歳を取ると時間が速く流れるように感じることが多い(少年易老学難成)。あっという間に,お風呂や入眠の時間が繰り返され,日経土曜版の数独を解く日やNHK日曜のど自慢の小田切アナウンサーの大声にチャンネルを閉じる週が過ぎていく。このような意識における時間の感じ方の件について,次のようなことではないかと考えている。
子供や若者のころには,日々新しい経験が待っている。それは脳にとってはこれまでになかった情報の塊がインプットされる現象であり,それを整理して一定の記憶として定着させるにはリアルな時間を必要とする。
ところが,似たような経験が繰り返される場合,脳はそれを新しく処理する必要はなくなる。記憶にある過去の経験リストにリンクしたうえで,従来の経験との差分だけを処理すればよい。このように類似した経験はまとめて記憶の塊として憶えればよい。脳は面倒くさがりやだし,記憶容量や処理能力も無限ではないので,なんらかの効率化を図っているに違いないと踏んでいる。
話は少しそれるのだが,その結果面倒なことが起こる。例えば,類似した人の名前や言葉は共通部分を節約するため,近傍にまとめて記憶されているわけだ。これがどんどんたまってきて,記憶が古くなってしまうとリンクがぼやけてきて分離がむずかしくなる。これを記憶の縮退と名付けることにしよう。
えーっとあれあれ・・・,似たような名前がなかなか思い出せないのだ。経験の場合も類似したものが固着,融合してしまい,自分の記憶と家人の記憶がだいぶ別の模造記憶になってしまっている場合がある。親戚でたまに集まって互いの記憶を確認すると,あっと驚く発見がある。まあ,各人の立場の違いによる経験の差も影響しているかもしれない。
話を元に戻す。物理学の時間を定義するためには,周期的な物理現象の存在が必要だったように,意識における時間間隔は,自分の経験量によって刻まれるのではないか。その経験量とは物理的なものではなく,脳で情報処理される認知科学的な経験量=脳内処理時間に比例する量だと推察できる。
この結果,歳を取れば,経験が増えた分,多くの経験は単なる繰り返しや過去のそれの派生的経験になる。そこで,情報処理時間はリンクだけですんでしまい,意識時計の目盛りは実時間に比べてあまり進まなくなってしまう。もしかすると認知科学の論文でこれを実証するような研究があるのかもしれない。
ネットでは,このテーマについて,ジャネーの法則というちょっと怪しい理論を持ち出して論じている場合がある。これは単なる現象論なので,あまり説明にはなっていない。
図:DiffusionBeeによる少年易老学難成のイメージ(抽象語の羅列には弱いと思われる)
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