(覚道先生(3)からの続き)
覚道先生は1991年度と1992年度の2年間夜間学部の主事を務められた。そのころはちょうど大学の自己点検評価がうるさくいわれるようになった時代で,覚道先生も自己評価書の作成にたいへんご尽力され,また苦労されていたようであった。1993年には前年の教養学科に続いて教員養成課程も柏原キャンパスに移転したので,最後の1年は研究室も離れ離れになってしまった。
1994年の3月に卒業生やOBが集まって大阪府教職員互助組合のたかつガーデンで覚道先生の退官記念パーティを催した。これは先生の最初の学生さんで,大分大学を経て大阪教育大学の理科教育学教室の教授になられた村井護晏先生や,当時覚道先生と共同研究されていた清教学園高等学校の館野常昭先生らが幹事となり,私もお手伝いして開いたものである。30人くらいの卒業生が集まっただろうか。この日のために幹事の3人で上本町の近鉄百貨店で記念品を探し回ったのものだった。
大阪教育大学物理学教室主催の退職記念お食事会は,天王寺の近鉄百貨店の隣の天王寺都ホテル新館で開いた。こちらの方は私が幹事であった。当日はお花の準備で天王寺都ホテルの日比谷花壇あたりを走り回っていた。いずれも覚道先生と奥様のお二人をご招待している。
覚道先生は定年後しばらく福井工業大学で物理を教えておられた。ここはその後,下村先生や阪大の原子核実験の南園忠則先生なども定年後に勤められている。覚道先生は,通うのがたいへんだけど芦原温泉も近くでなかなかよろしいとおっしゃっていた。
(覚道先生(5)に続く)
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