1982年の4月1日に大阪教育大学に教務員として着任し,その次の年に助手になった。覚道先生の研究室は隣の部屋にあり,鯖田秀樹先生(池田分校所属)の机の奥に座っていらっしゃった。その手前には私より1年先に着任して助手になられたばかりの木立英行先生の机がある。私と併せて4人が物理学第1研究室(通称1研)の教員であった。覚道先生が阪大の素粒子論,私が阪大の原子核理論,木立先生と鯖田先生は京大の非線形動力学研究室(今はSNSでおなじみの佐々真一先生が主宰しているのか)の出身である。次の年には空いた教務員のポストに同じ研究室から古賀眞史先生がこられた。古賀先生はプラズマ物理がご専門の下村昇先生と島田昌敏先生(放電物理・物理教育)の研究室(5研)に入った。
1研の部屋は昔の師範学校時代の小学校の教室の1部屋を2つに変形間仕切りしたものであり,私の方は1研で卒業研究をする学生さんたちと同居なのだった。詳細は,1987年度卒業の齊藤昌久君の書いたターボパスカルマニュアル(ロールプレイングゲーム風)の図をみていただきたい。
天王寺分校2F南の物理1研のイメージ
図の右が南で天王寺分校と附属中・高の共用グラウンドに面しており,左が廊下で出入り口は別れている。農民たちの村には学生の机があり,当時はどこから持ってきたのやらベッドまで設置されていた。覚道先生や鯖田先生や木立先生の学生もこの部屋にいるので結構な人数であった。南に面していて暖かい部屋だったので覚道先生はよくウツラウツラされていた。自分がこの歳になってようやく,暖かくなくとも毎日の昼食後には必ず眠くなってしまうことが分かった。
私が卒論学生を持ったのは着任してから4年目の1985年からである。覚道先生は1986年に教授になられてまもなく,1988年の教養学科設置の改組のころから二部(夜間学部)の担当になられた。それまでは覚道先生といっしょに卒論生のゼミを行うことがあった。十分予習していない学生が覚道先生の鋭い質問に答えられないと沈黙の時間が10分くらい続く・・・。というわけでゼミではかなり厳しい一面があった。
(覚道先生(3)に続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿