50年前の阪大物理学科には,11講座しかなかったが,そのうち3講座が原子核実験の講座だった。その教授の名前をつなげて若杉山とよんでいた。で,杉本健三先生と山部昌太郎先生はすぐ思い出したのだが,若がわからない。かなり重症である。あの理学部長から総長になった,あのお嬢さんが大阪教育大学の留学生センターに勤めていた,あの・・・。
10分ほど悩んでようやく思い出せた。若槻哲雄先生です。2019年にはちゃんと憶えていたのに。
1971年に発足した核物理研究センターができて,原子核実験の分野がなにやら面白そうな気配を感じさせる時代だった。我々原子核理論のグループは杉本研とともにベータ崩壊の研究を進めていたし,若槻先生のあとをついだ江尻先生はその後ダブルベータ崩壊など,電磁相互作用や弱い相互作用に関わる領域へとテーマを展開していた時期だった。
学部3年の物理学実験では,放射線の実験が杉本研の野尻先生,電子回路だったか電位測定だったかが若槻研の柴田先生に指導された。野尻先生は,非常に厳しいという評判で越湖君といっしょにびくびくしながらレポートを持っていったが,なんとか無事にガイガーカウンターの原理に関する口頭試問をクリアできた。柴田先生の追加課題にサイクロトロンの磁場モデルを設計するというのがあって,かなりアバウトなレポートだったけれどやさしく許してもらえた。
インターネットで若杉山&原子核で検索すると,JPARC初代センター長の永宮正治さんのスライド(写真たっぷり)「杉本健三先生との半世紀」と,江尻宏泰先生の「恩師の素顔」の4.4節,破格の若槻哲雄教授がでてきた。また,若杉山グループは菊池正士研究室の流れを組むことが,中井浩二先生の「私の加速器遍歴(Ⅰ)私が憧れた菊池研究室」でわかる。さらに,「日本加速器外史(その2)井上信」にも若杉山が登場していた。
[1]大阪大学核物理研究センター創設と加速器建設(近藤道也)
[2]日本加速器外史(その1)(井上信)
[3]日本加速器外史(その2)(井上信)
[4]私の加速器遍歴(Ⅰ)私が憧れた菊池研究室(中井浩二)
[5]私の加速器遍歴(Ⅱ)手造りの小型加速器から世界最強の重イオン加速器へ(中井浩二)
[6]私の加速器遍歴(Ⅲ)幻のニューマトロン計画が拓いた原子核科学の地平(中井浩二)
[7]私の加速器遍歴(Ⅳ)加速器科学の国際的位置を高めた学術行政(中井浩二)
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