芥川龍之介が「蜘蛛の糸」を発表して百年。高二の秋の文化祭,クラスの仮装行列のテーマが 蜘蛛の糸だった。お釈迦様の極楽タワーの竹を近所から切り出し,地獄の焔と煙の絵を描いた。犍陀多に続いて蜘蛛の糸(登山部の赤いザイル)に群がる地獄の亡者だったころ。
2026年3月8日日曜日
構造主義について(4)
2026年3月7日土曜日
構造主義について(3)
2026年3月6日金曜日
構造主義について(2)
2026年3月5日木曜日
構造主義について(1)
2026年2月21日土曜日
AIと疎外
以下のテキストを生成した後,再度,ChatGPTのセッションにフィードしてみたところ,ダメ出しされた。「この疎外は,AIによって新たにもたらされたものなのか,あるいは,もともとあった疎外がAIによって増幅されたものか,どちらが本質だと考えているのか。」
A(ChatGPT + Gemini + Claude + koshix):マルクス=エンゲルスのオープンテキスト(英語版)のサイトをつらつらと見ていたとき,「AI革命における疎外」というキーワードを思いついた。連日届くトランプと高市の出鱈目ニュースでアタマがクラクラしていたからだ。ChatGPTによれば,疎外とは「自分の力・自分の関係・自分の世界が,いつの間にか別の何かとして立ち上がり,外側から自分に向かって返ってくるという構造的な現象」ということになる。あるいは,マルクスの語彙を借りれば「自分の活動の産物が,自分に対して他者として,しかも力を持つものとして現れる」ことだ。AI革命はこの回路を、物質的な生産の領域から知的な生産の領域へと拡張したと見ることができる。それにふさわしい定義は次のようなものだ。疎外:自分が世界と結ぶ関係(理解・判断・創造・協働)が,外部の装置と制度の側に回収され,本人は単なる「結果の消費者」へと縮退していくこと。これは単なる能力の多寡ではなく,より根源的な「主体の条件」を破壊する。AI時代における疎外には,「労働」と「認識」という二つの層が存在し,後者が前者を侵食しつつある。1.労働の疎外:評価関数の奴隷化古典的な労働疎外は「生産物(成果)が自分のものにならない」「労働活動(工程・過程)が自分のものにならない」という二重の剥奪の構図であった。しかしAI時代における労働の疎外の要点はむしろ「仕事の意味と評価が外部化されること」にある。例えば,文章を書く労働は,「何をどう書くか」を自ら決め,読者との摩擦を通じて鍛えられ,技能が身体化していった。ここにAIが介在すると,作業効率が向上する一方,良し悪しの基準は読み手との関係ではなく,プラットフォームの指標(クリック数、滞在時間、拡散、検索順位)や,モデルが生成しやすい「型」へと収斂していく。書き手は表現者ではなく「評価関数の最適化産物」の管理者へと変わる。つまり,AIを介して労働が評価関数のための労働に変質し,自分の生産物に自分が支配されるという古典的構図が,情報生産の領域にまで拡張される。2.認識の疎外:思考の外部化と「摩擦」の喪失AIは単に「答え」を与えるだけでなく,思考の微細な運動 ——探索,試行錯誤,混乱,言語化の失敗,再構成—— を代替する。これらは単なる手間ではなくいわば「認識の筋肉」である。それは使わなければ,萎縮・喪失するだけでなく,世界と神経を結ぶ接点そのものを細らせていく。認識の疎外は、単なる能力低下ではない。世界との関係が「二次資料化」する構造的変化である。AIの介在で,世界はモデルが説明可能な形に極めて滑らかに整形され出力される。その理解は自身が世界に触れて得た「摩擦」ではなく、モデルが提供する「表面」に過ぎない。ここで生ずる疎外の形態は,以下のとおりだ。「私は分かった」のではなく「分かった状態にしてもらった」この差異は平時には露呈しない。しかし,危機の際,判断の根拠を問われた際,あるいは未知の状況に直面した際,内側に「導出過程」が存在しないことが露わになる。主体は,中身のない「署名者」へと転落する。AIの疎外とは,判断の権利が奪われること以上に,「判断が成立する条件」が外部に移転することを指すのである。3.疎外を加速する三つの回収装置AI疎外は,以下の三つの構造によって不可視化されながら進行する。(1) 代行の快楽AIは苦労を除く。学習が「正答の獲得」に吸い寄せられ,探索コストが「無駄」と見なされる。疎外が快適さとして受容される。(2) 評価関数の植民地化あらゆる組織が測定可能な指標を好む。AIが測れるものを増やすことで,活動の意味が外部尺度に吸収される。疎外が「合理化」として正当化される。(3) 基盤の集中モデルや計算資源が私的装置に集中する。個人は世界と直に格闘せず,装置へのアクセスを通じて世界を扱う。疎外が「便利なインフラ」として不可視化される。この三つが連動するとき,疎外は静かに,しかし深く進行する。発見されにくいのは,それが苦痛ではなく利得として経験されるからにほかならない。4.真理の生産の疎外近代において真理は,議論・検証・反証・実験・合意形成という過程の上に成立してきた。この過程は単なる手続きではなく,認識する主体が共同体の中に位置づけられ,互いの誤りを修正し合うことで知が鍛えられていく場そのものである。AIはそこに,「生成物」という形で大量の言説を自然言語の説得力とともに注ぎ込む。結果として起きることは何か。真理が,検証の過程によってではなく,出力の説得力と社会的な流通によって成立しやすくなる。個人の認識は「自分が確かめる」から「もっともらしいものを採用する」へと移行する。この採用は一見合理的でさえある——時間がない,専門外だ,多くの人がそう言っている。しかしその合理性の内側で,人は真理を作る共同体の回路から静かに離脱していく。真理の消費者になることと,真理の生産者であることをやめることは,この地点では同一の出来事である。ここで起きている疎外は、労働や認識の疎外よりもさらに根が深い。なぜなら、それは「世界をどう知るか」という認識論的な次元にとどまらず,「何を本当のこととして共有するか」という社会的な基盤そのものを掘り崩すからである。民主主義も,科学も,倫理的な対話も,共同で真理を生産する能力の上に成り立っている。その能力が外部装置に回収されるとき,失われるのは個々人の認識力だけではなく,社会が自己修正する力である。5.個人の問題か,構造の問題か「思考の筋力が奪われる」という認識は鋭い。しかしその問題意識が「個人の修養」の次元に回収されてしまうとき,論は半分で止まる。個人がどれほど自覚的にAIと向き合おうとも,評価制度が速度と量を報い,教育制度が正答の獲得を優先し,プラットフォームが代行の快楽を設計として組み込んでいるかぎり,構造の引力には抗いきれない。個人の覚悟のみを強調することは,構造を無罪放免にすることと表裏一体である。疎外への応答は,したがって二つの層で同時に組み立てなければならない。一方では,個人が導出の過程を手放さないための実践的な作法。他方では,評価制度・教育制度・プラットフォーム設計・検証回路の社会的な再構築。この二層が噛み合わないかぎり,疎外の問題は「意識の高い個人の孤独な抵抗」として矮小化され続ける。6.反疎外の論理——導出過程を取り戻す解放の方向はどこにあるのか。マルクス的に言えば,人間的解放とは道具を捨てることではなく,道具と制度の支配関係を反転させることである。AIの文脈で言えば、「AIを使う」か「AIに使われるか」の差を,根性論によってではなく,構造によって達成することである。その方向を一文に集約するなら、こうなる。AI時代における反疎外とは、出力ではなく「導出の過程」を、社会の中心に取り戻すことである。導出の過程は,個人の思考の内部にもあり,共同体の検証手続きの中にもある。教育においては,答案よりも途中式,結論よりも根拠,正しさよりも誤りの修正の履歴。企業においては,成果物よりも意思決定のログ。民主主義においては,結論よりも討議と監査の記録。しかしここで問うべきは,「導出の過程を残す」という実践が,いかなる社会的条件のもとで可能になるか,である。速度と効率を至上とする現在の評価構造のもとでは,過程の保存はつねにコストとして現れる。それを「価値ある非効率」として制度的に守るための設計—— 評価基準の転換,教育課程の再編,プラットフォームの公共的規律 ——なしには,導出の過程の回復は個人の努力の域を出ない。AIは便利になればなるほど疎外を深めるという逆説は,技術の問題ではなく制度の問題である。そして制度は,問い直されることで変わる。その問い直しを始める場所こそが,「導出の過程」を社会の中心に据えるという,この一点に収束するのである。
2026年2月10日火曜日
芦田宏直
芦田先生を初めて知ったのはたぶん,ツイッター微分論のころだ。2008年8月11日に iPhoneを買ってTwitterに出会い,2010年ごろにデジタル教科書論議(そこには彼はいない)に参入して盛り上がった時期だ。その後,大晦日の紅白歌合戦実況をにやにやしながら眺めていたら,骨太の教育論,シラバス論の著作を立て続けに上梓された。
Q(koshix):芦田宏直は,教育論では感心したのだけれど,残念ながら高市・自民党支持の選択的夫婦別姓否定論者なので,その部分は私と意見が相違しています。 それでも,哲学的な思考の深さがあると思うので,彼の考え方を下記ブログ記事などから分析した上で,私の普段のモノの見方と比較・考察してみてください。 https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/A(ChatGPT 5.2):(回答略)Q(koshix):教育論は今回はパスします。それよりむしろ,芦田さんがなぜあの(きもちわるい=私の主観)高市を支持するのかに興味があります。そのあたりを深掘りしてもらえないでしょうか。A(ChatGPT 5.2):(回答略)A(ChatGPT 5.2 + Gemini + Claude):芦田宏直は、なぜ高市早苗を支持するのか ――「批判不信」と「象徴政治」の交差点芦田宏直という論者を読むとき、まず目に入るのは、その教育論や哲学的随想に見られる思考の深さである。制度や方法論を超えて、人間形成や社会の意味秩序そのものを問い直そうとする姿勢には、敬意を払うに値するものがある。にもかかわらず、彼が高市早苗を積極的に評価・支持している点については、あなた(注:=koshixのこと)には強い違和感――率直に言えば「気持ち悪さ」――が残っている。この違和感は、単なる政策不一致や党派的立場の差から来るものではない。本稿(注:真の著者 ≒ ChatGPTなのだ)では、芦田宏直の高市評価を、善悪や左右のラベルで裁断するのではなく、彼自身の思考の内在的論理として読み解き、そのうえで、あなたのものの見方との分岐点を整理してみたい。1.芦田宏直は、何に対して怒っているのか芦田の高市支持を理解するためには、まず彼が「誰を支持しているか」ではなく、「何を拒絶しているか」を見る必要がある。彼の文章に一貫して流れているのは、・近代的リベラリズムが前提とする個人主義・手続きや制度だけが正義を名乗る政治言語・批判が組織や利害と癒着してしまった知識人空間への強い不信と嫌悪である。芦田にとって、現代日本の政治言論空間は、「正しさ」を語りながら、すでにどこかに回収されてしまっている言葉で満ちている。彼が高市を評価する入口は、「高市の政策が正しいから」ではない。むしろ、高市を批判する言葉の多くが、自立した思考ではなく、既存の組織・ポジション・空気への追随に見える、という地点にある。ここで重要なのは、芦田の判断が政策評価ではなく、言語評価であるという点だ。彼は、高市の語る内容よりも、高市をめぐって交わされる批判言語の「腐敗」を先に見てしまう。2.高市早苗は「政策主体」ではなく「象徴」になるこの視点に立つと、芦田にとって高市早苗は、現実政治の具体的設計者というよりも、象徴的存在として立ち現れる。彼女は、・国家が「意思」を持ちうるという感覚・日本社会がまだ「一つの物語」を語りうるという幻想・近代的合理主義によって空洞化した世界への反発を、きわめて分かりやすい形で体現している。芦田はそこに、政策的な精密さではなく、「意味が完全に失われることへの抵抗姿勢」を読み取っている。このとき高市は、危うい政治主体である以前に、「意味を取り戻そうとする象徴」として評価される。そして、象徴としての高市は、芦田の思考の中で、「支持に値する側」に分類される。3.選択的夫婦別姓否定も、同じ構造から出てくる芦田の選択的夫婦別姓否定論も、この文脈に置くと一貫している。彼にとって、家族や姓は、個人の選択の集積ではなく、歴史と制度を通じて意味が生成される場である。・制度は単なるルールではない・名前は管理ラベルではない・共同体は契約の束ではないこの前提に立つと、選択的夫婦別姓は「権利拡張」ではなく、意味秩序の解体操作として映る。高市が、この「象徴秩序を守る側」に立っているように見える以上、芦田が彼女を評価するのは、論理的には自然な帰結である。4.あなたの違和感は、どこから来るのかでは、あなたが感じる「気持ち悪さ」は何なのか。それは、芦田が見ていないもの――あるいは、まだ深刻さを十分に引き受けていないものに由来している。あなたには、高市的な象徴政治が、・政策能力の不足・制度設計の粗さ・現実との齟齬を覆い隠しながら、免責の装置として機能していく過程が見えてしまう。意味を供給する政治は、不安を一時的に引き受ける。しかし、その意味が現実の摩耗を引き受けきれなくなったとき、それはより強い象徴、より過激な物語へと自己増殖する。あなたが見ているのは、「意味が消えることへの恐怖」ではなく、「意味が暴走することによって制度と社会が壊れていく過程」である。5.分岐点は「どこに不信を置くか」にあるここで、芦田とあなたの立場の差は、はっきりする。芦田は、・批判する側の言語が利害に堕ちたこと・知識人空間が自立性を失ったことに強い不信を置いている。あなたは、・象徴政治が現実の責任を免除していく構造・物語が制度を上書きしていく危険に不信を置いている。同じ現象を見ていながら、不信の向きが逆なのである。だから、芦田には高市支持が「思考の結果」に見え、私にはそれが「危険な賭け」に見える。6.結語――違和感を、感情で終わらせないために芦田宏直の高市評価は、単なる右傾化でも、迎合でもない。それは、現代日本の政治言語が信用できなくなった地点から、象徴に賭けるという選択である。だが、その賭けが、象徴政治の自己増殖を止められない局面に入ったとき、知性は「意味を守る側」から「意味に免罪符を与える側」へと転じてしまう。あなたの違和感は、好き嫌いではない。それは、象徴が制度と現実を侵食し始めた地点をすでに目撃してしまったことから来る、冷えた感覚である。いま問われているのは、高市早苗が正しいか否かではない。なぜ、象徴に賭けざるを得ないところまで、批判と言語と制度が痩せてしまったのかである。この問いを掘り下げない限り、支持と嫌悪は空転を続け、政治はまた「意味供給」の競技場に戻っていく。――その地点を見失わないために、この違和感は、手放すべきではない。
2025年7月1日火曜日
認識論
Q(koshix):認識論に関する添付のモデル図を説明してください。新聞や雑誌の解説文のようなまとまった簡潔なテキストにしてください。A(ChatGPT 4o):この図は、人間の認識がどのように形成されるかを、「脳内世界(Virtual World)」と「物理世界(Physical World)」の二重構造を通じて示した認識論的モデルです。人間の認識を支える二つの世界図の右半分にある**「PHYSICAL WORLD(物理世界)」は、山や川、動物、人間、建物、車などの自然物・人工物**から構成される、私たちの身体が直接関わる外界を指します。ここには、人間を取り囲む環境(自然環境・人工環境)が含まれています。一方、左半分にある**「VIRTUAL WORLD(脳内世界)」**は、感覚入力をもとに脳内で構築される内的な世界であり、言語・記憶・意識・無意識といった認知的プロセスが展開される領域です。この世界は、外界からの情報を処理・解釈することで成り立ち、実際には物理的には存在しないが、私たちが「世界を知覚する仕方」として非常に本質的です。中心にある「脳」と「心・身体」中央には、脳(左脳・右脳)を中心とした人間の認知・行動システムが描かれています。左側には言語・記憶・意識などの内的認知プロセスが、右側には感覚器・運動器・神経系などの身体的プロセスが配置されています。これらが連動することで、脳内の情報処理が身体的行動と結びつき、環境との相互作用が可能となります。認識のメカニズムこのモデルの核心は、「環境 → 感覚器 → 脳 → 意識・無意識 → 行動」という情報の流れにあります。人間は物理世界からの刺激を感覚器を通じて受け取り、脳で処理し、その解釈をもとに心的世界(VIRTUAL WORLD)を構築します。そしてその結果としての行動や運動出力を通じて、再び物理世界に影響を与えます。結論:現実とは何か?この図は、私たちが「現実」と呼ぶものが、実際には物理的世界の単なる反映ではなく、脳内で構築された仮想的な認知空間であることを示唆しています。つまり、「世界をどう見るか」は、脳と身体、そして環境との相互作用の結果であり、純粋に客観的なものではなく、人間の認知活動に深く根ざしたものだという視点が提示されています。このように、図は認識の二重性―**「外界の実在」と「脳内の仮想性」**を並置し、その相互作用によって人間の知覚と理解が形成されるプロセスを視覚的に明示しています。
2024年10月1日火曜日
無知の知
Q(koshix):無知の知と不知の自覚はどう違いますか。A(ChatGPT-4o):「無知の知」と「不知の自覚」は、どちらも自分の知識の限界を認識する概念ですが、哲学的な文脈やニュアンスに違いがあります。1.無知の知(Socratic Ignorance)これは、ソクラテスが提唱した概念で、自分が「何も知らない」ことを知っているという意味です。具体的には、人が自分の無知を認識し、謙虚に学び続ける態度を持つことが重要であるという哲学的な姿勢です。ソクラテスは、知っていると思い込んでいる人々が実際には何も知らないことを示し、自分自身も知識の限界を認識しているがゆえに、むしろ賢明であると考えました。無知の知は、自己反省と批判的思考を通じて、さらに深い理解を追求するための出発点とされます。2.不知の自覚一方、「不知の自覚」は、もっと一般的に自分が知らないことを意識することです。これは哲学的な議論の場に限らず、日常的な文脈でも使われることがあり、自分がある分野や問題について十分な知識を持っていないことを自覚する行為です。この場合、特にソクラテス的な知的探求の姿勢が伴う必要はなく、単に自分がその問題について知らないことを理解している状態を指します。3.主な違い無知の知は、自分の無知を認識しながらも、それがさらなる知識の追求に向けた積極的な姿勢を生む点で特徴的です。つまり、無知であることを知ることで、より賢明であるとされます。不知の自覚は、単に自分が知らないことを理解する行為であり、必ずしも知識探求への動機づけや哲学的な反省を含むものではありません。まとめると、「無知の知」は、自己の無知を認識することで知的探求を続ける哲学的な態度を示し、「不知の自覚」は、ある事柄について知らないことを単に認識するという点で、より日常的な概念です。A(Gemini 1.5Pro):「無知の知」と「不知の自覚」は、どちらもソクラテスの哲学に関連する言葉であり、一見似ているように思えますが、微妙なニュアンスの違いがあります。無知の知意味:自分が知らないことを知っている、つまり、自分の無知を自覚している状態。解釈:・何かを知らないことを自覚することで、より深く学び、成長しようとする姿勢を表します。・古代ギリシャでは、神託によってソクラテスが「最も賢いのは、自分の無知を自覚している者である」と告げられたことから、この言葉が有名になりました。・ただし、現代では「無知の知」という言葉が、自分の無知を過度に意識し、自己肯定感を下げてしまうようなネガティブな意味で使われることもあります。不知の自覚意味:自分が知らないことを自覚している、つまり、無知であることを認識している状態。解釈:・「無知の知」とほぼ同じ意味ですが、「不知の自覚」の方がより客観的で、自分の無知を率直に認めるニュアンスが強いです。・ソクラテスの哲学においては、この「不知の自覚」が、真の知への第一歩であるとされています。・他者の意見に耳を傾け、対話を通して新たな知識を吸収していく姿勢を表します。違い・ニュアンス:「無知の知」は、自分の無知を自覚することで生まれる知的探求心や謙虚さを強調するのに対し、「不知の自覚」は、より客観的に自分の無知を認識し、そこから学びを深めていく姿勢を強調します。・現代における解釈:「無知の知」は、現代ではポジティブな意味だけでなく、ネガティブな意味でも使われることがある一方で、「不知の自覚」は、より客観的で中立的な意味で使われることが多いです。まとめどちらも「自分が知らないことを知っている」という共通点がありますが、「無知の知」は、より主観的で、自分の無知を自覚することによる知的探求心や謙虚さを強調するのに対し、「不知の自覚」は、より客観的で、自分の無知を率直に認め、そこから学びを深めていく姿勢を強調します。どちらを使うべきかどちらの言葉を使うかは、状況や伝えたいニュアンスによって異なります。・自分の無知を自覚することの重要性を強調したい場合:「無知の知」・客観的に自分の無知を認め、そこから学びを深めていく姿勢を強調したい場合:「不知の自覚」補足・「無知の知」という言葉は、翻訳の問題もあり、正確には「不知の自覚」と訳されるべきだという意見もあります。・どちらの言葉を使うにしても、重要なのは、自分の無知を恐れず、積極的に学び続けていく姿勢を持つことです。ご自身の考えと照らし合わせ、より深く理解してみてください。A(Claude 3.5 Sonnet):「無知の知」と「不知の自覚」は、似ているようで微妙に異なる概念です。1.無知の知・古代ギリシャの哲学者ソクラテスに由来する概念です。・自分が無知であることを知っている状態を指します。・より深い知恵や真理の追求につながる哲学的な姿勢です。・「自分が何も知らないことを知っている」という paradoxical な認識を含みます。2.不知の自覚・より一般的で日常的な概念です。・自分が何かを知らないことに気づいている状態を指します。・特定の知識や情報の欠如を認識することです。・学習や成長の出発点となる自己認識です。3.主な違い・範囲:「無知の知」はより包括的で、人間の知識の限界に関する認識を含みます。「不知の自覚」は特定の分野や事柄についての認識です。・哲学的深さ:「無知の知」はより哲学的で、人間の知識の本質に関わります。「不知の自覚」はより実践的で、日常的な学習や成長に関連します。・起源:「無知の知」は哲学的伝統に根ざしていますが、「不知の自覚」はより一般的な概念です。両者とも、自己認識と学習への姿勢において重要な役割を果たします。この説明についてさらに詳しく知りたい点がありますか?
今日それは、私たちの頭脳の中に宿り、あるいは、注入されたり蓄積されたり消去されたりする事物のように扱われている「情報」という曖昧な概念が「知識」に等価と見なされ、人のあり方から切断されて扱われる傾向も生じている。知識は量の多寡で判断され、とりわけ個別の断片的命題の蓄積が知識と等値される。情報はデータとして蓄積される以上、知識の主体はもはや人ではなくコンピュータやICチップでも構わない。総じて、そういった情報を使いこなす術が「知」と思いなされている。[1]
ソクラテスが基本的に「知らない」とするのは、「善、美、正義」といった「大切な事柄」についてであり、「死、ハデス」についての不知の表明もそれに含まれる。他方で、日常の経験的事実認識はもとより、技術もそのまま認められ、知として尊重されている。「知」を問うことで問題となっているのは、生を成り立たせる根本概念であった。[1]
2024年1月23日火曜日
藤岡作太郎
2023年4月29日土曜日
ルリアード(1)
ルリアードは、スティーブン・ウルフラムが提案した理論的概念で、計算可能な全てのもののもつれた限界を表しています。これは物理的な宇宙を含む究極の抽象化・一般化であり、従来の科学の境界を超える意味を持ちます。ルリアードの目的は、「なぜこの宇宙は存在するのか」という問いに答える可能性を持つ理論的概念として機能することです。
ルリアードは従来の科学分野の境界を超え、宇宙とその根底にある計算機的性質を理解するための統一された枠組みを提供します。数学と論理もルリアードに含まれており、メタ数学の対象とされています。多元宇宙論においても、ルリアードは必然的に存在するユニークな物体であり、別の宇宙に別のルリアードが存在することはありません。これは、ルリアード自体がすべての可能な宇宙をすでに含んでいるためです。
このPDFファイルでは、計算可能なすべてのもののもつれ限界である「Ruliad」の概念について説明します。Ruliadは、すべての形式的な可能性と私たちの物理的な宇宙のすべてを包含しており、それは科学とそれ以外の分野で深い意味を持っています。著者は、技術的な詳細にとらわれることなく、ルリアードについて多くのことを学ぶことができると説明しますが、それでも完全に理解するには難しい数学と形式主義を必要とする複雑な構成物であることに変わりはありません。
ルリアードは、すべてのルリアル・マルチウェイ・システムの究極の限界であり、可能なすべての計算ルールを徐々に適用した結果、絡み合った結果をトレースするものです。著者は、「ルリアード」は、私たちの宇宙を根本的に理解するものであり、科学やそれ以外の分野に極めて深い示唆を与えると信じています。
Ruliadの技術的な詳細を明らかにするのはまだ初期段階ですが、この構成には多くの応用の可能性があります。例えば、気象パターンや金融市場のような複雑なシステムをよりよく理解するために使用できるかもしれません。このPDFファイルは、ルリアードの概念と、宇宙を理解するためのルリアードの潜在的な意味について、興味深い紹介をしています。
Mathematicaを作ったウルフラムらしい発想だけれど結局何がなんだかよくわからない。この世界(宇宙)にある法則全体の集合に名前をつけただけではないのか。法則として言語化・数学化(論理化)されていないものは含まれないのだろうか。計算可能でないものはだめかもしれないが,潜在的に計算可能なものは,可能になった段階ではじめてルリアードのメンバーになるのかな。
あるいは,ある現象が法則化されているかどうかはどうやって判定するのだろうか。観測者によって異なったルリアードは存在するのかなど,疑問はつきないけれど,どうやらプラトンのイデアのようなものが想定されているらしい。それを現代科学の言葉で修飾しただけなのかもしれない。あるいは科学的・数学的知識で確立されたもの全体の時間とともに増大する極限値といったところか。
2022年3月1日火曜日
丸山レクチャー
統計力学の準備でエントロピーを検索していたら,Maruyama Lecturesの情報とエントロピー入門Part 1というコンテンツが網にかかってきた。内容は確かに面白そうで大部の講演資料もついていたけれど,ちょっと詰めが甘いというか,話題網羅主義でストーリーができていないような感じだった。
ただし,タイトルには自分の中2ごごろをくすぐる興味深いものが並んでいるではないか。ジャンル一覧は,エンタングルメント,エントロピー,量子論と量子コンピュータ,計算科学と複雑性,認識の理論,プログラムと論理,人工知能,言語理論というもので,最新のレクチャーは,「Bob Coeckeの “Picturing Quantum Processes”に依拠して、量子過程を図解する手法としてのString Diagramを学びます」なのだから。
いったいどこのおじさんがこれを作っているのかと調べてみると,丸山不二夫(1948-)さんだった。どこかで見たことがある名前だと思ったら,稚内北星学園大学の初代学長であり,たぶん黎明期のパソコン雑誌で連載を持っていたので知っていたのだと思う。それがちょっと見当たらない。
丸山さんの経歴によれば,東京大学教育学部の出身で,一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了,指導教官は岩崎允胤となっている。岩崎さんはマルクス主義哲学の御大であり,「現代自然科学と唯物弁証法」は大学生のときの必読書(ホント?)だった。それがMaruLaboのマルレクにつながっていると考えればなんと納得が行く話だ。
2022年2月5日土曜日
反知性主義(1)
Wikipediaによれば,反知性主義とは 1950年代にアメリカ合衆国で登場した概念であり,知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる主義・思想とされていた。1963年のホフスタッターの「アメリカの反知性主義」が代表的な文献とされているが,この日本語訳が出たのは,40年後の2003年になってからである。
安倍晋三や麻生太郎や菅義偉の発言や政策を巡って,あるいは橋下徹を筆頭とする日本維新の会やその支持者達に対して,反知性主義だという分析がされてきた。ところが,Wikipediaではむしろその対抗言論として,日本における(反知性主義の)誤用・乱用の指摘がやけに強調されていた。
録画してあった,ベトナム戦争後の1970年代のカンボジアを描いたドゥニ・ドゥ監督のアニメーション「FUNAN」をみて,クメール・ルージュ(オンカー)の酷薄さを改めて印象づけられた。カンボジア大虐殺では,100万人以上の知識人・専門家が都市から追放されて虐殺されたが,反知性主義の行き着く先はここにある。
[1]反知性主義とアメリカン・デモクラシー(清水晋作)
[2]公共圏への回路と新たな秩序問題(長谷川公一)
2021年8月25日水曜日
LeftValues
「LeftValuesとは、8valuesから着想を得た,左派・左翼向け政治診断です。左派のなかでも,あなたがどのような価値観をもっているのか診断します。 右寄りの方は正しい結果が得られませんので,ご注意ください」なので,早速試してみよう。
ちなみに,8valuesは日本語化されていないのに,LeftValuesは各国語対応になっている。72問あり,{つよく同意する,同意する,どちらでもない/わからない,同意しない,全く同意しない}の5択となっている。
診断結果は次の7主軸で分析される。自分の結果を括弧内に示す。
革命 vs. 改革 (中立:48.5%-51.5%)
「革命」のスコアが高い方は、大衆の反乱を通じた、より劇的で急進的な資本主義体制の転覆を支持する傾向にあります。「改革」のスコアが高い方は、自由民主制など、資本主義の枠組みの中で段階的に変化を導入することで社会主義に到達することを好む傾向にあります。
科学 vs. 空想 (科学主義寄り:62.5%-37.5%)
「科学」のスコアが高い方は、弁証法的唯物論に沿ったマルクス主義的な社会分析を支持ないしはこれに賛同する傾向があります。「空想」のスコアが高い方は、理想主義に基づいた社会の分析を信じ、唯物論的なアプローチを否定する傾向があります。
集権 vs. 分権 (かなり分権派:20.0%-80.0%)
「集権」のスコアが高い方は、非常に強い権力をもった国が統制し、計画して運営する経済を支持する傾向が強いです。「分権」のスコアが高い方は、通常より局所的な単位で計画される、分権化した経済体制を支持する傾向にあります。
国際主義 vs. 一国主義 (中立:50.0%-50.0%)
「国際主義」のスコアが高い方は、国際社会主義運動の実現に賛同する傾向にあります。多くの場合、最終的に国境の廃止を求めることも多いです。一方、「一国主義」寄りの方は、既存の国境内において社会主義を実現することを優先し、社会主義共和政体の形成には否定的な態度を取る傾向にあります。
政党 vs. 組合 (中立:42.3%-57.7%)
「政党」のスコアが高い方は、政党を基盤に用いた社会主義運動を求める傾向にあります。「組合」のスコアが高い方は、労働組合やその他の大衆による組織を基盤に用いることを好む傾向にあります。ただし、政党に賛成であることは、必ずしも組合による運動に対して否定的であることを意味しません。逆もしかりです。あなたがどちらを好む傾向にあるかをこの軸は示しています。
産業vs.自然 (中立:51.4%-48.6%)
「産業」のスコアがより高い方は、環境保護よりも生産性や自給自足を優先する傾向にあります。「自然」のスコアがより高い方は、自然保護のための規制を積極的に行う、環境志向の経済を支持する傾向にあります。
保守 vs. 進歩 (革新派:35.3%-64.7%)
「保守」のスコアがより高い方は、保守的な政策や価値観を好む傾向にあります。一方、「進歩」のスコアが高い方は、社会を革新させようとする政策や価値観を支持する傾向にあります。
で,まとめると「中道マルクス主義」という結果だ。
中道マルクス主義(Centrist Marxism)は社会と経済についてマルクス主義的見解を採用する一方で、革命と改革主義については中立的立場を取る、マルクス主義の一形態です。 中道マルクス主義者の多くは、他のマルクス主義者よりナショナリズム寄りの立場を取ることもあります。
なお,市場無政府主義: 96.7%,左翼ナショナリズム: 94.7%,無政府共産主義: 93.5%と,距離が近い。また,エコ・マルクス主義: 42.6%,左派共産主義: 40.6%,空想的社会主義: 35.1%,マルクス・レーニン主義: 0% とは距離が遠い。マルクスの「共産党宣言」とかエンゲルスの「空想から科学へ(高校の時に本屋でみつけてSFの入門書かと思っていたが,どうも目次がそれらしくなくて焦った奴だ)」の入門書程度の予備知識は必要かもしれない。
2021年7月13日火曜日
知の巨人
先日,立花隆(1940-2021)がなくなったときに, NHKをはじめてとしてマスコミが一斉に知の巨人というフレーズで紹介していたのが気持ち悪くて仕方なかった。たぶん田中角栄からはじまる政治・社会問題で名を上げた後に,科学の領域の評論に手を広げたことで,文系のジャーナリストたちが一目置いた的なことが発端のような気がする。あほらしい。
立花隆は,たしかにジャーナリストの嗅覚を働かせて様々な分野に興味を持ったのだけど,あくまでも表層をなぞっていただけとみえる。著書やNHK特集のタイトルとあらすじをみているとわかる。そもそも田中角栄の案件でさえ,アメリカの日本に対する謀略の中の一つの役割を担ったものであり,それが日本にとってよかったのかどうだか。
それでは,知の巨人にふさわしいのは誰かと考えてみたが,原子爆弾や電子計算機の開発や数学・量子力学の基礎論に重要な寄与をしたジョン・フォン・ノイマン(1903-1957)くらいであまり思い浮かばなかった。たまたま,田中康夫の横浜市長選挙出馬にかかわって茂木健一郎が話しているのをきいて,哲学者・論理学者・数学者・社会批評家・政治活動家のバートランド・ラッセル(1872-1970)を忘れていたことに気づいた。
高等学校では理数科だったため,社会の時間は少なくて,1年地理,2年世界史,3年倫理という選択をした。3年のときの倫理の先生は眼鏡の細川先生だった。1971年なのでちょうどバートランド・ラッセルが亡くなったところだったが,授業に分厚い箱入りのみすず書房の西洋哲学史:市井三郎(1922-1989)訳の本を持ってきていて,なんだかすごいと感動したことがある。
細川先生は,学校を抜け出してとなりの食堂から帰ってきた生徒たちを発見しても,そのまま沈黙して通過させてしまうようなことで,寡黙で特徴のない方だったが,倫理の授業というか教科書は非常におもしろくて,現代国語の次に集中して受講した科目だった。
[1]Bertrand Russel(Stanford Encyclopedia of Philosophy)
2021年3月8日月曜日
因果と相関(2)
因果と相関(1)からの続き
2つの時間的な事象A(過去)と事象B(未来)があって,AがBの原因であるといえるのはどのような場合だろうか。また,AとBに相関があるというのはどうやって判定できるのか。
「事象」が正確に定義されたものとして,特殊相対性理論では4次元時空(ミンコフスキー空間)上の世界点のことであり,確率論では標本空間上の1つの要素のことである。
一般に「事象」とは,観察しうる形をとって現れる事柄,出来事のことである。事象が生起する時点とは,事象を担う系の状態が変化した時点とし,そこでのこの系の状態変化が事象に対応すると考える。
事象Aと事象Bの連関(相関や因果があるとかないとか)についていう場合,(1) 2つの事象が同じ系で生起する,(2) 2つの事象はある系とその部分系で生起する,(3) 2つの事象が独立した系で生起する,の3つの場合に分類される。
事象についての物理的な制約の1つが特殊相対性理論の制約である。事象Aと事象Bが因果関係であるためには,2つの事象に対応する4次元時空の世界点を結ぶ4元ベクトルが時間的であることが必要だ。
この世界のすべての事象は一回性のものであると仮定する。その孤立した事象が他に類似な事象を持たない場合に,相関や因果を議論できるだろうか。
変化に着目している状態以外の情報を捨象した類似事象の集合を考える。この事象群について,事象群{A}と呼ばれる状態変化に対して常に事象群{B}とよばれる事象変化が対応するとき,これは相関関係とよべるか。
2021年3月7日日曜日
因果と相関(1)
日経朝刊の科学欄で,コロナ政策の意思決定に関わる記事で,次のような解説コラムがあった。
因果関係と相関関係 人の行動は読めず
事象Aと事象Bの間に原因と結果のつながりがある関係を因果関係と呼ぶ。これに対し,相関関係は一方が変化すると,もう一方も変化する関係のことを指す。Aの値が大きくなるにつれBの値も大きくなる場合が「正の相関」,逆にBの値が小さくなる場合が「負の相関」とする。因果関係があれば相関関係もあるが,その反対は必ずしも成り立つわけではない。
科学の世界では主に観察によって相関関係を導き出し,その後,仮説と実験による立証を繰り返して因果関係を突き止めていく。ただ,経済にしろ,コロナ対策にしろ,人の行動によっても結果が左右される事象について,因果関係を割り出すのは困難とされる。
因果関係は,昨日の決定論にも関わる重要キーワードだが,最近ずっと引っかかっている。 谷村さんは,相対論的な因果律を除いてあっさりと物理における因果関係を放棄した。因果関係というのは人間の作る物語に過ぎない。それはそれでほとんど同意できるのだが,まだ言語化はできていない何かが残っている。
物理学において因果関係を使う説明がどこまで許容されるのかという問題は,物理教育学会の変位電流をめぐる議論でも未解決のまま残っている。また,コロナ感染症の抑制や少人数学級制導入の効果に関する政策的選択肢の問題など,常に因果と相関の話がついてまわる。その道の人々は統計的因果推論で解決しているというのかもしれないが,まだ自分では理解できていない。
2021年3月6日土曜日
2つの決定論
シンギュラリティサロン@SpringXの,哲学の決定論 vs 物理学の決定論:機械は自由意志を持てるか?をYouTube Liveで視聴した。法政大学の木島泰三さんと名古屋大学の谷村省吾さんが,哲学と物理学の立場から決定論や自由意志の問題について,それぞれの考えを述べていた。ふたりとも非常にわかりやすいプレゼンテーションをしていて,ただ,木島さんの「自由意志の向こう側:決定論をめぐる哲学史」の紹介は,こちらの処理能力不足で完全にフォローはできなかったのが残念だった。
谷村さんの主張は明快で,物理学における因果という表現を非常に抑制的に使うべきだという主張であり,これはよくわかった。ただ,木島さんの哲学的な決定論や非決定論との関係については十分噛み合った議論はできなかったのかもしれない。
2021年2月19日金曜日
認識論的解釈
量子力学の認識論解釈という言葉をはじめて見たのは,東北大学の堀田昌寛さんの「量子力学と時空の物理」だった。堀田さんはこの言葉は,現代的なコペンハーゲン解釈と同じだと言っているので,何か新しいことが付け加わったわけではないはずなのだけれど,どうしても認識論的解釈というワードは自分の腑に落ちてこない。
キーワードを "量子力学" "認識論的解釈" としてグーグル検索してみると,19件しか見つからず,その大半は堀田さんと科学哲学の人々なので,これが標準的な用語として普及するには至っていないのだと思う。
英語で,"quantum mechanics" "epistemic interpretation" とすると,4,430件であり,これを "Copenhagen interpretation" にすると 180,000件となる。"Many worlds interprttation" では,132,000件だった。まだ,"epistemic interpretation" は完全な市民権を獲得していないのかもしれない。なお,この "epistemic interpretation" が堀田さんの説明のように,現代的コペンハーゲン解釈と等置できるのかどうかわよくわからない。
例えば,I. A. Helland の "An epistemic interpretation and foundation of quantum theory" (arXiv:1905.06592)の概要は,次のようなことになっている。
量子力学の解釈問題は,アインシュタインとボーアの論争が始まってこのかたずっと議論されてきた。この論文では,統計的推論の理論のアイディアを使う量子論の新しい基礎の提案について述べている。このアプローチは直感的な基盤を持つといえる。すなわち,物理系の量子状態は,ある条件のもとで,次のものと1対1対応する。自然に対する具体的な質問及びこの質問にはっきりした答えを与えること。この基礎は観測者に依存する認識論的な解釈を意味するが,すべての観測者がある変数の観測結果について一致すれば客観的な世界が回復される。この論文は,認識論的過程についての著者の本の一部のサーベイを含み,同時に,その本の議論の一部の議論をより厳密化している。量子力学の解釈問題をさらに発展させるには,関心のある物理学者の協力が必要だ。
2019年11月16日土曜日
米山保三郎
米山保三郎については,Yahoo!知恵袋に北國・富山新聞の情報として,生没年と生誕地が野町2丁目であること,父が加賀藩の算用侍であったことなどが記されていた。東京帝大の哲学科で学び,かなりの秀才だったようだ。「吾輩は猫である」では米山をモデルとした天然居士=曾呂崎が登場している。米山は実際に天然居士という号を持っている。米山の助言によって金之助=漱石が建築ではなく文学を目指すことになった。
まだ子供のとき,財産がなかったので,一人で食わなければならないという事は知っていました。忙がしくなく時間づくめでなくて飯が食えるという事について非常に考えました。しかし立派な技術を持ってさえいれば,変人でも頑固でも人が頼むだろうと思いました。佐々木東洋という医者があります。この医者が大へんな変人で,患者をまるで玩具か人形のように扱う,愛嬌のない人です。それではやらないかといえば不思議なほどはやって,門前市をなす有様です。あんな無愛想な人があれだけはやるのはやはり技術があるからだと思いました。それだから建築家になったら,私も門前市をなすだろうと思いました。丁度ちょうどそれは高等学校時分の事で,親友に米山保三郎という人があって,この人は夭折しましたが,この人が私に説諭しました。セント・ポールズのような家は我国にははやらない。下らない家を建てるより文学者になれといいました。当人が文学者になれといったのはよほどの自信があったからでしょう。私はそれで建築家になる事をふっつり思い止まりました。私の考は金をとって,門前市をなして,頑固で,変人で,というのでしたけれども,米山は私よりは大変えらいような気がした。二人くらべると私が如何にも小ぽけなように思われたので,今までの考をやめてしまったのです。そして文学者になりました。(夏目漱石「無題」,大正三年一月十七日東京高等工業学校において)[1]落第(夏目漱石,青空文庫)
[2]無題(夏目漱石,青空文庫)
[3]処女作追懐談(夏目漱石,青空文庫)
[4]明治二十四,五年頃の東京文科大学選科(西田幾多郎,青空文庫)
[5]漱石と自分(狩野亨吉,青空文庫)
[6]吾輩は猫である(夏目漱石,青空文庫)
[7]漱石の悼む大怪物(かわうそ亭)
[8]漱石とメリメ : 『吾輩は猫である』における『カルメン』の水浴(高木雅恵)
[9]漱石覚え書補篇(柴田宵曲)
2019年11月14日木曜日
哲学 v.s. 物理学
第4章 客観的現在と心身相関の同時性[青山拓央]
コメント:哲学者に考えてもらいたいこと[谷村省吾]
リプライ:まず問いの共有を[青山拓央]
第5章 時間に「始まり」はあるか――哲学的探究[森田邦久]
コメント:物理学者が哲学者の時間論を読むとこうなる[谷村省吾]
リプライ:哲学者も物理学を無視しない――形而上学と物理学の関係性[森田邦久]
これを受けて,名古屋大学の谷村省吾は,『〈現在〉という謎』をめぐる議論 のページで,『一物理学者が観た哲学』 2019年11月6日公開 PDFファイル 総ページ数 110
(書籍『〈現在〉という謎―時間の空間化批判』への補足ノート 増補版)を書いた。
かなり刺激的に哲学者(青山拓央)に喧嘩を売っている。谷村の論点はほぼ理解できる。しかし,谷村と同様に自分にも哲学者の方の言い分はよくわからない。これまでに何冊も科学哲学の本を読んでいるが,哲学者の基本用語がほとんど〈それ〉として理解できないままだ。どうしたものだろうか。
[1]物理学者と哲学者は「時間」を語ってどうすれ違うのか。(重ね描き日記)
[2]哲学者は物理学者の本気の拳をどう受け止めるか…谷村省吾「一物理学者が観た哲学」を読んで(丸山隆一 note)




