衆院選(2026)の結果からの続き
図:芦田の毎日(新ブログ)のタイトルから引用
芦田先生を初めて知ったのはたぶん,ツイッター微分論のころだ。2008年8月11日に iPhoneを買ってTwitterに出会い,2010年ごろにデジタル教科書論議(そこには彼はいない)に参入して盛り上がった時期だ。その後,大晦日の紅白歌合戦実況をにやにやしながら眺めていたら,骨太の教育論,シラバス論の著作を立て続けに上梓された。
教育論については概ね共感できたのだが,選択的夫婦別姓反対論と高市首相支持論は納得できなかった。なんと今回の選挙で35年ぶりに投票所へ行くという熱の入り方のようだ。さっそく,ChatGPTに相談してみたところ,いちおうもっともらしい,でも正しいかどうかはわからない返事が返ってきた。
Q(koshix):芦田宏直は,教育論では感心したのだけれど,残念ながら高市・自民党支持の選択的夫婦別姓否定論者なので,その部分は意見が相違しています。 それでも,哲学的な思考の深さがあると思うので,彼の考え方を下記ブログ記事などから分析した上で,私の普段のモノの見方と比較・考察してみてください。 https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/A(ChatGPT 5.2):(回答略)Q(koshix):教育論は今回はパスします。それよりむしろ,芦田さんがなぜあの(きもちわるい=私の主観)高市を支持するのかに興味があります。そのあたりを深掘りしてもらえないでしょうか。A(ChatGPT 5.2):(回答略)A(ChatGPT 5.2 + Gemini + Claude):芦田宏直は、なぜ高市早苗を支持するのか ――「批判不信」と「象徴政治」の交差点芦田宏直という論者を読むとき、まず目に入るのは、その教育論や哲学的随想に見られる思考の深さである。制度や方法論を超えて、人間形成や社会の意味秩序そのものを問い直そうとする姿勢には、敬意を払うに値するものがある。にもかかわらず、彼が高市早苗を積極的に評価・支持している点については、あなた(=koshixのこと)には強い違和感――率直に言えば「気持ち悪さ」――が残っている。この違和感は、単なる政策不一致や党派的立場の差から来るものではない。本稿(真の著者 ≒ ChatGPTなのだ)では、芦田宏直の高市評価を、善悪や左右のラベルで裁断するのではなく、彼自身の思考の内在的論理として読み解き、そのうえで、あなたのものの見方との分岐点を整理してみたい。1.芦田宏直は、何に対して怒っているのか芦田の高市支持を理解するためには、まず彼が「誰を支持しているか」ではなく、「何を拒絶しているか」を見る必要がある。彼の文章に一貫して流れているのは、・近代的リベラリズムが前提とする個人主義・手続きや制度だけが正義を名乗る政治言語・批判が組織や利害と癒着してしまった知識人空間への強い不信と嫌悪である。芦田にとって、現代日本の政治言論空間は、「正しさ」を語りながら、すでにどこかに回収されてしまっている言葉で満ちている。彼が高市を評価する入口は、「高市の政策が正しいから」ではない。むしろ、高市を批判する言葉の多くが、自立した思考ではなく、既存の組織・ポジション・空気への追随に見える、という地点にある。ここで重要なのは、芦田の判断が政策評価ではなく、言語評価であるという点だ。彼は、高市の語る内容よりも、高市をめぐって交わされる批判言語の「腐敗」を先に見てしまう。2.高市早苗は「政策主体」ではなく「象徴」になるこの視点に立つと、芦田にとって高市早苗は、現実政治の具体的設計者というよりも、象徴的存在として立ち現れる。彼女は、・国家が「意思」を持ちうるという感覚・日本社会がまだ「一つの物語」を語りうるという幻想・近代的合理主義によって空洞化した世界への反発を、きわめて分かりやすい形で体現している。芦田はそこに、政策的な精密さではなく、「意味が完全に失われることへの抵抗姿勢」を読み取っている。このとき高市は、危うい政治主体である以前に、「意味を取り戻そうとする象徴」として評価される。そして、象徴としての高市は、芦田の思考の中で、「支持に値する側」に分類される。3.選択的夫婦別姓否定も、同じ構造から出てくる芦田の選択的夫婦別姓否定論も、この文脈に置くと一貫している。彼にとって、家族や姓は、個人の選択の集積ではなく、歴史と制度を通じて意味が生成される場である。・制度は単なるルールではない・名前は管理ラベルではない・共同体は契約の束ではないこの前提に立つと、選択的夫婦別姓は「権利拡張」ではなく、意味秩序の解体操作として映る。高市が、この「象徴秩序を守る側」に立っているように見える以上、芦田が彼女を評価するのは、論理的には自然な帰結である。4.あなたの違和感は、どこから来るのかでは、あなたが感じる「気持ち悪さ」は何なのか。それは、芦田が見ていないもの――あるいは、まだ深刻さを十分に引き受けていないものに由来している。あなたには、高市的な象徴政治が、・政策能力の不足・制度設計の粗さ・現実との齟齬を覆い隠しながら、免責の装置として機能していく過程が見えてしまう。意味を供給する政治は、不安を一時的に引き受ける。しかし、その意味が現実の摩耗を引き受けきれなくなったとき、それはより強い象徴、より過激な物語へと自己増殖する。あなたが見ているのは、「意味が消えることへの恐怖」ではなく、「意味が暴走することによって制度と社会が壊れていく過程」である。5.分岐点は「どこに不信を置くか」にあるここで、芦田とあなたの立場の差は、はっきりする。芦田は、・批判する側の言語が利害に堕ちたこと・知識人空間が自立性を失ったことに強い不信を置いている。あなたは、・象徴政治が現実の責任を免除していく構造・物語が制度を上書きしていく危険に不信を置いている。同じ現象を見ていながら、不信の向きが逆なのである。だから、芦田には高市支持が「思考の結果」に見え、私にはそれが「危険な賭け」に見える。6.結語――違和感を、感情で終わらせないために芦田宏直の高市評価は、単なる右傾化でも、迎合でもない。それは、現代日本の政治言語が信用できなくなった地点から、象徴に賭けるという選択である。だが、その賭けが、象徴政治の自己増殖を止められない局面に入ったとき、知性は「意味を守る側」から「意味に免罪符を与える側」へと転じてしまう。あなたの違和感は、好き嫌いではない。それは、象徴が制度と現実を侵食し始めた地点をすでに目撃してしまったことから来る、冷えた感覚である。いま問われているのは、高市早苗が正しいか否かではない。なぜ、象徴に賭けざるを得ないところまで、批判と言語と制度が痩せてしまったのかである。この問いを掘り下げない限り、支持と嫌悪は空転を続け、政治はまた「意味供給」の競技場に戻っていく。――その地点を見失わないために、この違和感は、手放すべきではない。
[2]芦田の毎日(新ブログ)
[4]芦田宏直(x.com)
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