2019年9月18日水曜日

三者センターと夏の学校

微分形式の夏からの続き)

当時は(1970年代後半),原子核三者若手夏の学校を運営するために,各大学が分担して三者センター,素粒子準備校,原子核準備校,高エネルギー準備校の4つの役割を割り当てられていた。特に三者センターは会場関係の手配と各パートの調整など最も仕事が多くて大変なため,どの大学もできれば避けたいといった雰囲気が濃厚なのであった。1976年の野沢温泉村の次の夏の学校は,阪大の原子核理論・実験関係のグループが協力してこれを担うことになった。たぶん,野沢温泉村の夏の学校か,あるいは秋の学会でこれを決めたのだと思うが,紆余曲折の末,森田研究室の先輩の西村道明さん(1976年当時D1,後に京セラ)がえいやっと引き受けることを決断したようだ。

1977年の夏の学校は長野県の戸隠中社の民宿群で開かれた。三者センターは民宿きのしたにおかれて,運営に当たる阪大のメンバーはきのしたに集結して宿泊したのだが,下っ端のわれわれM2以下は,何人かずつまとまって周辺の民宿に分散させられた。北大原子核理論の大久保政俊さんと同宿になり,昨年の緊張とはうってかわって,わいわい騒いで楽しんだのだった。

講義や研究会にはちょっと顔を出しただけで,三者センター本部の雑用をして遊んでいたが,買物でおつりを間違えるなど,ろくな役にも立たない学生だった。原子核三者若手の運営でも活躍されていた名大の西岡英寿さん(後に甲南大学,1994年に夭逝)が,奥さんとランニングしていた姿を覚えている。夜,阪大の若手たちで花火だか盆踊りだかを見に行った帰りに,田中万博君(後にKEK)がスターウォーズのこてこての勧善懲悪がおもしろいのであると熱弁を振るっていたのが印象深い。最終日には,原子核実験の先輩の中山信太郎さん(後に徳島大学)と村岡研で同級の佐藤秀明君が民宿きのしたの前庭で,なにやら祭りの後でといった雰囲気でたそがれた会話を交わしていたのだった。

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