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2020年10月7日水曜日

学士院

 インターネットの普及によって,情報の拡散力が圧倒的に強化された。その結果我々の予断(単純な因果/物語による思い込み)と一致するフェイクは瞬く間に拡がるが,複雑な現実を反映した正しい情報での上書きは困難を極めることになる。

学術会議問題でもフェイクが横行している。フジテレビ報道局解説委員室上席解説委員の肩書きを持つ平井文夫がフジテレビ系の番組で,「日本学術会議に6年在籍すれば日本学士院に行き終身で多額の年金がもらえる」というデマを振りまいて,視聴者の「劣情」を煽った。あいかわらずの政権擁護仕草だ。フェイクだという抗議が続いたが本人はまともな謝罪もしない。橋下が始めた維新話法と同じ構造。

日本学士院は,「学術上功績顕著な科学者を優遇するための機関として文部科学省に設置されており,学術の発展に寄与するため必要な事業を行う」ことを目的としている。日本藝術院が,「芸術上の功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関であり,芸術の発達に寄与する活動を行うとともに,芸術に関する重要事項を審議し,これを文部科学大臣又は文化庁長官に意見を述べることができる」とパラレルな関係にある。

日本学士院は,かつては日本学術会議の付置機関であったが,1956年に独立した。ノーベル賞級の学者だけが終身会員として選ばれており,現在の定員は150名である。日本芸術院のほうは,終身会員の定員が120名であり,それぞれ年金は250万円である。なお,文化功労者の年金は350万円,文化勲章にもこれが適用される。また,人間国宝(重要無形文化財の各個認定保持者)の場合は,年額200万円の特別助成金を交付されている。

学士院の会員(物故者を含む)で直接話をしたり目視したことがある人をチェックしてみた。大澤文夫(生物物理学),大塚久雄(西洋経済史),関集三(物理化学),中川善之助(民法),湯川秀樹(理論物理学),霜田光一(物理学),難波精一郎(心理学),山崎敏光(物理学)。

授業を受けたのは阪大の教養の心理学の難波先生。音響心理学の話がとても面白かった。心理学の半分はサルの糸魚川先生だったのかな。山崎先生は,学会でもよくみかたけれど,ミューオン物理の集中講義がM1のときにあった。霜田先生は物理教育学会の理事会つながり。あとは,講演会などなど。1970年前後に金沢大学の学長だった中川善之助先生は金沢一中の先輩だが,自分が金沢泉丘高校の2年か3年のときに講演に来て下さった。「私がこれからする話は,将来きっと忘れてしまうと思うけれど」という講話の最初の部分だけが普遍的な真理としてきっちり記憶に残ってしまった。

ちなみに,ノーベル賞受賞者で目視したことがあるのは,J. バーディーン,湯川秀樹,T. D. リー,南部陽一郎あたりか。

2020年7月26日日曜日

8億年前の小惑星シャワー

大阪大学理学研究科の寺田健太郎さんが,ネイチャー・コミュニケーションズ に出した論文,"Asteroid shower on the Earth-Moon system immediately before the Cryogenian period revealed by KAGUYA" が話題になっていた。阪大のホームページに詳しい説明がある。

日本の月周回衛星のかぐやが撮影したデータから,直径20km以上のクレータ59個を調べてその周辺に存在する直径が0.1-1kmの微小クレーターのサイズ分布などから,形成年代を推定した結果,8個またはモデルによっては17個の形成年代が8億年前となった。これは偶然では考えられないため,この時期に破砕された小惑星のシャワーが月−地球軌道周辺に降り注いだと考えられるというものだ。

8億年前に破砕した小惑星は100km以上の直径を持ち,一部は地球型惑星や太陽に落下し,一部は小惑星帯に残り,さらに一部は地球近傍小惑星へと軌道進化したようだ。

どうやって形成年代測定するのかを調べてみると,東京大学の諸田智克さんの論文がたくさん出てきた。諸田さんは金沢生まれで金沢大学の地球科学でドクターをとっている。寺田さんのネイチャー論文の共著者にも諸田さんの名前があった。ファーストオーサは寺田さんだけれど,むしろ彼が研究の中心ではないのか。それにしては,東大には記事が出ていない。はやぶさのタッチダウンの話がでたところだからか。


図 月面クレータの形成年代分布(阪大ホームページより引用)


2020年2月5日水曜日

絵ことばLoCoS

絵ことばLoCosは,非常口のデザインでおなじみの,太田幸夫が1964年に考案した絵文字・絵ことばのシステムである。1964年といえば東京オリンピックが開催され,様々な競技の会場や案内のためのピクトグラムが実用的に広まった年でもある。

LoCoSはLovers Communication System の略で,世界の人が言語や文化の違いを超えて,恋人のように理解しあえるコミュニケーションメディアを目指して考えられた。1971年にウィーン国際会議で注目を浴び,1973年には講談社から「新しい絵ことばロコス」が出版されている。当時大学生の自分は,梅田の紀伊国屋書店で何度もこの本に魅かれて立ち止まり,買おうかどうしようかと散々迷ったのだけれど,結局買わずじまいだった。

それから40年たって,いまなら十分進化したコンピュータとネットワークの機能により,もっと簡単に使えるのではないかと思って,いろいろ調べてみたけれど,誰もそれに着手していないようだった。うーん,もったいない話である。


[1]LoCoS WebSite Design (AM+A, 2007)
[2]LoCoS: 世界をむすぶ絵ことば(Kindle版,2018)

2020年1月24日金曜日

湯川秀樹(2)

湯川さんといえば,大学院時代のゼミや博士論文審査会などは,理学部南の原子核実験施設の2F(1Fの高さにある)の入口を入ってすぐ右の雑誌室の隣にある湯川記念室で行っていた。この部屋の黒板の上には湯川さんの写真(下記参照)がかかっていた。大阪大学総合学術博物館湯川記念室のサイトのフォトギャラリーのA1ですね。あ,これは阪大提供の写真なので京大基研のようなうるさい条件はなくて,クレジットだけで使えるのか。湯川記念室はその後,阪大附属図書館に新たに部屋を設けられ,秘書(重永さん)もつくことになり,現在に至っている。

湯川さんを見たことが1度だけある。理学部物理の4回生のときに,毎回ゲストをよんで1時間くらいその専門分野の話を聞く授業があった。理学部5階のD501という階段教室で行われるが,誰でも参加して話を聞くことができるため,ノーベル賞2回受賞者のジェームス・バーディーン(1908-1901)のときなどは満席だった。湯川さんのときもそうだった。ただ,自分が湯川さんの話を聞いたのが,4回生のときだったのか大学院生のときだったのははっきり憶えていない。湯川さんはすでに京都大学を定年退職していて,病み上がりだったのかなんだかで,長いあごひげをはやしていた。で,なんの話をしたのかはまったく記憶にない。たぶん,あまりおもしろくなかったのです。

自分の所属していた森田研究室は,伏見研を引き継いだ内山研から派生しているので,湯川さんの流れを引いていることになる。また,研究内容も原子核における弱い相互作用と中間エネルギー物理であり,中間子交換流の話などまさにテーマのつながっているわけだった。したがって,いつも湯川ポテンシャルと戯れている人もいるのだった。

写真提供:大阪大学湯川記念室




2020年1月23日木曜日

湯川秀樹(1)

阪大の橋本幸士さんがツイートしていた。
「今日は湯川さんの誕生日とのこと。113年前の今日、湯川秀樹は生まれた。1世紀前の物理に想いを馳せるのに良い日である」
ということで,1月23日は湯川秀樹の誕生日である。

橋本さんが阪大の総合学術博物館の湯川記念室へのリンクを張っていた。なかなか良い仕上がりのページになっている。湯川秀樹の論文や資料,写真などが紹介されている。阪大の湯川記念室で所蔵しているものに加えて,小沼先生らが京大の基礎物理学研究所を基点に資料収集整理されたものの一部が阪大で公開されているようだ。論文や資料などはダウンロードすることもできるが,メールアドレスを登録してパスワードを請求する必要がある。早速試してみたが,登録の目的をきかれるのがちょっと面倒である。また,京大基礎物理学研究所のクレジットが入ったものを使う場合は,事前の許諾が必要である。

この他にも,北沢さん,橋本さんや細谷さんの話とか,湯川さんが内山さんに出したはがきの筆跡鑑定から読み解く人物像などの記事もあってとてもおもしろいのだ。

[1]阪大理学部の創設と湯川秀樹(斉藤吉彦)
[2]理学部を語る(大阪大学理学友倶楽部)


2020年1月21日火曜日

AI美空ひばり

NHKがお金をかけて,美空ひばりをAIで蘇らせる企画番組を製作し,2019年の9月に「NHKスペシャル AIでよみがえる美空ひばり」として放映された。その時点では見逃していたが,年末の紅白で使うためのプロモーションとして再放送されたほうを見た。いやー,映像のほうは全然ダメだったが,歌声についてはなかなか感動した。秋元康はそのビジネスモデルも含めてまったく好きじゃないのだけれど,1989年の「川の流れのように」はそこそこ良かったで,2019年の「あれから」も同程度によいと思った。さっそくiTunes Storeでダウンロードする始末だ。

ところが,ネット上では,有識者による批判の声が後を絶たない。うーん,なんでそこまで否定するのかしら。その場合,2018年の映画「ボヘミアン・ラプソディ」はどうするというのだろうか。これまでも多くの伝記映画がつくられており,あるいは故人についての様々な歴史を掘り起こして再現する物語が書かれていると思うのだが,その辺はどうでしょうか。

もちろん,機械学習とその周辺技術の進化によって,実在の人物とまごうかたなき存在を表現することが可能になりつつあるので,それについての倫理的な問題群はてんこ盛りでやってくるのだろう。あるいはそれを敏感に察知したカナリアたちが根源的で感情的な反発を様々な理論で武装して表現しているのかもしれない。それにしても「美空ひばりを冒涜するな」だとかそのエクストリームで「ファンを冒涜するな」とまでいいだすのにはちょっと首を捻らざるを得ない。

大学に入ったころは,美空ひばりを一番嫌いな歌手として得意げにあげていた。たぶん,演歌の持つ土着で非合理で自民党のような雰囲気を代表するものとしての「美空ひばり的な何か」に対する反発だったのではないか。その後,マンドリンクラブのK君による都はるみの涙の連絡船に感動するという話や,キダ・タローさんによる美空ひばりの絶賛やら,後年の岡林信康との逸話などによって,自分の美空ひばりに対する考え方はまったく変わってしまい,リスペクトするようになっていた。

2020年1月16日木曜日

コンビーフ

大学時代の実家からの仕送りにコンビーフが入っていることがあった。大学に入るまではあまり食べたことがなくて(野菜炒めに入っていたのかな)要領がよくわからなかったが,枕型の缶をねじ切って,フォークで生のままたべると,非常食としてあるいはビールのつまみとしてたいへん美味であることがわかった。たまに送られてきた食品の中に発見するとたいへん貴重でありがたいものである。

そのコンビーフの缶が廃止されるらしい。コンビーフの野崎産業は,合併後に川商フーズになっていて,その歴史がここにある。特殊な缶の製造設備なので更新するのが難しかったらしい。最近ほとんど食べていないけど,あの缶を空けるのはいやじゃなかった(むしろ楽しいよ)というのは家人の説である。


写真:最近入手したノザキのコンビーフ(2020.1.17撮影 追加)


2020年1月7日火曜日

修羅

修羅(1971)」は「薔薇の葬列(1969)」に続く松本俊夫(1932-2017)の監督・脚本の映画作品であり,大学時代に劇場でみた。彼の作品では桂枝雀(1939-1999)主演の「ドグラ・マグラ(1988)」もおもしろそうだったが,残念ながらこちらはまだみていない。

「修羅」の原作は,鶴屋南北(1755-1829)の「盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)」であり,中村嘉葎雄(1938-)が薩摩源吾兵衛,三条泰子(1940-)が小万の役だった。その三条泰子がとてもきれいに思えたので,帰省したとき母にいうと,なんか怪しい映画に出ている人じゃないのと切り替えされた。今,調べてもほとんどそういうことはないのだけど。

その薩摩源吾兵衛は,「盟三五大切」の元になった並木五瓶の「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」にも登場し,「国言詢音頭」の初右衛門に対応している。これらのもとになったのは,元文2年(1737)夏,曽根崎新地で薩摩藩の早田八右衛門という人物が,曽根崎桜風呂の菊野ら五人を切り殺したという事件だ。

ということで,大学時代に見ていた「修羅」が,文楽入門のきっかけとなった40年後の「国言詢音頭」につながっていた。

2019年10月20日日曜日

体育の授業

大学の教養課程での体育の授業は,とりあえずちゃんと出席すれば単位を取ることができた。種目は選択だったのかもしれないが,憶えているのは半期ラグビーのコースを選択したことだけだ。受講していたのは30人くらいいただろうか。高校時代にラグビーをやったものなどほとんどいないので,一から手取り足取り,スクラムやラインアウトやパスやキックを順番に体験して,ほとんど試合らしくない練習試合までいったかどうか。試験は目標を設定してそこにキックしたボールが入るかどうかだった。それなりにうまく蹴ることができたような気もしたが,結局成績はいつものように並であった。

2019年10月9日水曜日

グッドイナフ-金森則

ノーベル化学賞の発表があって,グッドイナフって聞いたことあるような気がするけどどんな人かなと調べてみたら,金森順次郎先生の名前がでてきた。

当時の理学部の研究室は11しかなくて,理論物理はそのうち3つ。理学部の日当たりのよろしくない北西4階に,内山研,森田研,金森研と並んでいた。金森先生は我々の統計熱力学の授業を担当されていた。演習は助手の寺倉清之さんだった。

グッドイナフ-金森則は,陰イオンをはさんだ磁性イオンに対する超交換相互作用の符号をきめる一般則の名前だ。培風館から金森先生の磁性の本が出ているのだけど,買わずじまいだった。

金森先生には,学部3回生のときにきつく叱られたことがある,佐藤秀明君が機動隊になぐられて目に青痣をつくるなど,豊中キャンパスでの緊張関係が高まっていたとき,再度機動隊が導入されて,これにいきどおり,金森先生の授業がはじまった冒頭に1人でクラスに呼びかけに行った。金森先生はこれに対し,君はなんだ出て行けと一喝した。金森先生は,我々が入学した1972年に学生部長をつとめており,こうした学生の扱いには慣れていたのかもしれない。後に,中性子物性実験の国富信彦先生がフォローしてくださったようなのだが,その後,物理学科の同窓会でお目にかかっても,恐れ多くてあいさつもできなかった。

1994年に大阪教育大学の創基120周年の記念式典が柏原キャンパスで行われた。金森先生は,1991年から1997年まで阪大の総長をつとめていたので,来賓としてこの式典に参加され,自分の母親が大阪教育大附属平野幼稚園だったか小学校だったかの出身で縁があるとおっしゃっていた。



2019年10月1日火曜日

せとちとせ(1)

大学時代のマンドリンクラブの2学年上の先輩で,ベースを担当していたのが瀬戸俊昭さんである。基礎工学部の情報科学科でヒルベルト空間を羽ばたく蝶々だかなんだかよくわからないシャレを多発していた。部長ではなかったが,クラブの運営の中心的な存在であり,指揮の津江月義男さん(理学部化学科)と丁々発止の漫才を繰り広げていた。ビートルズが大好きでそれをめぐる論争だったようだ。

1回生が何人か,石橋にある炉端焼きの西本に連れていってもらったことがあったが,そのときも瀬戸さんがいただろうか。頭の回転が早くて洒脱な人だったが,卒業してから1度,江坂の東急ハンズがオープンしたてのころにちらっとお見かけしたことがあったくらいで,あまり接点はなかった。

この度,瀬戸さんを検索してみると,博報堂でなかなかの仕事をされた偉才人で,広告に関る多数の賞を獲得され,現在は個人事務所を開設されているようだ。その瀬戸さんが,せとちとせという回文のペンネームで,「たのしい回文」と「笑う回文教室」という本を出版されているようだ。本文カットもご本人。さもあらん。

[1]大手エンジニアも研修,「回文」の効用は

2019年9月24日火曜日

和具臨海学舎

三重県志摩町和具の座賀島に阪大の和具臨海学舎(海の家)があった。調べてみると昭和24年に開設し,平成20年に閉舎となっている。理学部3回生の夏(1974年)に,楠本・藤原・真鍋・柳田諸氏とともに,その海の家で夏の合宿を行った。物理の演習の授業になかなかついていけなくて,皆で学び合いをしたのであった。朝から勉強しながら海に入って昼寝,夕食後また夜に勉強するという大変健康的な生活を送った。管理人さん夫婦に小さな娘さんがいて遊んだりしていた。もしかしてマンドリンクラブでも和具で合宿をしたことがあったのだろうか。座賀島の周りを浮輪につかまって一周したのは誰とだったろうか思い出せない。

画像:google mapより引用(2019.9.24)

2019年9月18日水曜日

三者センターと夏の学校

微分形式の夏からの続き)

当時は(1970年代後半),原子核三者若手夏の学校を運営するために,各大学が分担して三者センター,素粒子準備校,原子核準備校,高エネルギー準備校の4つの役割を割り当てられていた。特に三者センターは会場関係の手配と各パートの調整など最も仕事が多くて大変なため,どの大学もできれば避けたいといった雰囲気が濃厚なのであった。1976年の野沢温泉村の次の夏の学校は,阪大の原子核理論・実験関係のグループが協力してこれを担うことになった。たぶん,野沢温泉村の夏の学校か,あるいは秋の学会でこれを決めたのだと思うが,紆余曲折の末,森田研究室の先輩の西村道明さん(1976年当時D1,後に京セラ)がえいやっと引き受けることを決断したようだ。

1977年の夏の学校は長野県の戸隠中社の民宿群で開かれた。三者センターは民宿きのしたにおかれて,運営に当たる阪大のメンバーはきのしたに集結して宿泊したのだが,下っ端のわれわれM2以下は,何人かずつまとまって周辺の民宿に分散させられた。北大原子核理論の大久保政俊さんと同宿になり,昨年の緊張とはうってかわって,わいわい騒いで楽しんだのだった。

講義や研究会にはちょっと顔を出しただけで,三者センター本部の雑用をして遊んでいたが,買物でおつりを間違えるなど,ろくな役にも立たない学生だった。原子核三者若手の運営でも活躍されていた名大の西岡英寿さん(後に甲南大学,1994年に夭逝)が,奥さんとランニングしていた姿を覚えている。夜,阪大の若手たちで花火だか盆踊りだかを見に行った帰りに,田中万博君(後にKEK)がスターウォーズのこてこての勧善懲悪がおもしろいのであると熱弁を振るっていたのが印象深い。最終日には,原子核実験の先輩の中山信太郎さん(後に徳島大学)と村岡研で同級の佐藤秀明君が民宿きのしたの前庭で,なにやら祭りの後でといった雰囲気でたそがれた会話を交わしていたのだった。

2019年9月17日火曜日

微分形式の夏

わけあって,しばらく微分形式の勉強をしている。

今から43年前の夏。M1だったころ,その年の原子核三者若手夏の学校が,野沢温泉村で開かれた。先輩につれられて夏の学校が何かもわからないまま,草津白根山を観光した後,暗くなってから現地に到着した。各大学の院生たちはばらばらに民宿に割り当てられているので,先輩たちとも離れてポツンと取り残された。原子核実験の先輩の前田和茂さん(東北大学)と同宿で,前田さんは友達の沖花彰さん(京都大学)と良く話していた。その関係で,沖花さんに夜の外湯めぐりにつれていってもらった。後に京都教育大学に勤めるようになった沖花さんはそのことは全く覚えていないとのことだった。

その野沢温泉村のある日の午後,研究会がおわって宿の2階でごろごろしていたら,森田研の同級生の小林正博君が鹿児島大学の素粒子をやっているM1のヒゲのお兄さんと何やら話している。ヒゲのお兄さんは,フランダースの微分形式の理論を読んでいて,これはすごいというようなことをさかんにアピールしていた。当時からあまり勉強していなかった自分は,別にベクトル解析で十分だろうと聞き流していた。しかし,中島慧さんの共変解析力学の定式化の話を目にするにつれ,これはちょっと重要かもしれないと思い,死ぬまでには少しだけ理解したいと考えている。

この夏の学校には,東大有馬研の助手だった久保寺国晴さんが原子核パートの講師として招かれていた。自分たちの研究と関係があったCVCの話や,SCCの現状などを興味深く聞いた。ある日の午後は,講義のない休養日だった。野沢温泉村のプールには原子核素粒子高エネルギーの院生たちが涼を求めて集まっていた。飛び込みプールには10mの飛び込み台もあった。地元の高飛び込みの選手の指導の下,度胸試しで院生の何人かが低いほうから順にチャレンジしていたが,久保寺さんはみごとに10mの高さから足をそろえてきれいに鉛直方向に入水した。

2019年9月1日日曜日

若槻先生と内山先生

原子核物理(実験)が専門の若槻哲雄先生が,阪大の学長になられたのは,自分が4回生のときだった。原子核物理に関係する授業というと,1回生の原子物理学は杉本健三先生で,3回生の原子核物理学は江尻宏康先生だった。若槻先生の授業があったのかどうかあまりはっきりしない。ただ,学長になられる前にクラスの数名と研究室に押し掛けて,当時の学内問題について意見をしにいったというのか聞きに行ったことがあり,たいへん丁寧に対応していただいた。

学長になられてからだったかどうか。理学部5階の大講義室で全学の学生が要求した集会が開かれて,そこで矢面に立たれたことがある。当時の阪大の諸問題のうちで何をめぐるものだったのかははっきり憶えていない。授業料値上反対闘争は,自分たちが入学した時点で収束しており,筑波大学設置をめぐる反「大学管理法案」闘争やそれに連動した言語文化部設置反対運動も2回生のときに収束している。あるいは,宮山寮廃止やその入退寮権をめぐる問題だったのだろうか。こちらの方はかなり長引いていた。

1960年代後半の大学闘争の大波は引いていたが,まだ学内には崩壊熱が残っている時代だった。その理学部での集会はヘルメット学生やゲバ棒は見られない,いたって穏健なものだったが,会場いっぱいに学生や教職員が集まり,学生からはきつい言葉が飛びかっていたと思う。内山先生を見たのはそのときが最初だった。体格のよい先生が若槻先生の演壇の脇に仁王のように立って学生を睥睨し,なにかあったら容赦しないぞという緊張感がただよっていたが,それでも会場の笑いをとっていたのが内山先生らしかった。

2019年8月31日土曜日

龍雄先生の冒険

昨日注文した「龍雄先生の冒険 回想の内山龍雄:一般ゲージ場理論の創始者(窮理舎)」が早速到着した。1994年に私家版として発行され,25年後に内山研究室ゆかりのひとたちが加筆してできた新版だ。

前半が「先生と犬印の缶づめ」というタイトルで,1-2ページ以内のエピソード80話から成り立っている。後半は「耳に残る先生の怒鳴り声」というタイトルで,内山先生の書かれたいくつかの文章(未完のものを含む)があり,最後に砂川重信先生の「さようなら内山先生」という追悼文がきている。

内山研の人々が著者なので,だいたいはお顔が浮かぶか,お名前を耳にしている。斉藤武先生には3回生の量子力学を講義していただいたし,その演習は今回,直接登場されていない国正東作さんだった。細谷暁夫先生は助手か講師の時代で,声をかけられたこともある。先輩の重本和泰さんは隣の研究室の先輩として存在感を発揮されていた。

内山先生には4回生の時の相対論と素粒子論の授業を担当していただいた。大学院に進学して,自分がD1からD2(1978-1979年度)のときに理学部長を務められ,1980年の3月に停年退官されている。M1のときの修士論文発表会では,内山研のH先輩に大きな雷が落ちるのを目撃していたので,今年はどうなるのかとびくびくものだった。しかし,ちょうど理学部長になる直前でお忙しかったのか,自分の発表のときにはたまたまいらっしゃらなかった。伊達宗行先生のやさしい進行で無事に発表は終了したが,よかったのかわるかったのか。

内山先生の大音声はときどき聞こえてきたが,直接お話した機会はごくわずかである。1つは,大学院入試の時で,内山先生,村岡先生のチームの部屋だったか。村岡先生の14Nのスピンと統計の話はちゃんと答えられたが,内山先生の質問はゲージ変換についてだった。電磁場中のシュレーディンガー方程式を書かせ,ゲージ変換でこの方程式がどうなるかを述べよというものだった。ゲージ不変だとは思ったけれども,示すことはできなかった。

もう1回は,附属図書館のアルバイトをしていたときの事件と関係がある。D1のときだったろうか。時間外窓口の担当と図書目録カードの整理が仕事で,週2日ほど夕方2Fのデスクにすわっていた。ある日,係長がトイレに落書きがあるので確認してきてほしいといった。差別問題にかかわるようなものだが,あまり強い印象はない。ただ,不思議だったのが,この落書きをあなたが発見したことにしてほしいといわれたことだ。実際には自分は第一発見者ではなかったが,事情がよく飲み込めずハイハイと返事してそのままにしておいた。1週間ほどしてから,森田先生が学生部屋に来て,内山先生がお呼びだという。なんだろうと思って,内山先生の教授室へ行くとその話だった。なんだかよくわからず狐につままれたようなことで,こちらもハイハイと返事して退室した。

いや,当時はこういう差別落書きが大きな学内問題に発展することは多々あったので,関係者が敏感になっていることは分かっていた。自分は学部生のときにいろいろ騒いでいたので,危ないと思われたのかもしれない。

2019年8月30日金曜日

内山先生の相対論

手元にある岩波全書の「相対性理論(内山龍雄)」は,1977年の出版である。自分がM2の年だ。同じ著者で裳華房の物理学選書の「一般相対性理論」は,1978年だからD1の年。理学部物理学科4回生で受講した内山先生の「相対論」は,特殊相対性理論がテーマだった。毎時間,熟練秘書の辻芳子さん(池田市にあった大教大の官舎近くにお住まいで,後に家族でハワイへ行ったときにもお世話になった)が,教卓にお茶を運んでくる。その後,内山先生がやおら登場してお茶を飲みながらノートなしで,黒板にさらさらと流れるようにゆっくり式を書きながら説明される。一点のよどみもない明確な論理で貫かれた名講義で,聞いているだけで相対論が完全に理解できたような錯覚が得られた。

さて,岩波全書の相対性理論であるが,序の最後で内山龍雄先生は次のように語っている。
たびたび述べるように,説明は平易でも,重要事項はほとんどもれなくとりあげてあるから,本書を読破したなら,相対性理論を理解したという自身をもってさしつかえない。本書は力学(変分原理を含む)と電磁気学の基礎知識さえあれば,必ず理解できる。もし本書を読んでも,これが理解できないようなら,もはや相対性理論を学ぶことはあきらめるべきであろう。
このフレーズは度々あちらこちらで取り上げられ話題になるが,内山先生の講義の受講者としては宜なるかなと思っていた。

しかし今回,これまで未読だった岩波全書後半の一般相対論の部分を読み始めて,この意見を撤回する。内山先生,ちょっと,これだけだと難しくないですか。たぶん「君の勉強不足だろう,わはは」で終了する。122pの接続係数 Γ の定義で,計量テンソルの g の微分は誤植された x でなく,u だと気付くのにしばらく悩み,130pの計量テンソルの性質のところでひっかかった。裳華房の一般相対性理論をみると,ちゃんと導出方法が書いてあったので,問題なく理解できたが,全書版だけこれを推理するのは自分には難しかった。

P. S. 本日は内山先生(1916.8.28-1990.8.30)の命日であり,龍雄先生の冒険(窮理舎)の発売日だった。

2019年3月11日月曜日

第二種ソフトウェア危機とマクロユーザサービス

標題の文書が発掘された。たぶん,1993年前後のものではないかと思われる。大阪大学大型計算機センターの何かによせて寄稿することを想定した文書だが(利用相談員の自己紹介かな),どこかの段階でボツになったのかもしれない。とりあえず,参考のためにテキストを起こして再現してみる。第二種というのは,研究テーマだった原子核の弱い相互作用に存在するがどうかが問題となっていたGパリティ非保存の「第二種カレント」にかけているのだが,そんなもの誰にも分からない。

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第二種ソフトウェア危機とマクロユーザサービス
−ユーザのオタク化による情報環境破壊の進行と対策−
大阪教育大学 物理学教室 越桐國雄 (メールアドレス略)

 自己紹介: 私の専門分野は原子核理論(電弱相互作用と核構造)です。センターのACOSをTSSで使い始めたのは1980年ごろで,それまでは阪大核物理研究センターのTOSBACを使っていました。最近は主にワークステーションを使っています。スーパーコンピュータでUNIXが使えれば,また変わるかもしれません。相談分野は次のとおりです。
機種:ACOS,FACOM,NeXTstation,SPARCstation,Macintosh,PC-9801,FM-TOWNS.言語:FORTRAN,Mathematica.
(#ただ,どれもほとんどあてになりませんのでよろしく。)

 大阪教育大の紹介: 大教大では柏原市への移転統合を機会に,情報処理センターが新たに設置されました。ホストはFACOM-M770で,ワークステーション30台,パーソナルコンピュータ50台等の構成です。各研究室からはTCP/IPで学内LANにアクセスします。N1ネットワークへは64kbpsの専用回線で接続し,SINETによる学外へのIP接続も予定しています。しかしあまりの急激な変化(これまではホスト無し,TSS端末数台とMacII40台等があっただけ)に戸惑っているような次第です。(#ほんとにもうたいへんなのです。)

 センターへの希望: ダウンサイジングとネットワークング及びフリーソフトウェアの浸透により,スタッフのそろわない中小規模大学や情報系以外の研究室では,ユーザのシステム管理やソフトウェア管理の負担が年々重くなっています。また,ネットワークの発展に伴うコンピュータのメディア化が我々の情報処理能力の限界を越えて進もうとしています(ニュースとメールを読み,ファイル転送してmakeすると1日が終わってしまう!?)。こうしてあふれた情報ゴミがユーザのオタク化を促進しています。いわゆる「ソフトウェア危機」=ソフトウェア生産場面での需給ギャップに対して,これらはソフトウェア消費場面での需給ギャップといえるかもしれません。これを,「第二種ソフトウェア危機」と呼ぶことにします。第二種ソフトウェア危機は人間の基本的な欲求に密接に関係しているため,より本質的で深刻です。これを回避するための一助として,研究室,教室あるいは小規模大学のユーザグループ(=マクロユーザ)に対する適切な情報提供,事例紹介や講習等のサポートをセンターにお願いしたいと考えています。(#でも難しいですよね。中途半端な結論で終わってしまった・・・)
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(注) FM-TOWNSは,日本で最初に発売されたCD-ROMドライブ付きパソコンだった。情報処理センターの副センター長だった定金晃三先生らと,これいいよね(デジタル教材メディア活用のはしりだぁ),とかいいながらネットワーク整備予算を使って一教室分導入したものである。そのうちビジネス用のPCにもCD-ROMがつくのが当たり前になってしまった。そして,これからはCD-ROMドライブが付かないのものが普通になるようだ。


2019年2月28日木曜日

小山内宏

ハノイでの第二回米朝首脳会談であるが,ベトナム戦争で米国に勝利して,その後の経済発展が目覚ましいベトナム社会主義共和国朝鮮民主主義人民共和国のモデルとなるかどうか,ということで話題になっているのか,どうだろう。

1972年にジェーン・フォンダが北ベトナムのハノイを訪れて物議をかもしていたころ,大学に入学したばかりだったが,ベトナム反戦はキャンパスの学生運動における主要なテーマではなかったような気がする。それでも,外部から識者をよんでベトナム戦争の現状について学習するための講演会があった。ベトナム戦争が実質的に終結するのは,1975年4月のサイゴン陥落と南ベトナム政府崩壊の時点である。その2年ほど前だろうか,すでに戦況が北ベトナム有利となりつつあるころに,ベトナム戦争の状況を説明してくれた講師が,軍事評論家の小山内宏先生小山内薫の次男)だった。

阪大豊中キャンパスのロ号館の中教室に集まった学生はそれほど多くはなく,当時阪大キャンパスの学生運動の実権を握っていた民学同系の団体の主催だった。小山内さんは,黒板にチョークで絵を描きながら,ベトコンの移動・輸送路の網目が如何に北爆の影響を回避しながら活動しているかをわかりやすく説明してくれた。

写真:秋田書店「拳銃百科」奥付けより引用

P. S. ここには1924年生まれとあるが,経歴からして,Wikipediaの1916年が正しいのではないか。


2019年2月21日木曜日

スーパーコンピュータ登場前夜

大阪大学大型計算機センターニュースセンター25周年のあゆみ:出口弘)によると,センターシステムは1980年代の前後には次のように変遷している。我々がRCNPから大型計算機センターに乗換え始めたのは,1980年に入出力棟が新設されたころからである。

1969.05 大型計算機センター開設
1976.09  ACOS700導入
1977.12  ACOS800導入
1978.10 ACOS900導入
1979.05 センター設置10周年
1980.03 入出力棟新設
1981.12 ACOS1000導入
1982.05 ACOS1000増設・IAPサービス開始・FORTRAN77
1985.01 HFPサービス開始
1986.06 SX-1サービス開始
1987.04 学術情報ネットワーク・大学間ネットワーク
1987.11 ACOS2020サービス開始
1988.01 SX-2Nサービス開始
1993.02 SX-3Rサービス開始
1994,01 ACOS3900サービス開始
1994.05 センター設置25周年
2019.01 大型計算機センター法制化50周年(記念シンポジウムのページが保護中...orz)

1970年代の半ばに,CRAY-1が開発されたのに続いて,国産の大型汎用機メーカーがスーパーコンピュータの開発を進めていた。日本電気の開発したベクトル型スーパーコンピュータのSXシリーズが登場する前,汎用機であるACOS1000に統合アレイプロセッサ(IAP)とよばれるベクトル計算機構が導入されて,1982年からサービスが始まった。ちょうど,大阪教育大学に就職したときで,天王寺のデータステーションから阪大大型計算機センターのTSS利用が可能になったころである。

1983年ごろの研究ノートをみると,FORTRAN66からFORTRAN77へのプログラム書き換えや,ACOS1000のTSSのジョブ処理手順への変更などで四苦八苦している。FORTANのコンパイル時の最適化オプションで実行時間が1/3になり,IAPオプションでさらにその1/2になるというのが,最も効果のある場合の例だった。

1985年には,ACOS1000のバックエンドシステムとして高速FORTRANプロセッサ(HFP)が導入され,ここでもIAPが使えた。これが,SX-1の導入イメージのための練習用システムとなっていたようだ。翌1986年にはSX-1が使えるようになった。

1986年に核物理センターの計算費をもらって,大型計算機センターでSX-1を利用した話(スーパーコンピュータと原子核殻模型計算 1987)は,Juliaでパズル(5)で紹介したとおりである。