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2025年10月2日木曜日

万博訪問記(2)

万博訪問記(1)からの続き

もう行かないはずだった大阪・関西万博2025,諸般の大人の事情と「勢い」で自腹で夜間券を調達していくことになりました,はい。17:00入場の夜間券が5月中旬から,トワイライトサービスという名目で16:00から入れるようになった。それは8月で終ったものだと信じていたが,調べてみるとどうやらいまだに16:00入場が可能だった。もっとはっきりわかるようにホームページに書いてほしい。

入退場にそれぞれ1時間ほど待たされたが,夏の炎天下の日差しのもとではなくて,そこは助かった。フェルミ推定によると,自分の並んでいる行列に群がる人数は,16:30入場時は2〜3万人,21:30退場時は3〜4万人くらいに見えた。ヘロヘロになりつつも混乱なく無事に通過することができた。帰りの奈良行き地下鉄も堺筋本町を過ぎたあたりでようやく座れた。

場内はあいかわらずの大行列でうまり,楽しそうなパビリオンはほとんど無理。1週間前抽選で当たったのは人気がなさそうな飯田グループ・大阪公立大パビリオン。人気がないのもむべなるかな10分で出てきた。花火はパビリオンの隙間からほんの少し見えた。ドローンは見逃したし,水上ショーも大屋根リング上から遠目で青い噴水を見ただけ。まあ前回とは違って夜の大屋根リング上は涼しくて快適だった。


さて,もう手遅れではあるのだが,こうすれば良かったのにという経験談を60年後の次回のオーサカ万博(ないでしょうけど)に向けて書き残しておくことにする。

(1) そもそも万博をやらないほうがよかった。4000億(直接費3000億,運営費1000億,関連インフラを除く)も税金をかけるのならば,大都市の老朽インフラ・防災対策などやるべきことは山のようにあるはずだ。目的だったIRなんてものは止めて,公営オンラインカジノでも始めた方が国や地方公共団体は儲かるし,むしろ制御しやすいではないの。

(2) 入場のセキュリティチェックは不要。飛行機じゃないので爆発しても墜落はしない。そもそもアクセスの満員鉄道はフリーパスなのに。これと面倒でできの悪い予約システム(パビリオン含む)のおかげで毎日何時間も待たされるわけだ。とにかくややこしくて老人には無理。普通に切符を売ってください。

(3) 海外パビリオンは,実物展示(短時間):お土産:軽食レストラン:イベント等=1:1:1:1で作ってもらえばよかった。それぞれ独立に入場/見物できるようにする。すべてのパビリオンの映像展示(時間がかかって人が流れない)は不要で,ウェブで見ることにする。あるいは韓国館のような外部ディスプレイで対応。インド館なんて見どころがなくてスイスイ人が流れていた。やれば長時間行列ゼロは可能だ。

(4) テーマパビリオンや国内パビリオンなどは,まあ適当にしてもらえばいいのだけれど,ワークショップや体験含めて20分が限度か。これも人を溜めずに流れるシステムにする。予約が必要ならば個別にデパートのレストラン方式で予約票を発行すればよいだけ。

(5) あとは自律的な人の流れに任せてしまう。これが前回の万博(人口密度1.5倍)のケース。まあ,85万人の頃は1万人の場内野宿というのもあったらしいけど。地下鉄の故障はあったが大きな台風や地震がなくて本当に良うございました。



写真:大阪・関西万博2025 夜間入場(2025.9.30撮影)


結論:これは大きな大阪の縁日・お祭りだった。食べたのはチジミとたこ焼き。インフラを別にしても4000億(しかも半年で全部夢のように消えてしまう)と,めちゃくちゃ無駄なコストがかかっているけど,お祭りってそんなものだ。若い人たちはとても楽しんでいた。老人たちはその情報ゲームのペースについていけない。

その大阪・関西の集合無意識は左の手で海外の観光客を引きつけつつ,右の手で鹿をネタに外国人を叩いている。あほらしい。いったい何がしたかったのだ。お祭りにはチンピラとヤクザがつきものなのかもしれない。

2025年9月18日木曜日

EXPO'70パビリオン

太陽の塔からの続き

9月に入っても猛暑日が続いている。万博記念公園は澄んだ青空で人も少ないので,絶好の散歩日和のはずだったが,ジリジリと照りつける太陽は太陽の塔どころの話ではない。

その太陽の塔から東に少し歩くと,かつての鉄鋼館がEXPO'70パビリオンとして,1970年大阪万博の資料館となっている。それぞれが2階建ての本館と別館からなっていて,本館の1階は特別展,本館の2階から別館が常設展。

当時の懐かしい写真やパンフレットなどが並んでいて,ビデオが再生されている。半年(183日)で6420万人が入場しているので,1日平均35万人だ(ピークは85万人)。現在のEXPO2025では,20万人が限度。それでも入場者数人口密度はともに平均10万人/km2程度だ。



写真:EXPO'70 のペーパークラフト模型(2025.9.16撮影)

参加国に中華人民共和国はなくて,中華民国。ドイツは西ドイツ(ドイツ連邦共和国)だった。ただしパビリオン名称はドイツ館だったらしい。入場料金は大人800円だったけれど,15歳から22歳の青年という枠があって600円。自分はこれで入場したのだった。



写真:太陽の塔の未来の顔(1970-1992)(2025.9.16撮影)

太陽の塔には3つの顔があって,表の現在の顔,背面の過去の顔,そして黄金の未来の顔だ。その未来の顔が1992年に老朽化のため交換され,再整備されてこの資料館におさめられている。いまとなっては,こちらの方がきれいなので再度交換してはどうだろうか。

P. S. アイジャック事件というのか。男が目玉部分に数日間ろう城したあの事件。

2025年9月17日水曜日

太陽の塔

火星の石からの続き

諸般の事情で,万博記念公園に行くことになった。EXPO'70の方だ。目的地は太陽の塔EXPO'70パビリオン(EXPO'70の資料館)。

高校2年の夏休みに万博1人旅をしている。7月末の4-5日間,京都鹿ケ谷の親戚の家に泊まり四条河原町から阪急電車で茨木市まで行き,そこからシャトルバスで万博会場東口に到達するコースだ。けっこう期待して太陽の塔の中にも入ったけれど,若干ハリボテ残念感があった。

その後,阪大に入学して万博会場から数km圏内の蛍池駅近くに住むことになるとは思わなかった。学生時代の9年が終って結婚してからも10年ほどは池田市(石橋とか緑ケ丘とか)に住んでいた。万博の跡地にも何度か訪れている。

そういえば,米島君が来阪した1970年代後半に,エキスポタワーに登ったあと,エキスポランドの塀を乗り越えて入場してそのまま出場した。この頃,研究室のハイキングでは正規の入口からエキスポランドに入って大塚さんとミニジェットコースターに乗った記憶もある。

いずれにせよ,1970年の万博閉幕後,しばらくはエキスポタワー(1970-2002)もエキスポランド(1970,1972-2009)も存在していた。太陽の塔は無事に残されたけれど,危険なので内部は立ち入りできなかった。それが,紆余曲折の末に2018年から再び内部が公開されることになった。

リニューアルされた太陽の塔は30分刻みの予約制で,10時30分から11時までの予約をとった。実際にいってみるとそこまで厳密に管理しているわけではない。たまっている人数を10人+αごとにまとめて注意事項を説明して送りだす。あとは適当に展示されている生命の樹のオブジェをみながら過去から未来へと階段を登っていくわけだ。昔のようなハリボテ感を再び体験できた。

当時はお祭り広場の大屋根があって内部見学がおわるとそこに出て大屋根内の展示などをみたのだが,この度は階段を下りて出口にむかう。内部の写真は。500円払って透明肩掛ケースを借り,そこに入れたスマホで本人だけ撮影可能となっている。タッチがうまく感知されず,あせりまくった(スライドすればいいだけ)。顔認証はこういうときに役立つのか。



写真:太陽の塔(2025.9.16撮影)

[1]母の塔(月のひつじ)
[2]青春の塔(太陽の塔はなぜ残った,日本経済新聞)
[3]大阪万博の交通(WIkipedia)

2025年8月30日土曜日

松竹座

わが街,道頓堀からの続き

松竹座が2026年5月の興業を最後に閉館するというニュースがとんできた。えーっ。

1923年にできた松竹座は映画館だった。大学生になって道頓堀の古書巡りをしていたころもまだ映画館だった。金沢泉丘高校の同級生で阪大工学部の土木学科にすすんだ竹谷君とヴィヴィアン・リーの「風と共に去りぬ」を見たのはここだったろうか,あるいは梅田か。でもなんとなく風と共に去りぬの看板がよく似合いそうな劇場の門構えであった。

1997年に松竹座が正面だけを残し演劇の劇場に立て替えられてからは,歌舞伎や松竹新喜劇や若者・おばちゃん向けジャニーズ系ドラマなど様々な演目が上演されてきた。けっこう通ったものだ。松竹の意向だったのか映画国宝の舞台にはならなかったのがちょっと残念。

跡地はどうなるのだろうか。上本町では近鉄百貨店とシェラトン都ホテルの辺りを再開発するという話らしいし,なかなかにぎやかなことだ。そういえば金沢駅前の都ホテル跡地はどうするのだろうか。これらができあがるのを自分が見届けられるかどうかは微妙なところだ。




写真:1923年竣工の大阪松竹座(大林組から引用)

2025年8月19日火曜日

大阪中之島美術館

現代芸術文化センター(仮称)からの続き

大阪中之島美術館は橋下大阪維新からのごたごたがあって,いい印象は持っていない。そもそも佐伯祐三やモディリアニとかそこまで見たいわけではない。そんなわけでこれまではずっと敬遠してきた。ところが,NHKの日曜美術館その他で「日本美術の鉱脈展」がさんざん宣伝されていてちょっと心が動いてしまった。

日曜日に大阪中之島美術館に向かった。10:00開場のところ10:15くらいに現地に到着した。肥後橋から西に向かい,大阪市立科学館や国立国際美術館を越えた北隣に黒い四角い建物が見えてきた。案内がわかりにくくてどこから入ればいいのか迷ってしまう。

事前情報によると,同時開催されているルイヴィトン展は時間予約制で混雑しているけれど,日本美術の鉱脈展はそこまででもない。はずだったのだけれど,これまたわかりにくい当日券の自動券売機をクリアして誘導されるとなんだか行列の後にちょっとだけ待たされた。ルイヴィトン展と交互に人龍制御しているようで面倒なことである。

第一章 若冲ら奇想の画家たち
第二章 室町水墨画の精華
第三章 素朴絵と禅画
第四章 歴史を描く
第五章 茶の空間
第六章 江戸幕末から近代へ
第七章 縄文造形,そして現代美術へ

という何だか訳のわからない配列と内容選択だった。縄文土器の意味がよく分からない。
素朴絵のあたり白隠などはちょっと面白かったかも。あと,牧島如鳩と石川県出身らしい笠木治郎吉安本亀八の相撲生人形,利子もよかった。


写真:大阪中之島美術館(2025.8.17撮影)

結論:中之島美術館はやはりあまり好きにはなれそうになかった(展示物のせいではなくて,それ以外のもろもろの雰囲気が)

2025年6月24日火曜日

ボーネルンド

日曜日は,梅田のグランフロントで孫のお守り。

北館3階にボーネルンドの「あそびのせかい KID-O-KID」がある。有料で子どもが自由に遊べる遊具がそろっているので,じじばばと孫三人(7歳,4歳,2歳)が放り込まれた。

休日の子どもは30分1000円で,その後10分ごとに延長料金がかかる。スタッフの説明によれば,90分までならば,一日チケットよりは安くなるらしい。まあそんなものかと,90分以内で遊ぶことになった。

これが老人の健康にもたいへんよいのだ。ボールプールのなかで,走り回る幼児を追いかけるだけで足腰が鍛えられ,ボールをなげるのもよし。ボーネルンドも早めに老人向け「あそびのせかい」を展開したらどう。中の遊具は子ども向けと同じでかまわないから。



図:久々にそれらしいイメージを生成した ChatGPT 4o

2025年6月19日木曜日

万博訪問記(1)

ゴッサム・シティからの続き

いただきものの万博チケット2枚があったので6月18日9:00入場に予約した。さらに,7日前パビリオンの予約を試みたところ,シグネチャーパビリオンのEARTH MART小山薫堂)に当たってしまった。調子に乗って3日前の先着申込も当たるかと期待したがこちらは全滅。

大和八木駅前7:00発の奈良交通の万博会場行きバスをかろうじて予約できたので,比較的好いているといわれている西ゲートからの入場になった。たしかに空いていた。数百人からスタートした待ち行列に1時間弱並んで無事に西ゲートから入場できたのが9:05ごろだ。最初の30分はイタリア館の先着順行列を除いて閑散としていた。

(1) 英国館:9:30オープンの最初の20-30人のグループに入ったが,単なる映像紹介だけ。
(2) チェコ館:こちらも空いていて待ち時間なし。サザエ堂のようなスロープを登って階段を下りただけ。屋上にピルスナービールがあったが,朝からなのでちょっと遠慮した。
(3) 北欧館:これもほぼ待ち時間なし。中は一部屋で意味不明の映像が流れていただけ。かなり残念な部類。スウェーデン語のおはようはグモロン。最後に水を1個パックもらえた。
(4) 昼食:テーマ館ゾーン北にある食堂の1200円のケンミンビーフンは美味しかった。
(5) COMMONS C/B:いろいろな国のコーナーの集合体。ざっとみて終わり。
(6) 大屋根リング:海側の約90度分を歩いた。日陰がなくて暑すぎる。
(7) 団体休憩所:個人の皆さんが昼食休憩。ブラジル館のテイクアウト珈琲ラテで一服。
(8) カンボジア館:地味だけれど現物が陳列してあるので一番マシだと思う。
(9) トイレ:最低。この万博で最も失敗しているのがトイレ。その次は地図
(10) EARTH MART:30分ほど,映像+展示(解説有)+映像,飴玉一個のお土産付き

約6時間の滞在後14:30に,東ゲートから出場し地下鉄中央線の夢洲駅−生駒−西大寺…と電車を乗り継いで帰ってきた,混雑していない時間帯だったので,東ゲートから駅までの大回りは避けられた。それでも老人夫婦はヘロヘロなのであった。

結論万博に無理して行く必要はない。特に高齢者の場合。当初は,一度でも行けば通期パスを買いたくなるのではないだろうかと考えたこともあったが,そんな心配はまるでなかった。まあ,1970年の万博だってこんなもの(つまらない展示の羅列)だったのかもしれない。若かったので元気はあった。

公式マップがボロボロなので,非公式のTsuji マップというのが評判だ。ところが実際には地図では全くわからない通行禁止領域がたくさんあって,A地点からB地点に行くのが非常に困難だった。トイレは動線の設計が出鱈目で,なおかつ,使用中かどうかが判別不能なものが沢山あって絶望的にひどい。何億円のデザイナーズトイレはいらないので,普通の人間工学的設計をしてくれ。


写真:薄汚れてきた海側大屋根リング(2025.6.18)

2025年6月16日月曜日

藤田美術館

NHKで藤田美術館の展示を紹介していた。「似」というテーマで,2つの作品を対比させるものだった。おもしろそうなので行ってみようという話になった。

藤田美術館は,京橋駅から西に歩いて10分ほどの大川沿いにある。住所は都島区網島町,近松の心中天網島の舞台大長寺があったところだ。明治時代の実業家の藤田伝三郎(1841-1912)によってその一帯が藤田邸用地として買収された。

藤田は,財界有数の美術品の収集家であり,親子2代にわたって国宝や重要文化財を含む2000点を収集した。その一部が藤田美術館として公開されている。



写真:藤田美術館の外観(ホームページから引用)


建物は2022年にリニューアルオープンしたばかりなのでまだ新しい。あたりには看板もポスターもなにもなくてスッキリしている。玄関を入ると机とお茶処があるだけで,受付デスクもない。正面にある蔵の門扉のところが美術館の入口らしく,係員の方がそこで個別に観覧希望を受け付けて,料金をオンライン決済で支払う仕組みだ。

蔵の中の展示室はコンパクトで3つのパートに分かれ,各テーマの展示品それぞれ10点あまりが時期をずらしたテーマごとに順に入れ替わる。今回は,「」,「」,「」(これがテレビで紹介されていたもの)だ。藤原定家の時雨亭という扁額から始まって,少数の美術品と解説が並んでいた。入口で展示品紹介音声ガイドウェブサイトへのリンクを設定させられた。

半分ほどみた後,13:00から30分ほどの学芸員による展示品解説に参加した。暗い蔵の中から外に出ると,隣接して藤田邸跡公園が広がっており,ムクドリが草むらから木々の間を飛び回っていた。

2024年11月6日水曜日

鍵屋資料館

11/2,3,4の三連休,NHKにブラタモリが帰ってきた。東海道五十七次の旅というタイトルで,京都から大阪までの旧街道筋をたどるものだ。東海道五十三次は江戸の日本橋から京都の三条大橋までの53宿であり,53番目が大津宿。大津から京都へ向かう山科追分(髭茶屋追分)で,大津街道が分岐して五十七次の54番の伏見宿に至る。大坂−伏見間は京街道であり,55番の淀宿,56番の枚方宿,57番の守口宿と淀川の南東岸の文禄堤を大坂の高麗橋へと街道が続いた。これが,今回の番組の舞台だった。

11月4日の放映前に,予習のため枚方宿に向かった。枚方市駅あたりから,南西の枚方公園駅まで,旧東海道をたらたらと歩く。途中で昼食のため万年寺山をまわったが,残念ながら目的の渋いお店は小学生未満お断りで,他のしゃれたお店も皆お休み。結局,ひらかたパーク最寄り駅前にある昔ながらの一力食堂で一息ついた。

その後再び旧東海道に戻って,市立枚方宿鍵屋資料館を訪ねる。下足箱に靴がびっしりとつまっていたが,人の気配はない。受付にいくと,今日は2階で琵琶の会が催されているので上がれないとのこと。1階の資料館の部分だけを見る。淀川下りの三十石船にごんぼ汁を売りに来るくわらんか舟のやりとりの3Dディスプレイや実物大モデルがおもしろい。

中山道(六十九次)は,草津追分で東海道(五十三次)に合流するが,69番大津宿,68番草津宿の1つ手前が67番守山宿になる。うちの子供たちはこれまで旧街道沿いの,守山宿,伏見宿,枚方宿,守口宿あたりに住んだり,関係したりするのだった。なお,我々は東海道や中山道より1000年ほど昔からある大和の古道(下ツ道・中ツ道)の間に住んでいる。



写真:東海道五十七次枚方宿(撮影:2024.11.4)


2024年9月19日木曜日

火星の石

2025年大阪・関西万博の明るいニュースが続いているような気がする。悪いニュースはもう出し切ったのかもしれない。パビリオンでの展示内容の紹介が続くと,思わず行って見たいかもという気持ちが頭をよぎる。だめ−ダメ−だめ。IR利権目当てで大阪維新がゴミ埋め立て地にゴリ押し,安倍や菅が後押しした万博なんか金輪際いくものか・・・

よく思い出して見ると,1970年の大阪万博も,高校生による初めての関西一人旅という点では面白かったけれど,万博の出展内容自身にはちょっとだけ残念な気分がただよっていた。期待していた小松左京による太陽の塔内の進化の樹は単なるハリボテだった。アメリカ館の月の石に感動したわけでもないし,ソ連館の長い行列と加速器の解説展示,フランス館は数学の歴史しか記憶にない。それ以外だと松下館のタイムカプセルとか日本館の巨大日本地図俯瞰模型くらいか。

三菱未来館など多くの企業館は映像展示のオンパレードだった。2025年の万博も映像とインタラクティブ端末の組み合わせだけで埋まりそうだ。ESSの後輩の藤場俊基君が,万博は人とのコミュニケーションを図るところに意義があるのだと,コンパニオンとの会話を楽しんできたことを自慢していたが,まあそんなものだ。EXPO2025もそれなりに見どころはあるかもしれないが,人混みの行列と熱暑に耐えた上で7500円を支払う価値があるかどうかは微妙。


そんなところに,火星の石というニュースが飛び込んできた。シンボル構造物の愛称募集(パクリングでいいよね)とかタイムリーな話題作りには事欠かない広報戦略だ。

地球に落下する隕石の多くが南極でみつかった南極隕石であるというのは周知の事実だ。大量発見の発端となったのは,日本の南極地域観測隊が1969年にやまと山脈付近で氷床の流れを観測していたときにみつけたものである。南極に落下して氷床中に留まった隕石が,氷床とともに移動して集積したものが氷床表面に現われて大量に採取されることになった。

その成分を分析すると,隕石がどの天体から由来しているかを判別できる。このへんのことを,OpenAI o1-mini に聞いてみると次のようなことだった。
Q(koshix):
日本の南極観測隊が発見した隕石が火星の石として万博で展示されるそうです。この隕石が火星から飛来したことはどのようにして推論されているのでしょうか。

A(OpenAI o1-mini / 数秒)
日本の南極観測隊が発見した隕石が火星からのものであると推論される理由は、主に以下のような科学的分析に基づいています:

1.組成分析
鉱物組成:火星隕石には特定の鉱物や化学成分が含まれており、これらが火星表面で採取されたデータや探査機による分析結果と一致します。例えば、火星特有の酸化鉄鉱物などが含まれていることがあります。
2.ガス同位体比の測定
閉じ込められたガス:隕石内部には火星大気に由来すると考えられるガスが閉じ込められています。これらのガスの同位体比(例えば、アルゴンやネオンの同位体比)が、火星探査機(例えば、ベンチ探査機・・・注:これは何だ??)のデータと一致していることが確認されています。
3.宇宙年代学
年代測定:隕石の形成年代や衝突年代が火星の地質活動と一致している場合があります。これにより、隕石が火星の地殻から放出された可能性が高まります。
4.微細構造や微磁性の解析
微細構造:火星の環境特有の微細な鉱物構造や磁性特性が見られることがあります。これらの特徴は地球や他の天体からの隕石とは異なるため、火星起源の証拠となります。
5.軌道解析(場合によっては)
軌道データ:発見された隕石の軌道データや飛来経路が火星からのものである可能性を示唆する場合もあります。ただし、南極で発見された隕石の場合、詳細な軌道解析が難しいこともあります。

これらの多角的な分析結果を総合的に評価することで、発見された隕石が火星から飛来したと強く推論されています。特にガス同位体比の一致や鉱物組成の特異性は、火星起源の隕石を識別する上で重要な指標となっています。
ちょっとあやしい部分もあるけれど,なんとなくもっともらしい。信頼度は,テレビの科学解説者と同程度のレベル。


写真:国立極地研究所にある火星の石(南極隕石)

2024年6月23日日曜日

大阪公立大附属植物園

天理から枚方への山越えの道は,この十数年,車で頻繁に通っている。その道中,県境の山道を降りた交野のあたりに,大阪市立大学の植物園があることは知っていたが,今回初めて訪れてみた。

入口には車止めのバーがあり,車を一時停止させて受付で入場券を購入するよう案内される。入場料は大人は350円,駐車料金は500円で,65歳以上の大阪府民は150円と優遇されている。左奥には駐車場があり,バスも停まれるようになっている。

入り口の近くには,オニバスやスイレンの池が整然と並び,職員の方々が作業に励んでいる姿が見られる。温室もあるが,これはバックヤードであり非公開になっている。日本産樹木見本園を進むと,立派な年代物の樹が並び,その先は森の中を歩くハイキングコースのようだ。

一周して明るい広場に戻ると,そこにはメタセコイアの木がそびえ立っている。これは1941年に植物学者の三木茂(1901-1974)が発見したもので,かつては化石植物だと思われていたが,中国に生き残っていることが判明した。三木茂は京都帝国大学の理学部を卒業し,1947年から49年まで大阪学芸大学の教授だった。その後,大阪市立大学に移り,理学部附属植物園の園長を務めた。これが,今では家族連れにお薦めのスポットとなった大阪公立大学附属植物園だ。




写真:大阪公立大学附属植物園案内板(撮影 2024.6.21)

2024年4月30日火曜日

四天王寺古本市

NHKの日曜昼のニュースでは,ゴールデンウィーク中に大阪の四天王寺の境内で催されている古本市が取り上げられていた。40万冊ほど出展されているらしい。

そんなわけで,急遽大和路線で大阪に向かうことになった。昔はこのようにたまーに古本市にでかけることがあった。京都ならば,京都古書研究会が,下鴨神社境内や,京みやこメッセや,百万遍知恩寺などで春秋に大規模な古本市を開いている。大阪では,大阪古書研究会が,天神橋の大阪天満宮の境内で開催している。

四天王寺の主催者は関西古書研究会だ。以前,大阪環状線の大正駅だったか芦原橋の前の広場の古本市にも一度行ったがあれは何だったのだろう。他には,神戸の三ノ宮や,東京の神田でも古書祭り的な催しがあった。そもそも大学時代には,頻繁に大阪の梅田や日本橋近辺をうろついていたし,定期的に東京の神田古本街巡りをしていたのだ。

さて,久々の古本市だが,寄る年波には勝てず,小一時間ほどで根をあげてしまった。昔に比べて,それほど本の傾向や量が変わっているわけではない。こちらのアンテナが古くなっているからかもしれない。岩波文庫や講談社学術文庫などがかなりまとまっているのが目に付いた。岩波の古典文学大系も沢山積まれていた。あと,レコードやDVDやCDなども。理系の本は相変わらず見当たらないないが,とくに生物・地学系以外は絶滅状態だった。

値段は,100円均一だとか,1冊200円3冊500円などと定型化している。本はネットで買うようになり,書店も古書店も数は減っている。最近は古本もほとんど新刊と区別せずにアマゾンに頼っている。それでも,見当たらない本は,古本市でと思うこともある。ところが,いかんせんSN比が悪すぎて,情報発見にものすごくエネルギーを使うため,老人には厳しい話になってくる。


写真:四天王寺境内の古本市の白いテント(撮影:2024.4.28)



図:本部で配布される案内図


2024年4月19日金曜日

祝祭資本主義

大阪・関西万博(2025.4.13-2025.10.13)まであと1年をきった。

なんやかやいわれながらも,シンボルの大屋根リングは8割方できている。海外パビリオンは,とても当初計画どおりにはならないが,開幕までにはそれなりの格好がついて,無事に始まりましたとお祝いムードが広がるのだろう

YouTubeにTBSの報道1930「大阪・関西万博まで1年」現場は?なぜ脱却できない?“イベント資本主義』があがっていた。ゲストが片山善博吉見俊哉なので安心して見られる。日本では,戦後絶え間なくオリンピックと万博の誘致や失敗が繰り返されてきたとして,その問題点が分析されていた。

ジュールズ・ボイコフ(1970-)の祝祭資本主義でその有り様を説明していた。吉見俊哉がお祭りドクトリンとよんだ祝祭資本主義は,元オリンピックサッカー代表選手だったボイコフが,ナオミ・クライン(1970-)のショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)をヒントに考えたものだ。お祭り騒ぎに便乗して納税者に負担を押し付けながら,政府の大型支出により特定の企業が潤うという官民一体型プロジェクトが祝祭だ。

惨事便乗型資本主義:武力紛争,テロリズム,自然災害,財政破綻など,国が惨事に晒されたときに,既存制度が破壊された空白をついて新自由主義の市場原理主義的な制度改変が一気に進められる様子(これを制度的に推進しているのが今の日本の憲法改正議論)。

祝祭資本主義:巨大な祝祭(オリンピック,万博の系列)が創り出す例外状態(state of exception)に乗じた資本主義の暴走。惨事便乗型資本主義とは異なり,公共部門が積極的な役割を果たし,その巨大支出に支えられた大資本などが莫大な利益を得る。

報道1930では,パトリック・ハーラン(1970-)が,バランサーになっていた。「そうはいっても結局日本人の多数派は五輪も万博も支持しているではないか」「米国の戦争ドクトリンよりも日本のお祭りドクトリンの方がまだましだろう」などなど。


【付録】
ジュールズ・ボイコフ:祝祭資本主義の六要素
(1) 例外状態=非常事態による法令逸脱と政治機能不全,(2) 片務的官民協調=民間の営利活動のリスクを官が負担,(3) お祭り的商業主義の加速化,(4) 警察権力強化,監視テクノロジーの発展とセキュリティ産業の席巻,(5) 環境保護と多様性と持続可能性の欺瞞,(6) マスメディア・SNSによる政治経済的スペクタクルの極大化

Q(koshix):ジュールズ・ボイコフの祝祭資本主義における6つの要素を説明してください。
A(生成AI):
ChatGPT(◎)
(1) インフラストラクチャーの再編成,(2) 公共資源の私有化,(3) 警察権力の強化,(4) 新自由主義政策,(5) 政治的なプロパガンダ,(6) 住民の追い出し
Command-R+(○)
(1) スペクタクル,(2) 象徴的消費,(3) ブランド化とイメージ作り,(4) 都市再生と空間の再編成,(5) 例外主義と規制緩和,(6) ネオリベラルアジェンダの推進
Claude(△)
(1) 贈与の義務化,(2) 誇示的消費,(3) 無秩序,(4) 浪費の奨励,(5) 共同体意識,(6) 新奇性の追求
Gemini(△)
(1) 商品化,(2)スペクタクル,(3) ブランド,(4) イメージ,(5) 体験,(6) アイデンティテイ
 Perplexity(×)
回答せず
Perplexityはこの手の問題に弱いのか・・・



2023年12月23日土曜日

わが街,道頓堀

諸般の事情から,一人で松竹座の芝居にいく。

久しぶりの大阪市内だが,晴れていてなんとか寒さもしのげた。いつのまにか,角のはり重のビフカツサンドが2980円になっていた。10年ほど前に,最初に手にしたときは1500円くらいだった。いつのまにか倍になってしまった。ちょっともう食べられないか。

観劇したのはわかぎゑふの「わが街,道頓堀」という現代劇で,1970年の万博直前の大阪の雰囲気を描いたものだ。お客さんは若い女性が中心で,松竹座の2階のトイレがすべて女性用に設定されていた。松竹座開場100周年記念ということで,道頓堀あたりの商店や名物が実名でたくさん登場している。おだやかな芝居だったがなかなかおもしろかった。小松左京の名前が出たのは,わかぎゑふが関西のSF界と関係が深かったということ?

劇中で落語家の役をしていたのが笑福亭銀瓶だったというのは,終演後にパンフレットを見てからやっとわかった。売店で自著が販売されていますと宣伝していたところで,誰かなと思った。現実の2025万博前の状況は,当時1970万博前に比べるとよくもわるくも生ぬるいことになっている。大阪の行政を皮肉りつつも,当時の反対論を未熟な学生さんの反抗だけで描写しているのは,ちょっといただけないが,まあ,こんなものか。

描かれていた大阪は,自分が阪大への進学を機に暮らすようになった時代や場所そのものである。天牛書店などの古書店を巡って,頻繁に道頓堀に通っていた頃なので,当時の空気が懐かしい。


さて,すーちゃん,むぎちゃんと,かざちゃんのプレゼントを探して,デパートや新しくなったHANDSや書店などを何箇所も回ったけれど,どうにもこうにもピンと来ないので挫折してしまった。前回の万博から55年経った大阪の街には,モノと情報はあふれているのだけれど,なんだかまったく楽しくないのだった。いや,それとこれは話が違うのだけれど・・・,どうやらお母さん達に直接希望を聞いたほうがよさそうである。

2023年12月4日月曜日

万博リング

評判の悪い大阪・関西万博2025の大屋根(リング)である。

万博のシンボルとなる木造大屋根リングは350億円もかかる。そのため,会場建設費+α=2350億円+800億円以上の無駄遣いの象徴とされて,あちこちから叩かれている。まあ大阪維新が万博を持ち出した動機が,同じ夢洲で計画されているIR用地周辺の環境整備だったり,虚構の経済効果だったりするので,それらが見透かされるとこうなってしまう。

そもそも,失われた30年を取り戻すための戦略が,高度成長期の夢よ再びという東京五輪+大阪万博でしかなかったという,創造力+想像力の貧困と税金奪取機会の創出が問題だったわけだ。そのあたりの本質的な問題点を一度忘れて考えてみると,万博にはシンボル的な建造物が必要であるということはわかる。ロンドンの水晶宮,パリのエッフェル塔,大阪の太陽の塔などなど。

1970年の大阪万博にもお祭り広場の上に大屋根があった。その大屋根を突き破った太陽の塔には岡本太郎(1911-1996)が必要だったけれど,今の日本にはそれに匹敵するパワーを持ったクリエイターはいないので,大屋根リング止まりになった。リングがなくて,海外各国からの主要パビリオンもなければ,大阪・関西万博2025は本当にグズグズ,バラバラになってしまうのだろう。

なんだかんだいって,パビリオンが一部建設途上のままでも,2025年の4月に万博が始まってしまえば,マスコミがこぞって囃し立てて機運を盛り上げる。大阪の子供に配った無料チケットの効果もあって,2800万人ではなくともそこそこ人は集まるだろう。よほどの混乱や災害が起きない限りは,東京五輪と同様に無事終って良かったというストーリーがでっち上げられそうな気がする。自分は,万博には行かないつもりだが,孫が連れていってと言い出したときにどうなるかはわからない。


さて,当初計画にはなかった万博リングをごり押しで導入した会場デザインプロデューサの藤本壮介だが,リングのデザインがノーマン・フォスター(1935-)のアップルパーク(2017)のパクリではないかという疑惑記事をみかけた。丸くて中に池があるので似ているというのも言い掛かりじみている。それぐらいはしかたないだろう。ただ,万博リングの直径650mは,アップルパークの直径460mの約√2倍で,万博リングの平均高さ16mの方は,アップルパーク23mの約1/√2倍になっていた。まあ偶然である。

ちなみに,小松左京の物体Oに関係があるのではないかと思って確認してみたが,物体Oは直径1000km,幅100km,高さ200kmの銀の塊だったので形状はかなり違う。また,中心は大阪ではなくて,兵庫県の相生市付近だった。そんなこんなで,リングという形状それ自身はあまりいじめられなくてもいいのにと思う。


図:各リングの断面図の比較

2023年9月30日土曜日

万博会場

最近,ChatGPTの調子があまりすぐれなかったので,Plusプログラムからは離脱したところだ。その代替として使っているのがPaLM2を用いたGoogle Bard である。ウェブブラウザにGoogle Chromeを使えば,Google検索でAI Chatモードを使えるとはいうのだが,これもなんだかイマイチだった。

そのBardに次の万博会場候補地に関する質問をしてみた。
Q:2025年の国際博覧会の大阪府内の候補地が夢洲を含めて7箇所あったそうですが,それはどこですか。

A:2025年の国際博覧会の大阪府内の候補地は、以下の7箇所です。
 ・彩都東部+万博記念公園(茨木市・大阪市)
 ・服部緑地(豊中市)
 ・花博記念公園鶴見緑地(大阪市)
 ・舞洲(大阪市此花区)
 ・大泉緑地(堺市)
 ・りんくう公園+りんくうタウン(泉佐野市・大阪市)
 ・夢洲(大阪市此花区)
2015年7月28日の検討会第4回会合では、上記7箇所が例示されました。その後、2016年5月の報道によると、候補地に夢洲も追加されました。最終的に、2025年の国際博覧会の開催地は、夢洲に決定しました。
ChatGPTだといきなり拒否される質問だが,下線部を除いてほぼ正しい答えをしてくれた。2015年に設置された大阪府の国際博覧会大阪誘致構想検討会第4回7月28日の会議で夢洲を除いた6箇所が検討されたのだ。議事録をみても全体に何だかやる気のなさがただよっている。

その後,IRを睨んだ大阪維新の推しで,地盤にも交通にも問題を抱えた夢洲が候補地に登場して選ばれた。それが今日の万博準備の遅れにつながっている。吉村知事は国に責任を丸投げして今にも逃げ出しそうだ。国が必死にテコ入れを図っているので多分何とかなるのだろう。まあ,最初からこの時代にこの場所で万博なんかを構想するなということだけど。


写真:夢洲の大阪・関西万博会場の雄姿(EXPO2025基本計画から引用)

2023年9月8日金曜日

大ちゃん

8月31日が終わり,あと1年半 (≒580日) しかない大阪・関西万博がどうなるかの瀬戸際だ。

153カ国・地域と8国際機関が参加表明していて,そのうち敷地渡し方式のタイプAで60カ国56館が建設される予定だ。が,大阪市への建築許可申請がまだ一つも出されていない。その前段階である基本計画が提出されたのでさえ,韓国,チェコ,モナコ,サウジアラビア,ルクセンブルクの5カ国だ。また,タイプAの失速を防ぐ窮余の策であるプレハブ建設代行のタイプXに興味を示したのは5カ国に留まる。


9月7日,そんな大阪府が,この度高齢者向けに生成AIを使ったサービスをキックオフした。これまでも高齢者コミュニケーションサービスが存在していた。柴犬のキャラクター大ちゃんとのオンラインコミュニケーションにより,(1) 会話機会の創出(雑談チャット)による老人の孤独感の解消,(2) 外出機会の創出(イベント案内)による健康増進,(3) 個人の属性に合わせたサービス・情報提供などが目的だ。これを今回ChatGPTで強化したというものだ。

奈良県民だけれど,大阪府柏原市に勤務している体で,早速LINEから登録して試してみることにした。

最初に聞いたのは,「万博大丈夫」。答えは返ってこなくて,別の話題に転換されてしまった。次に聞いたのは,「万博はどこであるの」。答えは「万博は大阪府吹田市にありますよ!」違うやろ。さらに,「今度の万博はいつどこであるの」。答えは「ほんまや!興味津々やわ〜。大ちゃん,教えてもらってええ?」

最低やな。たぶん「万博」は禁止語に登録されているのだろう。大ちゃんはユーザの高齢者に合わせて,すでに認知症気味なのであった。



図:本当にAIで強化されたのか疑惑の大ちゃん(大阪府説明資料から引用)


[1]大阪・関西万博の最新の動向(内閣官房,経済産業省,2023年7月)

2023年9月6日水曜日

日下周一

クリストファー・ノーラン映画オッペンハイマーは,まだ日本未公開なので,早くみたいものだと調べているうちに,オッペンハイマー(1904-1967)の弟子だった日下周一(1915-1947)に行き当たった。

日下周一は,大阪に生まれ,5歳で移住したカナダで育ち,ブリティッシュ・コロンビア大学からMITの大学院に進んだ。カリフルニア大学バークレー校でオッペンハイマーの指導を受け,1942年に博士号を取得した。中間子や核力の研究を行い,1943年には中間子論でパウリ(1900-1958)との共著論文(On the theory of a mixed pseudoscalar and a vector meson field)がある。1946年にプリンストン大学でウィグナー(1902-1995)の助教授になったが,1947年31歳で海水浴中に溺死した。

1940年に日下が日本を訪れたとき,湯川秀樹(1907-1981)や小林稔(1908-2001)や内山龍雄(1916-1990)に会って議論している。内山先生の一歳上だったのか。

1960年にオッペンハイマー夫妻が来日したとき,バークレー時代の弟子である日下周一の両親に会って弔意を表した。

1992年,大阪市立科学館の加藤賢一のところに吉永剛幸および大山幹男が来訪し,日下周一を顕彰することができないかとの話があった。2005年10月には大阪市立科学館(高橋憲明館長)において,関係者が中心の日下周一シンポジウムが開催されている。



写真:日下周一の御両親を弔問するオッペンハイマー夫妻(Esquire記事から引用)

[1]日下周一伝(加藤賢一データーセンター)
[4]物理学者日下周一の生涯と業績(星学館ブログ)
[5]NECROLOGY Kusaka Shuichi, 1915-1947(David Bohm, Robert R. Bush)
[6]Shuichi Kusaka  Theoretical Physicist ( When An Old House Whispers )
[7]Great Physicist Shuichi Kusaka  (You Tube)
[8]Notes on electrodynamics (J.R. Oppenheimer, University of California, Physics 207B, 1939)
[9]電気力学(オッペンハイマー講義録=日下周一のノート,小林稔訳)
[10]Einstein His Life & Times (Frank Phillipe, George Rosen, Shuichi Kusaka)
[12]Shuichi Kusaka (Find a Grave)


2022年10月16日日曜日

山所池

物理学科同窓会からの続き

10月8日に久々に開催された同窓会の報告を関係者に送ったところ,当日欠席のS正泰さんからメールが来て「蛍池にあった池は学校になったみたいですね」とあった。正泰さんは蛍池東町に下宿しており,蛍池中町の文化住宅に住んでいた自分から最近距離の同級生だった。

幸荘という名前の文化住宅は阪急宝塚線西の蛍ヶ池公園の北西に隣接していて,大家さんは千林大宮に住んでいた。幸荘の近所にOさんという父の会社の人の知人が住んでいたので,その伝手で,この文化住宅に住むことになった。家賃は当初1.1万円で(数年後オイルショックのあとに値上げ騒動があった),隣接した一軒家に住んでいた管理人のSさんのところに通帳を持って毎月払い込みに行くのだ。

蛍ヶ池公園の南に道を挟んで山所池(やまんじょいけ)という戦国時代(1595)から続く由緒正しい大きなため池があり,これが正泰さんの指摘していた池だった。阪急蛍池駅に最も近い池なので,これが蛍池だと勘違いする人もいたが,そうではない。

蛍池のほうは,阪急蛍池駅東400mあたりの刀根山病院(元:刀根山療養所,現:国立病院機構大阪刀根山医療センター)にあるひとまわり小さな池の方らしい。当時は,どこにあるのかまったく気にも留めていなかったのだけど。

蛍ヶ池公園では,夏になると盆踊り大会が開催されていて,河内音頭などを踊った記憶がある。山所池は,大半が埋め立てられて,1986年に豊中市立第十八中学校となった。私たちは1981年には池田市石橋,1984年には池田市緑丘に住んでいたので,当時の状況はよく知らない。


図:蛍ヶ池公園=左上,山所池=左中,蛍池=右下(googlemapから引用)

2022年4月14日木曜日

うさみ亭マツバや

大阪のきつねうどんの起源には諸説あるが,うさみ亭マツバやが元祖だというのがなんとなく有力らしい。一度行こうと思っていたので,午後の文楽のついでによってみた。

心斎橋筋を北に向かい,ちょっと右に折れると間口の狭いこじんまりした店があった。11:00開店で,11:30ごろについたが,既にお客さんがかなり入っている。早速きつねうどんとミニ親子丼のセットを注文した。

感想:味は普通。麺はやや太めでもっちゃりする。うどんの断面が丸くて箸から滑りました。油揚げも普通だ。これならば自宅で食べるスーパーの30円の生麺(断面は四角)+市販の味付け油揚げと大差ない。ただ,ミニ親子丼は昔ながらの玉子とじ状態でおいしかった。

食べているうちにも次々にお客さんが入ってきて,2階の席にも案内されている。隣の席ではおじさんが大阪弁で商売の話をしつつ「僕はしっぽくうどんにするわ」。お二人さんは,しっぽくうどんときつねとじうどんであり,なかなか味のある会話が流れてくる。

そういえば,金沢にいたころは,甘く炊いた大判の揚げのきつねうどんは存在しておらず,刻んだ揚げがのったいなりうどんだった。近所のうどん屋お多福の出前で,土曜の午後に天ぷらうどんとセットで食べていた。夏休みには泉丘高校のESSの部室に集まって勉強していたが,高橋君らと向かいのうどんやで大盛りのいなりうどんとかき氷を食べるのが日課だった。

入るときは気づかなかったが,大将がレジに座ってお会計をしていた。


写真:うさみ亭マツバや(撮影 2022.4.11)