昨日は,戒名と法名の違い。戒名の戒とはなにかというと,仏教出家修行者集団(サンガ)の僧集団維持のためのルールだというのだ。なるほどそれはわかりやすい。戒に合意してサンガに参加するときに,戒名が授けられる。人が亡くなったときはそれに準ずる状態になって戒名を名乗ることになるわけか。
浄土真宗の創始者の親鸞は,出家僧にもかかわらず妻帯したわけで,明らかに戒に反している。肉食もOKで徹底的な無戒律主義だ。というわけで,浄土真宗(真宗大谷派,浄土真宗本願寺派)では,戒名に相当するものを法名ということになるとのこと。
その話の中で,仏教の各宗派で共通するお経があるかという話が出てきた。般若心経は短くてポピュラーだけれど,浄土真宗では般若心経は唱えない。さきほどの答えは「各仏教宗派に共通の経典はない」なのだけれど,唯一共通するのが三帰依文だという。関西の仏教系の学校だとみんなパーリー語の三帰依文を唱和しているらしい。
三帰依文(パーリー語)
南無帰依仏 Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ブッダン・サラナン・ガッチャ—ミ)
南無帰依法 Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ダンマン・サラナン・ガッチャ—ミ)
南無帰依僧 Saṃghaṃ saraṇaṃ gacchāmi(サンガン・サラナン・ガッチャ—ミ)
三帰礼拝文
自帰依佛 当願衆生 体解大道 発無上意
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無碍
礼賛文(真宗大谷派)
人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。
無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん。
図:三帰依文のイメージ by ChatGPT 4o うーん微妙か
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