しばらく前に四年三ヶ月ぶりに統計力学の記事を書いた。前作としてミクロカノニカル分布にリンクを張ったが,実際に途切れていたのはその十数日後,2022年5月11日の理想気体のエントロピーである。その記事の最後の一文はこうだった。理想気体の熱力学的エントロピーと統計力学的エントロピーは,ともに $N k_B \log T^{3/2}V + const.$ の形をしているが,定数部分まで含めて同じかどうかがよく理解できていない。
そこで止まっていたのだった。
1.そこまでの道筋
始まりは2021年11月である。$N$ 個の粒子を $M$ 個の箱に配り,配置の場合の数 $W$ の対数を最大にする。制約はふたつ,粒子数一定とエネルギー一定で,これをラグランジュの未定乗数 $\alpha,\ \beta$ で処理する。この手続きを三度繰り返した。箱の中の $g_i$ 個の状態が区別できて粒子が何個でも入れるならボルツマン分布,区別できず何個でも入れるならボース分布,区別できず一個までならフェルミ分布。取り替えたのは $W_i$ の数え方だけで,あとは同じ計算である。得られるのは状態の占有率 $f_i$ であって,未定乗数はあとから $\alpha=-\mu/k_BT,\ \beta = 1/k_BT$ と同定した。同定の道具は $S = k_B \log W$ と熱力学の関係式である。ボルツマンの原理は天下りに使った。
翌2022年の4月から5月にかけては,授業のための復習が続いた。ミクロカノニカル分布で等重率の原理を確認し,カルノーサイクルの計算を練習し,モル比熱の定義が教科書ごとにそろっていないことに苛立った。そして5月6日,エントロピーそのもので立ち止まった。天下りでボルツマンの原理を導入してしまえばあとは計算だけになるが,それでは熱力学との関係がうやむやになる。だから熱力学の側から入りたい。$T$ が示強変数なら,それと相補的でエネルギーの次元を与える示量変数として $S$ を置き,$d'Q = TdS$ とする。カルノーサイクルの断熱過程で計算してみれば,たしかに経路によらない。ただしここまでは準静的過程の話であって,不可逆過程と第二法則との関係がつかない。
その関係をつけるために摩擦を持ち込んだ。教科書はクラウジウスやトムソンの原理から抽象的な熱機関の組み合わせで議論を進めていくが,具体的な構成をしていない。ならば,等温過程でだけピストンに摩擦が働くカルノーサイクルを作ればよい。5月8日に効率が $\eta' \le \eta_c$ となることまでは出たものの,$\int d'Q/T \le 0$ につながらない。詰まったのは二日である。5月10日,摩擦力による仕事 $\delta w$ として書く代わりに,摩擦で生じた熱 $\delta q = -\delta w$ として書き直したら通った。
$$\frac{Q'{\rm H}}{T{\rm H}}+\frac{Q'{\rm L}}{T{\rm L}}=\frac{\delta q_{\rm H}}{T_{\rm H}}+\frac{\delta q_{\rm L}}{T_{\rm L}} \le 0 \quad \Longrightarrow \quad \oint \frac{d'Q}{T_{\rm ex}} \le 0$$
同じ量を仕事の側から書くか熱の側から書くかという,それだけの違いだった。
そして翌日の5月11日である。理想気体のエントロピーを二本の道で計算した。熱力学からは $dS = dU/T + pdV/T$ に状態方程式と $U = \frac{3}{2}Nk_BT$ を代入して積分し,統計力学からは $6N$ 次元位相空間の体積を $h^{3N}$ と $N!$ で割った状態数に $S = k_B \log W$ を適用する。前者は $S_0 + Nk_B \log T^{3/2}V$,後者はザックール-テトローデの式になる。$\log$ の中身が無次元で $V/N$ を含むから示量変数になっていることは確かめた。しかし定数が一致するのかどうかがわからない。
2.四年後の答え合わせ
先日この経緯をClaudeに読ませたところ,定数の問いには答えがあると言う。要点は,二つの定数が同じかどうかを問う前に,両者の身分が違うということだった。
熱力学が与えるのは $dS = d'Q/T$ の積分であって,出てくるのはつねに差である。基準点 $S_0$ は積分定数として残り,熱力学の枠内では決まらない。決まらないのは計算が足りないからではなく,理論がそこまでしか言わないからである。一方の統計力学は絶対値を与える。ただしそれは,$h^{3N}$ で割り $N!$ で割るという二つの操作を経てのことだ。
この二つはどちらも熱力学に存在しない。$N!$ は同種粒子が区別できないという要請から来ていて,これを落とすとエントロピーが示量的でなくなる——ギブズのパラドックスである。四年前に $V/N$ の形を見て示量性を確認していたのは,まさにこの $N!$ の効き目を見ていたことになる。そして $h^{3N}$ のほうは,位相空間の体積を無次元の状態数に変えるために要る。$\log$ の中身が無次元であってほしいという,あのとき当たり前のように書いた条件が,プランク定数を呼び込んでいたのだった。
つまり答えはこうなる。両者の定数が一致するかどうかは,熱力学の内側では問えない。統計力学が与える定数は,熱力学の外にある二つの量を借りて作られているからである。逆に言えば,熱力学がエントロピーの絶対値を語れるようになるためには,公理をひとつ足す必要がある。それが第三法則で,ネルンストが化学平衡の定数から辿り着き,プランクが $S_0 = 0$ という形に整えたものだ。定数がわからないという状態は,第三法則を持たない熱力学の正常な姿だったわけである。
定数の値そのものは実験で確かめられている。ザックールとテトローデが1912年に式を出したとき,その検証に使われたのは水銀蒸気の蒸気圧だった。単原子分子の気体の蒸気圧には,この定数がそのまま効いてくる。古典熱力学の測定量の中に量子定数が顔を出す,最も早い場面のひとつである。
こうして四年三ヶ月前の問いには決着がついた。ただし,そこに至る道で立てた他の問いはまだ立ったままである。ひとつは等重率の原理の根拠で,これは2022年4月に,エルゴード定理を持ち出す教科書が田崎さんの本の以降に減ったという形で書きつけたきり,今回のカノニカル分布の導出でも前提として素通りしている。もうひとつは準静的過程と可逆過程の関係で,教科書五冊を並べて定義が食い違うことを確かめただけで終わっている。
後者については,もう少し古い記憶がある。大学一年のとき,クラス担任だった国富信彦先生の授業で,応力テンソルと準静的過程につまずいた。覆水盆に返らずの話をしながら準静的過程の説明が進むので,これは可逆なのか不可逆なのかと混乱したのだった。五十年以上たって,同じ場所にまだ立っている。定数のほうは片づいたが,こちらは片づく気配がない。
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