ハイゼンベルグ原子炉からの続き
ナチスドイツの原爆開発については,まじめに学んだことがなかった。優秀な科学者の多くが英米に亡命してしまい,残されたのはハイゼンベルクやハーンなどわずかであり,ノルウェーの重水工場が連合国によって破壊されたために,完全に頓挫していたというイメージだけだった。
実際には,兵器としての原子爆弾開発にはほど遠い状況だったが,原子炉での連鎖反応については,実験炉での検証が何ヶ所かで進んでいた。その一つがハイガーロッホ炉だったが,もうひとつがライプチヒ実験炉だった。
なぜ,政池さんらの日本物理学会誌のハイガーロッホ炉の記事に,ハイゼンベルグ原子炉という名前がついていたかというと,ハイゼンベルグ自身がその開発に関与していたからだ。ライプチヒ実験炉で起こった世界初の原子炉災害は,Wikpediaによれば次のようなことだった。
1942年6月23日,ナチスドイツのライプチヒで,実験用の初期型原子炉L-IVが水蒸気爆発と原子炉火災という史上初の原子力事故を引き起こした。
ヴェルナー・ハイゼンベルクとロベルト・デッペルが開発したライプチヒL-IV原子炉は,ドイツで初めて中性子伝播の兆候を示した直後,重水漏れの可能性をチェックすることになった。その際,空気が漏れて中のウラン粉に引火した。燃焼したウランがウォータージャケットを沸騰させ,原子炉を吹き飛ばすのに十分な蒸気圧を発生させた。燃えたウラン粉は研究所中に飛び散り、施設内でより大きな火災を引き起こした。
これは,運転開始から20日後,ガスケットに気泡ができたため,ヴェルナー・パッシェンがデッペルの要請で装置を開けたときに起こった。光るウラン粉が6メートルの天井に飛び,装置は1000度まで加熱された。ハイゼンベルクは助けを求められたが,なす術が無かった。
それ以後,ハイゼンベルグは原子炉の実験から手を引いている。まあ,世界初のシカゴ原子炉実験を成功させたフェルミのような特別な人でなければ,ハイゼンベルグといえども理論家には難しい課題だった。ハイゼンベルグはその後,1942年9月にS行列の理論3部作を発表する。これはこれですごいことなのだった。
[1]ドイツの原子爆弾開発|German nuclear weapons program(注:Wikipedia日本語版はかなり内容が薄い)
[3]Why Hitler Did Not Have Atomic Bombs(Journal of Nuclear Engineering)
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