット上に公開されていて手に入る情報量が少なくて探し切れずに困っています。

A(ChatGPT Deep Research):
杉浦義勝(1895-1960)について、彼の来歴や業績を年代順に詳しくまとめるために、信頼できる情報源を徹底的に調査します。

以下の点を確認させてください:
・彼に関する特に重点を置きたい分野(例:量子力学の導入過程、日本の物理学教育への貢献、研究業績など)
・既にお探しになったが見つからなかった情報(例:特定の論文、大学での具体的な役職、弟子や共同研究者など)
・参考にしたい具体的な書籍や文献(もしあれば)

これらの点を補足いただければ、より詳細で正確な情報を提供できるよう努めます。

Q(koshix):
量子力学の導入過程や研究業績を中心に彼全体像がわかるようにお願いします。弟子や共同研究者などその波及効果についても知りたいです。

A(ChatGPT 4o research):
7分かけて22件の情報源を調査

**杉浦義勝(1895–1960)は、日本における量子力学導入の草分け的存在です。**
東京帝国大学理学部を卒業後、長岡半太郎の下で理化学研究所に入り、1926年から欧州に留学しました​。ゲッティンゲン大学ではマックス・ボルンに学び、コペンハーゲンではニールス・ボーアの薫陶を受けています​。1927年に帰国した杉浦は、日本人として黎明期の量子力学を応用した優れた成果を挙げ、日本への量子力学の移入に大きな役割を果たしました​。その功績により、従来「仁科芳雄が日本に量子力学を伝えた」とされてきた通説に再考を促し、仁科と並んで日本の量子物理学発展に寄与した人物として再評価されています​。以下では、量子力学の受容過程、研究業績、弟子・共同研究者、そして学術界・教育界への影響の観点から、杉浦の来歴と業績を詳述します。

1.量子力学の導入過程における杉浦の役割

欧州留学と最新理論の紹介:杉浦は1926年から約1年間の欧州留学で、当時構築されつつあった量子力学を直接習得しました​。ゲッティンゲンではボルン、コペンハーゲンではボーアの元で研鑽を積み、P.A.M.ディラックやJ.R.オッペンハイマーとも親交を結んでいます(1927年夏、ゲッティンゲンでディラックとオッペンハイマーと撮影された写真が残っています​)。仁科芳雄ともコペンハーゲンで行動を共にし、欧州で最新理論を学ぶ仲間でした​。こうした留学経験を通じて、杉浦は量子力学の知見を日本に持ち帰る準備を整えました。

帰国後の講義と普及活動:帰国した1927年以降、杉浦は精力的に新理論の紹介と教育に取り組みます。例えば1928年2月には「新量子力学と其の応用」と題する集中講義を行い、シュレーディンガーやド・ブロイの波動力学と古典光学(ハミルトン‐ヤコビ理論)を関連づけて解説しました​。これは日本で初めて体系的に量子力学を紹介した講義の一つであり、ボルンによる光学再解釈など当時最先端の業績も含めて紹介されています​。杉浦の講義は学生や若手研究者に強い刺激を与え、朝永振一郎(のちのノーベル物理学賞受賞者)も東京帝大在学中に杉浦の量子力学講義を熱心に聴講した一人でした​。杉浦は才能ある学生に課題を与えて指導し、朝永には自身が携わっていた水素分子の量子論計算に関する問題を与えています​。このように杉浦は講義や演習を通じて、当時の日本の若手物理学者に量子論の考え方を浸透させていきました。

翻訳・著作活動:杉浦は新知見を日本語で提供することにも尽力しました。留学中から執筆した論文だけでなく、帰国後は講義録や専門書の形で知識を普及させています。たとえば1930年頃には私家版の講義録『量子力学の応用』をまとめており​、1936年から1940年にかけて『電磁光学』『量子光学』​などの著書を刊行して量子論の各分野を解説しています。1939年には共立社の「量子物理学」叢書の一巻として『原子核物理学(実験)』を著し、当時発展しつつあった核物理学の知見も紹介しました。これらの著作や翻訳相当の解説書によって、杉浦は日本語で読める最新の物理学情報を提供し、日本の物理教育カリキュラムに量子力学を定着させることに貢献しました。

仁科芳雄との比較:日本への量子力学導入において、仁科芳雄と杉浦義勝はいわば車の両輪でした。仁科は主に欧州での研究活動(ボーアの下での原子物理研究)や帰国後の理研での実験的基盤整備によって量子物理学を押し進めました。一方、杉浦は理研の研究員として理論的成果を上げつつ、大学や専門書を通じた教育・啓蒙活動で量子力学を広めています​。歴史的には仁科の名が前面に出がちでしたが、近年の研究では「日本に量子力学を伝えたのは仁科と杉浦の両名である」と再評価されています​。実際、仁科が欧州から論文を取り寄せ読んでいるだけでは十分でなかったところを、杉浦が自ら欧州で学び直接講じたことが、日本の物理学界全体の理解を大きく深めたとされています​。両者の協力と相補的な活動により、日本の量子論研究の地盤が1920年代末から築かれていきました。

2.杉浦義勝の研究業績

水素分子の量子論的研究:杉浦の代表的業績は、水素分子における化学結合の量子論的解明です。1927年、欧州留学中にウォルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンが提唱した水素分子の結合理論(ハイトラー=ロンドン法)を発展させ、結合エネルギー計算のための複雑な積分を初めて解きました​。ハイトラー=ロンドン法では定性的に水素分子の結合が説明できましたが、杉浦の計算により結合エネルギーや平衡核間距離が定量的に求められ、実験値との比較が可能となったのです​。この成果は当時の日本人研究者による量子力学応用として画期的であり、後にヘンリー・アイリングは「水素分子結合解明に最初に成功したのは杉浦義勝である」と述べ、**ハイトラー=ロンドン=杉浦法(HLS法)**と呼び得ると評しています​。杉浦の論文「水素分子基底状態の性質について」(独語)は1927年の『Zeitschrift fur Physik』に掲載され、国際的にも引用されました​。この業績により、量子化学(特に原子価結合論)の分野で杉浦は名を残すことになりました​。

原子スペクトル・解析力学の研究:杉浦は量子力学以前から原子分光学の研究に従事しており、長岡半太郎の下で原子スペクトルの理論に取り組んでいました​。量子力学の形成期にも一貫してスペクトル研究を続け、新理論をいきなり受け入れるのではなく古典論との連続性を意識していたことが指摘されています​。例えば古典解析力学のハミルトン–ヤコビ理論を用いて量子論の問題にアプローチし、分光学への応用を模索しました​。こうした視点から、マックス・ボルンが提唱した「量子力学から見直した光学理論」の体系的紹介も行っています​。杉浦の業績は今日では物理学と量子化学の両分野にまたがり、従来の物理学史研究では見落とされがちでしたが、実は物理学(量子論)と化学(量子化学)の架け橋となる重要な研究を成し遂げていたと評価されています​。

その他の研究と国際交流:杉浦はその後も理化学研究所で理論物理の研究を続け、1930年代には電子論や光学分野でも著述を残しました​。1936年刊行の『電磁光学』および1940年刊行の『量子光学』では、自身の研究と最新の知見を踏まえ電磁気学から量子光学への展開を論じており、戦前期における量子論の体系化に寄与しています​。国際的な繋がりも深く、留学時代に親交を結んだオッペンハイマーとは帰国後も交流が続き、1935年に理研の同僚が米国バークレーのオッペンハイマーを訪ねる際には杉浦の紹介状が大いに役立った逸話が残っています​。欧米の研究者(ボルン、ボーア、ディラック、オッペンハイマーら)とのネットワークは、杉浦自身の研究活動のみならず日本への最新知識の導入にも貢献し、彼の国際感覚は日本の物理学の視野を広げました。

3.弟子・共同研究者とその継承

門下生と後進の育成:杉浦は教育者・指導者としても卓越しており、多くの若手を指導しました。直接の門下生として名が挙がる人物は多くありませんが、彼の講義を受けた学生たちが後に日本の物理学を担っています。前述の朝永振一郎はその代表例で、杉浦から与えられた課題(分子の積分計算)に取り組んだ経験が、後の量子電気力学研究の素地になったとも言えます​。また京都帝大で同期だった湯川秀樹も杉浦の講義に刺激を受けた一人であり(湯川自身、大学院時代に量子力学の勉強会を主宰しましたが、その背景には杉浦ら先達の教えがあります)、湯川の中間子論もこうした量子論普及の延長線上に位置付けられると指摘する声もあります​。戦前戦後を通じて、杉浦の薫陶を受けた学生・研究者たちが日本の理論物理学を支えていったのです。

共同研究と交流:杉浦自身の研究は理論が中心でしたが、理研では仁科芳雄や小谷正雄ら同僚とも緊密に交流し、理研内における理論物理研究グループの一翼を担いました。たとえば小谷正雄(のち東大教授)は1930年代に分子の量子論的研究を推進しましたが、その着想は杉浦の業績に負うところが大きいとされます​。実際、小谷研究室は戦前から原子・分子の積分計算に着手し、戦後もその研究を継続して世界的に著名な「分子積分表」(1955年)を刊行しています​。この小谷正雄は杉浦の直接の弟子ではありませんが、杉浦が切り拓いた量子化学の道を発展させた後進と言えます。さらに戦後、杉浦は自身が所長を務める立教大学理論物理学研究所に武谷三男を招き入れました​。武谷は湯川博士の弟子筋にあたる理論家ですが、杉浦の下で素粒子理論の研究をリードし、立教の若い学生たちを指導しています​。このように杉浦は自らの弟子のみならず、他機関の有望な研究者とも協働し、研究環境を提供することで日本の物理学の継承と発展に貢献しました。

国際的な人的ネットワーク:杉浦の人的交流は国内に留まらず海外にも広がっていました。欧州で知り合った物理学者とは書簡を交わし続け、研究情報や人材紹介を行っています。前述のオッペンハイマーへの紹介状の件​はその一例で、他にもコペンハーゲン時代の縁でニールス・ボーア研究所と理研の間で情報交換がなされるなど、杉浦は非公式な「学術外交官」としても機能しました。こうしたネットワークは、杉浦の弟子や後輩たちが海外留学する際にも役立ち、日本人研究者の国際交流を後押しする遺産となりました。

4.学術界・教育界への影響

理研から大学へ:杉浦は戦前・戦中は理化学研究所の研究員として活躍し、日本学術振興会の委員や学術研究会議の会員も務めるなど、学術界の発展にも寄与しました​。戦後になると、彼は研究の場を大学へと移し、新制大学における理学教育の充実に力を注ぎます。1949年、杉浦は私立大学として日本初となる理学部(立教大学理学部)の創設に中心メンバーとして関与し、初代理学部長および物理学科教授に就任しました​。戦後混乱期において私学で理学部を設置するのは画期的であり、杉浦はカリキュラム編成から設備拡充、人材登用まで指導的役割を果たしました。当時、理学部創設にあたり「理論物理学研究所」も立ち上げ、研究と教育の両立を図った点は特筆されます​。ここでは素粒子理論の武谷三男を迎えるなど、戦前からの先端研究者を教育界に招き入れたことで、学生は最先端の研究に触れながら学ぶ機会を得ました​。

物理教育への貢献とカリキュラム改革:杉浦は自身の研究経験を踏まえ、教育面でもカリキュラム改革を推進しました。戦前から執筆していた教科書・専門書類は、戦後も物理教育に活用されました。彼の著書群(光学、電子物理学、原子核物理学など)は、日本の大学で量子論や現代物理学を教える貴重な教材となり​、戦後世代の物理学者・技術者の育成に寄与しました。また理学部長として、講義科目に量子力学や相対論といった当時最新の内容を組み込み、旧来の教育からの脱却を図っています。これは、古典物理学中心だった日本の大学教育に革新をもたらし、湯川秀樹や朝永振一郎ら戦前世代が成し遂げた成果を、次世代に体系的に伝える重要な役割を果たしました。

戦後日本の科学への貢献:杉浦の戦後の活動は、日本の科学界再建にもつながりました。戦中・戦後に物理学研究が停滞する中、私立大学で理論研究の火を絶やさなかったこと、さらには学術団体での活動(学術会議や学振)を通じて研究費や方針の整備に関与したことは、日本の科学復興に寄与しています​。例えば、立教大学で育った学生や研究者が後に他大学や産業界で物理・化学分野を発展させたり、杉浦自身が培った量子化学的手法が化学や材料科学で活かされたりと、その影響は幅広い分野に及びました。加えて、戦前に築いた国際的人脈を活かして海外からの知見導入にも努め、戦後孤立しがちだった日本の科学界に国際的視野をもたらしました。こうした功績から、近年では杉浦を「もう一人の日本近代物理学の父」と位置づける評価もなされています​。仁科芳雄が研究体制の構築者だとすれば、杉浦義勝は知の伝道者・育成者として、日本の物理学基盤を支えたと言えるでしょう。

参考文献:杉浦義勝の業績に関する詳しい検討として、中根美知代「量子力学の日本への移入と杉浦義勝」​、​Nakane, Michiyo “Yoshikatsu Sugiura’s Contribution to the Development of Quantum Physics in Japan”​ PUBMED.NCBI.NLM.NIH.GOV、などがあります。これらは仁科・杉浦両氏の役割を再評価した研究で、本回答でも一部内容を参照しました。そのほか、杉浦自身の論文​、彼の書簡や同時代人の回想​、立教大学理学部創設に関する記録​などを総合することで、上述のような杉浦義勝の全貌が明らかになります。今後も日本の科学史の中で、杉浦の果たした役割に一層光が当たることが期待されます。

[1] 日本数学会100周年記念日本物理学会会長宮原将平

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