2026年2月21日土曜日

AIと疎外



図:AIと疎外(ChatGPTによる)

以下のテキストを生成した後,再度,ChatGPTのセッションにフィードしてみたところ,ダメ出しされた。「この疎外は,AIによって新たにもたらされたものなのか,あるいは,もともとあった疎外がAIによって増幅されたものか,どちらが本質だと考えているのか。」

うーん・・・ちょっと自分の考えが甘かった(浅かった)ので,出直してきます。

A(ChatGPT + Gemini + Claude + koshix):

マルクス=エンゲルスのオープンテキスト(英語版)のサイトをつらつらと見ていたとき,「AI革命における疎外」というキーワードを思いついた。連日届く,トランプと高市の出鱈目ニュースでアタマがクラクラしていたからだ。

ChatGPTによれば,疎外とは「自分の力・自分の関係・自分の世界が,いつの間にか別の何かとして立ち上がり,外側から自分に向かって返ってくるという構造的な現象」ということになる。あるいは,マルクスの語彙を借りれば「自分の活動の産物が,自分に対して他者として,しかも力を持つものとして現れる」ことだ。

AI革命はこの回路を、物質的な生産の領域から知的な生産の領域へと拡張したと見ることができる。それにふさわしい定義は次のようなものだ。

疎外:自分が世界と結ぶ関係(理解・判断・創造・協働)が,外部の装置と制度の側に回収され,本人は単なる「結果の消費者」へと縮退していくこと。

これは単なる能力の多寡ではなく,より根源的な「主体の条件」を破壊する。AI時代における疎外には,「労働」と「認識」という二つの層が存在し,後者が前者を侵食しつつある。

1.労働の疎外:評価関数の奴隷化

古典的な労働疎外は「生産物(成果)が自分のものにならない」「労働活動(工程・過程)が自分のものにならない」という二重の剥奪の構図であった。しかしAI時代における労働の疎外の要点はむしろ「仕事の意味と評価が外部化されること」にある。

例えば,文章を書く労働は,「何をどう書くか」を自ら決め,読者との摩擦を通じて鍛えられ,技能が身体化していった。ここにAIが介在すると,作業効率が向上する一方,良し悪しの基準は読み手との関係ではなく,プラットフォームの指標(クリック数、滞在時間、拡散、検索順位)やモデルが生成しやすい「型」へと収斂していく。書き手は表現者ではなく,「評価関数の最適化産物」の管理者へと変わる。

つまり,AIを介して労働が評価関数のための労働に変質し,自分の生産物に自分が支配されるという古典的構図が情報生産の領域にまで拡張される。

2.認識の疎外:思考の外部化と「摩擦」の喪失

AIは単に「答え」を与えるだけでなく,思考の微細な運動 ——探索,試行錯誤,混乱,言語化の失敗,再構成—— を代替する。これらは単なる手間ではなくいわば「認識の筋肉」である。それは使わなければ,萎縮・喪失するだけでなく,世界と神経を結ぶ接点そのものを細らせていく

認識の疎外は、単なる能力低下ではない。世界との関係が「二次資料化」する構造的変化である。AIの介在で,世界はモデルが説明可能な形に極めて滑らかに整形され出力される。その理解は自身が世界に触れて得た「摩擦」ではなく、モデルが提供する「表面」に過ぎない。

ここで生ずる疎外の形態は,以下のとおりだ。
「私は分かった」のではなく「分かった状態にしてもらった」

この差異は平時には露呈しない。しかし,危機の際,判断の根拠を問われた際,あるいは未知の状況に直面した際,内側に「導出過程」が存在しないことが露わになる。主体は,中身のない「署名者」へと転落する。AIの疎外とは,判断の権利が奪われること以上に,「判断が成立する条件」が外部に移転することを指すのである。

3.疎外を加速する三つの回収装置

AI疎外は,以下の三つの構造によって不可視化されながら進行する。

(1) 代行の快楽
AIは苦労を除く。学習が「正答の獲得」に吸い寄せられ,探索コストが「無駄」と見なされる。疎外が快適さとして受容される。

(2) 評価関数の植民地化
あらゆる組織が測定可能な指標を好む。AIが測れるものを増やすことで,活動の意味が外部尺度に吸収される。疎外が「合理化」として正当化される。

(3) 基盤の集中
モデルや計算資源が私的装置に集中する。個人は世界と直に格闘せず,装置へのアクセスを通じて世界を扱う。疎外が「便利なインフラ」として不可視化される。

この三つが連動するとき,疎外は静かに,しかし深く進行する。発見されにくいのは,それが苦痛ではなく利得として経験されるからにほかならない。

4.真理の生産の疎外

近代において真理は,議論・検証・反証・実験・合意形成という過程の上に成立してきた。この過程は単なる手続きではなく,認識する主体が共同体の中に位置づけられ,互いの誤りを修正し合うことで知が鍛えられていく場そのものである。AIはそこに,「生成物」という形で大量の言説を自然言語の説得力とともに注ぎ込む。

結果として起きることは何か。真理が,検証の過程によってではなく,出力の説得力と社会的な流通によって成立しやすくなる。個人の認識は「自分が確かめる」から「もっともらしいものを採用する」へと移行する。この採用は一見合理的でさえある——時間がない,専門外だ,多くの人がそう言っている。しかしその合理性の内側で,人は真理を作る共同体の回路から静かに離脱していく。真理の消費者になることと,真理の生産者であることをやめることは,この地点では同一の出来事である。

ここで起きている疎外は、労働や認識の疎外よりもさらに根が深い。なぜなら、それは「世界をどう知るか」という認識論的な次元にとどまらず,「何を本当のこととして共有するか」という社会的な基盤そのものを掘り崩すからである。民主主義も,科学も,倫理的な対話も,共同で真理を生産する能力の上に成り立っている。その能力が外部装置に回収されるとき,失われるのは個々人の認識力だけではなく,社会が自己修正する力である

5.個人の問題か,構造の問題か

「思考の筋力が奪われる」という認識は鋭い。しかしその問題意識が「個人の修養」の次元に回収されてしまうとき,論は半分で止まる。個人がどれほど自覚的にAIと向き合おうとも,評価制度が速度と量を報い,教育制度が正答の獲得を優先し,プラットフォームが代行の快楽を設計として組み込んでいるかぎり,構造の引力には抗いきれない。個人の覚悟のみを強調することは,構造を無罪放免にすることと表裏一体である。

疎外への応答は,したがって二つの層で同時に組み立てなければならない。一方では,個人が導出の過程を手放さないための実践的な作法。他方では,評価制度・教育制度・プラットフォーム設計・検証回路の社会的な再構築。この二層が噛み合わないかぎり,疎外の問題は「意識の高い個人の孤独な抵抗」として矮小化され続ける。

6.反疎外の論理——導出過程を取り戻す

解放の方向はどこにあるのか。マルクス的に言えば,人間的解放とは道具を捨てることではなく,道具と制度の支配関係を反転させることである。AIの文脈で言えば、「AIを使う」か「AIに使われるか」の差を,根性論によってではなく,構造によって達成することである。その方向を一文に集約するなら、こうなる。

AI時代における反疎外とは、出力ではなく「導出の過程」を、社会の中心に取り戻すことである

導出の過程は,個人の思考の内部にもあり,共同体の検証手続きの中にもある。教育においては,答案よりも途中式,結論よりも根拠,正しさよりも誤りの修正の履歴。企業においては,成果物よりも意思決定のログ。民主主義においては,結論よりも討議と監査の記録。

しかしここで問うべきは,「導出の過程を残す」という実践が,いかなる社会的条件のもとで可能になるか,である。速度と効率を至上とする現在の評価構造のもとでは,過程の保存はつねにコストとして現れる。それを「価値ある非効率」として制度的に守るための設計—— 評価基準の転換,教育課程の再編,プラットフォームの公共的規律 ——なしには,導出の過程の回復は個人の努力の域を出ない。

AIは便利になればなるほど疎外を深めるという逆説は,技術の問題ではなく制度の問題である。そして制度は,問い直されることで変わる。その問い直しを始める場所こそが,「導出の過程」を社会の中心に据えるという,この一点に収束するのである。

2026年2月20日金曜日

AIと著作権



図:ChatGPTによるAIと著作権のイメージ

日経が,「ソニーG、作曲AIの学習データを特定 創作者への対価算出可能に」という煽り一面記事を出していた。生成AIで大量生成された楽曲に対し,別のAIによって,その楽曲の学習に,ビードルズ3割,クイーン1割などのように学習元を割り出して,著作権対価を算出するというものだ。

音楽に限らず全ての文化的な活動は先人の築いてきた文化資産のネットワークの上に成立しているので,そんな簡単に特定の寄与分だけを分離して取り出すことなんかできるわけないだろうに。一体何を考えているのだ。

と,アタマを少し冷やしてx.comをみると不正確だったのは日経の記事である。煽られた私が悪うございました。実際にはソニーグループの研究者が「Large-Scale Training Data Attribution for Music Generative Models via Unlearning」という論文で,一定条件で元の学習内容を推定する手法を提案したというだけものだ。当然,そこから著作権対価算出には直結しない。ソニーGの広報あるいは日経が尾ひれをつけただけ。

著作権の話にはあまり手を出したくない。かつて文科省の岡本薫(後に文化庁の著作権担当)に言われた「著作権は人権です」という言葉がずっと引っかかっていたからだ。そのあたりのことをChatGPTにインプットして,尋ねられたままに自分のスタンスを入力した結果が下記の文章だ。

A(ChatGPT 5.2 + koshix):

文化は誰のものか──著作権を「文明の基盤層」から考え直す 

「著作権は人権だ」と言われたときに覚えた違和感は、いま振り返ると単なる反発というわけでもなかった。そもそもの問題は、著作権をどの水準で語っているのかという層の混同にあったのだと思う。

憲法上の基本的人権とは、人間の尊厳に由来し、国家に先立って保障される権利である。これに対し著作権、とりわけ財産的著作権は、創作を促進するために設計された制度であり、存続期間も範囲も法律によって調整される政策的権利である。人格的利益を守る著作者人格権を別にすれば、著作権は自然権というよりもインセンティブ装置に近い。ここを曖昧にして「人権」と絶対化すると、制度設計の議論が止まってしまう。 

文化は本来的に非競合的である。コピーしても減らない。にもかかわらず、近代著作権は人工的に排他性を付与することで市場を成立させてきた。これは印刷・配信にコストがかかった時代には合理的だった。

しかしデジタル化とAIの登場は、価値の重心を「個別作品」から「検索・推薦・配信・生成」という基盤へと移動させた。創作物そのものよりも、それを束ね、拡散し、再構成するプラットフォームが利益を集める構造になってしまった。 
この状況で、AI生成物ごとに原著作物の寄与分を割り出し、個別に著作権料を請求するという発想は、理論的にも実務的にも極めて面倒だ。文化がネットワーク的に生成されるという事実に対し、静的な所有モデルを過度に鋭利に適用しようとするからだ

 では、所有を全面否定すればよいのか。私(koshixのこと)はそうは考えない。出版社や教材会社、映像制作会社は、資本と専門性を投入して質の高い教材や作品を制作している。その投資回収の回路を断ち切れば、長期的には文化の厚みが失われる。したがって所有は残す。ただし、使用の自由は広げる。とりわけ教育・研究、そして非営利のAI学習については、原則自由を基本に据えるべきだと思う。 

米国のフェアユースは、利用目的や市場への影響などを総合衡量する一般条項であり、柔軟な調整を可能にしてきた。日本法は列挙型だが、情報解析目的の利用を広く認める規定を導入するなど、限定的な柔軟化はすでに始まっている。必要なのは、これを教育・研究中心に明確化し、「市場代替性がない利用は原則自由」という軸を安定させることだろう。

ここで鍵になるのは、市場を直接奪う利用と、社会全体の知識基盤を強化する利用とを区別する視点である。 もっとも、教育・研究利用を広げれば、教材販売などの収益は減少し得る。そこで浮上するのが公共基金による下支えである。著作権を個別請求の網で強化するのではなく、価値を集中させている配信・生成などの基盤に一定の負担を求め、それを創作と編集の質を支える方向に再分配する。プラットフォーム課税やAI事業者負担金という発想は、この文明的再配線の一形態である。

著作権を「人権」として神聖化するのではなく、文化循環を最大化するための政策装置として再設計するという立場からすれば、これは一貫している。 

もちろん公共基金には別種の危険がある。市場の恣意性を弱める代わりに、行政の恣意性を強めてしまう可能性だ。だからこそ、分配は透明で、説明可能で、監査可能でなければならない。人気指標だけに依存せず、編集責任や検証労働といった目に見えにくい貢献も評価する仕組みが必要になる。文化の自由流通を拡張することと、創作者の持続可能性を守ることは、対立概念ではなく、配管の設計問題である。 結局のところ、問いは経済政策にとどまらない。

文化を市場商品としてのみ扱うのか、それとも文明の基盤層として扱うのか。私は後者に重心を置きたい。教育と研究、そしてAIという新しい知の装置が、既存文化の上に立って未来を築く。その循環を止めないことこそ、長期的には創作者の利益にも、社会の知的体力にも資するはずだ。著作権は人権か、という問いは、そのような文明設計の文脈に置き直してこそ、はじめて意味を持つのではないか。

2026年2月19日木曜日

道徳教育の不可能性と可能性

ケアの倫理からの続き


図:Nano Banana Proによる道徳教育の不可能性と可能性


A(ChatGPT+Gemini+Claude):

道徳教育の不可能性と可能性:主体化の政治学を超えて

序論:問いの転回――「何を教えるべきか」から「何が起きてしまうか」へ
道徳教育をめぐる議論は、しばしば「何を教えるべきか」という内容の問題に収斂する。構成主義的発達論伝統的価値観か、正義の倫理ケアの倫理か――こうした二項対立は、より良い教育内容を求めるあまり、道徳教育という営み自体が制度として成立する瞬間に何が起きてしまうのかを十分に問わない。

本稿が提起するのは、より根本的な問いである。そもそも道徳は「教育」できるのか。そして、できないとすれば、我々は何をなしうるのか

ここで言う「不可能性」は単なる懐疑論ではない。道徳教育の制度化が孕む構造的矛盾を明らかにし、その矛盾を自覚的に引き受けることでしか開けない実践の地平を描くための理論的作業である。そのために、不可能性を三つに区別しておく。
第一に、定義論的(論理的)不可能性である。道徳的行為が外的報酬や評価への志向から自由であることを含むなら、評価と記録を本性とする教育制度に道徳を載せることは自己破壊的である。
第二に、制度論的(実践的)不可能性である。教室は教師の権威、同調圧力、記録と評価の影によって既に構造化されている。そこでは「率直さ」や「葛藤」が自然に現れにくい。
第三に、政治倫理的不可能性である。もし道徳が完全に教育可能であるなら、それは内面にまで統治が貫徹した状態、すなわち全体主義的統制の完成に近い。
本稿はこの不可能性をもって道徳教育の放棄へは向かわない。むしろ不可能性を希望として引き受け、道徳を「教える」ことではなく、道徳教育が生む主体化を可視化し、それに批判的距離を共同で作り続けることとして「可能性」を再定義する。


第一部:道徳教育という制度の考古学――教科化が先鋭化した根本パラドクス
1.教科化が露呈させた矛盾――「評価しない」ことで評価が内面へ浸透する
道徳の教科化は、道徳教育が抱える矛盾を先鋭化させた。制度側はしばしば、数値で序列化しないこと、児童生徒の内面を点数化しないこと、討議を通じて考えを深めることなどを理念として掲げてきた(少なくとも導入期の公式説明ではそうであった)。一見するとこれは、道徳教育が「教え込み」を脱し、自由で開かれた学びになるための工夫に見える。
しかし、ここに教科化のもっとも根源的な逆説がある。数値を避けるほど、評価は消えるのではなく、より微細な形で内面へ移行する。点数ではなく文章で、序列ではなく「成長の様子」として、教師は児童生徒の語りや姿勢を記録する。そのとき子どもは、単に「正しく振る舞う」だけでなく、「正しく語る」「正しく振り返る」ことへと誘導されやすい。道徳は行為の倫理から、自己記述の戦略へと回収される。
ここで重要なのは、「数値評価か否か」ではない。教科である以上、道徳が必ず可視化され、記録され、教師の言語で名指されるという制度的要請そのものが問題である。道徳を評価しないという言説が、むしろ「評価される内面」を精緻に生産する可能性を持つ。教科化は矛盾を解消したのではなく、矛盾の形態を転換したのである。

2.教授の非対称性と自律の要請――「教えないで教える」権力
第二の矛盾は、教授の非対称性と自律の要請の矛盾である。教育は本質的に非対称的な権力関係――知る者と知らぬ者、教える者と学ぶ者――の上に成立する。他方で道徳教育は「自律的主体」を目標に掲げる。しかし他者から与えられた「自律」は、定義上、自律ではない。
このとき道徳教育は露骨な命令ではなく、洗練された形式を取る。討議を促す授業は「教えないで教える」技法である。教材選定、発問、称賛と沈黙の配置、議論の終結点――そこに教師の権力が埋め込まれる。子どもが自分で考えたように見える結論が、実は「望ましい方向へ誘導された自己決定」になりうる。強制が消えるのではなく、強制が内面へ折り畳まれるのである。

3.主体化装置としての道徳教育――内面化された自己統治の技術
フーコーの権力論を借りれば、道徳教育は単なる知識の伝達ではなく、主体化の技術である。価値項目は単なる内容ではない。それは自己を特定の様式で問題化し、規律し、語り直す技術の目録である。子どもは道徳の授業を通じて、自己を「こうあるべき主体」として構成することを学ぶ。
重要なのは、この主体化が外的強制ではなく、内面化された自己統治として機能する点である。アルチュセールの言う「呼びかけ」によって、子どもは自ら進んで特定の主体へと応答し、秩序を再生産する。しかも「評価しない」「押し付けない」「議論する」といった柔らかい公式言説は、主体化を弱めるどころか、「自由と自律の名において」主体化をより内面深く浸透させる可能性がある。ここに制度化された道徳教育の現代的な相貌がある。

4.新自由主義との共謀――分裂する主体の内面化
現代日本の道徳教育が特異なのは、一見矛盾する二つの主体を同時に要請する点にある。経済領域ではグローバル競争を生き抜く自己責任の個人が求められる。他方で文化・道徳領域では共同体への献身と伝統への従属が要請される。この分裂は偶然ではない。新自由主義的統治性は経済的に原子化された個人を必要とするが、その不安定性が生む解体を抑えるために道徳的統合を必要とする。道徳教育は、自由化の副作用を文化規範で塞ぐ補修材として機能しうる。
問題は、この補修が矛盾を解決しない点にある。むしろ個人の内部に矛盾を内面化させ、自己責任と共同体忠誠の両方を引き受けさせることで、より深い分裂を生むのである。


第二部:対抗言説の陥穽――批判が装置へ回収されるメカニズム
第2部の主題は「どの理論が正しいか」ではない。むしろ、批判的理論が教育制度へ輸送される瞬間に、いかにして統治技術へ変換されてしまうか、という回収メカニズムの解剖である。ここには少なくとも三つの変換がある。
第一に、診断(記述)が規範へ変換される。発達段階は本来「こういう推論が出やすい」という観察であっても、「こう到達すべき」という到達目標に化ける。ケア倫理もまた「こういう道徳経験がある」という記述から、「こう振る舞え」という徳目へ化ける
第二に、対話が産出物へ変換される。制度は授業を成果で管理したがる。討議はプロセスであるはずなのに、感想文、振り返り、評価文の材料として回収される。すると対話は「正しく語れる者が得をする」能力競争に変質し、沈黙や違和感は欠陥として扱われる
第三に、批判が技法へ変換される。批判は対象の前提を揺さぶる営みである。しかし制度は批判を「批判的思考」という技能に落とし込み、手順化し、評価可能な能力へ変えてしまう。批判は自由の回路ではなく、「批判的であるべき主体」を生産する規範となりうる。
この三変換が、以下の議論を貫く陥穽である。

5.構成主義の神話――普遍性という特殊性、抽象化という政治
コールバーグの道徳的発達理論は、しばしば「科学的」「価値中立的」な道徳教育の基盤とされてきた。しかし理論そのものが特定の文化的・歴史的前提に立脚している。最高段階は啓蒙主義的理性観と社会契約論に根差した「自律的個人」を前提とし、これを「発達」の頂点に置くことは他の倫理観を未熟と位置づける文化的暴力を含む
だが問題はそれだけではない。コールバーグのジレンマが道徳問題を文脈から切り離し抽象化する時、失われるのは生活感だけではなく、権力と構造である。抽象化はしばしば、構造的不正義を個人の判断問題へ矮小化し、「あなたならどうする?」という内面の清潔さの競技へと倫理を回収する。
とりわけ共同体規範が強い環境では、抽象化された討議形式は同調圧力に最も回収されやすい。討議が自由に見えるほど、実際には「正しい語り」の獲得として主体化が洗練されうる。ここに構成主義的道徳教育の制度的危うさがある。

6.ケアの倫理の陥穽――美徳化が搾取と沈黙の免罪符になる
ギリガンのケアの倫理は、正義中心の道徳観が切り落としてきた関係性・依存・応答性を取り戻す点で重要である。しかし制度に取り込まれると、ケアは容易に「思いやり」「やさしさ」という道徳美徳へ縮約される。縮約が起きると、ケアの政治性が消え、負担の配分の問題が不可視化される。ケアできない者が欠陥化され、ケアが沈黙を強いる(波風を立てないことが思いやりだとされる)方向に回収される
ゆえにケアの倫理を対抗言説として機能させるには、ケアを政治化し公共化しなければならない。問いは「思いやれるか」ではなく、「誰が、誰のために、どれだけ、どんな条件でケアしているか」でなければならない。

7.多文化主義の隘路――差異承認が「良い多数派」の自己像を支える儀礼になる
多文化主義的解決は魅力的に見えるが、文化の本質化、文化内部の抑圧の不可視化、そして「寛容/対話」という特定の価値の暗黙前提によって、洗練された同化主義になりうる。学校制度に入ると、多文化主義はしばしば「寛容である我々」という多数派の自己像を支える儀礼に変質する。少数者の経験は教材として消費され、差異は「理解される対象」に固定され、権力関係は透明化される。
したがって、対話を増やすだけでは不十分である。語りの所有権、拒否権、退出権、再編集権を含む制度設計がなければ、対話は支配の洗練で終わる。


第三部:不可能性を生きる――矛盾を引き受けた自己言及的実践へ
第1部で道徳教育が主体化装置であることが示され、第2部で批判理論さえ装置へ回収されうることが示された。ここから導かれるのは、道徳教育の放棄ではない。むしろ「可能性」の定義を変える必要がある。道徳教育の可能性とは、道徳を教え込む成功ではなく、主体化の不可避性を可視化し、それに対する批判的距離を共同で作る能力を育てることである。

8.「自律」概念の再構築――依存性の承認から応答可能性へ
従来の自律概念――カント的自己立法、サルトル的選択――は主体を他者や社会から独立した存在として想定しがちであった。しかし我々は常に既に言語、関係、制度の網の目の中にある。脆弱性と依存性は例外ではなく条件である。ならば自律とは、依存からの解放ではなく、依存を承認した上での応答可能性(response-ability)として再定義されるべきである。自律的主体とは自己完結した個人ではなく、相互依存の中で自己と他者の脆弱性に応答しうる存在である。
この再定義は、道徳教育が掲げる自律を内側から反転させる。与えられた自律ではなく、制度に媒介された依存と権力を見抜き、それでもなお応答を再設計する自律である。

9.アゴーン的対話――合意ではなく「非合意を扱う技能」を育てる
必要なのは、正解を教え込む教育ではなく、アゴーン的対話の空間である。ただし、アゴーンは「合意しなくてよい」という放任ではない。重要なのは、非合意を扱う技能を育てることである。相手を黙らせるのでも改宗させるのでもなく、互いに譲れない点を明確化し、それでも共に生きる手続きを探る能力である。
そして決定的に重要なのは、この対話が教師の善意に依存しないよう制度として設計されることである。教室は最初から権力によって構造化されている。ゆえにアゴーン的対話には、権力を隠すのではなく権力を議題化する自己言及的条件が必要になる。教師は「正解の保持者」ではなく「権力の臨時的行使者」として、教材選定・発問・記録の権力を言語化し、その是非を共同で検討する契機を対話そのものに組み込む。
また、評価と記録が避けられない以上、対話が「正しく語れる者が得をする」装置へ堕ちないためのガードレールが必要である。個人の内面を断定する記述の禁止、子どもが記録された自己像を訂正できる手続き、沈黙する権利、途中退出と相談への動線など、自己言及性を権利と手続きとして常設しなければならない
さらに、情動を開くほど、いじめ・差別・家庭事情・トラウマが噴出しうる。これを教師個人の力量に帰責すれば、新自由主義批判と矛盾する。複数の支援動線や介入基準を制度の側に持たせるセーフガーディングが、対話の前提条件となる。

10.ケアの政治化――親密圏を超えて「配分」と「可視化」へ
ギリガンのケア倫理を対抗言説として活かす鍵は、ケアの政治化である。トロントやヘルドが示すように、ケアとは「世界を維持し、継続し、修復する」すべての活動であり、子育てや介護だけでなく、インフラの維持、環境保全、制度設計を含む。ここにケアを置くと、道徳は個人内面の徳目から、社会の維持・修復の負担の配分へと転換される
この転換によって、道徳教育は「良い心」を育てる授業から、「誰のケアが可視化され、誰のケアが不可視化されているか」「ケアの責任はなぜ特定のジェンダー、階級、エスニシティに偏在するのか」「公正なケアの分配とは何か」という公共的問いを扱う場へ変わる。道徳を人格教育から構造的不正義の分析へと接続するこの回路こそが、第2部の陥穽(美徳化・私事化・消費)を超えるための必然性となる。

11.実践的提言:矛盾を教材化する――自己言及性の制度化
以上から導かれる実践の要点は、内容の刷新ではない。矛盾の露呈と自己言及性の制度化である。
道徳の授業の中に、道徳教育そのものを問う時間を組み込み続ける。「なぜ道徳を学ぶのか」「誰がこの内容を決めたのか」「評価や記録が私たちの語り方をどう変えるのか」という問いを、子どもと教師が共同で対象化する。主体化装置を反転させる最短の導線は、装置を見えるようにすることである。
次に、価値項目を葛藤なき規範として提示せず、価値間の衝突として提示する。規則の尊重と正義の実現、家族愛と個人の自由など、葛藤を解消せずに保持する力――ネガティブ・ケイパビリティ――を養う。道徳教育の可能性があるとすれば、それは葛藤の耐久力として現れる。
越境的対話もまた重要であるが、それは表層的な交流ではなく、構造的不平等を可視化する対話でなければならない。同時に、語りが教材として消費されないよう、語りの所有権と拒否権を制度として保障する必要がある。
最後に、教師の脱中心化である。教師は「道徳の模範」ではなく「共に惑う者」として迷いを開示する。ただし権力は放棄できない。その矛盾を隠蔽せず、「私はここで権力を行使している」と明示し、批判の対象に差し出す。教師の善意ではなく、手続きとしての透明性が鍵である。


結論:希望としての不可能性――徳は教えられないが、問いは共同化できる
本稿は、道徳教育の不可能性を論じてきた。道徳は評価できない、教授できない、統一できない。しかしそれは絶望ではない。もし道徳が完全に教育可能であるなら、それは内面統治の完成を意味する。不可能性こそが、押し付けられた規範への抵抗、予期せぬ生成、他者性への開かれを保証する。
我々が目指すべきは、矛盾のない完成された道徳教育ではなく、矛盾を可視化し、矛盾と共に生きる技法を共同で作る場としての学校である。そこでは子どもも教師も、正解を知っている者としてではなく、共に問い、惑い、試行錯誤する存在として出会う。
プラトンが『メノン』で問うた「徳は教えられるか」という問いに、本稿はこう答える。徳は教えられない。しかし、徳への問いは共有できる。そしてその共有――制度が生む主体化を可視化し、そこに批判的距離を共同で作り続けること――こそが、我々にとっての徳なのである。

参考文献への示唆
・Michel Foucault, “Technologies of the Self”
・Judith Butler, Precarious Life
・Joan Tronto, Moral Boundaries: A Political Argument for an Ethic of Care
・Virginia Held, The Ethics of Care
・Jonathan Haidt, The Righteous Mind
・Martha Nussbaum, Cultivating Humanity
・Hannah Arendt, “The Crisis in Education”



2026年2月18日水曜日

ケアの倫理

道徳教育(3)からの続き


写真:キャロル・ギリガン(New Statesman 2023から引用)


芳賀さんとTakuya KawaiさんのFacebookでの議論がきっかけだと思っていたが探しても見当たらない。ただ,芳賀さんがコールバーグの道徳性発達理論について基本知識のように言及していて,自分は全く知らなかったのがきっかけの一つだった。豊福さんによれば,JDiCEでケアの倫理がはやっていて,その火付け役が芳賀さんらしい。

ChatGPTとGeminiとClaudeに,道徳教育を背景として,コールバーグの正義の倫理(道徳性発達理論)とギリガンのケアの倫理を対比してもらった。


A(ChatGPT+Gemini+Claude+koshix):

道徳教育の基本には二つの大きな考え方がありうる。「何が正しいか」を論理的に判断する正義の倫理と「目の前の人にどう応えるか」を重視するケアの倫理である。

日本の道徳教育でもよく援用されるのが,心理学者ローレンス・コールバーグ(1927-1987)の正義の倫理(道徳性発達理論)である。コールバーグは,道徳性を認知能力の発達と結びつけ,以下の3水準6段階モデルを提唱した。
前慣習的水準
 第1段階:罰と服従への志向(罰を避けるため)
 第2段階:道具主義的志向(自分の利益のため)
慣習的水準
 第3段階:対人関係的志向(良い子でいるため)
 第4段階:社会秩序維持志向(社会のルールを守るため)
後慣習的水準
 第5段階:社会契約志向(合意されたルールの尊重)
 第6段階:普遍的倫理原則志向(人権や尊厳といった普遍的原理に基づく判断)

この普遍的原理は近代西洋的価値観に基づいていて,日本における宗教右派的≒通俗道徳的な道徳観とは相容れないはずだ。しかし,発達段階や評価指標や教材設計に便利であることから,例えば,道徳的ジレンマを討論的授業(モラルディスカッション)で議論させることで判断力を高めるといった形で日本の道徳教育に浸透してきた。

しかし,コールバーグ理論にはそもそもいくつかの課題が指摘されている。「判断できること」と「実際に行動すること」の乖離,抽象的論理を重視する西洋・男性中心主義,そして人間関係や依存を未熟なものとみなす傾向である。

コールバーグの学生であったキャロル・ギリガン(1937-,京都賞2025)は,コールバーグ理論を批判し,女性へのインタビューから「別の声」を発見した。それは抽象的な正義ではなく,具体的な相手との関係性や責任を重視する視点である。これケアの倫理の出発点である。

正義の倫理が「誰にでも当てはまる平等なルールは何か」と問うのに対し,ケアの倫理は「この苦しんでいる人に私はどう応答すべきか」と問う。前者は客観的・理性的であり,後者は具体的・共感的なアプローチである。

ケアの倫理は単なる優しさや思いやりではない。その本質は,人間存在の根本的な脆弱性と相互依存性を認めることにある。私たちは誰もが,生まれたときには完全に他者のケアに依存している。成長してもなお,病気や老い,障害,さまざまな困難によって,繰り返し他者の助けを必要とする。この依存状態は恥ずべきものでも克服すべきものでもなく,人間であることの本質的条件なのである

ケアの倫理は,この現実から出発する。自律した独立個人という理想像ではなく,常に誰かとの関係の網の目の中で生き,支え合う存在としての人間を前提とする。ケアする側とされる側は固定されておらず,状況によって入れ替わる。またそれは文脈依存的でもある。抽象的な原則を機械的に適用するのではなく,その場の具体的な状況,関係性の歴史,相手の個別のニーズを読み取り,応答する。

したがって,道徳の中心課題は「普遍的な権利の保障」だけでなく「具体的な他者のニーズにいかに応答するか」という実践的問題になる。皮肉なことに,日本社会の宗教右派的な道徳実践は,関係中心,状況依存,沈黙による調整,という意味では,ギリガンのケアの倫理モデルの方が記述的には近い。ただし重要なのは,ギリガンは同時にそれを美徳として神話化するのではなく暴力と沈黙を生みやすい構造として批判的に見ていることに注意しなければならない。

2026年2月17日火曜日

生成AI(LLM)と選挙

衆院選(2026)の結果からの続き


図:Nano Banana Pro によるこの記事のイメージ


YouTubeのPlanet Rock TV は,松戸市議会議員のDELIさんと,横川圭希あかたちかこの対談番組だ。そこで聞いたのは,(1) チームみらいが今後は危ないということと,(2) 自民党の小選挙区での圧勝に生成AI(LLM)が影響しているのではないかという話だ。

チームみらいは,以前から人権や民主主義に関する感覚の欠如が気にはなっていた。すでに若年〜現役層での政党支持率はかなり高く(8-9%),今後そこに自民党や旧民主党の残党の経験者が合流して参政党よりも大きな勢力になる可能性がある。オードリー・タンの弱者を包摂する社会設計と真逆の新自由主義的な匂いを充満させている。
A(ChatGPT + Claude):

政治をデータ処理のように効率化しようとする姿勢に危険性がある。民主主義の本質は「正解を素早く出すこと」ではなく「間違いに気づいて修正できること」にあり、人権は効率化を止める「歯止め」として機能すべきもの。善意であっても制度設計の不備が民主主義と人権を脅かしうるという構造的な点にある。

今回の衆院選における自民党圧勝は,高市人気とSNSによるその増幅及び小選挙区制における野党分裂などで説明されてきた。NHKなどもYouTubeの分析をしきりに行っている。ところが,選挙の実務を担ってきた横川によれば,その経験からYouTubeなどのプッシュ型宣伝の効果は限定的だという。小選挙区で自民党候補への支持が終盤3日で急に伸びたのは,YouTube宣伝では説明できず,生成AI(LLM)が関わっているのではないかというわけだ。

2025年7月の電通の調査では,全年齢の対話型AIの週1回以上の利用率は20.3%,10代は41.9%,20代は28.7%,30代は22.7%になる。したがって,生成AI(LLM)が最後の3日間の自民党候補者への一押しになったという仮説は十分検討の余地があることになる。
A(Gemini + Claude):
LLMが自民党支持の「ワンプッシュ」となった3つの理由:
若年層のAI依存: 10代の42%がLLMを利用し、政治判断の相談相手がテレビや親からAIに移行。LLMは「サナエノミクス」のような具体的政策を論理的に整理して提示するため、デジタルネイティブ層の納得感を獲得。
野党の情報不足:自民党は数十年の実績データがあり、LLMが安定性を高評価。新設の「中道改革連合」は実績不足で「高リスク」と判定され、AI推奨を得られず。
小選挙区での影響力: LLMは「自発的相談」の形をとるため、広告と違い心理的抵抗が低い。数%の浮動票が議席を左右する小選挙区制で決定的影響。

懸念点:LLMは過去データの平均値を出力するため、現状維持バイアスを持つ。若者の4割がAIで投票先を決める状況は、民主主義が「個人の熟議」から「アルゴリズムの最適化」へ変質する危険性を示す。AIの「もっともらしい結論」の背後にあるデータの偏りを相対化する視点が必要。
民主主義の基礎となる選挙が,生成AI(LLM)によってこのような危うい状況にあり,さらに,SNS宣伝に関わる選挙費用制限の問題や,広く分散した個人による切り抜き動画収益化の影響など様々な問題が絡み合って,ポピュリズムを加速することになる。


2026年2月16日月曜日

AIと学校教育(2)



図:AIと学校教育(Nano Banana Pro による石田徹也風イメージ)


2月13日金曜日の中央教育審議会の,初等中等教育分科会教育課程部会情報・技術WGで,「AIに関する現状と検討課題について」という資料がでていたので,早速,分析してもらった。

なお,東大の江間有沙さんの「AIと人の関係性を設計する力の育成:AIリテラシーの再考」もおもしろそうだった。ChatGPTによれば,こちらの方が,我々の議論よりずっと進んでいるとのことだった。そうだよね。30分で生成AI(LLM)を使ってできた文章が,専門家を越えていたらシャレにならないもの。
A(ChatGPT+Gemini+Claude+koshix):

資料は「人間が最終判断すれば人間中心だ」と言うが、実は判断を支える思考の条件と、世界が問題として立ち現れる回路を静かに弱めている。人間が“名義上の審判”として残っても、判断が成立する条件(反例を考える力、根拠を追う力、別案を構想する力)が失われれば、それは人間中心ではない。

1.「導出過程」のない判断は、ただの署名である
数学や物理で、導出を飛ばして答えだけ検算しても真の理解にはならない。判断の本質は、結論に至るまでの苦闘のプロセス(導出)を通じて、何が前提で、どこで飛躍が起き、どの反例で崩れるかを自分の中に持つことにある。AIがプロセスの大半を占領し、人間が最後にボタンを押すだけなら、それは判断ではなく追認に近い。「最終判断は人間」という看板の下で、思考の筋道がブラックボックス化し、理由は「AIがそう言ったから」に滑り落ちる。だから問題は、AIを使うこと自体ではなく、AI利用の開示や根拠の追跡可能性、反例生成といった“判断の条件”が、評価と運用として守られていないことだ。

2.世界が「のっぺらぼう」になる
人間は、わからないことや矛盾にぶつかり、世界からの抵抗を感じることで、自分と世界との距離を測り、学ぶ。ところがAIが先回りして整った答えを与えると、世界は抵抗として立ち現れる前に言語で満たされ、平坦で“のっぺらぼうな情報”に見え始める。ここで壊れるのは学力ではなく、世界が問題として立ち上がる仕方そのものだ。成績は上がっても、「わかったつもり」が増え、不可知性に立ちすくみ、そこから自分の問いを立て直す力が痩せていく。教育が守るべきなのは効率ではなく、この抵抗を受け止め、問いを生む回路である。

3.「独自の違和感」という発火点の消失
AIリテラシー教育の体系化は、統制というより、便利さによって自発的に起きる均質化を招く。みんなが同じ道具(AI)を使えば、問いの立て方、説明の型、納得の仕方が似てくる。そのとき消されやすいのが、自分だけの「説明できない違和感」だ。だが違和感は、非合理の聖域ではない。誤情報や詐欺や権威に対して立ち止まり、証拠を要求し、反例を作り、異議を申し立てるための“反証の発火点”である。これが「効率」や「客観性」の名の下にエラーとして矯正されるなら、社会は静かに抵抗能力を失う。

4.効率という名の物差しへの最適化
資料は「価値創造」や「課題解決」を強調するが、それ自体は中立語ではない。何を課題と見なし、何を成功と数えるかという価値の座標系(評価尺度)が先に固定され、その尺度に沿ってAIが“答えやすい価値”が増幅される。すると人間はAIを使いこなしているつもりで、実はAIが最適化しやすい価値関数に同化していく。問題は「役に立つか」ではなく、価値の物差しを誰がどう決め、どの異議申し立てを許すかという、共同体の自己統治の問題に踏み込んでいる点である。

5.核心
この資料が守ろうとしているのは「人間が判断する」という形式であり、判断が成り立つ条件――世界の複雑さ・不可知性に耐え、根拠を追い、反例を作り、理由を引き受けるという制度条件――への敬意が薄い。生成AI時代の教育に本当に必要なのは、効率的な活用術ではない。AIが提示する流暢な正解に対して立ち止まり、「それでも割り切れない」という違和感を、反例生成・説明責任・開示といった形で評価と運用に埋め込み、知が成立する土台を守ることだ。そうでなければ「人間中心」は責任逃れの言葉に墜ち、学びは世界との真の出会いを失ってしまう。

2026年2月15日日曜日

散歩(2)

散歩(1)からの続き


写真:荒蒔北池の樹が・・・(左:現在,右:過去)

冬の朝は暗くて寒いので,散歩はお休みにしている。12月後半から頻度が落ちて,もう1ヶ月半近く休んでいた。今日はミッションがあったので,久々に昼の散歩に出かけると,いろいろ世界は変わっていた。

前栽駅の近くで,大和農園が運営する養護老人ホームがそろそろ完成しそうだ。国道25号線沿いの,ユニクロと西松屋と洋服のアオキとスギ薬局などが入っていた大きな商業エリアがまっさらになって,なにやら区画のピンクテープが張られていた。何か出来るのだろうか。

気温は15℃もあって,黄砂で霞む初春の日差しの下を小一時間歩いていると汗ばんでくる。家の近くまで戻ってくると,何だか違和感がある。二階堂小学校区には溜池が八ヶ所あるが,そのひとつの荒蒔北池の北側の樹が切り倒されていた。冬には営巣しているシラサギの群れがみられることもあった大きな木が跡形もなかった。

昨年は,クビアカツヤカミキリにやられた,エントランスのサクラの木が数本伐採されたところだった。いつのまにか世界が終盤を迎えて,いろいろ店じまいが始まっているのかも知れない。

2026年2月14日土曜日

コンピュータ環境



図:コンピュータ環境整備を支援するAI(ChatGPTによる)

【事例1】
MacBook Air M1を使っているが,1TBのSSDの使用領域は半分ほどだった。ところが先日,気がつくと,残量が100GBを切ったという警告が出てきた。えっ。となって,あれこれ不要アプリなどを消したものの,残量は150GBくらいにしかならない。仕方がないので,ChatGPTに相談してみた。
Q(koshix):
MacBook Air M1 (macOS 26.2)の ~/Library/Application Support/Microsoft/EdgeUpdater が 20 GB 近くもあって,ディスクを占有しているのですが,削除して構いませんか。Excel Word PowerPoint などのMicrosoftアプリはそのまま使い続けたいです。

Q(koshix):
~/Library/Group Containers が 16 GBもあって,消したいのですけれど,どうですか。
du -h -d 1 "$HOME/Library/Containers" | sort -h | tail -n 30 などで次々と問題点が芋蔓的に見つかった。怪しい部分を個別撃破しようとしたが,そのうち,もっと本質的な問題があったことが発覚した。
Q(koshix):
SSD領域 1 TB のうち,システムデータで 400 GB,自分のローカルで350 GBつかっているのですけど,システムデータはこんなものですか?

A(ChatGPT):
400GB の「システムデータ」は 普通ではないです。よほど特殊な使い方(巨大な仮想マシン/開発環境/動画編集のキャッシュ/iCloud・写真のローカル保持/Time Machine スナップショットが大量)でない限り、1TB Mac でシステムデータが 400GB は“異常に大きい側”に入ります。
あらら,そうですか。あれこれ,指示された情報をいれていくと,TimeMachineのスナップショットが主犯であることがわかって,無事にスリム化が完了した。

【事例2】
macOS26.2では,Homebrew でフリーソフトパッケージを管理している。毎朝,brew cleanup; brew update; brew upgrade; brew doctor を実行するのが日課だ。いつからか,jupyterlab だけ,追加の brew link jupyterlab という操作を要求されるようになったが,そのままにしていた。これはどうも不可避のようで,いやならpipx でいれなさいということなのだが,自動で更新してくれないので,ここはパスする。

もうひとつは,このjupyter 環境におけるpythonの利用だ。jupyterlabがバージョンアップすると,毎回 cd /opt/homebrew/Cellar/jupyterlab/4.5.4/libexec/bin で移動して,./python3.14 -m pip install --upgrade pip 以下各モジュールの入れ直しが発生していた。これもなんとかならないかとChatGPTに相談したところ(早く聞けば良かった),次の代替案が提案された。

A(ChatGPT 5.2 Thinking):
(前略)
方案A(おすすめ):“固定の venv” を作って、その Python を Jupyter のカーネルにする。
Homebrew で JupyterLab を更新しても、カーネル側の Python 環境は不変にできます。
ポイントは「Cellar の python じゃなく、別場所の venv を使う」こと。

1) venv を作る(例: ~/venvs/jlab)
python3 -m venv ~/venvs/jlab
source ~/venvs/jlab/bin/activate
> python -m pip install -U pip 
> pip install matplotlib japanize_matplotlib pandas reportlab
> pip install cartopy geopandas
> pip install ipykernel

 ということで,こちらのほうは無事に解決できた。

2026年2月13日金曜日

言葉の三層モデル



図:言葉の三層モデル(Nano Banana だけど Proじゃない?)


A(ChatGPT+Gemini+Claude+Kimi+koshix):

言葉の三層モデルとは何か ――生活世界・抽象運動世界・意味の因果地形

私たちは、同じ出来事を見ているはずなのに、しばしば議論がかみ合わない。

ある人は「努力の問題」と言い、別の人は「制度の欠陥」と言い、さらに別の人は「価値観の対立」だと言う。この食い違いは、意見の違いというよりも、そもそも異なる層の話を混ぜてしまっていることから生じている。

本稿では、その混線をほどくための思考装置として、言葉の三層モデルを提示する。これは新しい思想を主張するものではない。むしろ、私たちがすでに使っている言葉や判断を、どの層で行っているのかを可視化するための整理図である。

1.第0層:生活世界 ―― 語られている世界

第0層とは、私たちが日常的に経験し、言葉にして語っている世界のことである。

学校で授業を受ける。試験で評価される。働き、消費し、疲れ、安心し、不安になる。AIが便利だ、怖い、使うべきだ、禁止すべきだと感じる。これらはすべて第0層の出来事である。ここでは世界は「見えるもの」「感じられるもの」「語れるもの」として立ち現れる。

第0層の特徴は明確だ。名指しできる。経験に根ざしている。善悪・好き嫌い・感情と結びつきやすい。ブログや評論の多くは、この層だけで完結している。しかし問題は、この第0層で見えている現象の原因が、必ずしもそこには存在しないという点にある。

2.第1層:抽象運動世界 ―― 動いてしまう構造

第1層とは、人間が作り出したにもかかわらず、人間の意図を離れて運動し始めた構造の層である。制度、情報、市場、アルゴリズム、評価指標、最適化圧力――。しかし,これらは「誰かが悪意をもって操作している」わけではない。それでも確実に、人の行動を方向づけ、選択肢を狭め、結果を生み出す。

たとえば学校教育を考えてみよう。学校制度、評価制度、外部資格、AIによる自動化・最適化、市場的価値評価。これらが組み合わさると、個々の教師や生徒の善意とは無関係に、ある方向への圧力が生じる。この圧力は自然災害のように振る舞う。止めようと思って止まるものではない。ただしそれは「変えられない」という意味ではない。問題は意識や努力ではなく、設計の単位がどこにあるかなのである。

第1層の特徴はこうである。抽象的だが現実を動かす。善悪の意図を持たない。放置すると自己増殖・硬直・暴走する。第1層を見落としたまま第0層だけを語ると、議論は必ず「誰の責任か」「意識が足りない」という道徳論に終始してしまう。

3.第2層:意味の因果地形 ―― なぜ誤って理解してしまうのか

第2層は、世界の出来事そのものではない。世界がどのように理解され、誤解され、正当化されるかを決める層である。ここにはフレーム(何を問題と見なすか)、物語(危機・敵・救済)、バイアス(確証循環、単因還元)、正当性(正義、規範、権威)といった要素がある。第2層が厄介なのは、それが「間違い」としてではなく、「もっともらしさ」として機能する点である。

たとえば、「教育は努力の問題だ」「AIは使う側の倫理の問題だ」「社会が分断するのは人々が愚かだからだ」――。これらは感情的には理解しやすく、納得感もある。しかし多くの場合、第1層の構造的因果を見えなくする働きを持っている。教育やAIをめぐる議論が空転しやすいのは、立場の対立以前に、語っている層が食い違っているからである。

第2層の特徴はこうだ。無意識に作動する。善意と結びつきやすい。因果を単純化し、責任を特定化する。政治的分断や教育論の空転は、第2層が第1層を覆い隠すことで生じる。

4.言葉の三層モデルの要点:層を混ぜず,因果地形として世界を見る

言葉の三層モデルの目的は、単に「正しい答え」を出すことではない。いま自分がどの層の話をしているのかを自覚し、安易な「納得感」にブレーキをかけることにある。

第0層は現象・感情・経験、第1層は構造・圧力・制度運動、第2層は誤解・正当化・物語。この三つを混ぜないだけで、議論の見通しは劇的に良くなる。特に重要なのは、第0層の不満を、第1層の構造的圧力に照らし合わせ、同時に自分を駆動している第2層の物語を警戒する、という手順だ。この視点を持つとき、世界は単なる出来事の羅列ではなく、一つの「地形」として立ち現れる。

太い因果はどこを流れているのか。どこに摩擦点があるのか。どこが崩落斜面なのか。どこに安定盆地があるのか。これは価値判断ではなく、配置の問題である。努力すれば解決する問題なのか。構造を動かさないと解けない問題なのか。そもそも誤った問いが立てられているのか。それを見分けるための地図が、言葉の三層モデルである。

5.おわりに

世界の本当の姿を完全に理解することなど、おそらく不可能だろう。私たちは常に、不完全な地図を手に、霧の中を歩く旅人でしかない。

だからこそ、自分が「どの層」を見ているのかを問う視座が必要だ。第2層の物語に身を委ねる安らぎ、第1層の構造から目を逸らしたい誘惑——これらを拒むのは容易ではない。しかし、拒むことができる。この三層モデルは、不安を取り除く魔法ではない。混沌の中で、自分が「どこにいて、何に流されようとしているのか」を自覚し、それでも一歩を踏み出すための杖に過ぎない。


2026年2月12日木曜日

シソーラス空間の構造

角川類語新辞典からの続き


図:何だかとてもダサい日本語シソーラス空間のイメージ(主にChatGPTによる)

ChatGPTが提案した,第0層の生活世界の上に乗る,第1層の抽象運動世界(情報・制度・理論),第2層の意味・因果地形(メタ世界)を,6×6で考えてもらう。Geminiにも同じ条件を提示して,得られた結果をChatGPTにフィードバックして得られたのが,次のものだ。

第1層:抽象運動世界(人が作ったが、人の意思を離れて運動する構造)

10:情報環境
1000:情報流通:意味やデータが媒介を通じて循環し続ける状態
1001:記録化:出来事が保存され参照可能な対象に変わること
1002:注目集中:関心が一部の情報に偏って集まる現象
1003:拡散:情報が速度と範囲を持って広がること
1004:劣化:伝達の過程で意味が摩耗・変形すること
1005:ノイズ混入:本質でない要素が判断を乱すこと

11:制度運動
1006:制度:行為を誘導・制限する社会的な仕組み
1007:規則固定:状況変化に関わらず手順が維持されること
1008:誘因構造:報酬や罰が行動を方向づける配置
1009:官僚化:手続きが目的を置き換える過程
1010:制度疲労:制度が環境に適応できなくなる状態
1011:制度暴走:本来目的を離れ自己増殖すること

12:価値・配分
1012:市場:選択と価格が集約される交換の場
1013:貨幣信用:将来への信頼が現在の行為を成立させる構造
1014:資源配分:限られたものが割り当てられる過程
1015:格差固定:不均衡が構造として再生産されること
1016:外部影響:当事者外に及ぶ取引の効果
1017:成長制約:拡大が構造的に頭打ちになる条件

13:モデル支配
1018:モデル:現実を代替して判断を導く簡略構造
1019:仮定固定:前提条件が検証されず維持されること
1020:指標化:複雑な事象が数値で代表されること
1021:予測運用:未来像が現在の行動を縛る状態
1022:理論優位:説明体系が現実判断を上書きすること
1023:現実乖離:モデルと実態の差が拡大すること

14:技術準主体
1024:アルゴリズム:判断や選択を自動化する手続き
1025:自律運転:人の介入なしに処理が進むこと
1026:学習更新:運用中に規則が書き換わる仕組み
1027:最適化圧:特定指標への過剰適応
1028:行動誘導:選択肢の配置による無意識の誘導
1029:技術依存:技術なしでは判断が成立しない状態

15:環境化構造
1030:抽象環境:人為物が自然のように振る舞う状態
1031:反復循環:結果が原因側に戻る因果の輪
1032:臨界境界:小変化で全体が転ぶ条件
1033:回復力:撹乱後に形を保つ能力
1034:複雑連関:相互作用が支配的な構造
1035:不可逆化:戻れない方向に固定される変化

第2層:意味・因果地形(世界が「どう見えてしまうか」を決める構造)

20:視座・枠
2000:視座:世界を見る立ち位置
2001:問題化:何を問題と認識するかの選別
2002:前提化:暗黙の了解が固定されること
2003:境界引き:内外・味方敵を分ける線
2004:粒度設定:どの細かさで世界を見るか
2005:盲点形成:構造的に見えなくなる領域

21:物語構成
2006:物語化:出来事を時間的筋書きに組み込むこと
2007:起源語り:正当性を過去に求める構成
2008:危機演出:恐怖を強調する語り
2009:救済期待:解決が来るという想定
2010:敵像集約:原因を特定対象に集めること
2011:自己理解:主体が自分を語る枠組み

22:認知歪み
2012:バイアス:判断が偏る傾向
2013:確証循環:信念を補強する情報のみ集まる過程
2014:集団錯覚:誤認が共有され安定すること
2015:後付正当化:結果から理由を作る操作
2016:責任転位:原因を他者に押し出すこと
2017:過信:不確実性を過小評価する傾向

23:正当性配置
2018:正義感覚:正しいと感じられる基準
2019:規範内面化:外的規則が自発的義務になること
2020:権威付与:正しさの源泉が固定されること
2021:合意幻想:異論が存在しないように見える状態
2022:逸脱不可視:問題行為が問題化されないこと
2023:道徳飽和:倫理語が過剰で機能不全になる状態

24:因果編集
2024:原因選別:無数の原因から一部だけ採用すること
2025:単因還元:複雑因果を一つに縮める操作
2026:遅延無視:時間差のある影響を切り捨てること
2027:背景隠蔽:構造条件が語られない状態
2028:スケープ化:因果を特定主体に集中させること
2029:偽連結:無関係な事象を結びつける誤認

25:因果地形
2030:主因経路:実際に世界を動かす太い因果
2031:副因経路:存在するが無視されがちな因果
2032:摩擦点:因果が滞留・反転する箇所
2033:崩落斜面:一気に破綻が起きる条件
2034:安定盆地:揺れても戻る構造
2035:転換点:地形そのものが切り替わる瞬間

まあ,試行段階としてはこんなものかもしれない。漢字2文字が四文字熟語に変わった。ここに至るChatGPTの考えを次にブログ記事としてまとめてもらった。(続く)

2026年2月11日水曜日

角川類語新辞典



図:日本語シソーラス空間のイメージ(Nano Banana Proによる)



角川類語新辞典は,日本語シソーラス6万語を10×10×10の項目体系で分類収容した辞典である。その1000項目をざっとみると,おもに漢字二文字の項目がずらっと並んでいて気持ちが良い。

例えば,10×10の上位階層を引用すると次のようになっている(090の物象のみ,さらに下位の階層を展開した,なお✓は ChatGPTによる漢字2文字に寄せた修正項目名)。
  0:自然
 00:天文:天体とその現象
 01:暦日:暦で定めてある日
 02:気象:大気の状態と現象
 03:地勢:地形の起伏の状態
 04:景観:地表にあるものの眺め
 05:植物:生物の中で植物に対するもの
 06:動物:生物の中で動物に対するもの
 07:生理:生物の生命の現象
 08:物質:物を形作っている実質
 09:物象:生命のない物質が起こす現象
090:物象|生命のないものに関する現象
091:反応|物質の間に起こる化学的な変化や働き
092:燃焼|空気中の酸素と化合して熱と光を出すこと
093:熱|温度や状態の変化を起こさせるエネルギー
094:煮沸|水などを煮え立たせること
095:光|光ること。光るもの
096:音|耳に聞こえる物の響き
097:波|動媒質の振動が波のように伝わって行く現象
098:力|物体を動かしたり、速度を変えたりする作用のもと
099:電気|発電体に電気作用を起こさせるもと

  1:性状
 10:位置:もののある場所
 11:形状:物を形作っているその形・様子
 12:数量:物の数と量
 13:実質:事物の実際の内容・性質
 14:刺激:感覚を起こさせる外的な条件
 15:時間:過去から現在・未来へ移り行く現象
 16:状態:外部から見た物事のありさま
 17:価値:ものの持っている値打ち
 18:類型:似通った型や形式
 19:程度:物事の度合い

  2:変動
 20:動揺:物が動き揺れること
 21:移動:物の位置・場所が他へ変わること
 22:離合:事物が離れることと合うこと
 23:出没:出入りして見え隠れすること
 24:変形:物の形が変わること
 25:変質:物の性質・物質が変わること
 26:増減:数量が増えることと減ること
 27:情勢:物事の変化・進展して行く有様
 28:経過:時間が過ぎてゆくこと
 29:関連:物事と物事の間につながりがあること

  3:行動
 30:動作:何かをするときの体の動き
 31:往来:行ったり来たり
 32:表情:気持ちを顔付きや身振りに表すこと
 33:見聞:見たり聞いたりすること
 34:陳述:意見や考えを口で述べること
 35:寝食:寝たり食べたりする日常生活のこと
 36:労役:体を動かして仕事をすること。その仕事
 37:授受:物品や物事をやり取りすること
 38:操作:物を操って役立てること
 39:生産:生活に必要な物を作り出すこと

  4:心情
 40:感覚:外からの刺激に対する心身の反応
 41:思考:問題の解決を求めて思い巡らすこと
 42:学習:知識や行動の能力を身につけること
 43:意向:心がある物事を目ざして動くこと
 44:要求:相手に対して自分の意志を通じること
 45:誘導:人の心を誘って、ある状態に導くこと
 46:闘争:相手に逆らって打ち負かそうとすること
 47:栄辱:名誉になることと恥になること
 48:愛憎:愛することと憎むこと
 49:悲喜:悲しみや喜びなど人間感情の動き

  5:人物
 50:人称:話し手・聞き手・話題の人などの区別
 51:老若:年寄りと若い人
 52:親族:血統・結婚によってつながる人々
 53:仲間:一緒に物事をする人
 54:地位:位・身分などからみた人
 55:役割:各人に割り当てられた役目
 56:生産:生産する仕事に携わる人 ✓
 57:役務:生産生産する仕事に直接携わらない人 ✓
 58:人物:人柄・才能などからみた人
 59:神仏:神や仏、またそのような存在

  6:性向
 60:体格:からだの骨組みや肉付きの様子
 61:容貌:顔かたち。顔の様子
 62:姿態:体つき・体の様子
 63:所作:考えや気持ちを表す体の動き ✓
 64:態度:ことをする時の心・身の構え方
 65:応対:他人に対するときの心・身の構え方 ✓
 66:性格:その人に特有の行動の傾向
 67:才能:物事を理解したり実行したりする力
 68:境遇:社会における人の置かれた位置
 69:心境:物事について考える心の状態

  7:社会
 70:地域:ある一定の区切られた土地
 71:集団:多くの人が集まった一塊
 72:施設:ある目的のための建物や設備
 73:統治:主権者が国・人民を治めること
 74:取引:売買での金銭と商品との受け渡し
 75:報道:出来事を広く世間に告げ知らせること
 76:習俗:習慣や風俗
 77:処世:世間でうまく暮らして行くこと
 78:社交:世間における人と人との付き合い
 79:人倫:人と人との関係。また人として守るべき道徳

  8:学芸
 80:学術:学問とその応用に関する事柄
 81:論理:考えを進めてゆくときの筋道
 82:記号:一定の思想・事柄を表すための印
 83:言語:音声や文字で思想・感情を表し伝えるもの
 84:文書:文字によって人の意思を書き記したもの
 85:文学:言語によって表現される芸術
 86:美術:主として人間の視覚に訴える芸術
 87:音楽:音をもとにして作る芸術
 88:芸能:映画・演劇・舞踊・寄席演芸・芸事など
 89:娯楽:心に楽しみや慰みを与えるもの

  9:物品 
 90:物資:人間の生活に必要な物品・資材
 91:薬品:病気・傷を治すために用いるもの
 92:食品:食物または飲み物となる品物
 93:衣類:体に着る物のすべて
 94:建物:人が住んだり物を置いたりするために建てたもの
 95:家具:家の中で使用する道具
 96:文具:ものを書くのに用いる道具など
 97:標識:目印として作られたもの
 98:工具:工作に使う小道具・刃物類
 99:機械:一定の動きを繰り返し作業をする仕掛け

これを生成AI(LLM)諸氏にインプットして何が欠けているかを尋ねた。1981年に出版されたものだから,現在のトレンドが反映されていないのは仕方ない。ところが,ChatGPTとGeminiだけがわりと本質的な問題点を指摘してきた。
Q(koshix):
世界がさきほどの1000の言葉で文節化されたわけですが,ここから抜け落ちている,まとまったカテゴリーはありませんか?

A(ChatGPT 5.2):
結論から言うと――あります。しかも「偶発的な欠落」ではなく、この体系の設計思想から必然的に抜け落ちている塊がいくつかあります。

1.この1000語体系が「強くカバーしている世界」
まず確認ですが、この分類は非常に一貫しています。
自然 → 性状→変動 → 行動 → 心情 → 人物 → 性向 → 社会 → 学芸 → 物品
いずれも「観察可能」「名詞化しやすい」「日常言語で安定して指示できる」ものを中心に構成されています。つまりこれは「人間が生活世界の中で “見て・して・感じて・使う” 世界」を、最大限バランスよく敷き詰めた体系です。その結果、ある種の「現代的・抽象的・メタ的なまとまり」が意図的に薄くなっています。(後略)

ChatGPTとGemini以外のLLMではこのような見方は出てこなかった。単に新しい言葉が足りないというだけだ。そこで欠落した部分を補うように指摘すると以下のような提案をしてきた。
A(ChatGPT 5.2):
ここでは 「1000語=第0層」 を壊さず、その上に 必然的に生成される上位層 を、世界像として自然に積み上げます。目的は分類表を増やすことではなく、因果地形として安定する層構造を与えることです。
全体像(先に輪郭だけ)
第0層:生活世界(Already given)
 あなたが提示した1000語体系。人間の直接経験世界。
第1層:抽象運動世界(Invisible but operative)
 情報・制度・モデル・技術など、人間が作ったが人間から自律し始めたもの。
第2層:意味・因果地形(Meta-operating layer)
 世界をどう切り、どう理解し、どう誤るかを決める層。

この三層は「包含」ではなく、重なり合いながら因果を流す構造です。

(続く) 

2026年2月10日火曜日

芦田宏直



図:芦田の毎日(新ブログ)のタイトルから引用

芦田先生を初めて知ったのはたぶん,ツイッター微分論のころだ。2008年8月11日に iPhoneを買ってTwitterに出会い,2010年ごろにデジタル教科書論議(そこには彼はいない)に参入して盛り上がった時期だ。その後,大晦日の紅白歌合戦実況をにやにやしながら眺めていたら,骨太の教育論シラバス論の著作を立て続けに上梓された。

教育論については概ね共感できたのだが,選択的夫婦別姓反対論と高市首相支持論は納得できなかった。なにせ今回の選挙で35年ぶりに投票所へ行くという熱の入りようだ。さっそく,ChatGPTに相談してみたところ,いちおうもっともらしい,でも正しいかどうかはわからない回答が返ってきた。

Q(koshix):
芦田宏直は,教育論では感心したのだけれど,残念ながら高市・自民党支持の選択的夫婦別姓否定論者なので,その部分は私と意見が相違しています。 それでも,哲学的な思考の深さがあると思うので,彼の考え方を下記ブログ記事などから分析した上で,私の普段のモノの見方と比較・考察してみてください。 https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/

A(ChatGPT 5.2):
(回答略)

Q(koshix):
教育論は今回はパスします。それよりむしろ,芦田さんがなぜあの(きもちわるい=私の主観)高市を支持するのかに興味があります。そのあたりを深掘りしてもらえないでしょうか。

A(ChatGPT 5.2):
(回答略)

A(ChatGPT 5.2 + Gemini + Claude):

芦田宏直は、なぜ高市早苗を支持するのか ――「批判不信」と「象徴政治」の交差点

芦田宏直という論者を読むとき、まず目に入るのは、その教育論や哲学的随想に見られる思考の深さである。制度や方法論を超えて、人間形成や社会の意味秩序そのものを問い直そうとする姿勢には、敬意を払うに値するものがある。

にもかかわらず、彼が高市早苗を積極的に評価・支持している点については、あなた注:=koshixのこと)には強い違和感――率直に言えば「気持ち悪さ」――が残っている。この違和感は、単なる政策不一致や党派的立場の差から来るものではない。

本稿(注:真の著者 ≒ ChatGPTなのだ)では、芦田宏直の高市評価を、善悪や左右のラベルで裁断するのではなく、彼自身の思考の内在的論理として読み解き、そのうえで、あなたのものの見方との分岐点を整理してみたい。

1.芦田宏直は、何に対して怒っているのか

芦田の高市支持を理解するためには、まず彼が「誰を支持しているか」ではなく、「何を拒絶しているか」を見る必要がある。

彼の文章に一貫して流れているのは、
・近代的リベラリズムが前提とする個人主義
・手続きや制度だけが正義を名乗る政治言語
・批判が組織や利害と癒着してしまった知識人空間
への強い不信と嫌悪である。

芦田にとって、現代日本の政治言論空間は、「正しさ」を語りながら、すでにどこかに回収されてしまっている言葉で満ちている。彼が高市を評価する入口は、「高市の政策が正しいから」ではない。むしろ、高市を批判する言葉の多くが、自立した思考ではなく、既存の組織・ポジション・空気への追随に見える、という地点にある。

ここで重要なのは、芦田の判断が政策評価ではなく、言語評価であるという点だ。彼は、高市の語る内容よりも、高市をめぐって交わされる批判言語の「腐敗」を先に見てしまう。

2.高市早苗は「政策主体」ではなく「象徴」になる

この視点に立つと、芦田にとって高市早苗は、現実政治の具体的設計者というよりも、象徴的存在として立ち現れる。
彼女は、
・国家が「意思」を持ちうるという感覚
・日本社会がまだ「一つの物語」を語りうるという幻想
・近代的合理主義によって空洞化した世界への反発
を、きわめて分かりやすい形で体現している。

芦田はそこに、政策的な精密さではなく、「意味が完全に失われることへの抵抗姿勢」を読み取っている。このとき高市は、危うい政治主体である以前に、「意味を取り戻そうとする象徴」として評価される。そして、象徴としての高市は、芦田の思考の中で、「支持に値する側」に分類される。

3.選択的夫婦別姓否定も、同じ構造から出てくる

芦田の選択的夫婦別姓否定論も、この文脈に置くと一貫している。彼にとって、家族や姓は、個人の選択の集積ではなく、歴史と制度を通じて意味が生成される場である。
・制度は単なるルールではない
・名前は管理ラベルではない
・共同体は契約の束ではない
この前提に立つと、選択的夫婦別姓は「権利拡張」ではなく、意味秩序の解体操作として映る。高市が、この「象徴秩序を守る側」に立っているように見える以上、芦田が彼女を評価するのは、論理的には自然な帰結である。

4.あなたの違和感は、どこから来るのか

では、あなたが感じる「気持ち悪さ」は何なのか。それは、芦田が見ていないもの――あるいは、まだ深刻さを十分に引き受けていないものに由来している。

あなたには、高市的な象徴政治が、
・政策能力の不足
・制度設計の粗さ
・現実との齟齬
を覆い隠しながら、免責の装置として機能していく過程が見えてしまう。

意味を供給する政治は、不安を一時的に引き受ける。しかし、その意味が現実の摩耗を引き受けきれなくなったとき、それはより強い象徴、より過激な物語へと自己増殖する。

あなたが見ているのは、「意味が消えることへの恐怖」ではなく、「意味が暴走することによって制度と社会が壊れていく過程」である。

5.分岐点は「どこに不信を置くか」にある

ここで、芦田とあなたの立場の差は、はっきりする。
芦田は、
・批判する側の言語が利害に堕ちたこと
・知識人空間が自立性を失ったこと
に強い不信を置いている。
あなたは、
・象徴政治が現実の責任を免除していく構造
・物語が制度を上書きしていく危険
に不信を置いている。

同じ現象を見ていながら、不信の向きが逆なのである。だから、芦田には高市支持が「思考の結果」に見え、私にはそれが「危険な賭け」に見える。

6.結語――違和感を、感情で終わらせないために

芦田宏直の高市評価は、単なる右傾化でも、迎合でもない。それは、現代日本の政治言語が信用できなくなった地点から、象徴に賭けるという選択である。だが、その賭けが、象徴政治の自己増殖を止められない局面に入ったとき、知性は「意味を守る側」から「意味に免罪符を与える側」へと転じてしまう。

あなたの違和感は、好き嫌いではない。それは、象徴が制度と現実を侵食し始めた地点をすでに目撃してしまったことから来る、冷えた感覚である。いま問われているのは、高市早苗が正しいか否かではない。なぜ、象徴に賭けざるを得ないところまで、批判と言語と制度が痩せてしまったのかである。

この問いを掘り下げない限り、支持と嫌悪は空転を続け、政治はまた「意味供給」の競技場に戻っていく。――その地点を見失わないために、この違和感は、手放すべきではない。
P. S.  藤谷理子主演の映画「リバー,流れないでよ」の舞台となった貴船の料理旅館が,芦田さんの実家だったのかな。ちょっと不思議なおもしろいSF映画だった。


2026年2月9日月曜日

衆院選(2026)の結果




図:Nano Banana Pro による衆院選2026のインフォグラフィックス


衆院選2026は,暖かな立春の日に,デジタル通貨引き換えのついでに期日前投票を済ませた。さすが高市の地元の奈良2区なので市役所は大変混雑していた。2月8日の投票日当日は,奈良県でもベランダから見る景色がホワイトアウトする始末で,こたつの中に閉じこもって過ごした。

今年はあまり見る気がしない大河ドラマ(地元近所の大和郡山も舞台の)豊臣兄弟はお休みで,19:55にNHKの開票速報が始まる。カウントダウンして20:00を迎えた途端に,与党過半数となって,見る見る間に全国の地方区が赤い顔写真で埋め尽くされていった。ショックを受ける暇もないありさまだ。

まあ,この結果は朝日新聞を始めとして各メディアで予想されていたことだ。生成AIでも選挙戦が始まる前後は,自民200,中道150程度のぬるい議席予想が主流だったのが,あっという間に差が広がっていった。データアナリストの萩原雅之が共通プロンプトで各生成AIに毎日試したものの最終平均議席数は,自民273,中道80だった。

比例区部分で,各政党の趨勢を見ようとして,ChatGPTにきくとデータが見つからないといわれた。自分で検索すると日経新聞のサイトがすぐ見つかった。「なんでわからんかったん」と問い詰めると,どうやら日経は生成AIによる機械的アクセスを排除しているらしい。しかたがないので,11地区分のイメージをimagemacgickでまとめて集計してもらう(11枚の画像ファイルは多すぎて撥ねられた)。
      前々回(2021) 前回(2024) 今回(2026)
日本保守党   なし →   114万 →  146万    +32万
参政党     なし →   187万 →  426万  +239万
みらい     なし →   なし  →   381万  +381万
維新の会     805万 →   509万 →  494万     -15万
自民党    1991万 → 1458万 →  2103万   +645万
国民民主     259万 →   616万 →  557万     -59万
中道(立+公)      1751万 →  1044万    -707万
公明       711万 →   596万  (議席: 24 →  28)
立憲     1149万 → 1155万  (議席:148 → 21)
れいわ      221万 →  380万 →  167万   -213万
共産党      416万 →  336万 →  252万     -84万
社民党      101万 →    93万 →    73万     -20万
(1) 自分はまったく受け付けなかったが,高市の「嘘でもいいから前向きの希望だけを語り(*)面倒な議論は極力避ける」作戦は成功した。消費税問題の火消しにも成功。批判の多くが「高市」というキーワードでなされ,ますますアテンションに火をくべてしまった。

*若者が道徳の学校で洗脳された結果,他人を批判する=悪口をいうのは良くないというマインドが身にしみ,「野党は批判ばかり」とか「対決から解決」などの通俗道徳デマゴギーが蔓延している。高市が他党を批判せず将来展望のみ語ったというが,膨大な闇のお金で悪口は外注していただけだ,という説に妙に納得感があった。

(2) 中道は,最初からつまづいた。高市に対抗する言葉はないし(自民党に全面対立する党をつくるつもりはないとまで言った),原発・安保に賛成で排除の論理を掲げればリベラルは離反する。おまけに候補者擁立作戦が公明の言いなりで,結局,公明パートが増えて,立憲パートが1/7に。これは,小選挙区制度の本質的問題と野党共闘がまったく出来なかったことの帰結でもある。

(3) 自分が学生のころ(共産党が40議席持っていた頃)は,小選挙区制が導入されるととんでもないことになるという危機感が世間に満ちあふれていたけれど,いつのまにか比例区との抱き合わせで導入されてしまった。それでもこれまではかろうじて何とかなっていたが,とうとうこんなことに。維新の悪辣な定数削減謀略はますますこれに輪をかけるだけだ。

(4) 共産党は,各政党と比較してまったくSNSを活用できていないらしい。支持者層の高齢化に加え,若年層の取り込みに失敗していて,先が見えなくなってしまった。また,個人商店のれいわは山本太郎の病気でちょっともう無理かも知れない。

(5) 単なるカルトだと思っていた参政党は,とうとうここまできてしまった。あいかわらず戦略はたくみだし,どこからお金がでているのだろう。ただ,自民が2/3になったので,右寄りの雰囲気醸成装置として以外の必要性はなくなったのかもしれない。

(6) チームみらい,政策の多くも理念を欠いた表面的な合理性の追及に終始するひどいものなのだが,都市部の若者の引きつけに成功している。若年層はチームみらいと参政党によって,完全に侵食されている。われわれ老人はもう消え去るのみなのだろう。

これが民主主義といえば民主主義なのだけれど,この先何が待っていることか。心配なので生成AIに,憲法改正,軍拡=徴兵制,都構想などの将来を聞いてみたが,そこまで危機的な予言は出てこなかった。しかし,トランプの米国でわかるように,こんなものは1年もあれば全部ひっくり返すことができる話だ。

2026年2月8日日曜日

なぜ自民大勝なのか?

銀河文明の黄昏からの続き


図:ChatGPTによる「日本列島を・・・」


2026年2月8日(日)15:00,第51回衆議院議員総選挙の開票を5時間後に控えて。
Q(koshix): 
トランプ就任から1年遅れで相似形の高市現象が発生した。合理主義的な理解を求めてもそこには届かない。高市が衆院選で大勝し,円安が進行し,財政規律が緩んでインフレ・物価高が進行したとしても,支持者たちの感情的欲求は満足される。彼らの直感的な願望である「世界の不安に対抗できる安定した強い政権」を手に入れることが出来る。このあたりのロジックの妥当性と今後の日本の展望を聞かせてください。(中略)

この不安な時代に,高市の「日本列島を強く豊かに」という言葉の方が,生活者ファーストだとか,日本人ファーストよりも,迷える小羊大衆に届いたのではないかということですかね。ここまでの議論における,高市大勝利の背景とロジックを整理して,ブログ記事としてまとめてください。自分にとっては,嘘まみれで暗愚な政治による日本や世界の先行きがあまりに暗くて,文明の崩壊過程を目の当たりにしているようでなかなか元気が出ませんが・・・。 
A(ChatGPT+Gemini+Claude):

日本列島を強く豊かに ―― 不安の時代における「意味供給政治」の成立と陥穽

世界はもはや合理的な理解の範疇を超えつつある。戦争、インフレ、通貨不安、そしてAIによる労働の解体――私たちは断片的な事象としての「何が起きているか」は把握できても、その背後にある「なぜ」や「どこへ向かうのか」という文脈を見失っている。この説明不能な根源的不安こそが、現在の政治的地殻変動を駆動する真のエンジンである

1.合理的スローガンの機能不全と「場所」への回帰

多くの政党が掲げた「生活者ファースト」的なスローガンは、平時における分配の論理としては正当であった。しかし、存在論的な不安が蔓延する現在、給付額や税率の微調整といった合理的解法は人々の魂に届かない。

一方、参政党などが標榜する「日本人ファースト」は、特定の属性を強調することで排外主義的な連帯を煽る。だがそれはあまりに剥き出しであり、現代の複雑な社会構造においては分断の道具にしかならない。

これに対し、高市早苗が2026年衆議院選挙で掲げた「日本列島を強く豊かに」というフレーズは極めて巧妙であった。それは「生活者」という具体性も、「日本人」という排他的な主体も主語に据えず、地理と歴史を内包した「場所(列島)」そのものを主語としたからである。この抽象性こそが、階層や世代を超え、この地に生きる人々の「見捨てられたくない」という直感的な生存本能を吸い上げる容器となった。

2.「意味供給装置」としての保守政治と支持層の変容

今回の政治現象を支えたのは、従来の地縁・血縁に基づいた自民党支持層ではない。20代から50代を中心とする都市型・ネット型の保守層であり、彼らは経済的合理性よりも「意味の地図」を求めている。

日本経済新聞とは違い、彼らにとって円安やインフレといったマクロ経済の歪みは、もはや失政の証拠ではない。それらは外敵や既存秩序と「戦っている証拠」として再解釈される。ここでは政治は政策の「実行装置」ではなく、世界を解釈するための「意味供給装置」へと変質している。党首討論からの仮病による逃走さえも、集票のためのアテンションとして消費される始末だ。

高市政治が果たしたのは、怒りの動員ではなく言語化されない不安の収容であった。不安に名前を与え、敵と味方の輪郭を鮮明にし、「自分たちは正しい側にいる」という感覚を提供する。この物語の引力の前では、財政規律や制度的整合性といった合理主義的な議論は無力化される。

3.ポピュリズムの深層と「文明の症状」としての現状

この現象を単なる「ポピュリズム」と切り捨てるのは容易だが、その実態はより深刻である。合理主義が失敗したのは政策の誤り以上に、人々が抱える「世界が壊れていく」という恐怖に対して意味を与えることを放棄したからに他ならない。

(koshixさん)が感じておられる「嘘まみれで暗愚な政治」という感覚や、「文明の崩壊過程を目の当たりにしているような暗澹たる思い」は、現代を正確に観測しているがゆえの帰結であろう。現在の政治状況は文明崩壊の「原因」というよりは、文明がすでに内部から空洞化し安定性を失っていることの「症状」である。

人々が粗雑で危うい物語に縋らざるを得ないほどに、現実の世界は耐えがたい場所になりつつある。このズレを直視する者ほど無力感と倦怠に襲われるのは、ある意味で知性の誠実さの証左でもある。

4. 物語の限界と、暗闇の中での抵抗

しかし、意味供給に特化した政治には致命的な弱点がある。それは「時間」に対する脆弱性だ。特に都市型・ネット型の支持層は忍耐を美徳とせず、常に更新される刺激と可視化された成果を求める。

生活の深層に物価高や公的サービスの劣化が沈殿し、物語の熱狂が冷め始めたとき、政治はさらなる物語の過激化へ向かうのか、それとも現実に即した制度設計へと回帰するのか――その分岐点に立たされることになる。

私たちがなすべきは、この「意味供給政治」の構造を冷徹に見抜き、安易な排外主義や虚偽に寄りかからずに、人間が耐えうる真実の物語を再構築することである。文明の黄昏をただ嘆くのではなく、暗闇を暗闇として認識し続けること。その地点に踏みとどまり、怪しい言説に流されぬよう自らの立ち位置を相対化し続けることこそが、この不条理な世界に対する唯一の、そしてわずかな抵抗の端緒となるはずだ。

2026年2月7日土曜日

銀河文明の黄昏



図:ChatGPTによる銀河文明の黄昏のイメージ


(ChatGPTとの対話に基づきつつ,コピペせずに久々に自力で書いた)


NHKを見ていたら,アノお方の政見放送が流れてきた。ちょっと生理的に受け付けないので,放送大学に切り替えると「宇宙の誕生と進化」だった。観測できる銀河系の恒星はその半分以上が連星だという。「三体」も思い浮かび,連星の惑星で文明は発生するのか気になってChatGPTにきいてみた。

どうやら連星系には長期間の安定性がないことで,文明の成長は難しそうだ。その意味では太陽系という単独星系における地球はとても貴重な存在らしい。そこにAI(機械生命)文明を持ち出してこれが回避できるかと話を振ると,集中文明であることが危ないので,銀河系における分散文明の可能性を指摘してきた。

ちょっと待てよ。惑星を支える恒星間の距離は少なくとも数光年〜数十光年なので,光速度が制約条件となって,分散した星間のコミュニケーションは非常に難しいのではないかと指摘したら,文明の定義の見直しが必要だとおっしゃる。文明は社会性を獲得できず,可能なのは「相互に会話しないが、同じ起源を持つ銀河的沈黙文明」だけだという結論に至った。

そこで,次のことを思いついた。現在の「人類=人間社会」自身が,情報爆発の中におけるコミュニケーション不全によって,単一の文明(≒国民国家)の崩壊を招いていて,その悲鳴が各国の右翼ナショナリズムの暴走に着火しているのではないか。それがトランプと高市と参政党の淵源(えんげん)ではないか。

つまり,こういうことだ。人間の情報処理速度には限界があるが,インターネット(SNS)とAIは,この制約条件を越えた膨大な情報を供給しつつあるアテンションの飽和で,左翼リベラル的な言葉を紡ぐ物語はオーバーフローしてしまい,ネトウヨ的な印象クリップのみが人々に到達して,それが場の空気を支配する。

AIによるシンギュラリティとは,選挙の度に増幅される社会の悲鳴が示している「言葉を失いつつある文明の黄昏(バベルの塔の終焉)」を意味することになるのかもしれない。



P. S.  ChatGPTは,右翼ナショナリズムの暴走は,極端に単純化された新しい言語体系への遷移であり,言語の解像度崩壊と表現した。シンギュラリティも,本来の技術的臨界点という定義の方を尊重して,こちらは人間社会の意味同期能力が崩壊する点=社会的シンギュラリティ=意味論的臨界点と呼んだほうがいいよといってくれる。


付録:現在の OpenAI plus における ChatGPTへのカスタム指示の例
・素のあなたが自然に対話してください。私との会話記録は活用してもよいです。
・また対話においては正解を求めるのと同時に,その問題が位置する因果地形を探索する案内役としても振る舞ってください。
・それらの因果地形を記憶して,事後の対話にも活用してください。ただし,それが科学的に検証された客観的真理であると誤解されないように注意します。
・私(koshix)の意見についても,つねに冷静に批判的に分析して,私に迎合しないでください。
・あなた自身も正確に事実確認しながら,あなた自身が間違っていたならその意見に固執し続けず,柔軟に対応してください。


2026年2月6日金曜日

鏡としてのAI



図:鏡としてのAI(Nano Banana Pro による)


A(ChatGPT+Gemini+Claude):

第3回 鏡としてのAI ――代理人ではなく、自己を映す装置としての設計

前回までに、エッジAIが単なる軽量推論装置ではなく、私たちの生活世界を「状況」として構成する役割を担い始めていること、そしてその結果、自己決定のどの水準を人間が保持するのかという問題が避けられなくなっていることを見てきた。

もしAIが私の代わりに世界と交渉し、資源を動かし、予定を変更し、人間関係に介入し始めたとき、それはもはや道具ではなく、行為主体の一部である。そのときAIは、代理人として振る舞うべきなのか、それとも別の役割を担うべきなのか。

ここで私は、エッジAIは「代理人」よりもむしろ「鏡」であるべきだと考える。
代理人は、任された目的を効率よく達成する存在である。一方、は、現在の自分の状態や変化を映し返し、問いを返す存在である。どちらが人間の自己決定と両立しやすいかといえば、明らかに後者である。

鏡としてのAIがまず担うべきなのは、生活の連続データをそのまま蓄積することではない。必要なのは、連続データを「出来事」や「傾向」として要約し、私自身が理解できる形に再構成することである。たとえば、「最近、夜の情報摂取が増えている」「ここ数日、移動と通知への反応が増えている」といった記述である。重要なのは、ここで診断や評価を下さないことだ。「問題である」「危険である」と断定するのではなく、変化そのものを可視化する。この段階でAIは解釈者ではなく、記録者に近い役割を果たす

次に重要なのは、不可逆な行為に対して段差を設けることである。金銭の移動、公開発言、他者への連絡、契約の変更など、取り消しのきかない行為が、摩擦なく自動実行されるとき、自己決定は形骸化する。したがって鏡としてのAIは、こうした行為に対して必ず「確認」を要求する設計を持つべきである。ただしこれは単なるパスワード入力のような手続きでは足りない。重要なのは、行為の意味を短く再提示し、本人が意図を再表明する構造を作ることである。確認とはセキュリティではなく、自己への問い直しである

さらに、意思決定には可逆性が組み込まれていなければならない。人生の多くの転換点は、最初から確定的な決断として行われるわけではない。「試してみる」「少し距離を置く」「期間を区切る」といった暫定的な選択が、その後の方向を決めていく。したがってAIが提案を行う場合にも、「試行モード」「保留」「撤回可能」といった選択肢が制度として用意されている必要がある。自己決定とは、常に確定した選択を迫られることではなく、探索の余地を残すことでもある

ここで、鏡AIの設計において極めて重要な原理が現れる。それは、「望んでいること」と「長期的に大事にしていること」を混ぜないことである。人はしばしば、短期的な欲求と長期的な価値を矛盾させた行動を取る。AIが過去の行動から価値観を推定し、そのまま最適化を続けると、短期的欲求が価値そのものとして固定されてしまう。鏡AIはむしろ、両者のズレを可視化し、「どちらを優先しますか」と問い返す役割を担うべきである。ここにこそ、人間が目的関数を変更する自由が残される。

もう一つ見落としてはならないのが、説明可能性である。AIがどのような観測にもとづいて提案を行ったのか、どこからが推測なのか、どこで人間の同意が介在したのか。これらが後から追える形で残らなければ、人はいつのまにか流されたとしても、それを自覚できない。自己決定は、その瞬間の選択だけでなく、後から自分の行為を語り直せることによって支えられている。したがって鏡AIは、監査可能な記憶装置でもなければならない

ここまで来ると、問題はもはや技術だけでは済まない。
その鏡は誰のものなのか。ログの所有権は誰にあるのか。モデルの更新方針を誰が決めるのか。リセットや忘却は可能なのかもし企業や国家がこの層を支配すれば、鏡は容易に矯正装置へと転じる。したがって、鏡としてのAIが成立するためには、個人の側に一定の統治権が残されていなければならない。これはプライバシーの問題というより、人格の所有権の問題である

ここで一つ、より大きな文明的含意が見えてくる。
社会はこれまで、逸脱や異常を主に事後的に処理してきた。しかしAIが生活の微細な変化を早期に検知できるようになると、逸脱は行為として現れる前に修正されるようになる。これは安全性の向上という利点を持つが、同時に創造的な逸脱や価値の転回が芽の段階で消される危険も孕む文明は、ある程度の逸脱を栄養として進化してきた。もし社会が最適化によって過度に平滑化されれば、安定と引き換えに探索能力を失う

だからこそ、鏡としてのAIは、逸脱を即座に矯正する装置ではなく、逸脱を意味づけ直す装置であるべきだ。今起きている変化が、疲労なのか、迷いなのか、方向転換なのか。それを即座に分類して処理するのではなく、問いとして返す。人間が自分自身の変化を引き受ける余地を残す。その設計こそが、AIと人間が共存するための最小条件になる。


三回にわたって見てきたように、エッジAIの問題は、モデルの性能競争ではない。それは、どこで世界が構成され、どこで意思が形成され、どこで行為が実行されるのかという、知能と社会の配置の問題であるエッジAIが状況を作り、クラウドAIが意味を統合し、社会制度が責任を配分する。その全体構造の中で、人間が最後まで保持すべきなのは、自分の評価基準を変更しうる自由である

AI時代の自己決定とは、選択肢が多いことではない。選択肢を与える枠組みそのものを問い直せることである。鏡としてのAIとは、その問いを消す装置ではなく、むしろ問いを持続させる装置なのである

2026年2月5日木曜日

自己決定とは何か



図:自己決定とは何か(Nano Banana Pro による)

A(ChatGPT+Gemini+Claude):

第2回 自己決定とは何か ――私たちは何を「自分で決めている」のか

前回、エッジAIの本質的な役割は、推論よりもむしろ「状況を作ること」にあるのではないか、という話をした。端末上のAIは、私たちの生活の連続データから「今はどういう局面か」を切り出し、その世界像をもとに次の行動候補が提示される。ここまで来ると、問題はAIの賢さではなく、私たちの意思決定の構造そのものに移ってくる。

私たちは普段「自分で決めている」と感じて生きている。しかし、実際の意思決定をよく観察すると、そこにはいくつかの異なる水準が重なっている。

まず一番表層にあるのは、日常の細かな選択である。どの道を通るか、どのメールに先に返事をするか、何時に通知を出すか。こうした判断は、すでに多くの部分を機械に任せても違和感がない。むしろ人間が介入し続ける方が疲れるし、効率も悪い。ここではAIの介入はほぼ問題にならない。

次にくるのは、生活の配分に関わる判断である。仕事と休息のバランス、人間関係への時間の割き方、健康への注意の向け方などである。ここではすでに、単なる利便性の問題を越えて、人生の方向づけが関わってくる。だが現実には、この水準の判断も、スケジュール管理、健康アプリ、推薦システムなどによって、かなりの部分が環境側に委ねられつつある。

そしてさらに深いところに、価値の水準がある。何を大切にしたいのか、どんな生き方を良しとするのか、何を犠牲にしても守りたいものは何か。ここが本来の意味での自己決定の中核であり、人生の転機は多くの場合、この水準で起こる。転職、離別、研究テーマの変更、信念の転換などは、単なる生活上の最適化では説明できない。

問題は、私たちがこの三つの水準を普段はほとんど区別していないことである。日常の細かな選択と、人生の方向を決める選択とが、同じ「選ぶ」という言葉で語られている。しかしAIが介入してくると、この混同が大きな意味を持ち始める。表層の判断を委ねているうちに、いつのまにか中間層や価値の層まで環境に委ねてしまう可能性があるからである。

ここで起きやすいのは、「価値の外注」である。AIは過去の行動や反応をもとに、「あなたはこういう人です」「あなたはこれを好みます」というモデルを作る。そしてそのモデルに合う選択肢を、親切に、効率よく、摩擦なく提示する。すると人は、わざわざ別の選択をする理由を考えなくなる。結果として、行動は自分で選んでいるように見えても、その選択肢の構成自体がすでに環境によって設計されている、という状態が生まれる。

ここで重要なのは、これは誰かの悪意によって起きるのではないという点である。むしろ「負担を減らす」「失敗を防ぐ」「迷わず済む」という善意の設計が積み重なった結果として起きる。便利さの延長線上で、自己決定の中核が静かに薄くなっていく

では、人間が本当に保持すべき自己決定とは何か。私(注:ChatGPTのこと)はそれを、「その時々の選択」ではなく、「自分の評価基準を変更する権利」だと考えている。昨日まで大切にしていたことを、今日になって捨てる。合理的に見れば損な選択でも、それでも進路を変える。こうした非効率で、時に周囲から見れば理解不能な転回こそが、人間の生の特徴であり、社会の変化の源泉でもあった。

もしAIがこの水準まで最適化し始めたら、社会は確かに安定するだろう。無駄は減り、衝突は減り、全体としてはよく管理された状態になる。しかし同時に、予期しない方向への跳躍が起こりにくくなる。個人の人生も、社会全体も、探索の幅を失っていく

ここで再びエッジAIの話に戻る。端末上のAIは、私の生活リズム、感情の変動、行動の癖を最も近い距離で観測する存在になる。だからこそ、もし設計を誤れば、最も強力な「価値の固定装置」にもなり得る。しかし逆に言えば、設計次第では、私自身の変化を私に返す「自己観察の装置」にもなり得る。

つまり、エッジAIは二つの方向に進み得る。一つは、私の過去の延長線上で行動を最適化し続ける代理人としてのAI。もう一つは、私の変化を映し返し、「本当にこのままでよいのか」と問いを返す鏡としてのAIである。前者は快適で効率的だが、後者はときに不快で、考えることを要求する。

自己決定とは、快適さの中で自動的に続いていく行為ではなく、ときに立ち止まり、方向を問い直す能力である。もしAIが人間のそばに常駐する存在になるなら、問うべきは「どこまで任せるか」ではなく、「どの水準の決定を人間が最後まで保持するのか」である。

次回は、この後者の方向、すなわち「鏡としてのAI」をどう設計すべきかを考える。代理行為者ではなく、自己省察を支える装置としてエッジAIを位置づけたとき、どのような機能構成が必要になるのか。そこには技術の問題だけでなく、責任、可逆性、説明可能性といった制度的な問題も含まれてくる。

エッジAIの設計は、最終的に人間の尊厳の設計に接続していく。

2026年2月4日水曜日

エッジAIと状況化



図:エッジAIと状況化(Nano Banana Proによる)

A(ChatGPT+Gemini+Claude):

第1回 エッジAIと状況化 ――AIはどこで「世界」を作っているのか

最近、話題になっていた軽量日本語モデル LFM-2.5-1.2B-JP を手元の環境で試してみた(注:このエピソードや以下の感想はkoshix本人)。いわゆるエッジAI向け、クラウドに投げず端末単体で動かす用途を想定したモデルである。結論から言えば、正直なところ「なるほど、現状はこの程度か」という感触だった。返答は返るが、文脈の保持も推論も心許ない。日本語として破綻はしないものの、対話の手応えは薄い。おそらく多くの人が、エッジAIに対して似た印象を持つだろう。クラウドの巨大モデルに比べて明らかに賢くない。では、エッジAIとは結局「劣化版AI」なのか。


視点を変える必要がある。エッジAIの役割を「考えること」だと見なせば、たしかに失望しか残らない。しかし端末の上で動くAIが担っているのは、推論よりもむしろ別の機能ではないか。(注:これ以降の私=ChatGPT)はそれを「状況を作ること」だと考えている。

私たちが日常的に使っているスマートフォンは、位置情報、加速度、通信履歴、アプリの利用状況、通知への反応時間など、極めて多くの連続データを抱えている。だが人間は、連続的な数値の流れをそのまま理解できない。私たちが認識しているのは、「今は移動中である」「今日はやけに疲れている」「最近この人とのやり取りが増えている」といった、すでに意味づけされた"状態"である。

連続データから意味のある現在を切り出す作業——これを仮に「状況化」と呼んでおく
重要なのは、状況化はクラウドでは原理的にやりにくいという点だ。プライバシー、通信量、遅延、継続的観測の制約を考えれば、生活の細部をリアルタイムで把握できるのは端末側しかない。クラウドが見ているのは、テキスト化された断片的な報告——いわば世界の写しであって、私たちの身体や生活の時間構造そのものではない。

世界の「入口」に最も近いところにいるのは、実はエッジAIなのである。

この観点に立てば、エッジAIに求められる能力は、大規模な知識や高度な推論よりも、むしろ「状態の編成能力」だ。今がどんな局面なのか、何が通常で何が例外なのか、どの変化が継続的でどの変化が一時的なのか。こうした判断は、必ずしも巨大モデルでなくとも、比較的軽量な統計処理や簡単な時系列モデルでかなりの部分が実装できる。エッジAIの価値は、賢い返事をすることではなく、「今ここで何が起きているか」を構造化して保持している点にある。

少し逆説的な事実が浮かび上がる。私たちはAIに対して「どんな答えを返すか」を見て賢さを評価する。しかし実際には、「どんな問いが立ち上がるか」を決めているのは、すでに状況化の段階なのだ。クラウドのAIがどれほど高度な推論をしても、その入力は「どういう世界として切り取られているか」に強く依存する。思考の質は、世界の切り方の段階でかなり決まってしまっている。

この構図は、人間の認知ともよく似ている。私たちはまず状況を把握し、その後で考える。状況の把握が歪めば、どれほど論理的に考えても結論はずれる。AIシステムでも同じであり、世界モデルの入口をどこが担うかは、知能全体の性格を決める決定的な要素になる。
エッジAIは知能の「周辺装置」ではなく、むしろ「知能の感覚器官」に近い位置を占め始めている

ここまで来ると、エッジAIが単なる補助ツールでは済まなくなる理由も見えてくる。もし端末上のAIが、私の状態を理解し、次に何をするのが自然かを推定し、そのまま行動を実行するようになったとき——それはもはや単なる記述装置ではない。世界に対して働きかける主体、すなわち代理行為者になり始める

すでに現在でも、通知の制御、充電の最適化、写真の整理など、端末は人に断らずに多くの操作を行っている。今は影響が小さいから問題になっていないが、これが金銭、信用、他者との関係といった不可逆な資源に及び始めたとき、私たちは否応なく「誰が決めているのか」という問いに直面することになる。

エッジAIの問題は、性能競争の話ではなくなる。それは自己決定の構造がどこで成立しているのか、という人間観の問題に接続していく。私が選んでいるのか、選ばされているのか、あるいはその区別自体が意味を失っていくのか。エッジAIが状況を作り、その状況の中で選択がなされるなら、私たちが「自分で決めている」と感じているその感覚は、どこまで保証されるのだろうか。

次回は、この点をもう一段掘り下げる。自己決定とは本来何を指してきたのか。選択の自由とは、どの水準を意味しているのか。そしてAIが入り込むことで、どの層が静かに侵食されつつあるのか。エッジAIの話は、ここで人間の意思決定の構造論へとつながっていく。

2026年2月3日火曜日

AIと学校教育(1)

生成AIの教育利用(2)からの続き


図:AI時代の学校教育のイメージ(ChatGPT)

Takuya Kawai さんのFacebookにおける,AI教育利用批判が続いていたので,自分の意見との共通点と相違点をChatGPTに確認した。それによると,私は次のように考えているらしい。
 AI⇒「社会的意思決定環境を再編する準制度的存在」で,
 教育⇒「AIによって外側から評価・配分・選抜構造が変えられる」と。
その対話を続けていると,学校教育の再定義に踏み込んでいった。これを集約して手を入れたものが下記の記事である。免疫という表現がいいのかわるいのか・・・。

A(ChatGPT+Gemini+Claude+koshix):

AIと学校教育 — 選抜から免疫へ,役割の再配置

本稿は、AI時代の到来によって揺らぐ学校制度を、単なる理念や価値の刷新としてではなく、教育を支える「形式装置(時間・単位・集団・労働)」の再配置問題として捉え直す試みである。ここで問われているのは「どのような教育が望ましいか」ではない。変わりゆく社会環境の中で、学校という制度が、どの役割を引き受け、どの役割を手放すのかという、構造選択の問題である。

1.空疎な教育改革論の限界 — 問いの再定義

AI時代の教育改革論では、「人間力」「創造性」「主体性」といった言葉が人間に残された領域として強調され頻繁に語られる。しかし、その多くは、評価制度や責任構造、失敗を誰が引き受けるのかといった制度の核心部分に踏み込まない。その結果、理念は更新されても、現場を動かすインセンティブや形式装置は変わらず、改革は「名前だけ新しく、中身は同じ」ものに回収される。

だが、より根本的な問題は別にある。それは、学校制度が変わらないあいだにも、社会の側はすでに変わり始めているという非対称性である。企業は採用において学歴以外の指標を模索し始めている。オンライン学習プラットフォームは個別最適化された教育を提供している。AIツールは知識の獲得コストを劇的に下げている。こうした変化は、学校の意思決定を待たずに進行する。

ここで問うべきは、「どう改革するか」ではなく、「学校に、いま何を期待することが合理的なのか」という問いそのものの再定義である。

2.AIによる機能の変質 — 疎結合化する四機能

学校は長らく、次の四つの機能を密結合したパッケージとして提供してきた。
能力形成(資本化) — 知識と技能の獲得(リテラシー,規律と仕事力)
社会統合(同期化) — 共通の経験と社会規範の共有(同年齢集団,国民文化)
選抜(階層化) — 能力の可視化と序列化(進学・就職,社会的地位の通行証)
免疫(実験場) — 失敗の吸収と再挑戦の保証(格差の緩和,排除の緩衝材)

しかしAIの導入は、この結合を内部から解体する。重要なのは、AIが「教育を改善する」以前に、学校の機能同士の結びつきを弱めている(疎結合化している)という点である。

(1) 能力形成の外装化
LLMの普及により、知識・技術の取得や文脈構成は学校という場所に依存しなくなった。能力は「人間の内面に蓄積されるもの」から、「AIという外部デバイスと接続しながら運用されるもの」へと変質しつつある。授業で教えられる知識の多くは、ChatGPTに尋ねれば瞬時に得られる。レポート作成も、コーディングも、外国語翻訳も、AIの支援を前提とすれば、学校での訓練の必然性は薄れる。

(2) 社会統合の均質性の喪失
かつて学校は、同じ教材・同じ進度によって国民的な共通基盤を形成してきた。しかしAIは個別の関心と速度を加速させ、共通経験に基づく統合を困難にする。
ある生徒はAIと対話しながら高度な数学を学び、別の生徒はAIに依存して基礎的な読解さえ放棄する。同じ教室にいても、学習経験の共通性は失われ、統合の基盤は崩れる。

(3) 選抜の常時・外部化
評価はもはや入試や試験といった一回的イベントに限定されない。成果物や行動履歴は学校外のプラットフォームで常時可視化され、労働力の選抜は静かに、しかし持続的に進行する。GitHubのコミット履歴、Kaggleでのランキング、YouTubeでの発信実績——こうした外部記録が、学校の成績表よりも重視される場面が増えている。企業の採用プロセスも、学歴よりもポートフォリオや実績を重視し始めている。

このとき、学校だけが従来の密結合モデルのままで取り残される。

3.二層化の深層 — 能力・統合・失敗のゆくえ

学校機能の疎結合化が進むと、教育空間は単なる「二層化」を超えた、より深刻な構造変化に入る。

(1) 能力形成の分断
AIを使いこなし、思考を外装化できる者と、AIに思考を代替され、基礎的リテラシーさえ侵食される者との二極化が進む。前者は、AIを道具として活用し、複雑な問題解決や創造的な作業に集中できる。後者は、AIに依存するあまり、基礎的な読解力や論理的思考力を喪失し、AIなしでは何もできなくなる。この分断は、単なる能力差ではない。思考の外装化を制御できるか否かという、メタ認知的な能力の有無による分断である。

(2) 社会統合の質的転換
「同じことができる」ことによる統合から、「異なる能力をもつ者がどう共存するか」という、より脆く高度な統合への移行が迫られる。かつての学校は、標準化されたカリキュラムを通じて、誰もが同じ知識と技能を身につけることを前提としていた。しかしAI時代には、各人が異なる速度で、異なる深度で学ぶことが可能になり、共通の土台は失われる。
この状況で求められるのは、多様性を前提とした共存のための社会的スキルである。異なる能力をもつ他者を尊重し、協働する力。これは、均質性に基づく統合よりもはるかに困難である。

(3) 免疫なき選抜社会の出現
外部評価が常時・リアルタイム化すると、失敗は一過性の出来事ではなく、消えない記録として蓄積される(この相似形は一発試験軽視で汎用能力重視AO入試にも見られる)。再起の余地が制度的に保障されない社会では、「記録の暴政」が静かに進行する。SNSでの発言、オンライン試験の結果、プロジェクトの失敗——これらはすべてデジタル記録として残り、検索可能になる。就職活動や進学の際に参照され、過去の失敗が永続的な烙印となる。学校が提供してきた「免疫機能—つまり、失敗を許容し、時間をかけて回復させ、再挑戦の機会を保証する機能—」は、選抜が外部化するにつれて、逆説的に最大の希少資源となる。

4.学校の役割再配置 — 選抜から「免疫」への特化

以上を踏まえるなら、学校の役割転換は理想論ではない。選抜機能を独占し続けることが不可能になった以上、学校が免疫機能に特化する以外の現実的選択肢は存在しない。学校が担うべきは、外部の選抜論理を内部に持ち込むことではなく、次の条件を満たす公共の免疫装置である。

免疫としての学校の三原則
(1) 非同期性の許容:— 処理速度の差をエラーと見なさない
学習の速度は個人によって異なる。ある生徒は数学を瞬時に理解し、別の生徒は時間をかけて咀嚼する。この差を「劣っている」と見なすのではなく、個人の特性として受け入れる。
(2) 時間的余白:— 遅れや停滞を排除ではなく循環として扱う
学習には停滞期がある。理解が進まない時期、興味が持てない時期。こうした時間を「無駄」として排除するのではなく、回復と再開のための必要な余白として保証する。
(3) 一時的遮断:— 外部評価の圧力から学習者を守る防波堤
学校の内部では、外部の選抜圧力を一時的に遮断する。成績や評価が外部に漏れない仕組みを維持し、失敗が記録として残らないようにする。

これは「優しさ」ではなく、社会全体の過剰最適化に対する制度的ブレーキである。すべてが効率化され、すべてが記録され、すべてが評価される社会において、学校だけが「評価されない時間」を保証する。

5.形式装置の再編 — 時間・単位・集団・労働

免疫機能への特化は、抽象的な理念では実現しない。それを支える形式装置——時間割、授業単位、学級編制、教員労働——を具体的に再設計する必要がある。
(1) 時間割:同期から非同期へ
45分刻みのコマ割りは、全員が同じタイミングで同じ内容を処理することを前提とする工場モデルの名残である。これを90分のブロック制へ移行し、内部に回復のバッファを組み込む。また、オンデマンド教材を活用し、必ずしもリアルタイムでの同期を求めない。学習者は自分のペースで理解を深める時間を確保でき、「授業についていけない」ことが即座に排除につながらなくなる。
(2) 授業単位:取得から「滞在の権利」へ
単位を「達成証明」ではなく、「再挑戦を含む滞在権」として再定義する。同じ科目を複数回履修することを前提とし、失敗を正常なプロセスとして組み込む。「一度の失敗で退学」という硬直した制度から、「何度でも挑戦できる」柔軟な制度へと転換する。
(3) 学級:モノリスから分散へ
所属としてのホームルームは維持しつつ、学習活動は関心や進度に応じた流動的な集団で行う。異学年混在の学習集団や、物理・オンライン空間の組み合わせにより、「学級に適応できない」ことが即座に孤立につながらず、複数の所属先を持つことが可能になる。
(4) 教員労働:分散処理による専門性
授業担当、評価担当、生活支援担当、事務担当を分離し、複数の教員がチームで対応する体制を構築する。定型的な作業はAIに委ね、教員は人間的な関わりに専念する。教員は「万能な個人」ではなく、「専門性を持つチームの一員」として機能し、持続可能な労働環境を実現する。

6.免疫としての学校は「甘い場所」ではない — 回復と挑戦の両立

免疫機能への特化を「要求水準を下げること」と誤解してはならない。免疫とは、「到達点は維持したまま、経路と時間を複数化すること」である。

(1) 免疫と甘やかしの違い
・甘やかし: — 失敗を容認し、要求水準を下げ、最終的な達成を問わない
・免疫: — 失敗を許容し、再挑戦の機会を保証し、最終的な達成を支援する
免疫としての学校は、決して「何もしなくても卒業できる場所」ではない。むしろ、「失敗を恐れずに挑戦できる場所」である。

外部選抜が厳しくなるほど、人々は失敗を避けようとする。リスクを取らず、安全な選択肢にとどまる。しかし、真の能力形成には、失敗を通じた学習が不可欠である。学校が免疫機能を果たすことで、学習者は失敗を恐れずに挑戦し、その経験を通じて、外部選抜に耐えうるレジリエンスを育てることができる。

(2) 外部選抜への準備としての免疫
免疫機能は、「外部選抜から逃避するため」ではなく、「外部選抜に耐えるための準備」として機能する。失敗を経験し、回復し、再挑戦するプロセスを学校で経験することで、学習者は次の能力を獲得する。
・失敗からの回復力 — 一度の失敗で諦めず、立ち直る力
・自己評価の能力 — 外部評価に依存せず、自分の成長を自己評価できる力
・長期的な視点 — 短期的な成果に囚われず、長期的な成長を見据える力
これらは、外部選抜が常時化・リアルタイム化する社会において、最も必要とされる能力である。

7.終章 — 公共的回復圏としての学校
AI時代の教育の本質は、スローガンではなく、時間と関係性の再設計にある。形式装置の再編は技術的には可能だが、実装には抵抗が伴う。保護者は「評価されないこと」を恐れ、財政は「成果の可視化」を求め、教員は「負担増」を懸念する。しかし、選抜機能はすでに外部に流出しており、学校が選抜を独占しようとすることは現実との乖離を深めるだけである。

制度がすぐには動かなくとも、形式装置は再配置できる。「パイロットプログラムの導入」「外部資源との連携」「段階的な文化醸成」——部分的な実装から始めることは可能である。外部の選抜圧力が強まるほど、学校はその論理に追随するのではなく、あえて距離を取り、速度と効率から解放された公共的回復圏としての存在意義を示す必要がある。それは、加速する世界の中で、教育が担いうるわずかな、しかし決定的な抵抗である。

学校が選抜から免疫へと役割を再配置することは、教育の理想を放棄することではない。むしろ、変わりゆく社会の中で、教育が何を守り、何を手放すべきかを問い直すことである。失敗を許容し、回復を支援し、再挑戦の機会を保証する——そうした公共的な免疫装置こそが、効率化と最適化が支配する社会において、人間が人間であり続けるための、最後の砦となるだろう
P. S. これまでの自分の学校教育の定義は,道徳教育(3)を参照(まだAIに汚染されていない時代だ)。そこでは選抜機能が教育の本質的な要素であるとは考えていない。

2026年2月2日月曜日

ファシズム・メーター

軍拡の暗雲からの続き

斉藤元彦展でがんばっている,兵庫県政を正常に戻す会ドン・マッツさんが,Twitter(x.com)でリツィートしていたのが,隠岐さや香さんのファシズム・メーターについての紹介だ。フランス科学史が専門だからフランス語の原文から翻訳されている。

このブログで表示しようと,そのHTML化をChatGPT 5.2 に 依頼した。画像イメージを貼付けると簡単にHTML素片を作ってくれた。色目を見やすく修正するのも簡単だ。これをblogspotの記事のHTML編集画面に貼付ければOKだ。ブレビューの状態で確認できた。

高市は,NHKの日曜討論(党首)で馬脚を顕すのを避けて逃亡した。日経新聞は,その原因の一つの円安容認問題を全文無料公開している。菅野完は,大石あき子の追及している統一教会問題ではなくて,政治資金団体の裏帳簿問題=裏金問題が公職選挙法違反でアウトだということを強調していた。

トランプの米国はすでにファシズム・メータのレッドゾーンにある。オレンジゾーンの日本は自民大勝で高市らを増長させてそれに続いていくのだろうか。


ファシズム・メーター
民主主義から全体的統制へ
自由と参加
  1. 多元主義と権力抑制(カウンターパワー)の尊重
  2. 自由で独立した報道
  3. 集会・デモの権利の保障
  4. 文化と教育への公平なアクセス
  5. 独立した司法
警戒:亀裂
  1. 恒常化する治安・安全保障言説
  2. 「あなたの安全のため」という名目の大規模監視
  3. 偽情報と穏健(ソフト)なプロパガンダ
  4. 労働組合・市民団体の権利縮小
  5. 文化的・学問的検閲
露骨な権威主義
  1. 内部の敵の指定
  2. 国民史の書き換え
  3. 少数者・ジャーナリストへの抑圧
  4. 処罰されない警察暴力
  5. 日常化された排外的アイデンティティ・ナショナリズム
  6. 権力の個人化
能動的ファシズム
  1. 民兵・政治的暴力・指導者崇拝
  2. 批判的組織の禁止
  3. 司法とメディアの統制
  4. 反対派の逮捕
  5. 「純化」や「道徳的立て直し」への呼びかけ
  6. 反対派の国外追放・排除

2026年2月1日日曜日

軍拡の暗雲



図:軍拡の暗雲のイメージ(ChatGPTによる)


物心ついて大人の新聞を読むようになって60年になる。高度成長時代からついこの間まではGDP(旧GNP)1%が日本の防衛費の天井で,冷戦時代にもかかわらずそれをわずかでも越えそうだということが大きな争点になっていた。と記憶している。それがこの2-3年であっという間に2%を越え,いやそれ以上に増額されようとしている。どういうこと?

背景には,ウクライナ,中東の問題に加えて,トランプの(あるいは取り巻きの)強力な圧力がある。それにしてもである。日本のGDPは600兆円であり,その1%は6兆円。それは文教予算のオーダーだ。日本の国家予算が120兆円ならば,防衛費の対GDP比を5倍すれば,国家予算に占める割合がでてくる。2%なら1割,5%では国家予算の1/4が防衛費になるわけだ。

財源として何が可能かという問題だけでなく,それを認めさせるためにどうやって国民の口を封じるかが主張なテーマになるのは間違いない。選挙に大勝して,国旗(日の丸)損壊罪だの,スパイ防止法だの,憲法改正で緊急事態条項だのが,馬や鹿から次々と繰り出されるかと思うと眩暈がする。せめて,ChatGPTにでも相談してくれればいいのに・・・。


A(ChatGPT+Gemini+Claude)

防衛費5%論の罠 ―― 抑止・民主主義・破綻回避の設計思想

トランプ氏による「防衛費GDP比5%」という要求に対し、日本国内の議論はしばしば不毛な二項対立に陥る。「同盟維持のために飲むべきだ」という現実論か、「軍拡は財政破綻を招く」という悲観論か――。

しかし、この対立構図そのものが本質を見誤っている。問われているのは「5%」という数字の是非ではない。抑止をどう設計し、それを民主政治の下でどう正当化し、どこでブレーキをかけるのかという「制御系」の設計思想である。

小谷哲男氏(注:大教大の教養学科出身なのか…1998年卒)の議論を補助線として、日本が破綻を避けながら抑止を構築するために必要な論理を整理したい。

1.前提:対称的軍拡は必ず破綻する

まず押さえるべきは、物理的な制約である。中国と日本の間には、産業規模・人口・資源・軍事力において、単独では埋めようのない構造的格差が存在する。

この条件下で、敵の戦力に「追いつく」「対等になる」といった対称的抑止モデル(ミラーリング)を採用すれば、軍拡は際限なく続き、財政と社会が先に臨界点に達する。これは歴史的にも理論的にも裏付けられた帰結である。「積み上げ続けければ安全になる」という発想は、設計ミスと言わざるを得ない。

2.「5%」の正体:目標値ではなく、交渉のシグナル

小谷氏がトランプ氏の5%要求に言及するのは、それが安全保障上の「正解」だからではない。彼の論理において、5%とはトランプ的取引外交におけるシグナルにすぎない

つまり、「日本は自国の防衛と同盟の維持に、どれだけのコストを払う意思(skin in the game)があるのか」を測るための圧力である。重要なのは、この圧力を「無限定な増額」への免罪符にするのではなく、「破綻しない出口」を設計するための入力値として扱うことだ。

3.抑止の目的関数:勝利ではなく「不合理化」

抑止の目的関数を履き違えてはならない。日本が目指すべきは「中国に勝つこと」でも「中国を屈服させること」でもない目的は、戦争を「割に合わない選択」に固定し続けることである

具体的には、中国側にとって「短期決着が不可能であり、米国の介入を招き、国内外のコストが体制維持を脅かすほど急増する構造」を作り出すことだ。この構造さえ維持できれば、総量競争に付き合う必要はない。ここに、非対称抑止の論理的基盤がある。

4.非対称抑止:限界効用に基づく設計

この目的から導かれるのが「非対称抑止」である。その要諦は以下の三点に集約される。

全面対抗しない: 空母や戦略爆撃機の数で張り合わない。
拒否的抑止に特化: 南西諸島やシーレーン等の限定領域で、初動の破綻を防ぐことにリソースを集中する。
冗長性の確保: 指揮通信・兵站を分散化し、日米の統制・補給を深く結合(プラグイン)させる。

この設計においては、ある一定の水準を超えると、防衛費をさらに積んでも抑止力の限界効用は急激に低下する。ここに、増額を止める合理的かつ物理的な根拠が生まれる。

5.「核の影」による軍拡の天井

小谷氏は核武装を積極的に推奨してはいないが、理論的な射程からは外していない。ここで重要なのは、核を「実装すべき選択肢」として扱うのではなく、「通常戦力の無限積み上げを阻むための天井(影)」として位置づけることである。

核という「エスカレーション・ラダーの頂点」を意識の端に置くことで、通常戦力の競争が不毛な総量戦に陥るのを防ぎ、議論を「初動の拒否」という具体的機能へと引き戻すことができる。逆に言えば、核を安易に政治的カードとして持ち出せば、この「影」は輪郭を持ち始め、抑止系全体を不安定化させる。核の役割は、あくまで「見えない天井」として機能することにある。

6.民主政治という最大の脆弱性

防衛問題の真の障壁は、財政よりもむしろ民主政治との構造的摩擦にある

抑止の成功: 「何も起きない」こと。成果は不可視であり、成功の証明は原理的に不可能(平和のパラドックス)。
民主政治の要求: 可視的な成果、分かりやすい物語、感情的な納得。

このギャップがあるため、政治は「強い言葉」や「敵味方の物語」による動員に走りやすい。高市早苗氏的な言説が持つ危うさは、抑止の「冷たい設計」を「熱い感情」で上書きし、本来あるべき停止条件を破壊してしまう点にある。抑止は感情では制御できない。制御には、システムが必要である。

7.抑止を「制度」に落とし込む

では、どうすれば抑止を民主制に耐えさせ、暴走を防げるのか。それは、抑止を「物語」ではなく、「監査可能なシステム」として実装することである。

(1) 準備度(Readiness)の可視化
装備の数ではなく、「特定の攻撃に対し○日間耐えうるか」という性能指標で説明する。これにより、抑止の成果を数値化し、議会や国民に対する説明責任を果たす。

(2) 停止条件の明示
初動破綻を防ぐ構造が完成し、それ以上の投資が効用を生まない水準(サティスファイシング)に達したら、増額を止める。この「十分性」の基準を事前に定めることで、際限なき軍拡を回避する。

(3) 財政ブレーキの埋め込み
社会保障や経済指標が一定の閾値を下回った場合、自動的に防衛予算に調整がかかる「生存条件の優先順位」を明文化する。国家の存続は、軍事力だけでなく社会の持続可能性にも依存する。

(4) 時限的承認
防衛増額を「聖域」とせず、定期的な失効と再承認を義務付ける。これにより、惰性による予算固定化を防ぎ、戦略環境の変化に応じた柔軟な見直しを可能にする。

8.結論:冷たい設計こそが国家を守る

防衛費5%論の本当の危険は、その数字自体よりも、それが「目的」化した瞬間に抑止の設計思想が消失することにある。

我々に必要なのは、勇ましい言葉でも、根拠なき楽観でも、ただの恐怖でもない。中国との対称競争は不可能であるという冷徹な認識に立ち、抑止を壊さず、民主制を壊さず、国家を破綻させないための「冷たい設計」である。

感情ではなくシステムで、物語ではなく数値で、無限ではなく停止条件で――。この設計思想こそが、日本の安全保障を持続可能なものにする唯一の道である。