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2024年1月23日火曜日

藤岡作太郎

就寝中にトイレに行きたくなるとき,眠りが浅くなって夢を見る。いや,半分覚醒してまどろんでいる状態なので夢ではないのかもしれない。こうした夢と覚醒がシュレーディンガーの猫のようになって区別しにくい時間がしばしば訪れる。

昨晩のその時間は,「鈴木大拙」についての説明を誰かに一生懸命しようとしていた。ただ,名前が思い出せないのである。えーっと,金沢出身で,西田幾多郎と友達で,いるでしょう,禅の研究で(善の研究ではない)海外に名を馳せた,誰だったか,ほらあの(静かな水面のある落ち着いた記念館のイメージを想起しつつ),えーっと,三太郎とよばれていたから,本名は○太郎のはずだけれど,それではわからないし・・・

そうこうしているうちに目が覚めてトイレに行ったが名前の記憶はオフのまま。再び布団に潜ってもまだ思い出せない。そのまま眠りに入ると,明け方近くの夢の中でようやく思い出すことができた。あ,鈴木大拙だ!朝起きても思い出した量子状態は崩壊することなく維持されていた。


三太郎というのは誰だったろうかと,Wikipediaで鈴木大拙=貞太郎(1870-1966)を調べてみると「同郷の西田幾多郎(1870-1945)、藤岡作太郎(1870-1910)とは石川県専門学校( 1881- 第四高等中学校 1887-)以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された」とあった。

藤岡作太郎はどんな人かとさらに調べると,日本で最初の文学博士,国文学(国文学全史平安朝篇)の人だった。その長男が物理学者で物理教育学会の会長も務めた藤岡由夫(1903-1976),孫がレーザ工学の藤岡知夫(1935-2022),ひ孫がテレビでおなじみの指揮者の藤岡幸夫(1962-)だった。

藤岡作太郎の長女の綾が,長男の藤岡由夫の友人の中谷宇吉郎(1900-1962)と結婚しているが若くして亡くなっている。孫の藤岡知夫の妻は原子物理学の菊池正士(1902-1974)の長女であり,これをたどると箕作家(みつくりけ)を通じて初代阪大総長の長岡半太郎(1865-1950)までつながる。なお,長岡半太郎と本多光太郎(1870-1954)と鈴木梅太郎(1874-1943)は理研の三太郎だ。

2023年4月29日土曜日

ルリアード(1)

ルリアード(Ruliad)についてシンギュラリティサロン松田卓也先生が言及していたので,PerplextyのGPT-4モードに教えてもらった。数回の対話の結果(英文で4000字)から,GPT-4により日本語500字で翻訳要約させた。
ルリアードは、スティーブン・ウルフラムが提案した理論的概念で、計算可能な全てのもののもつれた限界を表しています。これは物理的な宇宙を含む究極の抽象化・一般化であり、従来の科学の境界を超える意味を持ちます。ルリアードの目的は、「なぜこの宇宙は存在するのか」という問いに答える可能性を持つ理論的概念として機能することです。
ルリアードは従来の科学分野の境界を超え、宇宙とその根底にある計算機的性質を理解するための統一された枠組みを提供します。数学と論理もルリアードに含まれており、メタ数学の対象とされています。多元宇宙論においても、ルリアードは必然的に存在するユニークな物体であり、別の宇宙に別のルリアードが存在することはありません。これは、ルリアード自体がすべての可能な宇宙をすでに含んでいるためです。
次に,ルリアードに関するウルフラムの原文(2021.11.10)を,ChatPDFに直接かけてみた。pdfファイルを読み込んで,GPT-4によって処理することができるシステムだ。200wordで要約を出させて,これをDeepLにかけた結果が次のものである。
このPDFファイルでは、計算可能なすべてのもののもつれ限界である「Ruliad」の概念について説明します。Ruliadは、すべての形式的な可能性と私たちの物理的な宇宙のすべてを包含しており、それは科学とそれ以外の分野で深い意味を持っています。著者は、技術的な詳細にとらわれることなく、ルリアードについて多くのことを学ぶことができると説明しますが、それでも完全に理解するには難しい数学と形式主義を必要とする複雑な構成物であることに変わりはありません。

ルリアードは、すべてのルリアル・マルチウェイ・システムの究極の限界であり、可能なすべての計算ルールを徐々に適用した結果、絡み合った結果をトレースするものです。著者は、「ルリアード」は、私たちの宇宙を根本的に理解するものであり、科学やそれ以外の分野に極めて深い示唆を与えると信じています。

Ruliadの技術的な詳細を明らかにするのはまだ初期段階ですが、この構成には多くの応用の可能性があります。例えば、気象パターンや金融市場のような複雑なシステムをよりよく理解するために使用できるかもしれません。このPDFファイルは、ルリアードの概念と、宇宙を理解するためのルリアードの潜在的な意味について、興味深い紹介をしています。

Mathematicaを作ったウルフラムらしい発想だけれど結局何がなんだかよくわからない。この世界(宇宙)にある法則全体の集合に名前をつけただけではないのか。法則として言語化・数学化(論理化)されていないものは含まれないのだろうか。計算可能でないものはだめかもしれないが,潜在的に計算可能なものは,可能になった段階ではじめてルリアードのメンバーになるのかな。

あるいは,ある現象が法則化されているかどうかはどうやって判定するのだろうか。観測者によって異なったルリアードは存在するのかなど,疑問はつきないけれど,どうやらプラトンのイデアのようなものが想定されているらしい。それを現代科学の言葉で修飾しただけなのかもしれない。あるいは科学的・数学的知識で確立されたもの全体の時間とともに増大する極限値といったところか。

2022年3月1日火曜日

丸山レクチャー

 統計力学の準備でエントロピーを検索していたら,Maruyama Lecturesの情報とエントロピー入門Part 1というコンテンツが網にかかってきた。内容は確かに面白そうで大部の講演資料もついていたけれど,ちょっと詰めが甘いというか,話題網羅主義でストーリーができていないような感じだった。

ただし,タイトルには自分の中2ごごろをくすぐる興味深いものが並んでいるではないか。ジャンル一覧は,エンタングルメント,エントロピー,量子論と量子コンピュータ,計算科学と複雑性,認識の理論,プログラムと論理,人工知能,言語理論というもので,最新のレクチャーは,「Bob Coeckeの “Picturing Quantum Processes”に依拠して、量子過程を図解する手法としてのString Diagramを学びます」なのだから。

いったいどこのおじさんがこれを作っているのかと調べてみると,丸山不二夫(1948-)さんだった。どこかで見たことがある名前だと思ったら,稚内北星学園大学の初代学長であり,たぶん黎明期のパソコン雑誌で連載を持っていたので知っていたのだと思う。それがちょっと見当たらない。

丸山さんの経歴によれば,東京大学教育学部の出身で,一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了,指導教官は岩崎允胤となっている。岩崎さんはマルクス主義哲学の御大であり,「現代自然科学と唯物弁証法」は大学生のときの必読書(ホント?)だった。それがMaruLaboのマルレクにつながっていると考えればなんと納得が行く話だ。


写真:圏論的量子力学の書影(Amazonから引用)


2022年2月5日土曜日

反知性主義(1)

Wikipediaによれば,反知性主義とは 1950年代にアメリカ合衆国で登場した概念であり,知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる主義・思想とされていた。1963年のホフスタッターの「アメリカの反知性主義」が代表的な文献とされているが,この日本語訳が出たのは,40年後の2003年になってからである。

安倍晋三や麻生太郎や菅義偉の発言や政策を巡って,あるいは橋下徹を筆頭とする日本維新の会やその支持者達に対して,反知性主義だという分析がされてきた。ところが,Wikipediaではむしろその対抗言論として,日本における(反知性主義の)誤用・乱用の指摘がやけに強調されていた。

録画してあった,ベトナム戦争後の1970年代のカンボジアを描いたドゥニ・ドゥ監督のアニメーション「FUNAN」をみて,クメール・ルージュ(オンカー)の酷薄さを改めて印象づけられた。カンボジア大虐殺では,100万人以上の知識人・専門家が都市から追放されて虐殺されたが,反知性主義の行き着く先はここにある。

[1]反知性主義とアメリカン・デモクラシー(清水晋作)

[2]公共圏への回路と新たな秩序問題(長谷川公一)

2021年8月25日水曜日

LeftValues

 「LeftValuesとは、8valuesから着想を得た,左派・左翼向け政治診断です。左派のなかでも,あなたがどのような価値観をもっているのか診断します。 右寄りの方は正しい結果が得られませんので,ご注意ください」なので,早速試してみよう。

ちなみに,8valuesは日本語化されていないのに,LeftValuesは各国語対応になっている。72問あり,{つよく同意する,同意する,どちらでもない/わからない,同意しない,全く同意しない}の5択となっている。

診断結果は次の7主軸で分析される。自分の結果を括弧内に示す。

革命 vs. 改革 (中立:48.5%-51.5%)

「革命」のスコアが高い方は、大衆の反乱を通じた、より劇的で急進的な資本主義体制の転覆を支持する傾向にあります。「改革」のスコアが高い方は、自由民主制など、資本主義の枠組みの中で段階的に変化を導入することで社会主義に到達することを好む傾向にあります。

科学 vs. 空想 (科学主義寄り:62.5%-37.5%)

「科学」のスコアが高い方は、弁証法的唯物論に沿ったマルクス主義的な社会分析を支持ないしはこれに賛同する傾向があります。「空想」のスコアが高い方は、理想主義に基づいた社会の分析を信じ、唯物論的なアプローチを否定する傾向があります。

集権 vs. 分権 (かなり分権派:20.0%-80.0%)

「集権」のスコアが高い方は、非常に強い権力をもった国が統制し、計画して運営する経済を支持する傾向が強いです。「分権」のスコアが高い方は、通常より局所的な単位で計画される、分権化した経済体制を支持する傾向にあります。

国際主義 vs. 一国主義 (中立:50.0%-50.0%)

「国際主義」のスコアが高い方は、国際社会主義運動の実現に賛同する傾向にあります。多くの場合、最終的に国境の廃止を求めることも多いです。一方、「一国主義」寄りの方は、既存の国境内において社会主義を実現することを優先し、社会主義共和政体の形成には否定的な態度を取る傾向にあります。

政党 vs. 組合 (中立:42.3%-57.7%)

「政党」のスコアが高い方は、政党を基盤に用いた社会主義運動を求める傾向にあります。「組合」のスコアが高い方は、労働組合やその他の大衆による組織を基盤に用いることを好む傾向にあります。ただし、政党に賛成であることは、必ずしも組合による運動に対して否定的であることを意味しません。逆もしかりです。あなたがどちらを好む傾向にあるかをこの軸は示しています。

産業vs.自然 (中立:51.4%-48.6%)

「産業」のスコアがより高い方は、環境保護よりも生産性や自給自足を優先する傾向にあります。「自然」のスコアがより高い方は、自然保護のための規制を積極的に行う、環境志向の経済を支持する傾向にあります。

保守 vs. 進歩 (革新派:35.3%-64.7%)

「保守」のスコアがより高い方は、保守的な政策や価値観を好む傾向にあります。一方、「進歩」のスコアが高い方は、社会を革新させようとする政策や価値観を支持する傾向にあります。

で,まとめると「中道マルクス主義」という結果だ。

中道マルクス主義(Centrist Marxism)は社会と経済についてマルクス主義的見解を採用する一方で、革命と改革主義については中立的立場を取る、マルクス主義の一形態です。 中道マルクス主義者の多くは、他のマルクス主義者よりナショナリズム寄りの立場を取ることもあります。

なお,市場無政府主義: 96.7%,左翼ナショナリズム: 94.7%,無政府共産主義: 93.5%と,距離が近い。また,エコ・マルクス主義: 42.6%,左派共産主義: 40.6%,空想的社会主義: 35.1%,マルクス・レーニン主義: 0% とは距離が遠い。マルクスの「共産党宣言」とかエンゲルスの「空想から科学へ(高校の時に本屋でみつけてSFの入門書かと思っていたが,どうも目次がそれらしくなくて焦った奴だ)」の入門書程度の予備知識は必要かもしれない。

2021年7月13日火曜日

知の巨人

先日,立花隆(1940-2021)がなくなったときに, NHKをはじめてとしてマスコミが一斉に知の巨人というフレーズで紹介していたのが気持ち悪くて仕方なかった。たぶん田中角栄からはじまる政治・社会問題で名を上げた後に,科学の領域の評論に手を広げたことで,文系のジャーナリストたちが一目置いた的なことが発端のような気がする。あほらしい。

立花隆は,たしかにジャーナリストの嗅覚を働かせて様々な分野に興味を持ったのだけど,あくまでも表層をなぞっていただけとみえる。著書やNHK特集のタイトルとあらすじをみているとわかる。そもそも田中角栄の案件でさえ,アメリカの日本に対する謀略の中の一つの役割を担ったものであり,それが日本にとってよかったのかどうだか。

それでは,知の巨人にふさわしいのは誰かと考えてみたが,原子爆弾や電子計算機の開発や数学・量子力学の基礎論に重要な寄与をしたジョン・フォン・ノイマン(1903-1957)くらいであまり思い浮かばなかった。たまたま,田中康夫の横浜市長選挙出馬にかかわって茂木健一郎が話しているのをきいて,哲学者・論理学者・数学者・社会批評家・政治活動家のバートランド・ラッセル(1872-1970)を忘れていたことに気づいた。

高等学校では理数科だったため,社会の時間は少なくて,1年地理,2年世界史,3年倫理という選択をした。3年のときの倫理の先生は眼鏡の細川先生だった。1971年なのでちょうどバートランド・ラッセルが亡くなったところだったが,授業に分厚い箱入りのみすず書房の西洋哲学史市井三郎(1922-1989)訳の本を持ってきていて,なんだかすごいと感動したことがある。

細川先生は,学校を抜け出してとなりの食堂から帰ってきた生徒たちを発見しても,そのまま沈黙して通過させてしまうようなことで,寡黙で特徴のない方だったが,倫理の授業というか教科書は非常におもしろくて,現代国語の次に集中して受講した科目だった。


写真:バートランド・ラッセル(ノーベル文学賞のページから引用)

[1]Bertrand Russel(Stanford Encyclopedia of Philosophy)

2021年3月8日月曜日

因果と相関(2)

因果と相関(1)からの続き

 2つの時間的な事象A(過去)と事象B(未来)があって,AがBの原因であるといえるのはどのような場合だろうか。また,AとBに相関があるというのはどうやって判定できるのか。

「事象」が正確に定義されたものとして,特殊相対性理論では4次元時空(ミンコフスキー空間)上の世界点のことであり,確率論では標本空間上の1つの要素のことである。

一般に「事象」とは,観察しうる形をとって現れる事柄,出来事のことである。事象が生起する時点とは,事象を担う系の状態が変化した時点とし,そこでのこの系の状態変化が事象に対応すると考える

事象Aと事象Bの連関(相関や因果があるとかないとか)についていう場合,(1) 2つの事象が同じ系で生起する,(2) 2つの事象はある系とその部分系で生起する,(3) 2つの事象が独立した系で生起する,の3つの場合に分類される。

事象についての物理的な制約の1つが特殊相対性理論の制約である。事象Aと事象Bが因果関係であるためには,2つの事象に対応する4次元時空の世界点を結ぶ4元ベクトルが時間的であることが必要だ。

この世界のすべての事象は一回性のものであると仮定する。その孤立した事象が他に類似な事象を持たない場合に,相関や因果を議論できるだろうか。

変化に着目している状態以外の情報を捨象した類似事象の集合を考える。この事象群について,事象群{A}と呼ばれる状態変化に対して常に事象群{B}とよばれる事象変化が対応するとき,これは相関関係とよべるか。


2021年3月7日日曜日

因果と相関(1)

日経朝刊の科学欄で,コロナ政策の意思決定に関わる記事で,次のような解説コラムがあった。

因果関係と相関関係  人の行動は読めず

 事象Aと事象Bの間に原因と結果のつながりがある関係を因果関係と呼ぶ。これに対し,相関関係は一方が変化すると,もう一方も変化する関係のことを指す。Aの値が大きくなるにつれBの値も大きくなる場合が「正の相関」,逆にBの値が小さくなる場合が「負の相関」とする。因果関係があれば相関関係もあるが,その反対は必ずしも成り立つわけではない。

 科学の世界では主に観察によって相関関係を導き出し,その後,仮説と実験による立証を繰り返して因果関係を突き止めていく。ただ,経済にしろ,コロナ対策にしろ,人の行動によっても結果が左右される事象について,因果関係を割り出すのは困難とされる。

因果関係は,昨日の決定論にも関わる重要キーワードだが,最近ずっと引っかかっている。 谷村さんは,相対論的な因果律を除いてあっさりと物理における因果関係を放棄した。因果関係というのは人間の作る物語に過ぎない。それはそれでほとんど同意できるのだが,まだ言語化はできていない何かが残っている。

物理学において因果関係を使う説明がどこまで許容されるのかという問題は,物理教育学会の変位電流をめぐる議論でも未解決のまま残っている。また,コロナ感染症の抑制や少人数学級制導入の効果に関する政策的選択肢の問題など,常に因果と相関の話がついてまわる。その道の人々は統計的因果推論で解決しているというのかもしれないが,まだ自分では理解できていない。

 

2021年3月6日土曜日

2つの決定論

シンギュラリティサロン@SpringXの,哲学の決定論 vs 物理学の決定論:機械は自由意志を持てるか?をYouTube Liveで視聴した。法政大学の木島泰三さんと名古屋大学の谷村省吾さんが,哲学と物理学の立場から決定論や自由意志の問題について,それぞれの考えを述べていた。ふたりとも非常にわかりやすいプレゼンテーションをしていて,ただ,木島さんの「自由意志の向こう側:決定論をめぐる哲学史」の紹介は,こちらの処理能力不足で完全にフォローはできなかったのが残念だった。

谷村さんの主張は明快で,物理学における因果という表現を非常に抑制的に使うべきだという主張であり,これはよくわかった。ただ,木島さんの哲学的な決定論や非決定論との関係については十分噛み合った議論はできなかったのかもしれない。

2021年2月19日金曜日

認識論的解釈

 量子力学の認識論解釈という言葉をはじめて見たのは,東北大学の堀田昌寛さんの「量子力学と時空の物理」だった。堀田さんはこの言葉は,現代的なコペンハーゲン解釈と同じだと言っているので,何か新しいことが付け加わったわけではないはずなのだけれど,どうしても認識論的解釈というワードは自分の腑に落ちてこない。

キーワードを "量子力学" "認識論的解釈" としてグーグル検索してみると,19件しか見つからず,その大半は堀田さんと科学哲学の人々なので,これが標準的な用語として普及するには至っていないのだと思う。

英語で,"quantum mechanics" "epistemic interpretation" とすると,4,430件であり,これを "Copenhagen interpretation" にすると 180,000件となる。"Many worlds interprttation" では,132,000件だった。まだ,"epistemic interpretation" は完全な市民権を獲得していないのかもしれない。なお,この "epistemic interpretation" が堀田さんの説明のように,現代的コペンハーゲン解釈と等置できるのかどうかわよくわからない。

例えば,I. A. Helland の "An epistemic interpretation and foundation of quantum theory" (arXiv:1905.06592)の概要は,次のようなことになっている。

量子力学の解釈問題は,アインシュタインとボーアの論争が始まってこのかたずっと議論されてきた。この論文では,統計的推論の理論のアイディアを使う量子論の新しい基礎の提案について述べている。このアプローチは直感的な基盤を持つといえる。すなわち,物理系の量子状態は,ある条件のもとで,次のものと1対1対応する。自然に対する具体的な質問及びこの質問にはっきりした答えを与えること。この基礎は観測者に依存する認識論的な解釈を意味するが,すべての観測者がある変数の観測結果について一致すれば客観的な世界が回復される。この論文は,認識論的過程についての著者の本の一部のサーベイを含み,同時に,その本の議論の一部の議論をより厳密化している。量子力学の解釈問題をさらに発展させるには,関心のある物理学者の協力が必要だ。


2019年11月16日土曜日

米山保三郎

日経朝刊の連載小説が伊集院静の道草先生だ。最初はフォローしていなかったが,漱石の話だったことに気づき時々読んでいる。夏目金之助(1867-1916)の大学予備門(第一高等中学校)での友人として金沢出身の米山保三郎(1869-1897)がでてきた。金沢といえば宇ノ気町出身の西田幾多郎(1870-1945)も同時代の空気を吸っている。

米山保三郎については,Yahoo!知恵袋に北國・富山新聞の情報として,生没年と生誕地が野町2丁目であること,父が加賀藩の算用侍であったことなどが記されていた。東京帝大の哲学科で学び,かなりの秀才だったようだ。「吾輩は猫である」では米山をモデルとした天然居士=曾呂崎が登場している。米山は実際に天然居士という号を持っている。米山の助言によって金之助=漱石が建築ではなく文学を目指すことになった。
まだ子供のとき,財産がなかったので,一人で食わなければならないという事は知っていました。忙がしくなく時間づくめでなくて飯が食えるという事について非常に考えました。しかし立派な技術を持ってさえいれば,変人でも頑固でも人が頼むだろうと思いました。佐々木東洋という医者があります。この医者が大へんな変人で,患者をまるで玩具か人形のように扱う,愛嬌のない人です。それではやらないかといえば不思議なほどはやって,門前市をなす有様です。あんな無愛想な人があれだけはやるのはやはり技術があるからだと思いました。それだから建築家になったら,私も門前市をなすだろうと思いました。丁度ちょうどそれは高等学校時分の事で,親友に米山保三郎という人があって,この人は夭折しましたが,この人が私に説諭しました。セント・ポールズのような家は我国にははやらない。下らない家を建てるより文学者になれといいました。当人が文学者になれといったのはよほどの自信があったからでしょう。私はそれで建築家になる事をふっつり思い止まりました。私の考は金をとって,門前市をなして,頑固で,変人で,というのでしたけれども,米山は私よりは大変えらいような気がした。二人くらべると私が如何にも小ぽけなように思われたので,今までの考をやめてしまったのです。そして文学者になりました。(夏目漱石「無題」,大正三年一月十七日東京高等工業学校において
[1]落第(夏目漱石,青空文庫)
[2]無題(夏目漱石,青空文庫)
[3]処女作追懐談(夏目漱石,青空文庫)
[4]明治二十四,五年頃の東京文科大学選科(西田幾多郎,青空文庫)
[5]漱石と自分(狩野亨吉,青空文庫)
[6]吾輩は猫である(夏目漱石,青空文庫)
[7]漱石の悼む大怪物(かわうそ亭)
[8]漱石とメリメ : 『吾輩は猫である』における『カルメン』の水浴(高木雅恵)
[9]漱石覚え書補篇(柴田宵曲)


(写真:夏目漱石と米山保三郎,熊本市広報記事「漱石とくまもと」より引用)




2019年11月14日木曜日

哲学 v.s. 物理学

勁草書房の〈現在〉という謎:時間の空間化批判(森田邦久編著)における哲学者と物理学者の論争は,場外にまで発展した。

第4章 客観的現在と心身相関の同時性[青山拓央
 コメント:哲学者に考えてもらいたいこと[谷村省吾
 リプライ:まず問いの共有を[青山拓央]

第5章 時間に「始まり」はあるか――哲学的探究[森田邦久
 コメント:物理学者が哲学者の時間論を読むとこうなる[谷村省吾]
 リプライ:哲学者も物理学を無視しない――形而上学と物理学の関係性[森田邦久]

これを受けて,名古屋大学の谷村省吾は,『〈現在〉という謎』をめぐる議論 のページで,『一物理学者が観た哲学』 2019年11月6日公開 PDFファイル 総ページ数 110
(書籍『〈現在〉という謎―時間の空間化批判』への補足ノート 増補版)を書いた。

かなり刺激的に哲学者(青山拓央)に喧嘩を売っている。谷村の論点はほぼ理解できる。しかし,谷村と同様に自分にも哲学者の方の言い分はよくわからない。これまでに何冊も科学哲学の本を読んでいるが,哲学者の基本用語がほとんど〈それ〉として理解できないままだ。どうしたものだろうか。

[1]物理学者と哲学者は「時間」を語ってどうすれ違うのか。(重ね描き日記)
[2]哲学者は物理学者の本気の拳をどう受け止めるか…谷村省吾「一物理学者が観た哲学」を読んで(丸山隆一 note)

2019年7月27日土曜日

安富歩さん

たぶん,2011年の東日本大震災の福島第一原子力発電所の事故がきっかけである。これを巡ってウェブで戦わされた議論の中に,2012年当時のヒゲ面の安富歩さんが語っているものがあった。共鳴した自分はさっそく「原発危機と東大話法−傍観者の論理・欺瞞の言語−(明石書店)」を買った。今日までページを開かずに大切に保存していた。

その後,山本太郎のれいわ新選組から第25回参議院議員選挙の比例区候補として立候補し,馬をつれて演説を重ねた。その一部をYouTubeで耳にしたが,彼の文章と同様に,たいへんわかりやすく納得できるものであった。

Wikipediaによれば,安富歩さんは,京大の経済出身だが,住友銀行をやめて大学院に入り,今は東京大学の東洋文化研究所の教授である。研究分野は非常に多様性に飛んでいて,複雑性にからむ経済物理学の論文(貨幣の生成と消滅について等)も数編ある。10年近く,非線形科学の研究をしていたのことだ。

[1]安富歩:純セレブスピーカーから見える新しい経済世界〜イノベーションとマネジメント〜(2019年4月,浩志会4月度定例講演録)
[2]安富歩:堺市役所前の演説(2019年7月19日,バイオリン:田崎健,キーボード:片岡祐介)

原発危機と「東大話法」:安富歩 に続く)

2019年6月25日火曜日

知識の定義

道徳教育(3)」で,いくつかの概念のオレオレ定義を考えた。村井実は特に道徳の「知識」の重要性を指摘した。その「知識の定義」を書き下そうとすると,これが思いのほか難物なのだった。他の概念も負けず劣らず難しいはずなのだが,比較的簡単に思い切ることができた。しかし,「知識」はそうはいかなかった。「科学」を定義したのだけれど,その中の登場する「知識」はブラックボックスのままであった。

例えば,精選日本国語大辞典には,
「(英 knowledge ドイツ Wissen の訳語)哲学で,認識活動によって得られ,客観的に確証された成果。広義には,諸事物について経験によって得られた断片的な事実認識もすべて含むが,狭義には,これらの事実認識を統一的に組織付け,普遍的な妥当性を要求できるように整えられた命題の体系」
とある。なかなかいいですね。

なるべく簡潔に表現したくて,次のように考えたところで挫折した。
知識の定義
 対象や事象に関して認識された情報から抽出されたもので,他の知識との関係の中に位置づけて理解や伝達を可能にしたもの
知識の中で知識が再帰定義されている。いずれにせよ,いまひとつなのだ。知識工学という分野もあるので,その方面で何かヒントがないか探してみるのだが,簡単には見つからない。やはり,科学哲学や認識論でどう扱われているかを勉強すべきなのか・・・続く。

[1]哲学概論−知識について(西脇与作)
[2]知識の哲学(戸田山和久)−コメント(伊勢田哲治)
[3]「知識」についての考え方のイメージ(たたき台)(文部科学省)・・・orz
[4]「思考力の分類学」と「知識」(反転授業研究会)