図:心と頭の対話(ChatGPT最悪,へんなバイアスかかりすぎで怖いわ)
しばらく前に評判だった,渡邉雅子の「論理的思考とは何か」がKindle Unlimited に出ていたときに,読もうとしたけれど簡単に挫折してしまった。このたび書店店頭で同じ岩波新書の「共感の論理」を見つけて面白そうだった。なかなか買うところまではいかない。
そこで,ちょっとズルをして,ChatGPTに両者の内容を聞いて見ることにした。こんなことばかりしているから,ますます自分の読書力は衰えていく。それでもちょっと役には立つ。
Q(koshix):渡邉雅子の 「論理的思考とは何か」と「共感の論理」における主張を詳しく説明してください。
A(ChatGPT):(注)ChatGPTは,敬意を払って渡邉さんのポートレイトも表示してきた。
渡邉雅子の二冊は、連続した一つの議論として読むと理解しやすくなります。
『論理的思考とは何か』は、「論理は一種類ではない。目的と価値によって、論理の型は変わる」と論じる本です。 『共感の論理』は、その多元論を踏まえたうえで、「これからの社会では、日本の教育が育ててきた共感的利他を価値的な土台とし、複数の論理を技術として使い分けるべきだ」と提案する本です。
私なりに圧縮すれば、前者は「論理は道具箱である」、後者は「共感を羅針盤とし、その道具箱を使え」という主張です。ただし、後者にはかなり大胆な価値判断が加わっています。
1.『論理的思考とは何か』の出発点
渡邉の出発点は、アメリカ留学時代の経験です。日本式に丁寧に書いた小論文が「評価不能」とされ、アメリカ式エッセイの型に従っただけで評価が急上昇した。語彙や知識が急に増えたわけではないのに、文章構造を変えると「何を考えるか」、さらには結論まで変わったといいます。
ここから渡邉は、文章は完成した思考を入れる単なる容器ではなく、文章の型そのものが、何を重要とみなし、どのような順番で考えるかを方向づける装置であると考えます。各社会は作文教育を通じて、特定の「思考表現スタイル」を子どもに身につけさせている、というのが研究全体の中心仮説です。(文春オンライン)
したがって、「日本人は非論理的で、欧米人は論理的だ」という通俗的な対比は誤りです。実際には、日本人は日本社会で通用する論理を、アメリカ人はアメリカ社会で通用する論理を身につけている。異なる型を前提に話すため、互いに相手を「何を言いたいのかわからない」と感じるのです。
2.まず「論理」そのものが一種類ではない
渡邉は、文化比較に入る前に、西洋思想の内部にも少なくとも四つの論理があると整理します。
(1) 論理学の論理は、前提から結論が正しく導かれるかを判定します。中心は演繹であり、評価基準は推論形式の妥当性です。内容に賛成できるかではなく、結論が前提から必然的に出るかを問います。
(2) レトリックの論理は、不確実な現実のなかで聴き手を説得するための論理です。一般常識、具体例、過去の事例などを用い、「必ず真である」ではなく、「この状況ではもっともらしい」と示します。ビジネス文書、政治演説、日常の議論の多くはこちらに属します。
(3) 科学の論理は、観察された現象を説明する仮説を立て、それを実験・観察・計算によって検証する論理です。既知の前提から結論を取り出すだけでなく、現象を説明できる新しい仮説を発見するアブダクション、すなわち遡及的推論が重要になります。
(4) 哲学の論理は、概念の前提を問い直し、対話や弁証法を通じて物事の本質を探究します。「この主張は正しいか」だけでなく、「そもそも自由とは何か」「正しさとは何を意味するか」と問いそのものを組み替えます。(SSAITS(サイツ))
つまり、「論理的に考えなさい」という命令だけでは不十分です。証明したいのか、説得したいのか、原因を発見したいのか、前提そのものを問い直したいのかによって、必要な思考法が違うからです。
3.四つの文化的・社会的論理
渡邉はさらに、社会が教育に何を求めるかを、次の二軸で分類します。
一つは、教育の目的が、知識・技能の獲得を重視する技術目的か、人格や社会的価値の形成を重視する価値目的か。もう一つは、個人の経験、観察、データを重視する経験的知識か、伝統的・理論的に体系化された知識を重視する体系的知識か、という軸です。この組合せから、四つの教育原理が構成されます。これは各国民の性格分類というより、各国の学校教育で優勢な「制度化された思考の文法」と理解したほうが正確です。(ひつじ書房)(1) アメリカ――経済原理
アメリカは、技術目的と経験的知識の組合せです。重視される価値は、効率、成果、実用性、個人の選択です。
典型的な五段落エッセイでは、最初に結論を明示し、複数の理由と具体例を挙げ、最後に結論を再確認します。「私はこう考える。なぜなら第一に、第二に、第三に」という構造です。
ここで論理的であるとは、読み手に余分な負担をかけず、主張と根拠を速やかに把握させることです。問題を所与のものとして受け取り、限られた時間内で明確な答えを提示する能力が評価されます。
(2) フランス――政治原理
フランスは、価値目的と体系的知識の組合せです。目標は、自律的に公共問題を考え、異なる立場を調停できる市民の形成です。
ディセルタシオンでは、与えられた問いに直ちに賛否を答えるのではなく、問いに含まれる概念や矛盾を分析し、問題そのものを組み替えます。ある立場、その反対の立場、両者の対立を超える視点を構成する弁証法的思考が重視されます。
アメリカ式が「問いに効率よく答える」のに対し、フランス式は「その問いの立て方でよいのか」と問う。政治社会では、利害や価値観が対立するため、単一の正解を押し通すより、対立を可視化し、より高い次元で再構成する能力が必要だという考えです。(教育プレス)
(3) イラン――法技術原理
イランは、技術目的と体系的知識の組合せです。宗教的・思想的に確立された真理や規範を学び、それを個別の問題に正しく適用する能力が重視されます。
エンシャーと呼ばれる作文では、個人が独自の結論を発明することより、主題を伝統的な比喩、詩、格言、聖典などと結びつけ、既存の真理に沿って展開することが重要になります。三段論法的に、正しい前提から予定された結論へ向かい、最後を詩や聖典の一節で締める型も見られます。
アメリカ式の「私の意見」やフランス式の「問いの再構成」と異なり、ここでは、正しい秩序を保存し、状況に適用することが論理性となります。(J-STAGE)
(4) 日本――社会原理
日本は、価値目的と経験的知識の組合せです。重視されるのは、他者との関係、共感、自己変容、共同体への参加です。
日本の感想文や生活綴方では、自分の経験を時系列的に語り、そのなかで自分の気持ちがどう変化したか、相手の立場に立つことで何に気づいたかを書くことが求められます。結論を冒頭に置くより、具体的な出来事をたどるなかで、書き手自身が変化していく過程を示します。
ここでの「納得」は、主張が効率的に証明されたから生じるのではありません。読み手が書き手の経験を追体験し、「そのような経験をしたなら、そのように感じ、変わったのもわかる」と了解することから生じます。論理の中心は因果的説明というより、経験―感情―視点の転換―自己変容という連鎖です。(教育プレス)
4.第一作の最終結論――論理を「切り替える」
渡邉の結論は、どれか一つを世界標準にすることではありません。経済問題では費用対効果の論理が必要ですし、政治問題では対立する価値の調整、法的問題では規則の一貫した適用、社会的問題では当事者への共感が必要です。
重要なのは、自分が無意識に使っている論理を自覚し、目的と場面に応じて別の論理へ切り替えることです。これを渡邉は「多元的思考」と呼びます。多元主義は「どんな議論も正しい」という相対主義ではありません。それぞれの論理には、それぞれ異なる適切性の基準があります。問題は、経済効率だけで人権問題を判断したり、共感だけで科学的事実を決めたりするような、領域と論理の取り違えです。(ひつじ書房)
5.『共感の論理』はどこから始まるか
『共感の論理』は、この四元モデルのうち、日本型の「社会原理」を前面に出します。
渡邉は、近代社会が政治・経済・法・社会を機能分化させることで大きな発展を遂げた一方、経済領域が肥大化し、効率、成長、利益、消費が他の価値を圧迫するようになったと診断します。また、西洋近代が人間を自然から切り離された主体として捉えたことに、環境問題や社会的孤立の根を見ます。
そのうえで、今後必要なのは、自己利益の最大化を基本とする世界観から、人間を自然と社会の一部として捉え直す世界観への転換であり、その価値的な核が「共感的利他」であると主張します。(アマゾン)
6.「共感の論理」とは何か
ここでいう共感は、単に「相手と同じ気持ちになる」ことではありません。
渡邉が描く基本構造は、他者の苦しみや喜びを具体的に知り、その人の立場に身を置き、自分のこととして感じ、それによって自己の見方を変え、必要な行為へ移ることです。
したがって、「共感の論理」は次のような思考と行為の連鎖だと解釈できます。
具体的経験の知覚 → 他者の立場への視点移動 → 感情の共有 → 自己認識の変化 → 配慮・援助・責任ある行為 → 社会的信頼の形成
ここでの利他は、「人を助ければ将来、自分に利益が返ってくる」という交換的利他ではありません。他者の状況を自分の問題として感じることから生じる利他です。また、特別な慈善行為だけでなく、一人ひとりが自分の仕事や役割を誠実に果たすことが、社会全体の安全や信頼を支えるという考えも含まれます。(note(ノート))
7.なぜ日本の作文教育が重要なのか
渡邉によれば、日本の感想文、生活綴方、物語読解は、表面的には非効率で、主張が不明瞭に見えても、実際には共感的利他を育てる「隠れたカリキュラム」として機能してきました。
子どもは登場人物の気持ちを想像し、自分の経験を五感に基づいて描写し、他者との関係のなかで自分がどう変わったかを書く。これによって、他者の視点に移る力、感情を言語化する力、自分を外から見直す力を身につけるというわけです。
『共感の論理』が、日本の感想文を単純に称賛していると読むのは不正確です。渡邉は、感想文だけで教育を終えてよいとは言っていません。むしろ、感想文で共感と人格の基礎を形成したあと、説明文、意見文、論証、仮説検証、小論文へと段階的に進み、複数の文章様式を使い分けられるようにすることを提案しています。(文部科学省)
読解についても、小学校では登場人物や自然に共感して読む、中学校ではテクストを根拠として「なぜ」に答える、高校では解釈仮説を立てて本文によって検証する、という段階的な設計が示されています。共感を捨てて論証へ移るのではなく、共感の上に証拠、仮説、概念的思考を積み重ねる構想です。(文部科学省)
8.二冊の間にある重要な変化
ここが二冊を読むうえで最も重要です。
『論理的思考とは何か』は基本的に、四つの論理を相対化し、使い分けることを説く記述的・多元的な本です。
これに対して『共感の論理』は、日本型の社会原理を、ポスト近代社会の価値的な基礎として位置づける規範的・文明論的な本です。
つまり、
• 第一作では「どの論理にも固有の役割がある」
• 第二作では「ただし、その運用を方向づける基底的価値として共感的利他が必要である」
という一段の飛躍があります。
『共感の論理』は「日本式だけが正しい」と単純に主張しているのではありません。共感を価値的基盤としつつ、経済・政治・法技術・社会の論理を多元的に使う、という構造です。しかし、事実上は日本型社会原理に特別な地位を与えているため、第一作の対称的な多元論とはやや緊張関係にあります。
9.この議論の優れた点
第一の長所は、アメリカ式ロジカル・シンキングを「論理そのもの」ではなく、特定の社会目的に適した一つの様式として相対化したことです。結論先行、理由の列挙、具体例という形式は非常に有用ですが、公共的価値の対立、概念の再検討、他者の苦痛の理解まで、それだけで処理できるわけではありません。
第二に、作文教育を単なる文章技術ではなく、社会がどのような人間を作ろうとしているかという問題として捉えた点です。文章の型は、単に考えを表現するだけでなく、何を証拠とみなし、何を結論とし、誰を説得対象とするかを決定します。
第三に、日本の感想文教育を、論証教育に至る前の未熟な段階と見るのではなく、別の能力――視点移動、感情の言語化、自己変容――を育てる教育として再評価したことです。
10.ただし、問題点もある
最も大きな問題は、アメリカ、フランス、イラン、日本を、それぞれ一つの原理の代表として整理することで、国内の階層差、地域差、歴史的変化、教育方法の多様性が見えにくくなることです。理論モデルとしては鮮やかですが、国民性の実体論として読むと危険です。「日本人は共感的」「アメリカ人は効率的」という話に還元すれば、渡邉自身が相対化しようとした固定観念を、別の形で再生産しかねません。
第二に、共感は自動的に善を生むとは限りません。人は、自分に近い人、顔の見える一人の被害者、物語として理解しやすい人には強く共感する一方、遠い集団や統計上の被害者には反応しにくいことが知られています。共感が内集団びいきや近視眼的判断を強める場合もあります。(Cambridge University Press & Assessment)
第三に、日本型の共感や役割倫理は、裏返すと同調圧力になり得ます。「相手の気持ちを考えなさい」が、「教師や多数派が想定した正しい気持ちを読み取りなさい」に変質する危険があります。「各人が持ち場で誠実に働くことが究極の利他」という考えも、制度上の欠陥を個人の献身で補わせる論理に転化しかねません。
第四に、共感は権利や手続の代わりにはなりません。共感できない人の権利も守らなければならないのが法です。共感を集めにくい少数者の利害を可視化するのが政治です。援助の実効性を検証するには科学と経済的計算も必要です。
したがって、渡邉の構想を最も強い形で生かすには、共感を他の論理に優越する最終審級とするのではなく、共感を出発点とし、法、政治、科学、経済によって補正する必要があります。共感だけでは独善になり、効率だけでは人間を手段化し、法だけでは硬直し、政治だけでは対立が自己目的化する。それぞれを相互に牽制させることが、第一作でいう本来の多元的思考でしょう。
結局、この二冊の核心は、「日本人も論理的である」という自己肯定ではありません。もっと厳しく言えば、自分が論理だと思っているものが、どの社会的目的と価値観に支えられているのかを自覚せよ、という要求です。そして『共感の論理』は、その自覚のうえで、何のために複数の論理を使うのかという価値判断にまで踏み込んだ本だと考えられます。
情報教育やプログラミング教育などの文脈では,論理的な思考とかクリティカル・シンキングというキャッチフレーズをよく見かけるが,この渡邉の議論の水準には遠く及ばない。