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2024年9月28日土曜日

宮越家花鳥図

宮腰からの続き

以前,宮腰(金沢市金石)と勘違いしてしまった,青森県中泊町の旧家宮越家の話題がまた登場していた。宮越家の離れ詩夢庵にあった狩野派の襖絵(伝狩野山楽筆)が,実は,大英博物館に所蔵されている秋冬花鳥図(17世紀狩野派)と対になる春夏花鳥図である可能性が非常に高いことが判明したというものだ。

大英博物館によれば,秋冬花鳥図の裏書に,大和の談山神社の近くの地名が記されていて,これらの対となる襖絵は元来談山神社に所蔵されていたと推定されている。大英博物館の秋冬花鳥図は,2018年に,キヤノンの綴りプロジェクトによって高精細複製品が制作された。そして,談山神社に里帰り奉納されて常設展示されることになる。ところがですね,肝腎の談山神社のホームページをみると,一瞬その写真がみえるだけで,まったく説明も案内も宣伝もされていないのであった。しっかりしてよね。

奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある談山神社(たんざんじんじゃ)は,中臣鎌足と中大兄皇子が乙巳の変の謀議を図ったところということで有名だ。2回ほど訪れたことがある。何かの行事で蹴鞠やってたかな。


写真:宮越家詩夢庵の春夏花鳥図(日本経済新聞から引用)


2024年9月4日水曜日

夢遊桃源図

録画してあった朝の韓国ドラマ,スティーラー七つの朝鮮通宝をまとめてみた。なるほど,暇な老人は,このようにして毎日テレビを見て過ごしているのか。時間は無限に溶けていく。

たわいないB級サスペンスコメディなのだけれど,ハイテクガジェットが沢山出てきたり,歴史的な謎解きがあったりして面白い。朝鮮侵略した日本が奪った朝鮮の財宝を日本の将軍が隠匿し,その秘密の隠し場所を示す星座の位置が,7枚の朝鮮通宝に穴を開けて伝えられていた。この争奪戦がドラマの骨格であり,慶州瞻星台という,世界遺産地区にある東洋最古の天文台が最後の舞台だった。

中心となる悪役は,第二次世界大戦ごろの親日派であり,独立運動に関わったが戦後は貧しいままだった人々と,親日派が財産を隠匿してその後の財閥の骨格をなしていくということの対比が示唆されていた。韓国の歴史的な遺物を悪役が奪取し,それらの財宝の隠し場所を日本人の島田に設計させる。彼が作った謎解きトラップのキーワードが神功皇后安堅の夢遊桃源図だった。

その夢遊桃源図は,日本の重要文化財に指定され,現在,天理大学附属図書館所蔵している。


図:夢遊桃源図(安堅,Wikipediaから引用)

2024年7月17日水曜日

釈迦十六羅漢図

7月14日のNHKのEテレ日曜美術館で,「若冲 よみがえる幻の傑作~12万の升目に込めた祈り~」が放映された。録画していたものを,過去の再放送かなにかと思ってぼんやり見ていたら思わず引き込まれてしまった。

12万の升目ということは,一マス1cm×1cmとして200×640くらいだろうか。昭和8年に大阪府立博物場で開かれた『臨幸記念名家秘蔵品展覧会図録 』に残された,88mm×288mmの白黒写真だけからデジタル復元したものだ。

若冲は,相国寺の承天閣美術館で釈迦三尊像と動植採絵を,愛知県美術館でプライス版の鳥獣花木図屏風を,静岡県立美術館で樹花鳥獣図屏風を,MIHOミュージアムで象と鯨図屏風をそれぞれ見ている。いずれも凄かった。動植採絵で最初に目に入ってきた白い大輪の菊を花火だと思ってしばらく見続けていたら,菊に変わったので本当い驚いてしまった。

升目描きでは,プライス版を先に見て印象づけられたのでいたので,こちらが本家だと思っていたけれど,どうやら静岡県立美術館版の樹花鳥獣図屏風の方が,この釈迦十六羅漢図に近いようだ。そうなのね。

この釈迦十六羅漢図屏風もどこかで公開されないのかと調べると,デジタル文化財ミュージアム KOISHIKAWA XROSSで近日公開予定らしい。必見ですね。



写真:釈迦十六羅漢図屏風デジタル復元(NHK から引用)


2024年6月28日金曜日

黒田清輝

NHKアーカイブの日曜美術館(1981)で,当時71歳の白洲正子(1910-1998)が黒田清輝(1866-1924)について語っている。

白洲正子は,華族で海軍大臣だった樺山資紀(1837-1922)の孫,実業家,貴族院議員の樺山愛輔(1865-1953)の次女である。その樺山愛輔の従兄弟が黒田清輝だった。このため,樺山家の食堂と客間には黒田清輝の「読書」と「湖畔」がそれぞれ掛けられていた。黒田清輝の没後,遺産管理をまかされた樺山愛輔によって黒田記念館(1928-)に収蔵された。


写真:教科書に載っていた「読書」(黒田記念館 黒田清輝油彩画 光学調査から引用)

黒田清輝と樺山愛輔が従兄弟であるというのは少し複雑である。樺山資紀も黒田清輝も養子になっているからだ。昔は家督相続のシステムだったので,このような親戚関係の中での養子関係が普通にある。自分の母方の祖父母だって,両方とも養子だった。

さて,樺山資紀の実家の橋口家が黒田清輝との関係をつないでいる。Wikipediaで調べていると,樺山資紀は橋口家ではなく真木家から養子に出されたという誤った記述になっていたので混乱した。中国語版では正しく橋口家と書かれているのにである。これだから,日本語版のWikipediaは信用できない。小人さんになって早速修正しておいた。


図:樺山愛輔と黒田清輝が従兄弟であることを整理してみた

なお,黒田清輝と樺山愛輔の関係について,Chat GPT-4o,Gemini Pro 1.5,Claude 3.5 Sonnet,Perplexity (PROでないほう),Command R+ に尋ねたところ,インターネットを検索できて根拠URLを付加してくれるPerplexityのみがほぼ正しい答えを与えている。あとはちょっとグダグダだった。Perplexityは複数のウェブサイトを検索しながらそれらの結果を組み合わせて回答を与えてくれる。
Q(koshix):
樺山愛輔と黒田清輝の関係は?

A(Perplexity):
樺山愛輔と黒田清輝は親密な関係にあり、以下のような繋がりがありました:
1.樺山愛輔は黒田清輝の従兄弟でした。
2.両者の家は近く、深い交友関係にありました。
3.樺山家の屋敷には、黒田清輝の作品「湖畔」と「読書」が飾られていました。「湖畔」は客間に、「読書」は食堂に展示されていました。
4.樺山愛輔は黒田清輝の遺言執行人を務めました。黒田が遺産の一部を美術奨励事業に提供することを遺言したため、樺山は1928年に東京・上野公園内に黒田記念館(美術の基礎研究機関)を設立しました。
5.樺山愛輔は黒田清輝を高く評価していたようです。ある会合で「黒田はもっと大人物じゃったよ」と発言し、一同が賛成したという記録が残っています。

これらの事実から、樺山愛輔と黒田清輝は単なる親戚関係を超えて、芸術的な面でも深い繋がりを持ち、互いを尊重し合う関係にあったことがわかります。樺山は黒田の芸術的遺産を守り、その価値を後世に伝える重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

[1]黒田清輝の生涯と芸術(田中淳)

2023年12月11日月曜日

石川デジタルミュージアムネットワーク

金沢大学は,人工衛星(X線突発天体監視速報衛星)を打ち上げたというニュースを先日見たばかりだけれど,金沢大学資料館を中心とした石川デジタルミュージアムネットワークを構築した。

早速アクセスしてみると,金沢大学資料館,石川県立自然史資料館,石川県西田幾多郎記念哲学館,石川県埋蔵文化財センター,羽咋市歴史民俗資料館,野々市市ふるさと歴史館・,野々市デジタル資料館の6つの連携機関を結ぶものだった。どれも訪れたことはない。ちょっと物足りなかった。

金沢21世紀美術館とか石川県立美術館とか石川県立図書館をはじめとして諸々沢山あるので,このへんもつながると面白そうなのだけれど。しかしそれだったら文化遺産オンラインで事足りてしまうのかもしれない。


図:デジタルミュージアムネットワークの表紙から

2023年9月16日土曜日

霧の彫刻

NHKの日曜美術館で,中谷芙二子(1933-)の霧の彫刻が取り上げられていた。

90歳の中谷芙二子は,雪の結晶,人工雪の研究で有名な中谷宇吉郎(1900-1962)の二女として札幌に生まれた。当時北海道大学教授になったばかりの中谷宇吉郎は,石川県加賀市片山津町の出身で,小松中学,第四高等学校から東京大学理学部物理学科に進み,寺田寅彦(1878-1935)に師事した。三姉妹の母の静子(1910-1986)も金沢出身だった。長女の咲子(1932-)が地質学者,番組の最後にも登場した三女の三代子がピアニスト(1944-)でともにアメリカ在住だ。甥の中谷健太郎(1934-)が由布院温泉の亀の井別荘を経営している。


芙二子は,高校卒業後に父の仕事の関係で渡米し,ノースウェスタン大学美術科を1957年に卒業している。1966年には,Experiments in Arts and Technology (E. A. T. ) のメンバーとなった。E. A. T. の活動の最高峰として,大阪万博1970のペプシ館がある。ここで芙二子は霧の彫刻によってパビリオンを覆うことに成功した。これは,16ミクロンのノズルの前に針をおいて,70気圧で噴射される水を砕き,20〜30ミクロンの霧粒として噴射するものであった。

1970年7月に訪れた大阪万博では,最初の夜に赤く照らされて工事中のデザインだった横尾忠則のせんい館の夜の外観は見たが,エキスポランド側にあった霧に包まれたペプシ館には行かなかった。


中谷芙二子の考えを要約すると次のようなものであった。
霧の彫刻は,純水で作られた大量の霧を発生させて,環境と人間のインタラクションを楽しむ芸術だ。霧の中に入ることで,人は視覚だけでなく,全感覚を通して環境を知覚することになる。それは,不可視である大気が呼吸する様子を人が知覚することを助ける。またこれにより人の行動自身も影響されることになる。自然を美の対象と考えてはいけない。それは,人それぞれが自分の方法で発見する自然との関係の中に生まれてくるものだ。
番組は,日本各地での取り組み,とくに田中泯とコラボレートした舞踊と霧のパフォーマンスを中心に話が展開した。加賀市にある中谷宇吉郎雪の科学館にも常設の霧の彫刻「グリーンランド氷河の原」があり,グリーンランド(中谷宇吉郎が調査でよく通っていた)から氷河の堆積石を60トン(環境大臣と交渉してゲットした)を日本に運んで厚さ15cmに敷き詰めた空間に霧を流していた。


写真:中谷宇吉郎雪の科学館にある霧の彫刻(グリーンランド氷河の原)


[1]霧の抵抗 中谷芙二子(水戸芸術館)
[3]アーティスト・中谷芙二子のふたつの顔飯田豊評「霧の抵抗 中谷芙二子」(美術手帖)

2023年8月24日木曜日

現代芸術文化センター(仮称)

7月25日,夕方のTVにちょっとセンセーショナルなニュースが流れた。


大阪市は紆余曲折の後に,大阪中之島美術館をスタートさせたが,大阪府はバブル時代の現代芸術文化センター構想を頓挫させてしまった。その過程で大阪府が収集していた7900点の美術作品(大阪府20世紀美術コレクション)が宙に浮いてしまう。その多くは受け皿として設置された大阪府立江之子島芸術文化創造センターで管理されているのだが,105件の大型作品は収容することができなくて,2017年から大阪府の咲洲庁舎地下駐車場の一角に放置されることとなった。

今年の2月には次のような記事が流れている。「10億円近くかけたのに美術館計画が頓挫、大阪府が苦肉の「バーチャル美術館」設置へ」,このニュースでは105件の駐車場物件には言及はないが,大阪・関西万博をからめた,前向きな取り組みとして紹介されている。

ところで,この度の事態の判明を受けて設置されたアート作品活用保全検討チーム(座長:山梨俊夫・前国立国際美術館館長,鷲田めるろ・十和田市現代美術館館長,木ノ下智恵子・大阪大21世紀懐徳堂准教授,上山信一・府特別顧問)の発言が早速毎日新聞の記事「デジタルで見られるなら処分も 地下駐車場美術品で大阪府特別顧問」になって,ネットで炎上している。あと「地下駐車場の美術作品をどう守る? 大阪府に専門の学芸員不在」とか。

記事における売却と処分の使い分けがどこまで正しいのかが微妙だし,そもそも作品の著作権処理がどうなっているかが分からないので,なんともいえないことが多い。しかし発言者があの上山信一で,彼が「デジタル化すれば処分してもいい」と言ったことに対して(本人は後に処分でなく売却のことだと弁明したが・・・)大ブーイングの嵐となったわけだ。

まあ,府市二重行政論者の大阪維新吉村=松井チームが,なぜ,大阪中之島美術館を設置したときにうまく処理しなかったのか,というつっこみはあるよね。

マッキンゼー出身の上山信一も昔は都市における芸術作品の意義というか,大阪の美術館の役割の重要性を吹聴しまわっていたくせに,このたびは,吉村の意向を受けて火消しに走るという節操のなさが重用されるポイントなのだろう。


P. S. 日本維新の会の馬場代表も,政治資金ロンダリング疑惑や福祉法人乗っ取りの話題で忙しいのだけれど,日本維新の会のマッチョイメージを覆すとして,刀を持って新撰組の羽織を着て鼻息荒く猪突猛進しそうなマスコット「いしんのしし」を宣伝して,こちらも大顰蹙となっていた。
1979年 岸昌府知事
1980年 中之島に大阪府立現代美術センター
1983年 (大阪市制100周年記念事業基本構想 近代美術館)
1988年 大阪府新美術館構想
1989年 現代芸術文化センター(仮称)の基本構想に関する報告書
1991年 中川和雄府知事
1995年 横山ノック府知事
1996年 「現代芸術文化センター(仮称)構想」の凍結
2000年 太田房江府知事
2001年 「現代芸術文化センター(仮称)構想」が正式に廃止
2007年12月 (平松市長)
2008年2月 橋下徹府知事
2008年6月 大阪府立現代美術センター廃止へ
2011年11月 松井一郎府知事・(橋下市長)
2012年3月 大阪府立現代美術センター廃館
2012年4月 大阪府立江之子島文化芸術創造センター開館
2013年2月 (大阪新美術館整備決定)
2015年12月 松井府知事・(吉村市長)
2017年 大阪府20世紀美術コレクションの一部105点を咲洲庁舎B3F駐車場に
2019年4月 吉村洋文府知事・(松井市長)
2022年2月 (大阪中之島美術館開館)
2023年2月 大阪府バーチャル美術館新設方針
2023年7月 咲洲庁舎B3F駐車場の美術コレクションが問題に
2023年8月 アート作品活用・保全検討チーム

2023年7月19日水曜日

死の島

君たちはどう生きるかからの続き

宮崎駿君たちはどう生きるかイメージ参照絵画の例として,ルネ・マグリット(1898-1967)の「ピレネーの城」,アルノルト・ベックリン(1827-1901)の「死の島」,ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)の「通りの神秘と憂鬱」があげられていた。

マグリットもキリコも良くご存知だったけれど,ベックリンって誰だっけ?と思っていたが,なんのことはない単に忘れていただけだ。小説の死の島福永武彦(1918-1979)の長編小説であり,自分の読書体験ベスト20には必ず入ってくる作品だ。

1977年の米島君との沖縄旅行では,飛行機の切符が手に入らず,神戸から船で与論島へ向かった。一泊目の夜は高知沖の太平洋上で船が揺れたため,座っているのが気持ち悪くて船室に寝ころんだままだった。そのとき,気を紛らわすために米島君に枕元で読んでもらったのが福永武彦の死の島(新潮文庫)だった。旅行後に急いで本屋へ走った。

相見綾子と萌木素子という韻を踏んだ二人の女性の名前と広島を暗喩する暗い島の絵が印象的で,シュールレアリスティックな構成の大作だ。福永武彦の小説は新潮文庫でそれまでも何冊か読んでいた。萌木素子が描いた暗い島の絵はベックリンの死の島とつながっていて,本文中でもベックリンの死の島の解説がされていた。なお,文庫本の表紙絵はムンクなのだった。

Wikipediaには死の島(小説)の解説はなかった。



写真:ベックリンの死の島(1880)

2023年3月12日日曜日

幽霊漢字

 今日,第1回AIアートグランプリ発表があった。主催がドスパラ(サードウェーブ)で事務局が清水亮さんのMEMEPLEXだ。

279件の応募作品から,17作品が第一次選考を通過した。そのうち12作品が佳作であり,第2次選考を通過した5作品から,グランプリ1作品と準グランプリ4作品が選ばれた。なんと,グランプリは,backspace.fmでお馴染の松尾公也さんの「Desperado by 妻音源とりちゃん[AI]」だ。

これまでも亡くなった妻のとりちゃんの音源を作ってきたが,AIによって画像イメージも生成した上に,自分の歌声をとりちゃんの声に変換できるようになった。さらに3次元化にもチャレンジしているらしい。自分の声やテキストもAI化して残る未来を想定している。

最近,テクノエッジを運営するテクノコアに入社した松尾さんは,MacUserの初代編集長で,有料メールマガジンMacWIREも立ち上げている。ドリキン,西川善治と3人で毎週流しているbackspace.fmの話が面白い。

さて,AIアートグランプリで印象に残ったのは,カラス=ヨーロッパ中世の防疫マスクで登場した機能美Pさんの作品だ。急遽作られた審査員特別賞も受書した。AIグランプリなのにAIは2%しか使っていないというメタコンセプトの「そんな話を彁は喰った」がその作品だ。そのタイトルに登場する漢字「彁(か・せい)」は幽霊漢字とよばれている。

1978年に通商産業省が制定したJIS C 6226(後のJIS X 0208)では,いわゆるJIS第1・第2水準漢字として6349字が規定された。このとき典拠は次の4つの漢字表だ。
 1. 標準コード用漢字表(試案): 情報処理学会漢字コード委員会(1971年)
 2. 国土行政区画総覧: 国土地理協会(1972年)
 3. 日本生命収容人名漢字: 日本生命(1973年、現存せず)
 4. 行政情報処理用基本漢字: 行政管理庁(1975年)
この中に,音義・使用例の不明な文字があることが指摘され,辞書類に収録されながら実用例のない単語を意味する「幽霊語」をもじって「幽霊文字」と呼ばれるようになった(WIkipedia 幽霊文字から抜粋引用)。

また知らなかった事実に出会うことになる。犬も歩けば棒に当たる。

図:幽霊漢字の例(

P. S. AIアートグランプリはNHKニュースでも取り上げられて,松尾さんがインタビューに答えていた。


[1]「松尾PはなぜAIアートグランプリで優勝できたのか?!」(第1965話 shi3z & drikinの#AIドリフト)
[2]第一回AIアートグランプリを受賞したので自分の作品解説とファイナリスト作品への感想。そしてその先(CloseBox)(松尾公也)
[3]第1回 AI Art GrandPrix が素晴らしかった件(白井暁彦)

2022年1月23日日曜日

柳宗悦

 柳宗悦(1889-1961)の民藝のアクセント問題で,日本民芸館に本人が民藝を発音する音源があるということだった。それならば YouTube にもあるのではないかと探してみると,NHKラジオアーカイブス〜声でつづる昭和人物史 が見つかった

この番組は,NHKの過去のアーカイブから政治家や実業家,文化人などの肉声が含まれるものを取り上げてその人となりや考えを紹介するものだ。柳宗悦の後編は,1959年10月の日本民藝協会での挨拶だった。彼が病気で入退院を繰り返して出席できなかったため,録音での挨拶が披露されたために記録に残っている。柳宗良の声には張りがあって気力も十分な話しぶりだった。番組は,宇田川清江(1935-)アナウンサーとノンフィクション作家・評論家の保阪正康の解説で進行する。

柳宗悦は,民藝が単独で出てくる箇所では,はっきりと‾ン_ゲ_イと発音している。しかし,宇田川も保阪もミ_ン‾ゲ‾イ‾なのであった。NHKが監修しているはずだけれど。

柳宗悦の父の柳楢悦(1832-1891)は,海軍少将・貴族院議員・測量学者であり,日本数学会の前身の東京数学会社神田浩平(1830-1898)と共に設立している。なお,柳宗悦の母,楢悦の後妻の勝子は嘉納治五郎(1860-1938)の次姉である。

柳宗悦の妻の柳兼子(1892-1984)はかつては「声楽の神様」と称されるクラシックの声楽家であり,85歳まで公式のリサイタルを続けていた。長男の柳宗理(1915-2011)は戦後日本のインダストリアルデザイナーの草分けであり,金沢美術工芸大学の教授を務めた。このため,金沢美術工芸大学には,柳宗理記念デザイン研究所が設けられている。

2022年1月12日水曜日

メトロポリタン美術館展

 NHKの日曜美術館の新年スペシャル#アートシェア2022で,メトロポリタン美術館展を紹介していた。ラ・トゥール(1593-1652)の「女占い師」について,「傑作中の傑作だと思う。これが日本で見られるというのは世紀の大事件だと思います」と荒木飛呂彦が語っている。あら,ルーブル美術館にもある「いかさま師」の作者だったのか。

家人によれば,日経新聞紙面では毎日のようにこの美術展の大きな広告をうっていたとのこと。大阪市立美術館の最終日が1月16日ということで,ちょっと迷ったがオンライン予約して,今日の午前中の授業が終わってから出かけることになった。

天王寺駅で待ち合わせ,大阪維新によって無残に改造されてしまった天王寺公園を通り抜けて大阪市立美術館に向かう。雪交じりの寒い日だったが,当日券や予約時間なしチケットのための長い行列ができていた。その列を横目にスイスイ進んで検温後,QRコードの入場券を見せると,入場口付近はかなりの人で混みあっている。それでも,会場内ではわりとスムーズに観客が流れていた。

メトロポリタン美術館(MET)の館長やスタッフによる作品のビデオ紹介(13分)によれば,西洋絵画の建物に改修工事がはいるため(2023年オープン),これまで館外に出されることになかった作品を含み,65点(うち46点が日本初公開)が大阪市立美術館(天王寺)と東京の国立新美術館(六本木・乃木坂)で公開されることになった。

印象派を含む有名どころの画家の小品が1-2点づつまんべんなく網羅されていたがスルスルと通り抜けた。印象に残ったのは,(1) ラ・トゥール「女占い師」,(2) フェルメール「信仰の寓意」,(3) ターナー「ヴェネツィア,サンタ・マリア・デッラ・サールテ聖堂の前廊から望む」くらいか。

ターナーの明るく光ただようヴェネツィアは,グアルディの写実的で遠くまでピントがあう「サンマルコ湾から望むヴェネツィア」と対照的だった。

写真:メトロポリタン美術館のロゴ(YouTubeチャンネル The Met から引用)

2021年11月25日木曜日

六人部暉峰

 日本経済新聞朝刊の文化欄に六人部暉峰(1879-1956)の話があった。他に情報がないかと探してみると,京大人文科学研究所の論文で「六人部暉峰について --竹内栖鳳門の女性画家--(2021)」が見つかった。著者は向日市文化資料館の里見徳太郎さんで,何のことはない日経文化欄の記事を書いた本人だった。

六人部暉峰は,京都の向日神社の神職の娘であり,10代前半に竹内栖鳳(1862-1942)に弟子入りして本格的に日本画を学び始めた。15歳から各種展覧会に出品し,パリ万博に出展された京都の女性画家の3名に,上村松園(1875-1949)と並んで選ばれるほど高い評価を得ていた。1898年から7人の竹内栖鳳の子供を産み,20代半ばにはその活動を終息させている。

栖鳳は,1942年に湯河原で最期を迎えるが,暉峰は晩年まで湯河原の栖鳳のそばで彼を支えていたようだ(京都の本邸には本妻の奈美がいる)。熱海の保善院には,栖鳳の筆塚や爪塚があり,暉峰の代表作である「白川殿攻落」が所蔵されている。


写真:六人部暉峰白川殿攻落」(向日市文化資料館ポスターより引用)

2021年8月21日土曜日

金沢美術工芸大学

山下洋輔(1942-)の祖父,山下啓次郎(1868-1931)が設計した明治の五大監獄の一つが金沢監獄である。金沢美術工芸大学が金沢監獄の跡地にあった金沢刑務所の小立野の現在地に移転したのが1972年なので,ちょうど大学進学で金沢を離れたころだ。そんなこともあって,金沢美術工芸大学のキャンパスを訪れる機会はなかった。

金沢美術工芸大学が輩出したゲーム・アニメ・漫画関係者といえば,宮本茂,細田守,米林昌宏,東村あきこなど,錚錚たるメンバーがそろっている。その金沢美術工芸大学が,2023年度を目処として,金沢大学の工学部の跡地に移転するらしい。その隣で,2022年度に開館するのがが新しい石川県立図書館だ。

1972年の移転前の金沢美術工芸大学は,本多町の赤レンガの校舎であり,今は石川県立歴史博物館になっている。となりの石川県立美術館国立工芸館とともに,本多の森公園の一角をしめている。この赤レンガの校舎で写生大会があったような気がするが,それは妹達の写生大会の記憶が転移しただけかもしれない。


写真:赤レンガ校舎跡地(金沢美術工芸大学同窓会facebookから引用)

2021年7月12日月曜日

三島喜美代

 晩夏・小暑・蓮始開(はすはじめてひらく)

先週の日曜美術館で,大阪の十三に住んでいる三島喜美代が取り上げられていた。88歳という年齢を感じさせない意欲を持つパワフルなおばちゃんだった。日本語のWikipediaページはないが,英語版はあるので訳してみた。

三島喜美代(1932-)は、日本の現代美術家であり,新聞や漫画、箱などの「壊れやすい印刷物」を陶土で再現した作品で知られている。1960年代初頭に画家として活動を開始した三島は、1971年から陶芸を始めた。 この頃から,新聞や広告ポスターのイメージをシルクスクリーンの技法で粘土に刷り込むようになる。製造物を用いた作品は、クレス・オルデンバーグやアンディ・ウォーホルの作品、戦後の日本の具体や独逸美術協会の作品と類似している。

三島喜美代は1932年に大阪で生まれ,1951年に大阪の公立扇町高校を卒業した。1986/87年、ロックフェラー奨学金ACCの助成を受けてニューヨークに留学。現在は大阪に在住。

夫の三島茂司(1920-1985)も画家であり,二人展が最近開かれていた。岐阜県の土岐市のアトリエはほとんどゴミの集積場のようだ。

東京の倉庫街にあるART FACTORY城南島に展示されている陶器製の新聞の束は天井まで高く積み上げられて迷路になっている。また,1万個の新聞記事を印刷したレンガが敷き詰められる作品を見て,1つ3000円でも3千万円かと思ったが,市場価格は1つ30万円のオーダーだった。

この情報の化石は,ハードディスクや半導体と違って,長く残り続けるのかもしれない。


写真:三島喜美代 《作品 21-A》2021年
陶にシルクスクリーン印刷,鉄(婦人画報から引用)

2021年6月16日水曜日

辻村史朗

NHKのプロフェッショナル仕事の流儀で,「つくることが,生きること 陶芸家・辻村史朗」をやっていた。就寝の時間だったのでテレビを消して寝ようと思ったのだけれど,「奈良」というキーワードに引っかかって最後までみてしまった。

奈良の山奥(奈良市水間=みま)に自宅と窯があって陶芸を営んでいるが,自然の中で生活している夫婦の笑顔が素晴らしい。辻村史朗の略歴はこれが詳しい。京都のたち吉のウェブサイトにも紹介のショートムービーがある。

海外では高く評価されていて,Wikipediaの英語版はあるが,日本語版がない。細川護熙の陶芸の師匠であり,例年日本のデパートなどで個展を続けている。オンラインストアを覗いてみると,55万円とかだったのでちょっと手が出ません。


写真:陶塚となった水間の山(阪急百貨店から引用)

[1]陶芸家・辻村史朗さんからいただいた「宝物」(永松仁美)


2021年3月1日月曜日

松山智一

 NHKの日曜美術館「クラスター2020 ~NY美術家 松山智一の戦い~」で,松山智一が取り上げられていた。同じNHKのザ・ヒューマン「届けなければアートはゴミだ NY美術家 松山智一」の映像を多少編集したものがベースになっていた。ニューヨークのブルックリンで10名のスタッフを抱え,月700万円のオフィスを借りてスタジオを運営している。

中国人財閥美術コレクターの劉益謙・王薇夫妻が運営する上海の龍美術館西岸館で昨年の11月から今年の1月にかけて個展が開かれた。引き続き,龍美術館重慶館でも開催されるようだ。また,明治神宮の創建100年を記念する神宮の森芸術祝祭の屋外彫刻展に作品を出展している。

松山が2018年に東京のルミネで開いた個展「Same Same, Different」のインタビューじゃなくて,プロデューサーの橘康仁との公開対話で,自分の制作手法を美術のマッシュアップであると語っていた。1976年に岐阜の高山に生まれ,8歳から12歳をアメリカの西海岸で過ごし,大学は東京の上智大学経済学部を終えて,同時多発テロの2ヶ月後の2002年に26歳でニューヨークに渡たり,そこから商業デザインを学び始めた。それらの経験をもとに,日本の伝統文化や現代のポップカルチャーなど様々な引き出しを備えてそれをカラフルで精緻な彼の作品にマッシュアップしているのである。

頭に浮かんだのが「21世紀の若冲」だった。残念ながらこの言葉は初出ではなく,辻惟雄と山下裕二が2009年のユリイカ11月号の若冲特集で,「21世紀の若冲--書き換えられる日本美術史」という論文を書いていた。しかし,彼が描いたニューヨーク,ソーホーのバワリー壁画伊藤若冲の樹花鳥獣図屏風を連想させた。また,コロナ禍の中で10名のスタッフと仕上げた33枚の抽象画パネルは,抽象化された動植綵絵だった。

[1]コロナでニューヨークの5名のスタッフが帰国したMATSUYAMA STUDIOはスタッフを募集していた

[2]松山は東京のギャラリー KOTARO NUKAGAの所属アーティストにもなっている。

2020年11月5日木曜日

国立工芸館

2020年10月25日に国立工芸館(東京国立近代美術館工芸館)が,金沢市出羽町にオープンした。東京の千代田区北の丸公園にあった,旧・東京国立美術館工芸館が移転したものである。

旧館は,明治43年に陸軍技師・田村鎮(やすし)の設計により建てられた近衛師団司令部庁舎を美術館仕様に改修したものである。谷口吉郎(よしろう)が展示室の設計をして内部の改装を行い,1977年に東京国立近代美術館工芸館として開館した。

谷口吉郎(1904-1979)は金沢市出身であり,なにやら因縁めいたている。そういえば,寺町5丁目には谷口吉郎・吉生記念金沢建築館もあるのだった。愛知県の犬山にある明治村の創設に谷口吉郎が関わっている関係で,金沢建築館と明治村は交流協定を結んでいる


図:国立工芸館とその周辺(石川県のウェブサイトより引用)

2020年6月9日火曜日

佐藤オオキ

佐藤オオキデザインオフィス nendo を主催する日本のデザイナー。このあたりでは,天理市駅前広場のコフフンを設計したことで知られている。

問題は,彼が最近デザインしたローソンの食品のパッケージデザインである。それなりにすっきりと統一されてはいるものの,文字の視認性や商品の判別性など,ユニバーサルデザインの観点から批判が相次いでいる。そのあおりを受けてコフフンで事故が多発していた件もちょっとだけ再燃していた。コフフンの一施設の斜面の勾配が急で小児が骨折して危なかったというもの。利用する際には見張りがつくような運用変更があったような気もしたが最近はどうなっているのだろうか。

図:コフフンのイメージ

[1]ローソンPB新パッケージの「わかりにくすぎる」という問題(Wezzy)

2020年2月12日水曜日

木谷千種

日本経済新聞の朝刊文化面に,なにわの街角十選の七回目として,木谷千種(1895-1947)の浄瑠璃舟が載っていた。この絵は大阪中之島美術館蔵となっているが,どこかの美術展でみてすごいなあと会話していた気がする。この絵を拡大して読み解くと,浄瑠璃の演目は梅川,忠兵衛,孫右衛門の登場する傾城恋飛脚の新ノ口村の段であり,横にある床本は伽羅先代萩なのだそうだ。西瓜,まくわ瓜をつんだ物売り舟,浄瑠璃を聴く大店のいとさんなど,大阪の夏の雰囲気で満ちている。

木谷千種の略歴によれば,12歳で渡米しシアトルで2年洋画を学んでいるとのこと。帰国後には,大阪府立清水谷高等女学校に進んでいる。清水谷高校といえば,入口豊先生とか姪御さんの谷口真由美さんだが,そういえば,大教大の経営協議会委員や監事を務められた,元和歌山大学学長の小田章先生もいらっしゃった。そうそう,浄瑠璃繋がりでは,豊竹咲寿太夫も忘れてはいけない。

2020年1月8日水曜日

デザインあ

1月5日の午後から滋賀県守山市の琵琶湖大橋東岸のそばにある佐川美術館に家族で訪れた。曇った冬空でときどき雨がぱらつく寒い日だったが,子どもも楽しめる「デザインあ」展は親子連れでたいへん盛況だった。その趣旨はつぎのとおり。
こどもたちのデザインマインドを育む番組 NHK Eテレ「デザインあ」。本展は「デザインあ」のコンセプトを、体験の場に発展させた展覧会です。身のまわりに意識を向け(みる)、どのような問題があるかを探り出し(考える)、よりよい状況をうみだす(つくる)という一連の思考力と感性を「デザインマインド」ととらえ、多彩な映像表現をもちいて伝えてきました。デザインあ展は、この「デザインマインド」を、見て、体験できる展覧会です。 

 写真:佐川美術館のエントランス(2020.1.5撮影)