2024年3月2日土曜日

デジタル化と「考える力」の喪失

MacBookAirのメモを整理し始めた。もっと暖かくなったら,本の整理も始めよう。

この過程で,古くなったテキスト断片を貼り付けてみる。以下は2013年5月5日のもの。

手書き(アナログ)かタイプ(デジタル)かというのは本質ではない。
一方で,思考過程における身体性の意味を押さえる必要がある。
「身体化された心の人類学的解明」

ウェブやスマホのSNSに没入して,他者の言葉の断片とその連鎖の中を漂うとき,自分は他者の言葉で考えている。それらをなぞることで,疑似的に「自分」の考えを紡いでいる。いや,「自分で考える」ということも,本質的にはこれと替わらないのかもしれない。既存の言葉と概念を材料として,自分で積み木を組み上げる作業が「考える」ということ。DNAプールから長い年月をかけて「試行」を繰返し,その環境や相互作用の中で最適化を進めるプロセスと類似している「思考」の過程。言葉と概念の並び替えと繋ぎ替えが,考えることの本質だとするとき,デジタル化は何を奪うことになるのだろうか。言葉と概念のストックを自分の脳の中から,インターネット空間に拡大し,リンクの作業を既存のリンクで代替する。「本を読む」ことや「論文を読む」ことは,他人の思考過程を追試することであった。それは「自分で考える」ための練習でもあったわけだが,そのような完成した思考過程の成果の学習ではなく,思考のためのトレーニングあるいは非トレーニングがデジタル化された情報空間で展開される。アナログ情報空間とデジタル情報空間の差異は何か。我々はどの空間に生息しているのか。重なり合う2つの宇宙の狭間で,乗り移りを図る知性体のありようは,小松左京のSF短編で示された,宇宙からの脱出の実体を表現しているのかもしれない

言葉を紡ぐ,音を紡ぐ,色と形を紡ぐ,論理を紡ぐ,身体運動を紡ぐ,すべてが考えるということであり,そこに,身体性が・・・
まだ,孫の紡木くんが生まれる前だ。多分,引用されている「身体化された心の人類学的解明」にインスパイアされて考えたことをメモしたもの。もちろん生成AI登場以前だ。表題についての考えはこれっぽっちも進んでいないのだ。

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