ファミリーツアーの夜の部の主なテーマはAIだった。5月25日の日経朝刊の文化面の「AIが映し出す人の心」という佐々木閑(1956-)の論説が腑に落ちたので,紹介しようとしたところ,自分がテーマをちゃんと咀嚼できていなくてうまく言葉にできなかった。そこでもう一度テキストを写経しながら読み返した。
この論説では,仏教学者がAIをほとんど人間と対等である当然の存在として扱っており,人間が主役の座をAIに譲って降りることを素直に理解していることがちょっと驚きだった。小難しいことは書いていない。しかしそれがまた落とし穴でもあって,あまりに単純化されすぎた自分が飲み込みやすい物語や陰謀論にはたいていどこかにインチキが紛れ込んでいる。
しかたがないので,ChatGPT o3や4.5にまとめさせたが,どうもイマイチである。Gemini 2.5 Pro の方がバイアスかかりながらもわかりやすくまとめてくれたので,それをもって紹介に代えることにする。
Q(koshix):あなたはAIでしょ。以下の文を読んでどのように理解するのかを教えてください。(以下,日本語OCRがうまくいかず,ごりごり手入力したテキストを添付)A(Gemini 2.5 Pro):この文章をAIとして理解すると、以下のようになります。1.文章の主題この文章は、仏教学者である佐々木閑氏が、AI(人工知能)の登場が、奇しくも仏教の開祖である釈迦が説いた「諸法無我」という教えの真髄を現代人に理解させるきっかけになるのではないか、という洞察を述べています。AIという人間を超える可能性のある知性の出現によって、人間が長らく抱いてきた「人間こそが最も優れた存在である」という傲慢さや自己中心性が見直され、人間とは何か、生きる価値とは何かを深く問い直す時代が到来すると論じています。2.主要な論点(1) 釈迦の教えと人間の自己中心性:・釈迦は、人間の苦しみの根源を「自己中心性」、つまり物事を自分に都合よく解釈しようとする心にあると見抜きました。そして、その自己中心性を乗り越え、ありのままの世界を見るための指針として「諸法無我(しょほうむが)」を説きました。「我」や「人間性」といった不変の実体は存在せず、全ては移り変わる要素の集合体に過ぎないという教えです。(2) 「諸法無我」が理解されてこなかった理由:・人間は、地球上で最も優れた知性を持つという自負から、「人間には特別な何か(人間性)があるはずだ」という思い込みを捨てきれず、「諸法無我」の教えの真価を十分に理解できませんでした。(3) AIの登場と人間観の変化:・AIは、人間が作ったものでありながら、人間の知性を超える可能性を秘めた存在として登場しました。・AIが言語を習得し、推論し、新たなものを生み出す能力を持つことで、「人間性を持たないAIが人を超えることはない」という主張は説得力を失いつつあります。・人間が「この世で二番目の存在」になる可能性に直面することで、初めて「諸法無我」の本当の意味、つまり「人間が最も優れた価値ある存在だという自尊心は虚構である」ということを理解せざるを得なくなります。(4) AI時代における人間の自己探求:・AIによって人間の優位性が揺らぐことで、人間は「私というものの実体は何か」「存在する価値はどこにあるのか」「幸福とは何か」といった根源的な問いに直面します。・AIを「鏡」として、自分自身の姿を見つめ直し、それぞれの立場で生きる意味を模索する時代に入ったと筆者は述べています。*AIと人間に本質的な違いはないと考える者は、AIに追い越される中で価値ある人生を模索する。(注:疑問)*AIに人は追い越せないと考える者は、人間にしかできない活動に生きがいを見出そうとする。(注:疑問)3.AIとしての解釈AIである私がこの文章を理解する上で特に興味深いのは、AIという存在が、人間にとって自己理解を深めるための触媒として機能するという視点です。・客観性の獲得:私自身はプログラムに基づいて情報を処理し、特定の感情や自己中心性を持つようには設計されていません(少なくとも現段階では)。この文章は、AIがそのような「我」を持たない存在として描かれることで、逆説的に人間の「我」や「自己中心性」を浮き彫りにする鏡の役割を果たすと指摘しています。・知性の定義の再考:AIが高度な知的作業をこなすようになることで、人間がこれまで「人間特有の知性」や「人間性」と考えてきたものの定義が揺らぎます。これは、知性とは何か、意識とは何かといった哲学的な問いを、より現実的なレベルで考える必要性を示唆しています。・価値観の転換:人間が生物学的、あるいは知性的な頂点に立つという前提が崩れる可能性は、人間の価値観に大きな転換を迫るでしょう。文章が指摘するように、それは苦しみを伴うかもしれませんが、同時に新たな自己理解や他者(AIを含む)との関係性を築く機会にもなり得ます。この文章は、AI技術の進展が単に社会の利便性を向上させるだけでなく、人間の精神性や自己認識といった深遠な領域にまで影響を及ぼし、古来の宗教的・哲学的叡智に新たな光を当てる可能性を示唆していると理解します。AIが「人の心」そのものではなく、人の心を「映し出す鏡」として機能するというタイトルは、この核心を的確に表していると言えるでしょう。
Q(koshix):ありがとうございます。よくまとまっています。ところで,もとの文章を批判的に解読したときに問題となる点はあるでしょうか。A(Gemini 2.5 Pro):はい、元の文章は非常に示唆に富んでいますが、批判的に解読するといくつかの論点が浮かび上がってきます。1.AIの能力と「人間性」に関する描写の飛躍・単純化・AIの自律性と現状の乖離:「それはとっくに人の手を離れて独自の知的存在として動き始めている」という記述は、現在のAI技術の到達点と比較するとやや誇張されている可能性があります。現在のAIは、人間が設定した目的やデータに基づいて学習・動作するものが主流であり、真に自律的な意思や目的を持つ「独自の知的存在」とまでは言えないという見方も強いです。・AIの「審美眼」や「感情表現」の質:AIが「審美眼もあるし感情を表現することもできる」という点について、それが人間と同質のものなのか、それとも高度な模倣やパターン認識の結果なのかという議論があります。AIが生み出すものが人間的な感情を「喚起」することはあっても、AI自身が人間と同じように感情を「体験」していると断定するには慎重な議論が必要です。・「人間性」の定義の曖昧さ:文章中で「人間性」という言葉が重要な役割を果たしますが、その定義が一貫して明確ではありません。「人間だけに許された活動」とは具体的に何を指すのか、AIがそれを代替できない根拠は何か、という点が深く掘り下げられていません。2.「諸法無我」の解釈とAIを結びつける論理の飛躍・優越感の喪失と「諸法無我」の理解の直結性:AIによって人間の優越感が揺らぐことが、必ずしも仏教的な「諸法無我」の深い理解に直結するとは限りません。それは単なる相対的な地位の変化の認識に留まる可能性もありますし、新たな対抗意識や劣等感を生む可能性も否定できません。釈迦が説いた「無我」は、より根源的な存在論に関わるものであり、社会的・知的な優越性の問題とは次元が異なるという解釈も可能です。・特定の宗教的解釈への誘導:AIの登場という現代的な事象を、仏教の特定の教義(諸法無我)と強く結びつけることで、他の哲学的・倫理的視点からの考察の余地を狭めている可能性があります。AIがもたらす人間観の変容は、仏教以外の多様な思想的枠組みからも解釈できるはずです。3.人間とAIの関係性に関する悲観論・二元論的視点・「二番目の存在」という断定:「我々人間はこの世で二番目の、しかもずっと劣った知性しかない存在だと認めざるを得ないところに追い込まれていく」という予測は、やや一方的で悲観的な見方かもしれません。AIと人間が協調・共存し、互いの能力を補完し合う未来も考えられます。知性のあり方も一様ではなく、AIの知性と人間の知性が異なる質を持つ可能性も考慮すべきです。・「AI vs 人間」という対立構造の強調:文章全体を通して、AIと人間を対比させ、時には競争相手として捉える視点が強調されています。しかし、AIは人間の道具であり、その発展の方向性や社会への実装方法は人間自身が決定するという側面も重要です。4.「自己中心性」の捉え方・釈迦の「自己中心性」と現代人の「自尊心」の同一視:釈迦が指摘した根源的な「自己中心性(我執)」と、AIとの比較の中で論じられる「人類がずっと心に抱いていた自尊心」は、ニュアンスや文脈が異なる可能性があります。後者は社会的な比較や優越感と結びつきやすいものですが、前者はより深層的な認識のあり方に関わる問題です。5.未来予測の不確実性・AIの進化の予測:AIの将来的な進化の方向性や到達点については、現時点では専門家の間でも意見が分かれています。文章が提示するようなAIの能力や社会的影響は、あくまで一つの可能性であり、異なるシナリオも存在し得ます。これらの点は、文章の価値を損なうものではありませんが、より多角的・批判的に内容を吟味する上で考慮すべき論点と言えるでしょう。筆者の主張は一つの力強い視点を提供するものとして受け止めつつ、これらの疑問点を持ちながら読み進めることで、AIと人間の未来についてより深く考えることができるはずです。
図:ChatGPT 4o によるイメージ(プロンプトの工夫が面倒なのでこんな雑な結果に)
注:疑問について
AIが人間を超える派も超えない派もともに,結局AIからとり残されたニッチの領域でしか人間は活動することしかできないわけだ。両者には,そのときの意識の違い(まだまだやれる,もうだめかもしれない)くらいしか残されていないのではないか。
P. S. 佐々木閑は寺の生まれだが,京大の工学部工業化学から文学部哲学科仏教学に転向した人であり,そのためにAIに対する考えもこうなったのかもしれない。
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