レオ・シラード(1898-1964)がアインシュタイン(1879-1955)を使って,米国大統領のフランクリン・ルーズベルト(1882-1945)に宛てた原爆開発を進言する手紙を書いたのは1939年だった。これを発端とし,1940年のフリッシュ=パイエルスメモが契機となって,1942年に原爆開発のためのマンハッタン計画がスタートする。
当時のシラードや,同じハンガリー出身のユダヤ系である仲間のユージン・ウィグナー,エドワード・テラー(いずれも原子核物理で毎日のように彼らの成果を使っていた)は,ナチス・ドイツが先に原爆開発に成功して,これを手にすることを極度に恐れていた。しかし,第2次世界大戦後,ナチス・ドイツの科学者達はとてもその域には達していなかった。というのが自分の理解であった。
物理学会誌をまじめに読んでいたら,そうではないことに気がついていたはずだ。2014年の記事「ハイゼンベルグ原子炉の謎」では,政池明さんと岩瀬広さんが,ドイツ南西部のハイガーロッホにあった重水炉であるハイガーロッホ炉のことを書いていた。天然ウランによる中性子の連鎖反応は起こっていたが,臨界に達することはなかった。しかし,円筒形の炉心の直径と高さを建造時の124cmから132cmにするだけで,ウランの量はそのままで臨界に達するというシミュレーション結果を得ている。
もちろん,原子炉が臨界に達しただけでは原子爆弾にはつながらないが,重水炉ではプルトニウムの生産効率も高いため,ウランの濃縮設備なしで核兵器の材料を作ることができたわけだ。
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