2019年2月28日木曜日

小山内宏

ハノイでの第二回米朝首脳会談であるが,ベトナム戦争で米国に勝利して,その後の経済発展が目覚ましいベトナム社会主義共和国朝鮮民主主義人民共和国のモデルとなるかどうか,ということで話題になっているのか,どうだろう。

1972年にジェーン・フォンダが北ベトナムのハノイを訪れて物議をかもしていたころ,大学に入学したばかりだったが,ベトナム反戦はキャンパスの学生運動における主要なテーマではなかったような気がする。それでも,外部から識者をよんでベトナム戦争の現状について学習するための講演会があった。ベトナム戦争が実質的に終結するのは,1975年4月のサイゴン陥落と南ベトナム政府崩壊の時点である。その2年ほど前だろうか,すでに戦況が北ベトナム有利となりつつあるころに,ベトナム戦争の状況を説明してくれた講師が,軍事評論家の小山内宏先生小山内薫の次男)だった。

阪大豊中キャンパスのロ号館の中教室に集まった学生はそれほど多くはなく,当時阪大キャンパスの学生運動の実権を握っていた民学同系の団体の主催だった。小山内さんは,黒板にチョークで絵を描きながら,ベトコンの移動・輸送路の網目が如何に北爆の影響を回避しながら活動しているかをわかりやすく説明してくれた。

写真:秋田書店「拳銃百科」奥付けより引用

P. S. ここには1924年生まれとあるが,経歴からして,Wikipediaの1916年が正しいのではないか。


2019年2月27日水曜日

Sofitel Legend Metropole Hanoi

今日,明日とベトナムのハノイにある,ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ハノイで,第二回の米朝首脳会談が行われている。あいかわらず,Wikipedia日本語版には記事がなく,英語版のSofitel Legend Metropole Hanoiはこちら

2016年の5月に家族旅行でベトナムのハノイを訪問した。ハロン湾ハノイ市内の観光である。そのとき,後半の2泊ほどをこのホテルに宿泊した。そのときの写真。

写真:ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ハノイの中庭(2016.5)

いろいろな著名人も宿泊している歴史のある重厚なホテルである。ベトナム戦争が終結する少し前に,ジェーン・フォンダが泊まったときの資料が展示されていた。ベトナム戦争のキーワードによって,脳内でジョーン・バエズに変換して記憶されていたのを今回訂正した。ジェーン・フォンダはSFマガジンの解説でドキドキしたあのバーバレラロジェ・ヴァディム監督作品)であった。

2019年2月26日火曜日

折田先生像

昨日今日は,国立大学の個別学力検査,前期試験の日。
ネットでは例年のように京大の折田彦市先生の像が話題になっていた。

写真:折田彦市(Wikipediaより)

折田彦市先生は,旧制第三高等学校の初代校長で,1950年に製作された銅像が今に伝わっている。1991年ごろから落書きの連鎖が始まり,これを避けるために1997年には像が総合人間学部図書館の地下に収納された。しかし,このムーブメントは治まることはなく,台座と像のパロディが受験シーズンなどに毎年繰り返して作られることになった。

ちょうどその1991年から1997年にかけて,総合人間学部の情報科学実習を担当していたので,折田先生の像の変化はしばしば目にしていたのだった。例えば,こんなページや,そんなページや,あんなページからのリンク)が見つかる。そして,そのリンクの先には1996年の日本のWWWサーバ一覧(なつかしい)などもある。

P. S.  折田先生の胸像は,現在は,京都大学の百周年時計台記念館1Fの歴史展示室に安置され,やすらかな余生を過ごしていらっしゃるようだ。

2019年2月25日月曜日

辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否(2)

辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否(1)からの続き

昨日の沖縄県民投票の結果が出た。ざっくりまとめると,

有権者数[A]: 115万人
投票数[B](投票率=B/A): 60.5万票(52.8%)
有効投票数[C](有効投票率=C/A): 60.2万票(52.2%)

賛成票[D](賛成比率=D/C|賛成割合=D/A): 11.5万票(19.1%|10.0%)
反対票[E](反対比率=E/C|反対割合=E/A): 43.4万票(72.2%|37.6%)
どちらでもない票[F](中間比率=F/C |中間割合=F/A ):5.3万票(8.8%|4.6%)

・有権者数に占める割合が最も多いものは反対の37.6%で,判定基準の25%を越えた。
・沖縄県民の7割以上が反対している(と普通は表現するであろう)。
・玉城デニー知事の県知事選の得票数 39.7万票を43.4万票で上回っている。
・NHKや産経新聞や読売新聞などは,結果を極力過小に示すような報道を続けた。
・政府はこの結果を無視して引き続き埋め立て工事を進めるとした。

参考: 元山仁士郎さんのTwitter

写真:沖縄県名護市辺野古(CC-BY-SA Kugel~commonswiki

2019年2月24日日曜日

辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否(1)

沖縄県のウェブサイト(2/24/2019)ではこうなっている。
平成31年2月24日(日)は県民投票です。
辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票について
県民投票とは、通常の選挙とは異なり、特定の候補者に投票するものではありません。『普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画している米軍基地建設のための埋立て』について、県民の意思を示すための投票です。
琉球新報(2/24 5:00)ではこうなっている。
沖縄県民投票、午後11時ごろ大勢判明 期日前に23万人、辺野古に直接審判

沖縄タイムズ(2/24 5:00)ではこうなっている。
きょう沖縄県民投票 辺野古埋め立て賛否を判断 得票数・率に注目

日本経済新聞朝刊(2/24)は5面の5段の小さな記事でこれ。
沖縄きょう県民投票
米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設を巡る県民投票が...
(いきなりテーマが誘導されている)

TBSの報道特集(2/23)では,金平さんの現地取材を含めて長時間取り上げていた。

NHKのNW9(2/23)では,棄権派とどちらでもない派だけを取り上げていた。2/21の特集では,22年前の移設賛否投票に関する防衛施設庁・防衛庁関係者の意見とりあげて,県民分断や沖縄の苦悩という感情的フレーズにまぶして投票忌避を誘導していた。

辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否(2)に続く)

2019年2月23日土曜日

はやぶさ2

2019年2月22日の午前7時半ごろ,小惑星探査機はやぶさ2が小惑星リュウグウへの最初の着陸(タッチダウン)に成功した。2010年の6月,はやぶさイトカワからサンプルを持ち帰った。これに関して,当時大阪大学理学研究科宇宙地球科学専攻惑星物質学グループ教授だった土山明先生(2012年から京都大学大学院理学研究科地球惑星科学専攻鉱物学講座教授)に,日本物理教育学会近畿支部の講演でお話をうかがったことを思い出した。

イトカワは直径390 m(体積0.018 km^3),質量3.5 × 10^10 kgであり,その密度は1.9 g/cm^3 である。地球表面に持ってくればグズグズにくずれそうな物体である,と聞いたような気がする。

リュウグウはどうかと思い Wikipediaをみると,直径 700 m(この辺が日本のWikipediaの限界か,英語版では 865±15 mとして参考文献も示されている),質量が 4.5 × 10^11 kgであり,イトカワより一回り大きいことがわかる。体積や密度は記載されていないので,体積を直径の3乗の半分だと仮定すると(立方体の周囲を半分だけ削ったような形だと想像)0.7 g/cm^3となる。おかしいな,水より軽い。やはり体積の式が間違っているので,その結果が報告されるのを待つほうがよろしい。

リュウグウは炭素質コンドライトからなるC型小惑星であり,それらの平均の密度は1.38 g/cm^3 程度のようだ。M型小惑星はニッケルや鉄などの金属からできていて,その平均の密度は 5.32 g/cm^3 になる(Wikipedia のStandard asteroid physical characteristics より,これも中文版はあるが日本語版はまだない)。

写真:小惑星リュウグウ(Wikipedia 英語版より)


2019年2月22日金曜日

NeXTの話

1985年にアップルから追いやられたスティーブ・ジョブズが立ち上げたのが,NeXTである。1990年の6月にMITで,素粒子と原子核(の中間領域)の国際会議PANIC XIIが開催された。森田正人先生に連れられて,一年先輩の佐藤透さんといっしょに,ワシントン経由でボストンに着いた。

会場のMITでは,コンピュータルームが参加者のオープン利用に供されていた。そこにあったのが,初代のNeXT Cubeであった。1990年の3月に天王寺分校のデータステーションにS4/330が導入されて,ワークステーションにはなじんでおり,NeXTの感触を確かめることができた。Mathematicaも使えてこれはすごいということで,翌1991年に,大阪教育大学物理1研の予算を工面してもらって,NeXT Station(CPU 68040 25Hz, 主記憶 8MB, ディスク120MB?)を1台購入することができた。天王寺分校は移転を控えてバタバタしていたので,そのどさくさである。

写真:NeXTstation(Wikipediaより)

天王寺分校のデータステーションでは,1990年にサンのワークステーションS/4-330を導入すると同時に室内にはイーサネット(10BASE5 イエローケーブル)を張って室内の端末等と接続していた。垣本さんと相談して,学内ネットワークの練習のためにその一部を延長して,同じ2階で2-30m離れた私の研究室までシン・イーサネット(10BASE2)の同軸ケーブルを引き回した(ケーブルは日本橋で自費で調達し,コネクタは垣本さんにもらったのだった)。彼は技術教育専攻の出身で,ハンダ付けのプロだったので,コネクタ部分はお願いして作ってもらった。

これにより,晴れて(ヤミか?),研究室のNeXT Stationはインターネットにつながることになった。次の年の1992年にはデータステーションは情報処理センターとして教養学科とともに柏原キャンパスに移転し,引き続いて,我々教員養成課程も1993年から新キャンパスでの生活が始まった(柏原キャンパスでは,各研究室への情報コンセントを整備していた)。

若くして亡くなられた山口英(阪大基礎工情報科学)さんが,1990年から1991年にかけて情報処理教育センター(豊中)の助手をされていた。そのとき,阪大の情報教育用のシステムとしてNeXT stationを400台導入するというので,豊中地区に行ったついでに旧豊中データステーションに立ち寄り,資料をもらうことができた。自分の記憶の中では,気軽に資料をくれた当時の山口さんはヒゲを生やしていたが,すずきひろのぶ氏と混線しているのかもしれない。

2019年2月21日木曜日

スーパーコンピュータ登場前夜

大阪大学大型計算機センターニュースセンター25周年のあゆみ:出口弘)によると,センターシステムは1980年代の前後には次のように変遷している。我々がRCNPから大型計算機センターに乗換え始めたのは,1980年に入出力棟が新設されたころからである。

1969.05 大型計算機センター開設
1976.09  ACOS700導入
1977.12  ACOS800導入
1978.10 ACOS900導入
1979.05 センター設置10周年
1980.03 入出力棟新設
1981.12 ACOS1000導入
1982.05 ACOS1000増設・IAPサービス開始・FORTRAN77
1985.01 HFPサービス開始
1986.06 SX-1サービス開始
1987.04 学術情報ネットワーク・大学間ネットワーク
1987.11 ACOS2020サービス開始
1988.01 SX-2Nサービス開始
1993.02 SX-3Rサービス開始
1994,01 ACOS3900サービス開始
1994.05 センター設置25周年
2019.01 大型計算機センター法制化50周年(記念シンポジウムのページが保護中...orz)

1970年代の半ばに,CRAY-1が開発されたのに続いて,国産の大型汎用機メーカーがスーパーコンピュータの開発を進めていた。日本電気の開発したベクトル型スーパーコンピュータのSXシリーズが登場する前,汎用機であるACOS1000に統合アレイプロセッサ(IAP)とよばれるベクトル計算機構が導入されて,1982年からサービスが始まった。ちょうど,大阪教育大学に就職したときで,天王寺のデータステーションから阪大大型計算機センターのTSS利用が可能になったころである。

1983年ごろの研究ノートをみると,FORTRAN66からFORTRAN77へのプログラム書き換えや,ACOS1000のTSSのジョブ処理手順への変更などで四苦八苦している。FORTANのコンパイル時の最適化オプションで実行時間が1/3になり,IAPオプションでさらにその1/2になるというのが,最も効果のある場合の例だった。

1985年には,ACOS1000のバックエンドシステムとして高速FORTRANプロセッサ(HFP)が導入され,ここでもIAPが使えた。これが,SX-1の導入イメージのための練習用システムとなっていたようだ。翌1986年にはSX-1が使えるようになった。

1986年に核物理センターの計算費をもらって,大型計算機センターでSX-1を利用した話(スーパーコンピュータと原子核殻模型計算 1987)は,Juliaでパズル(5)で紹介したとおりである。

2019年2月20日水曜日

RCNPの計算機

原子核理論を専門としていたので,1976年に大学院に入ると電子計算機を使って研究を進めることになる。当時は物理分野で電子計算機を縦横無尽に使うのは,X線結晶解析と原子核物理というのが相場だった。1950年代のサイエンスの状況をイメージすると,DNAと核エネルギーなので,そんなことになるのだろう。

さて,大阪大学の全国共同利用施設のひとつとして1971年に発足した核物理研究センター (RCNP)は,AVFサイクロトロンを備えた原子核の実験施設であり,阪大の吹田地区の北端に位置していた。東大の原子核研究所や理化学研究所と並び,西の原子核実験物理の拠点として位置づけられていた。歴史的経緯を考えると納得できるものではある。

核物理センターを正面からみて左手が研究棟でスタッフの研究室,会議室や事務室が入っており,右手が実験棟(サイクロトロン棟)になっていた。実験棟の2Fに計算機室やデバッグ室が設けられていた。当時はTSSではなく,オープンバッチ処理なので,計算するためには豊中地区からここまで足を運ばなければならない。

設置されていたのは,東芝の中型の汎用計算機(TOSBAC 5600)であった。実験グループのデータ解析を行うのが主目的であるが,共同利用を進めるために,原子核理論グループにもマシンタイムが無料で開放されていた。理論屋では,基礎工学部数理教室の上田保先生(核力,少数多体系),澤田達郎先生(少数多体系)や,村岡グループの養老憲二さん(殻模型),松岡和夫さん(核反応),そして森田研の我々がよく出入りしていた。実験グループだと当時RCNPの助手だった藤原守さんくらいしか記憶にない。

キーパンチャーはIBMのもので,デバッグ室の棚にカードデックの箱を置いていた。冷房の効いた主機室に入ると空調の音がうるさく,自分のフォートランカードの束にコントロールカードを重ねて,カードリーダーに読み込ませる。しばらく待って結果はラインプリンタに出力される。うるさかったのは空調のせいだけではなかったかもしれない。ときどき,ラインプリンタの紙送りが詰まると自分で紙をセットし直す。

豊中と吹田の往復にはバスの学内便を使うことが多かったが,天気が良ければ,原付で中央環状線を疾走したりした。まだ,ヘルメットが義務化されていない時代である。制限速度30kmのところを50km近く出して白バイに捕まったことが一度ある。よく事故らずに無事に過ごせたものだと思う。

1997年1月からは,阪大大型計算機センターと阪大レーザー核融合研究センターと核物理研究センターの大型計算機は統合され,ベクトル型パラレル計算機 SX-4 として共同運用されることになり,現在のSX-ACEに至っている。

写真:RCNP全景 (RCNP写真ギャラリーより)

2019年2月19日火曜日

大阪大学大型計算機センター(3)

大阪大学大型計算機センター(2)の続き)

我々がTSSによる大型計算機センターの利用をはじめた1980年前後は,ちょうどマイコン=パーソナルコンピュータが登場して普及が始まろうとしている時期と重なっている。

阪大豊中地区のデータステーションに設置されていたTSSの端末は,最初の内はドットプリンターにキーボードがついたものであった(ディスプレイはまだない)。そのうちバドミントンプリンタとよばれる,少しだけしゃれた端末も増えたが速度は速くはなかった。中には,記号が並んだAPLキーボードの端末もあったが,使ってはいない。


写真:TSS端末 Silent-700 (Wikipediaより) 。これではないが,こんな雰囲気のもの

プリンタ型のTSS端末はテキサス・インスツルメンツのものが有名で,それかどうかはわからないが,1200bpsの高速端末が研究室にも導入された。まもなく,アンリツのグリーンCRTディスプレイによるスクリーン・エディタ端末も入ったような気がする。

そうこうしているうちに,日本電気(NEC)からPC-8001,PC-8801,PC-9801とパーソナルコンピュータのシリーズが発売され,BASICや機械語で動く自作ターミナルのブームがやってくる。大型計算機センターニュースにはこうした記事が頻繁に登場していた。専用の端末に比べれば,ずっと安い価格で,かつそれなりに高機能のTSS端末が誰にでも仕える時代になったのだ。大坪先生もアセンブリ言語を駆使して,ターミナルソフトを開発されており,阪大大型計算機センターニュースの記事(1)(2)になっている。

大阪教育大学のデータステーションにも,阪大大型計算機センターの専用TSS端末が4台入り,これに加えて,PC8801が端末として導入された。N88BASICの端末エミュレータプログラムがあちこちで公開されていたので,自分でもこれを参考に適当にカスタマイズして使っていた。

P. S. 大阪教育大学のデータステーションの教務員の加藤清さん(垣本徹さんの前任者)が作ったN88BASICのプログラムを参考にしていたのではないか。これも,阪大大型計算機センターの藤井博さんの記事(1982)がオリジナルかもしれない。加藤さんはその後,岐阜経済大学から大阪工業大学に移られたようだ。その後一度だけどこかでお会いした記憶がある。


2019年2月18日月曜日

大阪大学大型計算機センター(2)

大阪大学大型計算機センター(1)からの続き)

1975年の理学部物理4回生の数値計算法(村岡光男先生)の授業は,FORTRANによるプログラミング演習であった。豊中地区のデータステーションにパンチカードを預けると,学内便によって吹田地区の大型計算機センターに運ばれ,計算結果のプリントアウトが翌日学内便で豊中地区に戻ってきた。ということで,2日かけてようやく1ジョブが実行されるのだ。これを繰り返してFORTRANのブログラムをデバッグしていた。


写真:カード穿孔機(上)とパンチカード(下)
( Wikipedia のキーパンチ より)

さて,1969年に発足した阪大大型計算機センターの初代のセンター長は基礎工学部数理教室の高木修二先生で,1979年までの10年間にわたってセンター長を務められた。高木先生(1914-2006)は原子核理論(多体問題)がご専門であり,岩波講座現代物理学の基礎第10巻原子核論を執筆されている。

その高木先生がセンター長を退任される直前に,1979年からの新システムについてセンターニュースで紹介された記事(システムの拡充とシステムの更新について)がある。1979年から導入された汎用機が NECのACOS900であり,このころには大型計算機の利用は遠隔端末からのTSSが大きな割合を占めるようになった。そのタイミングで,わが研究室でもTSSによる大型計算機センターの利用を始めたのであった(大学院に入ってからは核物理研究センターの中型汎用機を無料で使っていた)。

ACOS900のスペックは,主記憶8MB,計算速度12MIPS,磁気ディスク6GBである。うーん,そのへんの子どもでも持っている現在の iPhone とは比べてはいけないが,たった40年でこれだ。そしてその有り余るコンピュータリソースがSNSによる自己顕示的な動画やネトウヨ言説空間の構築に費やされている。

阪大大型計算機センターでは,1982年からはACOS1000が,1986年からはベクトル型スーパーコンピュータのSX-1が運用されることになる。1980年代から90年代にかけて,全国の大型計算機センターが競ってベクトル型スーパーコンピュータを導入し,それに対応して,日立,富士通,日本電気の各社が開発競争していた時代が夢のようであった。

P. S. 阪大大型計算機センターでは,JUKI のカード穿孔機が設置されていた(写真はIBMのものである)。

大阪大学大型計算機センター(3)へ続く)


2019年2月17日日曜日

大阪大学大型計算機センター(1)

旧帝大には全国共同利用施設として大型計算機センターがそれぞれに設置されていた。東大では1965年から,その他の6大学では1969年から運用が開始されている。今ではこれらのセンターは,学内共同利用施設であった情報教育系のセンターと統合するなどして,全学の情報環境を提供する機構やスーパーコンピュータのファシリティに変化している。

その大型計算機センター時代の話である。大阪教育大学に着任した翌1983年にはデータステーションの運営委員となった。そのころ大阪教育大学には,京都大学と大阪大学の両大型計算機センターのリモートステーションとしてデータステーション(地区連絡所)が設置され,リモート回線で結んだミニコンでジョブ処理が行われていた(その話はまた別の機会に)。

全国の大学は,それぞれの地区の大型計算機センターを核としたブロックにわけられ,大型計算機システムやデータベースの共同利用が推進されていた。大阪大学の大型計算機センターは第6地区のセンターとして,大阪・和歌山・奈良・兵庫・岡山・香川・愛媛・高知・徳島がサービスエリアだった。そして,地区の各大学には阪大大型計算機センターの利用支援のため「プログラム指導員」が1名づつ置かれた。

この他に,阪大大型計算機センターに常駐して相談に当たるのが「プログラム相談員」だった。プログラム相談員は,週1回2時間の常駐で,利用負担金の7万円/半年の免除やマニュアルの無償提供,ジョブの優先実行などの特典があった。一方,プログラム指導員の方は,随時の対応であり(そもそも相談もそんなにないわけで),マニュアルが一定限度で無償提供された。その後,マニュアル以外のコンピュータ関係の図書を2〜3万円/年程度購入することもできるようになった。

年1回のプログラム指導員の協議会が吹田キャンパスの阪大大型計算機センターで開かれ,センターの教職員の方々と意見交換させていただいた。大中幸三郎先生や後藤米子先生などがいらっしゃった時代である。1990年代になると,大型計算機センターはネットワーク,ワークステーションやUNIXへと守備範囲を広げ,現センター長の下條真司さんの時代がやってくる。プログラム指導員や相談員では,家本修先生,武知英夫先生,藤本益美先生の名前が懐かしい。阪大で同期の平井國友さんも奈良県立医科大からこられていた。

さて,1983年までは本学の物理化学研究室の南波嘉幸先生が大阪教育大学のプログラム指導員を務めておられたが,1984年から私と交代することになった。その指導内容はFORTRANとしていたが,プログラム相談されることはほとんどなかった。生物学・生命医学分野のデータベースBIOSIS利用のためのセンターへの利用登録の話があったかどうか。1994年には,指導内容をインターネット,Mathematica,Fortranとしている。1995年には,連絡先メールアドレスを記載するようになった。1999年にプログラム指導員は利用指導員と名前を変え(コンピュータの利用の様子がすっかりかわってしまったのだった),これが最後のお勤めとなった。

その後,阪大の大型計算機センターは情報処理教育センターと統合して,2000年からサイバーメディアセンターとなり,現在に至っている。

大阪大学大型計算機センター(2)へ続く)

2019年2月16日土曜日

総合人間学部の情報科学実習(2)

総合人間学部の情報科学実習(1)からの続き)

さて,全学共通の情報学科目に対応する情報科学実習であるが(今ならば情報基礎演習[全学向]に相当),システムとしては情報処理教育センターの日立の汎用機HITAC680(大型計算機センターは富士通でした)のVOS3上のFORTRANで,川崎辰夫先生と冨田博之先生が書かれたテキストを使ったプログラミングの演習であった。

普通教室の机に埋め込んで固定されたノートブック型パソコンを端末として使うというもので(机の蓋をすると普通教室に戻る),なんだかややこしかった。実習室の確保のための苦肉の策のようだ。システム更新の後は,普通のデスクトップPC(コンピュータ端末)の並んだ実習室になった。

最初は汎用機OS上のFORTRANをTSS端末から使うという形だったものが,UNIXも使えるようになったので,UNIXのfortranでの実習に変えてもらった。最後の方は,Cでやって下さいとのことで,言語はCに変わったが,例題のレベルもつくりも,fortran実習に毛が生えた程度。ようやく電子メールも使えるようになると,受講生との連絡は楽になった。

授業中でも空いている端末は,受講していない学生さんが自由に使ってよいことになっていた。あるときその様子を見ているとIRCを使ったチャットだった。BBSは大型計算機センター時代からROMだったし(阪大大型計算機センターのBBSでは西野友年さんが活躍していた),netnewsのfjグループにもなじんでいたが,なるほどこんな時代なのかと思った。

実習室の前に端末が数台並んだ部屋(総合人間学部の情報関係の方々のたまり場?)があり,はじめのうちはここで午前中から授業の準備をさせていただいた。やがて使えなくなってしまい,普通の非常勤講師控え室でまわりの会話に耳を澄ませながらお弁当を食べていた。

1990年の末に欧州原子核機構(CERN)ティム・バーナーズ=リーが World Wide Web を開発するのだが,1993年 NCSA Mosaic の登場で爆発的に普及して今日に至る。そのできたてのMosaicが実習室の後ろの端末にインストールされていた。テキストベースのgopher/ archieは使っていたけれど,イメージが付加されるのは画期的であった。


情報科学実習でお会いした方々:

川崎辰夫先生:一度だけご挨拶してお顔を拝見したかも。2011年に80歳で亡くなられた。

冨田博之先生:お世話係なのだけれど,年に一度お会いするかどうだった。あのディラックが晩年を過ごしたフロリダ州立大学に行かれたとおしゃっていた。その後,「ケルビンの 「19世紀物理学の二つの暗雲」に関する誤解(2003)」という面白い記事を拝見することになる。

櫻川貴司さん:当時,一世を風靡していたProlog-KABAの岩波本の著者であったのでお名前は知っていた。この実習のもろもろのお世話は,基本的には櫻川さんにしていただいた。大変お忙しそうで,つかまえてシステムのパスワードを教えてもらうのに苦労した。

新出尚之さん:最初は情報処理教育センターの所属だったが,奈良女子大の助手になられ,非常勤講師として情報科学実習を担当されていた。システムトラブルの時に助けてもらった。

筒井多圭志さん:当時京大の医学部の大学院に所属されていて,櫻川さんといろいろだべっていた(ペンギンとよばれていたみたい)。後に,ソフトバンクのCTOやCS(チーフサイエンティスト:最高研究者)になるとは。ウェブの仕組み等を教えてもらった(例:チルダはどこを指しているのか)。

青木薫さん:青木さんとはちょうど入れ替わりで(青木健一さんが金沢大学に移られるタイミングだったのかな),冨田先生の打ち合わせで一度だけお目にかかった。京大の原子核理論(クラスター模型や反対称化分子動力学AMD法で有名な堀内先生の研究室)出身なので,夏の学校や学会などでちょっとすれ違ってはいたのだが,覚えてらっしゃらないようだった。

村上正行さん:私の授業のTAをつとめてくれた院生さん。総合人間学部の一期生であり,その後,京都外国語大学に就職された。教育工学や高等教育がご専門である。TAは何人かいたのだが,なぜか彼だけが記憶に残って現在に至る。

2019年2月15日金曜日

総合人間学部の情報科学実習(1)

田村松平が1967年3月に63歳で京都大学の教養部を定年退官してから,25年後に教養部は廃止され,その半年前の1992年に総合人間学部が設置された(京都大学総合人間学部,大学院人間・環境学研究科の沿革)。

ちょうどその頃に,当時の教養部,引き続き総合人間学部の非常勤講師となって,情報科学実習を担当した。1991年から1997年にかけてである。京大の非線形動力学研究室で木立さんの先輩にあたる,川崎辰夫先生や冨田博之先生が教養部の所属で,FORTRANによる情報科学実習を担当されていた。木立さんから白羽の矢を立てられた私は,毎週1回京大の教養部(後に総合人間学部)に通うことになった。

その当時,大阪教育大学も大阪府下の三分校から柏原キャンパスへの統合移転が進んでいた。私自身も1991年には,附属学校池田地区の裏手にあった大阪教育大学の池田宿舎から,奈良県天理市に引っ越した。京都までは近鉄京都線で1本である(まあ,そこから地下鉄とバスを乗り継ぐのでなかなか百万遍にはたどりつかないのだが)。

京都大学情報環境機構(2005-)を構成している学術情報メディアセンター(2002-)は,全国共同利用の京大大型計算機センター(1969-)と総合情報メディアセンター(1997-)にルーツをもつが,後者の源流が情報処理教育センター(1978-)であった。私が担当した情報科学実習は,この情報処理教育センターの第4次システムと第5次システムを使って運用されていた期間に対応する。

1991年から1997年というと,1991年の12月には大阪教育大学に情報処理センターが設置され,1992年には柏原キャンパスが開校して共通講義棟A205(現在の講義準備室)に情報処理センター管理室が開設されたころ。1996年には540㎡の情報処理センター棟(E棟)も竣工しており,ちょうど本学ではキャンパスネットワークの整備が急速に進んだ時期でもあった。

総合人間学部の情報科学実習(2)に続く)

2019年2月14日木曜日

田村松平

田村文庫の続き)

田村松平について,ネット上での情報をさらに調べると次のようなものが見つかった。

(1)日本における量子力学の受容の最初期のものとして,京都大学学術情報リポジトリ紅に,量子力学の紹介記事「新量子論,物理化學の進歩(1928),2(1):1-38」が掲載されていた。「物理化學の進歩」は,京都大学の物理化学教室が発行している学術誌であり,バックナンバーの電子化も行われているようだ(吉村洋介さん)。

(2)田村松平の没年は1995年ではなく1994年であった(Wikipediaはさきほど修正済)。
京大リポジトリにある京大広報 No. 474 855p 1994.11.01 に次の記事があった。

訃報 田村松平 名誉教授
 
 本学名誉教授 田村松平 先生は,9月24日逝
去された。享年90。             

 先生は,昭和2年京都帝国大学理学部物理学科
を卒業,本学理学部副手,講師,助教授を経て同
25年本学教授(分校)に就任,物理学及び科学史
の講義を担当された。同38年教養部に配置換,同
42年停年により退官され,京都大学名誉教授の称
号を受けられた。              
 先生の専門は素粒子論で,特に,場の量子論を
中心とする研究は,その後のこの分野における研
究に対する先駆的な役割を果たしたものであり,
高い評価を受けている。また,先生は物理学史を
中心とする科学史に対する造詣が深く,該博なる
学識と透徹した論理に基づいての科学史研究が評
価されている。               
 先生は教養部における講義以外に大学院理学研
究科の教育も担当され,深い学殖と円満な人格を
もって後学の育成に尽力された。       
 ここに謹んで哀悼の意を表します。     
              (総合人間学部)

(3)田村松平と60年安保の関わりについての二次資料があった。
田村文庫のところで紹介した記事には,安保でデモにいった話があった。

(4)物理教育学会の論文誌,物理教育6巻3号(昭和33年)に,昭和33年度の物理教育シンポジウム(昭和33年10月20日,京都大学)の特集記事(高校や大学における物理実験について)が掲載されている。そのシンポジウム「物理実験をはばむものとその対策」に田村松平が参加している。田村は昭和25年に分校の教授に就任しており,昭和38年に正式に制度化された教養部に配置替えとなる。学生の教養教育を長年担当していたのでシンポジウムによばれていたのだろう。ただ,田村は理論物理(素粒子論)が専門であり,学生実験は持っていないのでシンポジウムの発言もなかなかコメントがしづらそうな様子がみられる。

P. S. 旧制の第三高等学校を前身として,京都大学の分校を経由して教養部が設置されるまでの経緯は複雑であり,京都大学百年史,部局史編2第14章(旧教養部)を参照する必要がある。

2019年2月13日水曜日

田村文庫

田村松平(1904-1994)は,京都帝大物理で湯川秀樹(1907-1981)の3年上の先輩だった。その田村先生が亡くなってしばらくしてから,大阪教育大学で田村先生の膨大な蔵書を引き取らないかという話があった。鯖田秀樹先生と木立英行先生が京大物理出身なので,引き受け先にどうかという相談があったようだ。結局,お二人が話をつけられて,大阪教育大学の附属図書館で引き受けることになった。

現在は,田村文庫として大阪教育大学附属図書館地下1F書庫の電動集密書架にコーナーが設けられている。哲学や科学史から物理まで,約2000冊の和書と約5000冊の洋書(私が目の子で数えたので誤差は結構大きいことに注意)が所蔵されている。


中には,湯川秀樹の最初の著書である「β線放射能の理論(岩波書店 昭和11年)」などという本もあった。この本を2018年に私が最初に手に取ったときはページが袋とじされたままで,カットしてはじめて読むことができたのだった(ということは田村先生も未読だったということか)。


田村松平先生(木立さんは「まっぺいさん」と呼んでいたので,それが京大での通り名だったようだ)については,教養レベルの物理の教科書(物理学通論)や,科学史関係の翻訳など(ギリシャの科学,力学の発展史)でお名前を見かけたことはあった。1968年に定年退官されているから,その授業を受講されていた方々はもう70代以上ということになる。

インターネットで検索してみるとおもしろい記事が見つかった(Bookersのブログ 2015年11月)。「まっぺい先生」のお人柄が窺えるのであった。

http://epiphanie.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-e97f.html
http://epiphanie.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-e8c6.html
http://epiphanie.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-0d24.html
http://epiphanie.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-f075.html
http://epiphanie.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-d75d.html
http://epiphanie.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-d75d-1.html

あるいは,同趣旨の記録として,京都大学の自由な学風(つねこう)にある祖父の想い出など。

田村松平に続く)


2019年2月12日火曜日

覚道先生(6)

覚道先生(5)から続く)

定年で退職する日が迫っているので,部屋の掃除を進めていると古い資料が涌いて出てくる。その中に大阪教育大学教室沿革史があったので,そこから覚道先生に関する記述を抜粋しておく。たぶん,これはご本人が書かれたものである(私も自分の部分は自分で書いたので)。写真も物理の図書室にあったものである。

覚道雄次郎
 昭和41年4月に本学に就任し,専攻分野は素粒子物理学の理論的研究である。当初は主に高エネルギーハドロンの衝突現象を研究した。引き続きハドロンのクォーク模型により,メソンやクォークニュームの質量準位を計算,クォーク間ポテンシャルとして,クーロン型と線型のポテンシャルを続けたもので良い結果が得られることを見出した。その後,大阪大学教養部と協力して,ゲージ場の理論を研究,特に各種のゲージ場における理論の不変性の問題や,関連して磁気単極子の問題を研究した。
 A. Hosoya, Y. Kakudo, T. Taguchi, A. Tanaka and K. Yamamoto, Nuovo Cimento 68A (1982) 150
 平成3年4月より平成5年3月まで夜間学部主事を併任,平成6年3月に停年退官し,名誉教授の称号を授与された。



2019年2月11日月曜日

小出の質量公式

微細構造定数からの続き)

微細構造定数のところで,Bohrによる「電子と陽子の質量比が云々」という話があった。陽子はクォーク3個からなるハドロンで,構成要素のクォーク質量自身は小さいため,質量の起源はカイラル対称性の自発的な破れ(南部陽一郎)にあると考えられるようだ。これだと陽子の質量と電子の質量が関係した基本原理を導く数学があるということは考えにくい。

ところで,レプトン同士の質量比については次のような小出の質量公式が成り立つことが,1982年に小出義夫によって示された(Lettere al Nuovo Cimento 34, 201 (1982); Physics Letters B 120, 161 (1983))。この段階ではむしろ,$m_\tau$を予言したというのが正確らしい。
\begin{equation}
m_e+m_\mu+m_\tau = \frac{2}{3} \bigl( \sqrt{m_e}+ \sqrt{m_\mu} + \sqrt{m_\tau } \bigr) ^2
\end{equation}
小出先生は金沢生まれのようだ。私の実家から歩いて10分の二水高校から金沢大学に進み,広島大学で博士課程を修了されている。小出の質量公式をめぐるその後の展開は,「荷電レプトンの質量公式が拓いた道(2015)」に詳しい。私の阪大物理での同級生の西浦宏幸君(2012年度素粒子メダル受賞者=マヨラナニュートリノのCP位相に関する研究)も小出の質量公式についての小出先生との共著論文がある。

2019年2月10日日曜日

微細構造定数

1ヶ月ほど前に,数学者のマイケル・アティヤが89歳で亡くなった。昨年,微細構造定数$\alpha$を数学的に導出する過程(a)で,リーマン予想の証明ができたという論文(b)を提出し,物議を醸した。リーマン予想はクレイ数学研究所の7つのミレニアム懸賞問題のひとつであり,これが本当ならば非常に大きなニュースとなる。しかしながら,これらの論文(未受理)については多くの人から疑問が提出されていた

微細構造定数$\alpha$を数学的に根拠付けるという話で思い出すのが,学生の頃に読んだ岩波講座現代物理学の基礎11 素粒子論(1974年12月)の中にあった次の記述である。

すでに,Bohrは次元のない定数の値,すなわち電子と陽子の質量比および微細構造定数の値を予言することが将来の理論に課されていると指摘している(1930年).そのような理論の存在を前提とするならば,くりこみ処法は過渡的なものと評価するのが適切であろう.
われわれはBohrの指摘を満足させる理論を現在もっていないが,その徴候は見られる.Wylerは,ある代数学的な理由によって,
\begin{equation}
\dfrac{e^2}{4\pi\hbar c} = 2^{-\frac{19}{4}} 3^{\frac{7}{4}} 5^{-\frac{1}{4}} \pi^{-\frac{11}{4}} = (137.03608)^{-1}
\end{equation}
の値を得た(1971年).これは実測値$(137.03602 \pm 0.00021)^{-1}$と驚くほど一致している.これはまだ憶測の段階をでていないが,将来への足場となるかもしれない.

へーっと思ったが,その後これは話題にはならなかった。この話はWolframのMathWorldで数論のところで Wyler's Constant として取り上げられているが,$\alpha$の現在の実測値とは,誤差の範囲でずれているためにそもそもこの話はつぶれていたのだった。

小出の質量公式に続く)

2019年2月9日土曜日

覚道先生(5)

覚道先生(4)からの続き)

覚道先生が定年を迎えられて数年後の2001年の3月。当時夜間学部に勤務されていた木立先生から連絡があり(このときはすでに夜間学部主事だったのだろうか,まだ長尾彰夫先生が主事の頃か),明日の卒業式で記念講演される覚道先生の紹介が必要なので,物理方面の業績について一言考えてほしいとのこと。

そのとき,私の送ったメールの記録がある。
覚道先生のご専門は素粒子物理学ですが,初期には「高エネルギーの核子衝突における中間子の多重発生」,また「相対論的なクォークモデルにおけるハドロンの質量の導出」,あるいは「ゲージ相互作用における不変性の問題」など,現象論から基礎理論に至るまでの幅広い研究に携わってこられました。
この卒業式の記念講演には私も出席し,終わってから覚道先生,木立先生と私の3人で四天王寺裏のちゃんこ屋(萩家本場所)で久しぶりの飲み会となった。

私が着任した頃は,前述の館野常昭さんやその当時大阪教育大学の大学院生で,第1研究室の学生さんたちと同室であった原田孝君らとともに,ディラック粒子2個の2体ポテンシャル問題を解いて中間子の質量スペクトルを求めるという仕事をされていた。

覚道先生と私は,スピンが0でない原子核のミューオン捕獲の理論(ミューオン原子の超微細状態からの捕獲と誘導擬スカラー項の導出)について共著の論文を書いたこともあった。

覚道先生(6)へ続く)

2019年2月8日金曜日

覚道先生(4)

覚道先生(3)からの続き)

覚道先生は1991年度と1992年度の2年間夜間学部の主事を務められた。そのころはちょうど大学の自己点検評価がうるさくいわれるようになった時代で,覚道先生も自己評価書の作成にたいへんご尽力され,また苦労されていたようであった。1993年には前年の教養学科に続いて教員養成課程も柏原キャンパスに移転したので,最後の1年は研究室も離れ離れになってしまった。

1994年の3月に卒業生やOBが集まって大阪府教職員互助組合のたかつガーデンで覚道先生の退官記念パーティを催した。これは先生の最初の学生さんで,大分大学を経て大阪教育大学の理科教育学教室の教授になられた村井護晏先生や,当時覚道先生と共同研究されていた清教学園高等学校の館野常昭先生らが幹事となり,私もお手伝いして開いたものである。30人くらいの卒業生が集まっただろうか。この日のために幹事の3人で上本町の近鉄百貨店で記念品を探し回ったのものだった。

大阪教育大学物理学教室主催の退職記念お食事会は,天王寺の近鉄百貨店の隣の天王寺都ホテル新館で開いた。こちらの方は私が幹事であった。当日はお花の準備で天王寺都ホテルの日比谷花壇あたりを走り回っていた。いずれも覚道先生と奥様のお二人をご招待している。

覚道先生は定年後しばらく福井工業大学で物理を教えておられた。ここはその後,下村先生や阪大の原子核実験の南園忠則先生なども定年後に勤められている。覚道先生は,通うのがたいへんだけど芦原温泉も近くでなかなかよろしいとおっしゃっていた。

覚道先生(5)に続く)

2019年2月7日木曜日

覚道先生(3)

覚道先生(2)からの続き)

天王寺の1研時代にハイキングが企画されたことがある。木立先生が,5月の連休に葛城山のつつじを見に行きましょうとおっしゃって,覚道先生と木立先生と私の三人で御所からケーブルカーで葛城山頂に向かった。学生さんたちにも声をかけていたのだが,当日はどんよりとした曇り日で今にも雨が降りそうな天気。若者は誰もこないのであった。雨が降らないかばかりを気にしていて,山頂からツツジが見えたのかどうか確かな記憶がない。

帰りは山道を北に縦走して,近鉄南大阪線の磐城駅に出て帰った。このときだろうか,木立先生が珍しいものがあるといって,天王寺(またあべの銀座の近くである)の屋台の洋食屋で山羊だか羊だかの脳みそのフライなるものを食べた。うまいでしょう,といわれたがどうしたものか。

大阪教育大学が1993年に柏原キャンパスに統合移転完了した前後に,覚道先生といっしょのハイキングで私が企画したものがある。ご病気になられてからの回復祝いだったのか,1991年から夜間学部主事になられており,その就任のお祝いなのか慰労会なのか,すっかり忘れている。亡くなられた高木義人先生から私に物理教室でハイキングを企画したらどうかとのお話があった。当時すでに奈良県民だったので,大和三山めぐりというコースを考えた。大和八木−耳成山−藤原宮跡−天香久山−畝傍山−神武天皇陵−大和八木とまわるのだ。事前に家族で予習ハイキングをした,子どもたちはまだ小さかったがなんとかクリアできた。さて,教室のハイキングの方は,私が最若年なのにフーフーいっているところ,覚道先生をはじめとして高齢の先生方は皆さん健脚でいたってお元気なのである。終わってから大和八木の居酒屋でちょっと一杯。

覚道先生(4)に続く)

2019年2月6日水曜日

覚道先生(2)

覚道先生(1)からの続き)

1982年の4月1日に大阪教育大学に教務員として着任し,その次の年に助手になった。覚道先生の研究室は隣の部屋にあり,鯖田秀樹先生(池田分校所属)の机の奥に座っていらっしゃった。その手前には私より1年先に着任して助手になられたばかりの木立英行先生の机がある。私と併せて4人が物理学第1研究室(通称1研)の教員であった。覚道先生が阪大の素粒子論,私が阪大の原子核理論,木立先生と鯖田先生は京大の非線形動力学研究室(今はSNSでおなじみの佐々真一先生が主宰しているのか)の出身である。次の年には空いた教務員のポストに同じ研究室から古賀眞史先生がこられた。古賀先生はプラズマ物理がご専門の下村昇先生と島田昌敏先生(放電物理・物理教育)の研究室(5研)に入った。

1研の部屋は昔の師範学校時代の小学校の教室の1部屋を2つに変形間仕切りしたものであり,私の方は1研で卒業研究をする学生さんたちと同居なのだった。詳細は,1987年度卒業の齊藤昌久君の書いたターボパスカルマニュアル(ロールプレイングゲーム風)の図をみていただきたい。

天王寺分校2F南の物理1研のイメージ

図の右が南で天王寺分校と附属中・高の共用グラウンドに面しており,左が廊下で出入り口は別れている。農民たちの村には学生の机があり,当時はどこから持ってきたのやらベッドまで設置されていた。覚道先生や鯖田先生や木立先生の学生もこの部屋にいるので結構な人数であった。南に面していて暖かい部屋だったので覚道先生はよくウツラウツラされていた。自分がこの歳になってようやく,暖かくなくとも毎日の昼食後には必ず眠くなってしまうことが分かった。

私が卒論学生を持ったのは着任してから4年目の1985年からである。覚道先生は1986年に教授になられてまもなく,1988年の教養学科設置の改組のころから二部(夜間学部)の担当になられた。それまでは覚道先生といっしょに卒論生のゼミを行うことがあった。十分予習していない学生が覚道先生の鋭い質問に答えられないと沈黙の時間が10分くらい続く・・・。というわけでゼミではかなり厳しい一面があった。

覚道先生(3)に続く)

2019年2月5日火曜日

覚道先生(1)

先日,覚道雄次郎先生が昨年の12月に亡くなられたとの報せがあった。私より25歳ほど年上なので90歳くらいだったろうか。阪大理学部の内山研を出られて和歌山大学に数年勤められた後,1966年から大阪教育大学に移られた。覚道先生には本当にお世話になった。

私が大阪教育大学に就職できたのも覚道先生のおかげなのであった。D3の終わり頃に初めて話があったときに,阪大豊中キャンパスの教養部の山本邦夫先生(覚道先生の同級生)の部屋へ訪ねていってご挨拶をした。日頃着たことのないスーツにネクタイでこちらはかなり緊張していたのだが,優しい声をかけていただきちょっと安心した。ちょっとまだどうなるかわかりませんねぇ,というような雰囲気だったので,冬の中央環状線の横の歩道をとぼとぼと下って蛍池まで帰ったイメージが残っている。

その年は残念ながら就職できなかったのだが,次の年に再び大阪教育大学の物理教室の人事があり(阪田巻蔵先生の学長就任の前後だったような),このときはたいへん幸運なことに採用されることになった。当時の大阪教育大学の物理学教室は天王寺分校と池田分校を併せて15名の先生方がいらっしゃって,なかなかの大所帯であった(いまは3部局あわせてその半分以下だが,今後よりいっそうの削減が予想される)。

採用が決まる最初の面接の後か,あるいは着任前の別の機会だったか忘れたが,暖い春の日のお昼時。おいしい麺を食べに行きませんかと誘われ,天王寺の今はなきあべの銀座の近くの小さなラーメン屋でじゃじゃ麺をごちそうになった。これがうまいんですよとの講釈があったが,こちらは緊張しているのでなんだか味もよくわからなかったかもしれない。

覚道先生(2)に続く)

2019年2月4日月曜日

草枕:夏目漱石

夏目漱石の草枕は読んだことがない。冒頭の一節は有名なのだけれど。青空文庫の草枕からその部分を引用してみると,
 山路を登りながら、こう考えた。
 に働けばが立つ。させば流される。意地をせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするがい。
草枕は普通の小説ではないようで,物語が進まない気がして,三四郎・それから・門・彼岸過迄・行人・こころ・明暗などの延長線上のテンションでは,読む気力が出なかったのだと思う。この度,youtubeで草枕の朗読をざっくりと聞いてみた。前編後編をあわせて5時間半ほどある。

蘆雪や若冲の話が出てきたので,ああ,そんな話だったのかと思ってなんだか親しみが湧いてきた。その若冲の部分を青空文庫から引用すると次のようになっている。
横を向く。にかかっている若冲の鶴の図が目につく。これは商売柄だけに、部屋に這入った時、すでに逸品と認めた。若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼なしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形の胴がふわっとかっている様子は、はなはだ吾意を得て、飄逸は、長いのさきまでっている。
ところで,松岡正剛の千夜千冊の583夜が「草枕」である。そこには,「そんなことを思いながら横に目を凝らすと若冲の鶏がいる。複製の商品だ。」とある。若冲といえば鶏というのは普通はそうだが,ここは精緻な彩色の鶏ではなくて,一筆書きの卵形の鶴でなければならないのである。複製の商品というのはどこからでてきたのだ。まあ,そんな瑣末なことはどうでもよいが,千夜千冊の記事の中で松岡正剛は漱石を巡る重要な指摘をしているように思った。

P. S. 草枕の那美のモデルが,前田卓(つな)なのだそうで,ここからも歴史がつながる

「春立つや子規より手紙漱石へ」 (榎本好宏 1937-)

2019年2月3日日曜日

統計の日の標語

総務省が2019年度の統計の日の標語を募集している。募集期間は2月1日から3月31日まで。総務省統計局のページはいたって冷静なのでこの話題はでてこない。担当が違うのであろう。

このタイミングでこの募集なので,twitterでは大喜利状態が発生している。そこでさっそくその中から川柳形式のものを選んでみたところ,3日でこのありさまである。募集要領では誰でも応募できるが1人5編以内であり,自作で未発表のものに限れられるため,これらの作品が選ばれる可能性は低い(そうでなくてもね…orz)。

一方,2月1日には柴山文部科学大臣が,大学改革案としてデータサイエンス必修化を打ち出している。もう浮き足立って支離滅裂な日本なのだった。初等中等教育から特別な教科の道徳もプログラミング教育も外し,大学改革案からデータサイエンスを外し,これらすべてを官僚と政治家の必須科目として設定したほうがよいのではないか。

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統計の日の標語募集によせて(twitterから36選)

・統計に 隠れて見えぬ 世の姿
・国家への 信頼無視した その統計
・マイナスが プラスに見える 政府かな
・偽統計 国の破滅へ まっしぐら
・為政者の 望み通りに 数いじる
・偽統計 みんなで作れば 怖くない
・偽データ 集めて早し 偽統計
・統計は 政府に任せちゃ いけないよ
・統計は いまや出世の 一里塚
・統計の 真の目的 出世かな
・統計と 言えば信じる 愚か者
・統計の 捏造改竄 誰のため
・統計が 民を誘う 夢の国
・忖度で 統計自在に 改竄し
・官邸の 顔色うかがい 手を入れる
・官邸の 意のままになす 数合わせ
・官邸の 為なら資料 ほっ統計〜
・大東亜 築く力だ この改ざん
・統計の 不正で作れ 好景気
・統計の 操作が作る 独裁者
・統計を 疑う目から 民主主義
・統計を とってくれろと 泣く子かな
・妄想に あわせてつくれ 偽統計
・合わぬなら 作ってしまえ 偽統計
・ない数字 作ってしまえ ホトトギス
・秀吉は 検地を始めた 非国民
・絶対に 組織ぐるみと 認めない
・計(かず)数え 頭鶏(あたまにわとり) 計(かず)忘れ
・騙せれば 調査方法 ほっ統計
・統計は どうせ不正だ ほっとうけい
・意図的に 抽出省略 記入ミス
・結論へ 鉛筆舐めて 数合わせ
・統計は 答えを先に 決めてから
・統計は 伸び縮みする 物差しだ
・統計の せいでベクトル 数三C
・あの方の 笑顔がみたくて この数字
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2019年2月2日土曜日

能村登四郎

能村登四郎という名前やイメージが頭のどこかに引っかかっていたのは,NHKの俳句入門か何かで見かけたからかもしれない。その名前から,石川県にゆかりのある人かなと思ったら,やはり「我が父の生地」という前書きで「汗ばみて加賀強情の血ありけり」という句が「増殖する俳句歳時記(清水哲男)」にあった。

さらに調べると,Wikipediaの社会性俳句の項に,富山出身の沢木欣一細見綾子の夫)と並んでその名前を見つけた。

能村登四郎の句にそれほど引かれるというわけではない。むしろ老いを突き付けられてしまうことに対する軽い拒否感があるのかもしれない。それでも清水哲男の文章がいいなと思ってしまうのが次の句の解説なので以下に引用する。

「老境や空ほたる籠朱房垂れ」 (能村登四郎 1911-2001)
老境にはいまだしの私が言うのも生意気だが、年齢を重ねるに連れて、たしかに事物は大きく鮮明に見えてくるのだと思う。事物の大小は相対的に感じるわけで、視線を活発に動かす若年時には、大小の区別は社会常識の範囲内に納まっている。ところが、身体的にも精神的にも目配りが不活発になってくる(活発に動かす必要もなくなる)と、相対化が徹底しないので、突然のように心はある一つのものを拡大してとらえるようになる。単なる細くて赤い紐が、大きな朱房に見えたりする。そのように目に見えるというよりも、そのように見たくなるというべきか。生理的な衰えとともに、人は事物を相対化せず、個としていつくしむ「レンズ」を育てていくようである。(清水哲男 June 18 2000)

2019年2月1日金曜日

初めての旅

数日前に,日本映画製作者連盟の新年記者発表があり,クイーンのボヘミアン・ラプソディが2018年度の興行収入トップで100億円を越えた,とテレビのニュースでやっていた。東映グループ会長ですっかりおっさんになってしまった岡田裕介が映っていた。

岡田裕介といえば,映画の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の薫クンであり,同じ森谷司郎監督の「初めての旅」の主人公である。両作品ともに森和代が主人公の相手役として出演している。高校時代に米島誠二君が森和代を絶賛しており,今はなくなってしまった金沢劇場(東宝の配給館,ゴジラシリーズも日本のいちばん長い日もここで観たのだ)に一人で行ったのが48年前の高校2年の冬か。さらば青春を含む映画音楽は小椋佳だった(青春−砂漠の少年− 岡田裕介と森和代のナレーション入り)。そして,その小椋佳が東大出身の銀行員だとわかったときに,二人でかなりがっかりしていたのもなつかしい。

庄司薫の薫君シリーズでは「白鳥の歌なんか聞こえない」が,NHKの銀河テレビ小説でドラマ化され,主演が荒谷公之と仁科明子だったのだが,やはり岡田裕介−森和代ペアには勝てなかった。岡田裕介は70年代半ばには映画プロデューサに転じ,その後父親の岡田茂の後をついで東映の社長になる。

P. S. 何年か後に,「初めての旅」は曽野綾子が原作だということに気がついた。あの曽野綾子だ…orz。まあ,ストーリーから考えて “むべなるかな” なのであった(岡田裕介が岡田茂の息子であるという状況から考えると2乗で効いているのか,現実の権力関係は青春を凌駕する…orz)。