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2024年4月19日金曜日

祝祭資本主義

大阪・関西万博(2025.4.13-2025.10.13)まであと1年をきった。

なんやかやいわれながらも,シンボルの大屋根リングは8割方できている。海外パビリオンは,とても当初計画どおりにはならないが,開幕までにはそれなりの格好がついて,無事に始まりましたとお祝いムードが広がるのだろう。

YouTubeにTBSの報道1930「大阪・関西万博まで1年」現場は?なぜ脱却できない?“イベント資本主義』があがっていた。ゲストが片山善博吉見俊哉なので安心して見られる。日本では,戦後絶え間なくオリンピックと万博の誘致や失敗が繰り返されてきたとして,その問題点が分析されていた。

ジュールズ・ボイコフ(1970-)の祝祭資本主義でその有り様を説明していた。吉見俊哉がお祭りドクトリンとよんだ祝祭資本主義は,元オリンピックサッカー代表選手だったボイコフが,ナオミ・クライン(1970-)のショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)をヒントに考えたものだ。お祭り騒ぎに便乗して納税者に負担を押し付けながら,政府の大型支出により特定の企業が潤うという官民一体型プロジェクトが祝祭だ。

惨事便乗型資本主義:武力紛争,テロリズム,自然災害,財政破綻など,国が惨事に晒されたときに,既存制度が破壊された空白をついて新自由主義の市場原理主義的な制度改変が一気に進められる様子(これを制度的に推進しているのが今の日本の憲法改正議論)。

祝祭資本主義:巨大な祝祭(オリンピック,万博の系列)が創り出す例外状態(state of exception)に乗じた資本主義の暴走。惨事便乗型資本主義とは異なり,公共部門が積極的な役割を果たし,その巨大支出に支えられた大資本などが莫大な利益を得る。

報道1930では,パトリック・ハーラン(1970-)が,バランサーになっていた。「そうはいっても結局日本人の多数派は五輪も万博も支持しているではないか」「米国の戦争ドクトリンよりも日本のお祭りドクトリンの方がまだましだろう」などなど。


【付録】
ジュールズ・ボイコフ:祝祭資本主義の六要素
(1) 例外状態=非常事態による法令逸脱と政治機能不全,(2) 片務的官民協調=民間の営利活動のリスクを官が負担,(3) お祭り的商業主義の加速化,(4) 警察権力強化,監視テクノロジーの発展とセキュリティ産業の席巻,(5) 環境保護と多様性と持続可能性の欺瞞,(6) マスメディア・SNSによる政治経済的スペクタクルの極大化

Q(koshix):ジュールズ・ボイコフの祝祭資本主義における6つの要素を説明してください。
A(生成AI):
ChatGPT(◎)
(1) インフラストラクチャーの再編成,(2) 公共資源の私有化,(3) 警察権力の強化,(4) 新自由主義政策,(5) 政治的なプロパガンダ,(6) 住民の追い出し
Command-R+(○)
(1) スペクタクル,(2) 象徴的消費,(3) ブランド化とイメージ作り,(4) 都市再生と空間の再編成,(5) 例外主義と規制緩和,(6) ネオリベラルアジェンダの推進
Claude(△)
(1) 贈与の義務化,(2) 誇示的消費,(3) 無秩序,(4) 浪費の奨励,(5) 共同体意識,(6) 新奇性の追求
Gemini(△)
(1) 商品化,(2)スペクタクル,(3) ブランド,(4) イメージ,(5) 体験,(6) アイデンティテイ
 Perplexity(×)
回答せず
Perplexityはこの手の問題に弱いのか・・・



2023年12月23日土曜日

わが街,道頓堀

諸般の事情から,一人で松竹座の芝居にいく。

久しぶりの大阪市内だが,晴れていてなんとか寒さもしのげた。いつのまにか,角のはり重のビフカツサンドが2980円になっていた。10年ほど前に,最初に手にしたときは1500円くらいだった。いつのまにか倍になってしまった。ちょっともう食べられないか。

観劇したのはわかぎゑふの「わが街,道頓堀」という現代劇で,1970年の万博直前の大阪の雰囲気を描いたものだ。お客さんは若い女性が中心で,松竹座の2階のトイレがすべて女性用に設定されていた。松竹座開場100周年記念ということで,道頓堀あたりの商店や名物が実名でたくさん登場している。おだやかな芝居だったがなかなかおもしろかった。小松左京の名前が出たのは,わかぎゑふが関西のSF界と関係が深かったということ?

劇中で落語家の役をしていたのが笑福亭銀瓶だったというのは,終演後にパンフレットを見てからやっとわかった。売店で自著が販売されていますと宣伝していたところで,誰かなと思った。現実の2025万博前の状況は,当時1970万博前に比べるとよくもわるくも生ぬるいことになっている。大阪の行政を皮肉りつつも,当時の反対論を未熟な学生さんの反抗だけで描写しているのは,ちょっといただけないが,まあ,こんなものか。

描かれていた大阪は,自分が阪大への進学を機に暮らすようになった時代や場所そのものである。天牛書店などの古書店を巡って,頻繁に道頓堀に通っていた頃なので,当時の空気が懐かしい。


さて,すーちゃん,むぎちゃんと,かざちゃんのプレゼントを探して,デパートや新しくなったHANDSや書店などを何箇所も回ったけれど,どうにもこうにもピンと来ないので挫折してしまった。前回の万博から55年経った大阪の街には,モノと情報はあふれているのだけれど,なんだかまったく楽しくないのだった。いや,それとこれは話が違うのだけれど・・・,どうやらお母さん達に直接希望を聞いたほうがよさそうである。

2023年12月4日月曜日

万博リング

評判の悪い大阪・関西万博2025の大屋根(リング)である。

万博のシンボルとなる木造大屋根リングは350億円もかかる。そのため,会場建設費+α=2350億円+800億円以上の無駄遣いの象徴とされて,あちこちから叩かれている。まあ大阪維新が万博を持ち出した動機が,同じ夢洲で計画されているIR用地周辺の環境整備だったり,虚構の経済効果だったりするので,それらが見透かされるとこうなってしまう。

そもそも,失われた30年を取り戻すための戦略が,高度成長期の夢よ再びという東京五輪+大阪万博でしかなかったという,創造力+想像力の貧困と税金奪取機会の創出が問題だったわけだ。そのあたりの本質的な問題点を一度忘れて考えてみると,万博にはシンボル的な建造物が必要であるということはわかる。ロンドンの水晶宮,パリのエッフェル塔,大阪の太陽の塔などなど。

1970年の大阪万博にもお祭り広場の上に大屋根があった。その大屋根を突き破った太陽の塔には岡本太郎(1911-1996)が必要だったけれど,今の日本にはそれに匹敵するパワーを持ったクリエイターはいないので,大屋根リング止まりになった。リングがなくて,海外各国からの主要パビリオンもなければ,大阪・関西万博2025は本当にグズグズ,バラバラになってしまうのだろう。

なんだかんだいって,パビリオンが一部建設途上のままでも,2025年の4月に万博が始まってしまえば,マスコミがこぞって囃し立てて機運を盛り上げる。大阪の子供に配った無料チケットの効果もあって,2800万人ではなくともそこそこ人は集まるだろう。よほどの混乱や災害が起きない限りは,東京五輪と同様に無事終って良かったというストーリーがでっち上げられそうな気がする。自分は,万博には行かないつもりだが,孫が連れていってと言い出したときにどうなるかはわからない。


さて,当初計画にはなかった万博リングをごり押しで導入した会場デザインプロデューサの藤本壮介だが,リングのデザインがノーマン・フォスター(1935-)のアップルパーク(2017)のパクリではないかという疑惑記事をみかけた。丸くて中に池があるので似ているというのも言い掛かりじみている。それぐらいはしかたないだろう。ただ,万博リングの直径650mは,アップルパークの直径460mの約√2倍で,万博リングの平均高さ16mの方は,アップルパーク23mの約1/√2倍になっていた。まあ偶然である。

ちなみに,小松左京の物体Oに関係があるのではないかと思って確認してみたが,物体Oは直径1000km,幅100km,高さ200kmの銀の塊だったので形状はかなり違う。また,中心は大阪ではなくて,兵庫県の相生市付近だった。そんなこんなで,リングという形状それ自身はあまりいじめられなくてもいいのにと思う。


図:各リングの断面図の比較

2023年9月30日土曜日

万博会場

最近,ChatGPTの調子があまりすぐれなかったので,Plusプログラムからは離脱したところだ。その代替として使っているのがPaLM2を用いたGoogle Bard である。ウェブブラウザにGoogle Chromeを使えば,Google検索でAI Chatモードを使えるとはいうのだが,これもなんだかイマイチだった。

そのBardに次の万博会場候補地に関する質問をしてみた。
Q:2025年の国際博覧会の大阪府内の候補地が夢洲を含めて7箇所あったそうですが,それはどこですか。

A:2025年の国際博覧会の大阪府内の候補地は、以下の7箇所です。
 ・彩都東部+万博記念公園(茨木市・大阪市)
 ・服部緑地(豊中市)
 ・花博記念公園鶴見緑地(大阪市)
 ・舞洲(大阪市此花区)
 ・大泉緑地(堺市)
 ・りんくう公園+りんくうタウン(泉佐野市・大阪市)
 ・夢洲(大阪市此花区)
2015年7月28日の検討会第4回会合では、上記7箇所が例示されました。その後、2016年5月の報道によると、候補地に夢洲も追加されました。最終的に、2025年の国際博覧会の開催地は、夢洲に決定しました。
ChatGPTだといきなり拒否される質問だが,下線部を除いてほぼ正しい答えをしてくれた。2015年に設置された大阪府の国際博覧会大阪誘致構想検討会第4回7月28日の会議で夢洲を除いた6箇所が検討されたのだ。議事録をみても全体に何だかやる気のなさがただよっている。

その後,IRを睨んだ大阪維新の推しで,地盤にも交通にも問題を抱えた夢洲が候補地に登場して選ばれた。それが今日の万博準備の遅れにつながっている。吉村知事は国に責任を丸投げして今にも逃げ出しそうだ。国が必死にテコ入れを図っているので多分何とかなるのだろう。まあ,最初からこの時代にこの場所で万博なんかを構想するなということだけど。


写真:夢洲の大阪・関西万博会場の雄姿(EXPO2025基本計画から引用)

2023年9月8日金曜日

大ちゃん

8月31日が終わり,あと1年半 (≒580日) しかない大阪・関西万博がどうなるかの瀬戸際だ。

153カ国・地域と8国際機関が参加表明していて,そのうち敷地渡し方式のタイプAで60カ国56館が建設される予定だ。が,大阪市への建築許可申請がまだ一つも出されていない。その前段階である基本計画が提出されたのでさえ,韓国,チェコ,モナコ,サウジアラビア,ルクセンブルクの5カ国だ。また,タイプAの失速を防ぐ窮余の策であるプレハブ建設代行のタイプXに興味を示したのは5カ国に留まる。


9月7日,そんな大阪府が,この度高齢者向けに生成AIを使ったサービスをキックオフした。これまでも高齢者コミュニケーションサービスが存在していた。柴犬のキャラクター大ちゃんとのオンラインコミュニケーションにより,(1) 会話機会の創出(雑談チャット)による老人の孤独感の解消,(2) 外出機会の創出(イベント案内)による健康増進,(3) 個人の属性に合わせたサービス・情報提供などが目的だ。これを今回ChatGPTで強化したというものだ。

奈良県民だけれど,大阪府柏原市に勤務している体で,早速LINEから登録して試してみることにした。

最初に聞いたのは,「万博大丈夫」。答えは返ってこなくて,別の話題に転換されてしまった。次に聞いたのは,「万博はどこであるの」。答えは「万博は大阪府吹田市にありますよ!」違うやろ。さらに,「今度の万博はいつどこであるの」。答えは「ほんまや!興味津々やわ〜。大ちゃん,教えてもらってええ?」

最低やな。たぶん「万博」は禁止語に登録されているのだろう。大ちゃんはユーザの高齢者に合わせて,すでに認知症気味なのであった。



図:本当にAIで強化されたのか疑惑の大ちゃん(大阪府説明資料から引用)


[1]大阪・関西万博の最新の動向(内閣官房,経済産業省,2023年7月)

2023年9月6日水曜日

日下周一

クリストファー・ノーラン映画オッペンハイマーは,まだ日本未公開なので,早くみたいものだと調べているうちに,オッペンハイマー(1904-1967)の弟子だった日下周一(1915-1947)に行き当たった。

日下周一は,大阪に生まれ,5歳で移住したカナダで育ち,ブリティッシュ・コロンビア大学からMITの大学院に進んだ。カリフルニア大学バークレー校でオッペンハイマーの指導を受け,1942年に博士号を取得した。中間子や核力の研究を行い,1943年には中間子論でパウリ(1900-1958)との共著論文(On the theory of a mixed pseudoscalar and a vector meson field)がある。1946年にプリンストン大学でウィグナー(1902-1995)の助教授になったが,1947年31歳で海水浴中に溺死した。

1940年に日下が日本を訪れたとき,湯川秀樹(1907-1981)や小林稔(1908-2001)や内山龍雄(1916-1990)に会って議論している。内山先生の一歳上だったのか。

1960年にオッペンハイマー夫妻が来日したとき,バークレー時代の弟子である日下周一の両親に会って弔意を表した。

1992年,大阪市立科学館の加藤賢一のところに吉永剛幸および大山幹男が来訪し,日下周一を顕彰することができないかとの話があった。2005年10月には大阪市立科学館(高橋憲明館長)において,関係者が中心の日下周一シンポジウムが開催されている。



写真:日下周一の御両親を弔問するオッペンハイマー夫妻(Esquire記事から引用)

[1]日下周一伝(加藤賢一データーセンター)
[4]物理学者日下周一の生涯と業績(星学館ブログ)
[5]NECROLOGY Kusaka Shuichi, 1915-1947(David Bohm, Robert R. Bush)
[6]Shuichi Kusaka  Theoretical Physicist ( When An Old House Whispers )
[7]Great Physicist Shuichi Kusaka  (You Tube)
[8]Notes on electrodynamics (J.R. Oppenheimer, University of California, Physics 207B, 1939)
[9]電気力学(オッペンハイマー講義録=日下周一のノート,小林稔訳)
[10]Einstein His Life & Times (Frank Phillipe, George Rosen, Shuichi Kusaka)
[12]Shuichi Kusaka (Find a Grave)


2022年10月16日日曜日

山所池

物理学科同窓会からの続き

10月8日に久々に開催された同窓会の報告を関係者に送ったところ,当日欠席のS正泰さんからメールが来て「蛍池にあった池は学校になったみたいですね」とあった。正泰さんは蛍池東町に下宿しており,蛍池中町の文化住宅に住んでいた自分から最近距離の同級生だった。

幸荘という名前の文化住宅は阪急宝塚線西の蛍ヶ池公園の北西に隣接していて,大家さんは千林大宮に住んでいた。幸荘の近所にOさんという父の会社の人の知人が住んでいたので,その伝手で,この文化住宅に住むことになった。家賃は当初1.1万円で(数年後オイルショックのあとに値上げ騒動があった),隣接した一軒家に住んでいた管理人のSさんのところに通帳を持って毎月払い込みに行くのだ。

蛍ヶ池公園の南に道を挟んで山所池(やまんじょいけ)という戦国時代(1595)から続く由緒正しい大きなため池があり,これが正泰さんの指摘していた池だった。阪急蛍池駅に最も近い池なので,これが蛍池だと勘違いする人もいたが,そうではない。

蛍池のほうは,阪急蛍池駅東400mあたりの刀根山病院(元:刀根山療養所,現:国立病院機構大阪刀根山医療センター)にあるひとまわり小さな池の方らしい。当時は,どこにあるのかまったく気にも留めていなかったのだけど。

蛍ヶ池公園では,夏になると盆踊り大会が開催されていて,河内音頭などを踊った記憶がある。山所池は,大半が埋め立てられて,1986年に豊中市立第十八中学校となった。私たちは1981年には池田市石橋,1984年には池田市緑丘に住んでいたので,当時の状況はよく知らない。


図:蛍ヶ池公園=左上,山所池=左中,蛍池=右下(googlemapから引用)

2022年4月14日木曜日

うさみ亭マツバや

大阪のきつねうどんの起源には諸説あるが,うさみ亭マツバやが元祖だというのがなんとなく有力らしい。一度行こうと思っていたので,午後の文楽のついでによってみた。

心斎橋筋を北に向かい,ちょっと右に折れると間口の狭いこじんまりした店があった。11:00開店で,11:30ごろについたが,既にお客さんがかなり入っている。早速きつねうどんとミニ親子丼のセットを注文した。

感想:味は普通。麺はやや太めでもっちゃりする。うどんの断面が丸くて箸から滑りました。油揚げも普通だ。これならば自宅で食べるスーパーの30円の生麺(断面は四角)+市販の味付け油揚げと大差ない。ただ,ミニ親子丼は昔ながらの玉子とじ状態でおいしかった。

食べているうちにも次々にお客さんが入ってきて,2階の席にも案内されている。隣の席ではおじさんが大阪弁で商売の話をしつつ「僕はしっぽくうどんにするわ」。お二人さんは,しっぽくうどんときつねとじうどんであり,なかなか味のある会話が流れてくる。

そういえば,金沢にいたころは,甘く炊いた大判の揚げのきつねうどんは存在しておらず,刻んだ揚げがのったいなりうどんだった。近所のうどん屋お多福の出前で,土曜の午後に天ぷらうどんとセットで食べていた。夏休みには泉丘高校のESSの部室に集まって勉強していたが,高橋君らと向かいのうどんやで大盛りのいなりうどんとかき氷を食べるのが日課だった。

入るときは気づかなかったが,大将がレジに座ってお会計をしていた。


写真:うさみ亭マツバや(撮影 2022.4.11)

2022年4月13日水曜日

摂州合邦辻

国立文楽劇場の四月文楽公演には,豊竹咲太夫文化功労者顕彰記念・文楽座命名150年のタイトルがついていた。第一部が義経千本桜,第二部が摂州合邦辻,第三部が嬢景清八嶋日記と契情倭荘子だ。コロナ流行が始まってからは,以前のような三部通しの観劇がしんどいので,今回は第二部を見ることに。

住吉大社万代池や天王寺界隈が舞台である摂州合邦辻。その万代池の段は,三輪太夫,希太夫,南都太夫,津國太夫,咲寿太夫,清友が並ぶ。公演記録の録画カメラが入っていたので,皆さん気合が入っていたようだ。最後に,吉田玉也の合邦道心によって,高安次郎丸の鬼若が,万代池に投げ込まれるのだが,池から可愛らしい顔を覗かせながら幕となる。

合邦住家の段は,中:睦太夫・清馗,前:呂勢太夫・清治,切:呂太夫・清介だった。今日は睦太夫が良かったと,家人と意見が一致した。声もはっきりと大きく変な癖がない。呂勢太夫と清治のコンビはうまいのだろうが,どうも自分にはピンとこない。一番良かったのは,呂太夫と清介だった。三味線の迫力やテクニックもすごくて(三の糸が切れた?),呂太夫も清介も熱演だった。

後半の玉手御前と浅香姫の激しいバトルでのキックには思わず笑ってしまった。この段は何度か見ているはずだけれど,百万遍の大数珠のイメージはすっかり消えていた。奴入平の吉田玉勢が,玉手御前の肝を取り出すのをビビって拒む当たりも面白い。

物語では,寅年,寅の月,寅の日,寅の刻に生まれた女の生肝の血が俊徳丸の毒を消すための薬になるという設定になっている。今年は寅年である。寅の月は旧暦の正月であり,2022年では,2月4日から3月4日までだ。寅の日は,12日ごとに巡ってきて,この度では,2月6日(日),2月18日(金),3月2日(水)。寅の刻は,24時間を12で割った3番目なので,午前3時から5時となる。


写真:浪速区下寺西方寺にある合邦辻閻魔堂(Wikipediaより引用)

2022年2月6日日曜日

反知性主義(2)

反知性主義(1)からの続き

問題は,大阪・関西である。橋下徹と大阪維新によって,反知性的主義的な空気が横溢している。 かつて,上岡龍太郎が関西のテレビ界のご意見番だった時代があった。いまでは,右翼的な政権擁護発言や陰謀論発言によって,ホンコンを中心とした吉本軍団が報道バラエティ番組を牛耳っており,吉村とのタッグで連日洗脳活動を続けている。維新が関西の議席を席捲するわけなのだ。

橋下は,自らの言動への批判に対して「学者のいうことなんて」と反知識人的な言辞を振りまいて対抗した。そして,大阪府立国際児童文学館を解体し,文楽協会に対する大阪府・市の補助金をだまし討ちのような形で引き上げ,大阪人権博物館をつぶした。公共空間を民営化の名のもとに売り渡し続けた。それが松井,吉村によって継続されている。

橋下とそのまわりの維新メンバーらが,民族差別や病弱者差別をふりまくさまは,ほとんどナチスの前兆現象と重なって見えてくる。トランプや安倍を例にあげるまでもなく,反知性主義とレイシズムは容易に結合する。

町山智弘水道橋博士との対談で指摘していた話が興味深かった。1961年に来日したデイヴィッド・リースマンが日本には反知性主義がないことに驚いていたが,国民の多くがドストエフスキーの小説に親しんでいるような知性的な国は他にはなかったとの見立てだ。この知的・文化的な集積の中で日本の高度成長も可能になった。

その文化的な集積の中心であった関西には1500年の歴史があって,畿内は常に東国よりも文化的に上位に位置していた。ところが,大阪維新の台頭によってこれが見る影もなくなってしまった。大阪には本来豊かな文化的風土があったのだが,いつのまにか,最近の吉本芸人による下品な笑いが大阪の文化だといわれるまでになってしまった。

2022年1月12日水曜日

メトロポリタン美術館展

 NHKの日曜美術館の新年スペシャル#アートシェア2022で,メトロポリタン美術館展を紹介していた。ラ・トゥール(1593-1652)の「女占い師」について,「傑作中の傑作だと思う。これが日本で見られるというのは世紀の大事件だと思います」と荒木飛呂彦が語っている。あら,ルーブル美術館にもある「いかさま師」の作者だったのか。

家人によれば,日経新聞紙面では毎日のようにこの美術展の大きな広告をうっていたとのこと。大阪市立美術館の最終日が1月16日ということで,ちょっと迷ったがオンライン予約して,今日の午前中の授業が終わってから出かけることになった。

天王寺駅で待ち合わせ,大阪維新によって無残に改造されてしまった天王寺公園を通り抜けて大阪市立美術館に向かう。雪交じりの寒い日だったが,当日券や予約時間なしチケットのための長い行列ができていた。その列を横目にスイスイ進んで検温後,QRコードの入場券を見せると,入場口付近はかなりの人で混みあっている。それでも,会場内ではわりとスムーズに観客が流れていた。

メトロポリタン美術館(MET)の館長やスタッフによる作品のビデオ紹介(13分)によれば,西洋絵画の建物に改修工事がはいるため(2023年オープン),これまで館外に出されることになかった作品を含み,65点(うち46点が日本初公開)が大阪市立美術館(天王寺)と東京の国立新美術館(六本木・乃木坂)で公開されることになった。

印象派を含む有名どころの画家の小品が1-2点づつまんべんなく網羅されていたがスルスルと通り抜けた。印象に残ったのは,(1) ラ・トゥール「女占い師」,(2) フェルメール「信仰の寓意」,(3) ターナー「ヴェネツィア,サンタ・マリア・デッラ・サールテ聖堂の前廊から望む」くらいか。

ターナーの明るく光ただようヴェネツィアは,グアルディの写実的で遠くまでピントがあう「サンマルコ湾から望むヴェネツィア」と対照的だった。

写真:メトロポリタン美術館のロゴ(YouTubeチャンネル The Met から引用)

2021年12月12日日曜日

旧制大阪高等学校(2)

旧制大阪高等学校(1)からの続き

 戦後新制大学が発足する際に,旧制高等学校は新制大学の教養部として組み込まれることになった。阪大は,ナンバースクールの対応物がなくて,官立の大阪高等学校(旧制)と府立の浪速高等学校(旧制)がその役割を果たした。他の旧帝国大学は,北海道大学と九州大学を除いて,一高二高三高八高などがこれに相当している。四高五高六高七高は,旧帝大以外の新制大学の教養部を形成した。

東京大学
1877 東京大学
   開成学校(1872-),東京医学校(1874-)
1877 工部大学校
1886 帝国大学
1890 東京農林学校(1886-)
1897 東京帝国大学
1949 東京大学
   第一高等学校(1886-),東京高等学校(1921-)

京都大学
1897 京都帝国大学
1949 京都大学
   第三高等学校(1894-)

東北大学
1907 東北帝国大学
1912 仙台医学専門学校(1901-),仙台高等工業学校(1907-)
1949 東北大学
   第二高等学校(1887-),仙台工業専門学校(1906-),
   宮城師範学校(1943-),宮城青年師範学校(1944-)

九州大学
1903 福岡医科大学
1911 九州帝国大学
1949 九州大学
   福岡高等学校(1921-),久留米工業専門学校(1939-)

北海道大学
1876 札幌農学校
1907 東北帝国大学農科大学
1918 北海道帝国大学
1949 北海道大学
   函館水産専門学校(1935-)

大阪大学
1919 大阪医科大学
   大阪府立大阪医科大学(1915-)
1931 大阪帝国大学
1933 大阪工業大学(1929-)
1949 大阪大学
   大阪薬学専門学校(1917-),大阪高等学校(1921-),浪速高等学校(1926-)

名古屋大学
1931 名古屋医科大学
   愛知県立愛知医科大学(1920-)
1939 名古屋帝国大学
1949 名古屋大学
   第八高等学校(1908-),名古屋高等商業学校(1920-)
   岡崎高等師範学校(1945-)

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 
金沢大学
1949 金沢大学
   第四高等学校(1887-),金沢高等工業学校(1920-),金沢医科大学(1923-),
   石川師範学校(1943-),金沢高等師範学校(1944-)

熊本大学
1949 熊本大学
   第五高等学校(1887-),熊本高等工業学校(1906-),熊本医科大学(1929-),
   熊本薬学専門学校(1925-),熊本師範学校(1943-),熊本青年師範学校(1944-)

岡山大学
1949 岡山大学
   第六高等学校(1900-),岡山医科大学(1922-),岡山農業専門学校(1946-),
   岡山師範学校(1943-),岡山青年師範学校(1944-)

写真:旧制大阪高等学校の跡地の石碑(2021.11.21撮影)


2021年12月11日土曜日

旧制大阪高等学校(1)

安倍晴明からの続き

 11月21日に大阪の阿倍野あたりに散歩に出かけてからはや三週間経った。北畠のあたりから阿部野神社をまわり,安倍晴明神社にいたるコースだった。

その北畠の東を走るあべの筋の脇にURの阪南団地がある。ここはかつての旧制大阪高等学校の跡地である。それほど広いわけではない。大高跡地であることを示す石碑と,当時からあるチシャノキとその説明を書いた記念碑があった。青春の像もあるというので探したが見つからなかった。後で調べると阪大豊中キャンパスの大高の森に移設されていた。

天理大学の創設者で,天理教第二代真柱の中山正善(1905-1967)は,旧制大阪高等学校から東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科に進んでいるが,その縁から旧制大阪高等学校の学生集会所であった黎明館を天理大学に移築して今に至っている。

大阪帝国大学から新制の大阪大学へ移行する際に,旧制大阪高等学校(官立,1921-1950)と旧制浪速高等学校(府立,7年制,1926-1950)がその後の教養部を形成した。石橋から坂道を上ってきて最初に見える,街兼山の古い大学の建物(イ号館,ハ号館)などはその旧制浪速高等学校の建物だった。

かつて教養部長を務めた物性物理実験の大塚穎三先生(1929-2013,中田博保さんの師匠)は,旧制浪速高等学校の出身であり,「大塚穎三名誉教授に聞く : 大阪大学の思い出」というインタビュー記事の中に当時の話がでてくる。


写真:旧制大阪高等学校跡地のチシャノキ(2021.11.21撮影)

2021年12月9日木曜日

女系家族

 しばらく前に,映画版の女系家族(大映 1963)をみたが,最近テレビ朝日で二夜連続のドラマスペシャルで女系家族(2時間×2)をやっていた。

山崎豊子(1924-2013)の原作で,大阪船場の商店の婿養子の旦那が亡くなった後の遺産相続を巡るややこしい話だ。新しいテレビドラマの方も,宮沢りえと寺島しのぶががんばっていたけれど,何といっても昔の映画は,当時の時代の空気が感じられておもしろい。

番頭役の中村鴈治郎(二代目)のいやらしい目とか,主人公三人姉妹の叔母役の浪花千栄子の雰囲気がたまりませんね。ストーリー展開はほとんど(多分原作通りなのだろう)同じだった。二号さん役は,宮沢りえの方が若尾文子より,途中からの変貌ぶりがきわだっていたかもしれない。

2021年12月4日土曜日

夜間の授業(2)

 夜間の授業(1)からの続き

夕食をとって本屋や文房具屋を回ってもまだ1時間半あるので,MIOの11階のオープンスペースにあるガーデンカフェで時間を潰すことにする。

天王寺キャンパスで,出勤簿への押印や事務手続きを済ませて,2階の教室へ向かう。ここは以前デジタル教材シンポジウムを開いた部屋だった。教室のAV設備へは簡単にアクセスできるので,iPadの画面を表示できるのは助かった。

授業が始まって,聞いてみれば受講者のほとんどが文系で,高等学校理科は基礎科目しかやっていないようだ。授業中に自分の体調不良でトイレ休憩してしまうという災難があったが,なんとか終了。次回以降が心配だわ。

天王寺キャンパスの道路側のフェンスに,建築計画のお知らせと地元説明会のお知らせが貼り出されていた。大阪教育大学(天王寺)合築施設ができるということで,地上10階で延面積6000平米の建物が本館と西館の間にできる。2022年9月着工で,完成は2年後の2023年12月だ。

これは,大阪市教育委員会の新・大阪市総合教育センターが6-10階を,大阪教育大学の教職大学院が1-5階を使うというもので,栗林学長肝煎りの計画だ。現役時代その検討チームからは完全に外されていたのだが,施設課から内々に具体的なイメージのポンチ絵などを描いてと頼まれてこっそり作ったことがあった。もちろん今のプランにその痕跡はかけらもない。

大阪市の教育センターは,現在の10,000平米から3,000平米へと大幅なダウンサイジングになるので,組織もシュリンクするのだろう。大阪維新の考えそうな,喜びそうなプランである。

2021年11月26日金曜日

世界の都市総合力ランキング

 最初に竹中平蔵の顔写真が出てきて辟易するのだが,森記念財団 都市戦略研究所が出している世界の都市総合力ランキング(GPCI)の2021年度版が公開された。

ここで注目したいのが,大阪維新に牛耳られるようになった大阪市の凋落ぶりである。橋下徹が2008年から2011年まで大阪府知事,2011年から2015年まではスイッチした大阪市長として君臨し,松井や吉村に引き継がれた時代である。世界の他の都市には類を見ないようなランキングの低下(2012年の17位から2021年の36位までの19ランクダウン)が認められる。

大阪のマスコミは完全に維新と一体化しているため,こうした状況やコロナの死亡数対人口比が全国でダントツであることは報じられず,吉村知事礼賛に終始するのであった。

2012->2021
1->1 London
2->2 New York
4->3 Tokyo
3->4 Paris
5->5 Singapore

7->6 Amsterdam
8->7 Berlin
6->8 Seoul
22->9 Madrid(+13)
14->10 Shanghai

xx->11 Melbourne
15->12 Sydney
9->13 Hong Kong
xx->14 Dubai
20->15 Copenhagen

23->16 Los Angels
11->17 Beijing
13->18 Barcelona
10->19 Vienna(-9)
21->20 Toront

18->21 Zurich
16->22 Stockholm
31->23 San Francisco
19->24 Brussels
12->25 Frankfurt(-13)

28->26 Chicago
27->27 Boston
xx->28 Dublin
24->29 Vancouver
xx->30 Helsinki

26->31 Geneva
37->32 Moscow
29->33 Mikan
25->34 Istanbul(+9)
35->35 Bangkok

17->36 Osaka(-19)
30->37 Washington, DC
32->38 Taipei
34->39 Kuaka Lumpur
xx->40 Buenos Aires

2021年11月1日月曜日

錦秋文楽公演2021(1)

   寝る前のNHK開票速報では,自民党過半数割れか?だったはずなのに,朝起きて11月になると,自民党安定多数,維新4倍に,立憲共産惨敗ということだった。野党共闘は1:1の選挙区では確かに効果を発揮したが,1:1:1の場合はそうではなかった。

維新的なムードは洗脳TVが支配する大阪や関西エリアだけではなく,全国にジワリと浸透している。おまけに国民民主と維新の合同会派話が持ち上がり,こうなると改憲勢力は自民261+公明32+維新41+国民11=345であり,楽々と2/3=315を超えているのだった(もちろん国民民主がなくてもだけれど)。こうなると,立憲民主からぼろぼろと崩れ落ちる層が出てくる。維新のような右翼ポピュリズムに対抗するには,れいわのような左翼ポピュリズムを持ってくるしかないのかも。

制度疲労による日本の没落を埋めるのが,一億総非正規化や,公共資産・サービスの民間・外資への切り売り,これが,改憲後に力をさらに増す差別的な右翼イデオロギーと戦争準備経済に支えながら進行するという目も当てらない状況が出現しそうだ。戦後蓄積してきた経済・文化資産はあっという間に消尽されていく。

金木犀香る晩秋の晴れの日,気落ちしながら,久々に維新政権の下でまだかろうじて開かれている文楽公演へと向かうのだった。街は賑わっており,横断歩道は剥げていなかったがペイントされた幅は狭くなっていたかもしれない。

2021年8月17日火曜日

大阪七墓巡り

 大阪の千日前や梅田に大きな墓地があったというのは聞いたことがある(昨年,梅田墓跡で1500体の人骨が見つかっている)。15年ほど前に大阪市内の高校での模擬授業の後,阿倍野の大きな霊園(大阪市設南霊園)の横を車で送ってもらった。天王寺駅からすぐ近くにこんな大きな墓地があったのか。

江戸時代の初め,大坂夏の陣のあとに整理された大阪七墓とよばれる墓地をお盆の期間に巡るという風習があると知って調べてみた。梅田墓地,南浜墓地(浜墓地),葭原墓地,蒲生墓地(野田墓地),小橋墓地,千日墓地(千日前墓地),飛田墓地(鳶田墓地)の7ヶ所であり,現在も墓地になっているところとそうでないところがある。


図:大阪七墓の位置(湯川敏男[1]より引用)

かつての大坂の町は,現在の環状線内の半分ほどの大坂三郷(天満組,北組,南組)とよばれる行政区から成り立ち,大阪七墓はそれを囲むように配置されている。

[1]大阪七墓「今と昔」巡り(湯川敏男)
[2]賀古教信七墓廻(近松門左衛門)
[3]大阪七墓巡り復活プロジェクト(むつさとし)

2021年7月12日月曜日

三島喜美代

 晩夏・小暑・蓮始開(はすはじめてひらく)

先週の日曜美術館で,大阪の十三に住んでいる三島喜美代が取り上げられていた。88歳という年齢を感じさせない意欲を持つパワフルなおばちゃんだった。日本語のWikipediaページはないが,英語版はあるので訳してみた。

三島喜美代(1932-)は、日本の現代美術家であり,新聞や漫画、箱などの「壊れやすい印刷物」を陶土で再現した作品で知られている。1960年代初頭に画家として活動を開始した三島は、1971年から陶芸を始めた。 この頃から,新聞や広告ポスターのイメージをシルクスクリーンの技法で粘土に刷り込むようになる。製造物を用いた作品は、クレス・オルデンバーグやアンディ・ウォーホルの作品、戦後の日本の具体や独逸美術協会の作品と類似している。

三島喜美代は1932年に大阪で生まれ,1951年に大阪の公立扇町高校を卒業した。1986/87年、ロックフェラー奨学金ACCの助成を受けてニューヨークに留学。現在は大阪に在住。

夫の三島茂司(1920-1985)も画家であり,二人展が最近開かれていた。岐阜県の土岐市のアトリエはほとんどゴミの集積場のようだ。

東京の倉庫街にあるART FACTORY城南島に展示されている陶器製の新聞の束は天井まで高く積み上げられて迷路になっている。また,1万個の新聞記事を印刷したレンガが敷き詰められる作品を見て,1つ3000円でも3千万円かと思ったが,市場価格は1つ30万円のオーダーだった。

この情報の化石は,ハードディスクや半導体と違って,長く残り続けるのかもしれない。


写真:三島喜美代 《作品 21-A》2021年
陶にシルクスクリーン印刷,鉄(婦人画報から引用)

2021年5月19日水曜日

田村正和

天牛書店からの続きか 

阪東妻三郎(1901-1953)の息子の田村正和(1943-2021)が77歳で亡くなった。兄の田村高廣(1928-2006)も77歳で亡くなっている。弟の田村亮(1946-)は存命だ。なお阪妻の命日は米島君の誕生日の1953年7月7日と同じだ。Wikipediaにある阪妻の写真は田村正和によく似ている。

田村正和といえば円月殺法の眠狂四郎であり,大阪出張の父と梅田コマ劇場の舞台を観た話は以前書いた。テレビの人気番組は全くみていない。テレビでは,西郷輝彦のどてらい男(1973-1975)に出ていた田村亮の方が記憶にある。

なお,どてらい男のモデルは山善山本猛夫(1921-1991)だが,豊中の蛍池に住んでいたのではないか。大学の通学路の途中に山本猛夫の表札がかかった大きな家があってこれがそれだと誰かに聞いたようなのだが,気のせいかもしれない。