五十六世紀人たちのしゃべる言葉は,長い場合は猛烈にはやかった。—まるで昆虫の翅音のようにしかきこえない。(中略)というよりは,大脳前頭葉が二十一世紀人に比べて極度に発達した彼らは,ほんの短い,感投詞(ママ)のような言葉を投げかけあうだけで,ほとんどの意味がつうじてしまうらしかった。しかし,長い議論になると,鳥のさえずりのような,せせらぎのようなせわしない声があたりにみちた。—彼が発見しておどろいたのは,五十六世紀人たちは,会話が熱をおびてくると,しばしば二人ないし,それ以上の人たちが,同時にしゃべりまくるということだった。最初はそれが受け答えになっているのかと思ったが,そうではないらしく,めいめいの人間は,相手のいっていることなどきかず,猛烈なスピードで自分の考えをしゃべりつづけ,相手のしゃべりつづけている話のうち,ほんの一つ二つの単語なりフレーズなりでなにかこちらが展開している思考にヒントとなるようなものがあれば,それが相手方の展開している思考系列のなかで,どういう順序,または意味で組みこまれているかということとは関係なく,それをこちらの思考の流れにとりいれて,また新たな方向へ,自分の考えを展開していくらしかった。—つまり,彼らの議論とは,めいめいが相互に情報発振源になってのべつ発振し,何かめいめいにとってそのなかで,瞬間的に共鳴する情報だけがコミュニケートすればいいのであって,相手の考えを全面的に理解する必要はなかったのだ。にもかかわらず,そのやり方は,相互に共鳴し,コミュニケートする情報が,ある確率でもって整理されていうことによって,りっぱに—むしろいちいち言葉の厳密さをたしかめて,煉瓦のように論理を構築していく古いやり方より,よっぽど効率良く—相互の思考を進展させ,同時にめいめいがちがった側面において,新しい問題に達することによって,ひろがりを深めていくのだった。(引用:世界SF全集35 日本のSF(短編集)現代編「神への長い道」より)
今だと「情報発信」なのだろうが,この文脈では「発振」のほうがふさわしいようだ。たぶん,Twitterやその他のSNSの本質的な側面を非常にうまく表現している。実現したのが五十六世紀ではなく,二十一世紀だったが,我々は思考を進展できずにフェイクを撒き散らかし続けるという残念な段階にとどまったままである。人と人のコミュニケーションは山羊さんゆうびんのように原理的に困難なものなのかもしれない。
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