2022年2月7日月曜日

佐渡鉱山

『歴史戦』からの続き 

2015年に「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産へ登録される際,長崎の端島(軍艦島)における朝鮮人の強制労働が日韓政府間で問題になった。このとき,日本側は「犠牲者を記憶にとどめるために適切な対応を取る」と表明することで韓国も登録に同意した経緯がある。

ところが,安倍政権が十分な対応をせずに済ませたため,2021年の7月22日にユネスコの世界遺産委員会は,朝鮮半島出身の労働者を巡る説明が不十分だと指摘し「日本の対応に「強い遺憾」を表明する決議を採択した。2022年の12月1日までに取り組みの報告が求められている。

この状況の中での佐渡金山の世界文化遺産への登録なので,岸田政権が当初慎重だったのはむべなるかなだった。しかし,自民党右派とその空気を増幅したマスメディアに簡単に押し切られてしまった。

当時の佐渡金山の状況については,広瀬貞三の「佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)」が詳しい。なぜ佐渡鉱山という表現になっているかというと,金だけではなく銅などが算出されており,戦時中は貿易の対価としての金から銅へと需要の中心が移っていたいたためだ。

1943年における日本人の労働者は,709人(うち321人が選鉱婦など),朝鮮人の労働者は584人である。危険な坑内労働者である運搬夫・鑿岩夫・支柱夫では,約75%を朝鮮人が占めている。戦時体制が進むにつれ,産銅増産のために朝鮮人男性が戦時動員された。1939年2月から1945年7月まで募集・労務協会斡旋・徴用形式により約1200名が佐渡鉱山に送り込まれた。

朝鮮人の労働と生活は,三菱鉱業の労使協調機関である協和会,半官半民の鉱山統制会,特高警察が中心の新潟県協和会相川支会によって,三重にわたって厳しく監視されたが,1943年6月までに150名以上が逃亡している。

[1]「徴用工」問題を考えるために


写真:歌川広重の佐渡(Wikipediaより引用)


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