津駒太夫は,2008年(平成20年)7月の私の初めての文楽体験(夏休み文楽公演第3部)で最初に出会った太夫だったので印象深い。演目は,国言詢音頭(くにことばくどきおんど)。大川の段が津駒太夫と鶴澤寛治,五人伐の段の中が文字久太夫・清友,切が住太夫・錦糸・豊澤龍爾(胡弓)という顔ぶれだった。津駒大夫が汗びっしょりでよだれをたらしながら熱演しているのにびっくりしてハマってしまい(最後のシーンが本水だったのもよかった),それ以来文楽劇場に通うようになった。
その津駒太夫=錣太夫の襲名披露は,傾城反魂香の冒頭に,床に竹本錣太夫,竹澤宗助,豊竹呂太夫(六代目 1947-)が並んで行われた。呂太夫が落ち着いて口上を述べた。文楽の襲名披露は歌舞伎のそれに比べて,相対的に形式張っておらず,また襲名する本人自身は自らは挨拶しないのが通例だ。
竹本錣太夫は,1949年広島生まれ,1969年に津太夫に入門して津駒太夫を名乗り,1970年に朝日座で初舞台,1988年に呂太夫(五代目 1945-2000)門下になり,ここで六代目の呂太夫=英太夫と接点を持つ。呂太夫の口上では,とてもきまじめな錣太夫のエピソードを1つ紹介していた。
当時の津駒太夫は,鶴澤寛治(六代目 1887-1974)に指導を受けていた。ある日,寛治がおいどを出してというので,津駒太夫はあわてて立ち上がってゆかたをめくろうとしたらしい。この場合のおいどは床本の終わりのほうを意味していたのを勘違いしたのだ。同席していた女義太夫の鶴澤寛八(1917-1993)にあわてて止められたとのことだ。文楽界を代表するおもしろい出来事だったとのこと。
写真:国立文楽劇場初日,鏡割り前の錣太夫の挨拶(2020.1.3撮影)
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