典範対話 ―― 皇室典範改正をめぐる三日間
登場人物
• 淡海(おうみ)―― 進行役。憲法史家。いずれの立場にも与しない。
• 常磐(ときわ)―― 政治思想史家。今回の改正案を「制度の知恵」として擁護し,天皇制の安泰につながると論じる。
• 早瀬(はやせ)―― 社会理論家。改正案は矛盾の制度化であり,長期的には国民の支持を失わせ,天皇制の解体に通じると論じる。
対話は2026年7月,奈良盆地を見下ろす山辺の道の宿で行われたことになっている。
第一日 正統性はどこにあるか
淡海 まず事実を共有しておきましょう。政府は6月30日の臨時閣議で皇室典範改正案を決定し,衆議院に提出しました。1947年の現行典範制定以来,初めての本格的な改正です。柱は二つ。第一に,女性皇族の婚姻による皇籍離脱を定めた第12条を削除し,結婚後も皇族の身分を保持できるようにする。ただし配偶者と子は皇族とならず,現在の女性皇族には本人の意思で離脱できる経過措置が付く。第二に,養子を禁じた第9条を改め,旧11宮家の男系男子――15歳以上で配偶者も子もない者――を皇族の養子として迎えられるようにする。養子本人は皇位継承資格を持たないが,養子となった後に生まれる男子は資格を持つ。付則には,必要があれば30年ごとに見直すという条項が置かれました。問いはこうです。この改正は,皇族数を維持し国民の支持を保つことで天皇制を安泰にするのか。それとも,国民の支持を静かに失わせ,解体への道を開くのか。常磐さんから。
常磐 私はこの改正を,凡庸に見えて実は老練な立法だと評価します。理由を言う前に,一つの原理を確認させてください。デイヴィッド・ヒュームは『統治の第一原理について』で,あらゆる統治は――最も専制的なものでさえ――究極的には「意見(opinion)」の上に立つと言いました。兵力でも法でもなく,人々がその支配を当然と思う心的習慣が統治を支える。天皇制はこの命題の純粋培養です。天皇は軍も予算も持たない。憲法第4条により国政に関する権能を持たない。残っているのは「意見」だけです。だからこそ,天皇制を安泰にする唯一の方法は,国民の意見の変化速度に制度の変化速度を合わせることであって,先回りすることでも居直ることでもない。
早瀬 その原理には全面的に同意します。だからこそ結論が逆になるのですが。
常磐 順に聞きましょう。今回の改正の本質は,皇位継承という最も可燃性の高い問題に手を触れずに,皇族数という緊急の実務問題だけを解いた点にあります。現在の皇室は16人,うち11人が女性です。公務の担い手は目に見えて細っている。この改正がなければ,内親王方の婚姻とともに皇室は物理的に縮小し,象徴天皇制は儀礼を遂行する身体そのものを失っていく。マイケル・オークショットの言い方を借りれば,政治とは「底なしの海で船を浮かべ続けること」であって,港はない。今回の立法は針路変更ではなく浸水箇所の応急修理です。応急修理を「哲学がない」と批判するのは,哲学の使いどころを間違えています。
早瀬 応急修理という比喩は正確でしょう。ただし常磐さんは,修理に使った材料を見ていない。船の穴を,船よりも古い材木で塞いだのです。しかもその材木には「男系」と焼き印が押してある。
淡海 具体的に。
早瀬 二点あります。第一に正統性の所在。日本国憲法第1条は,天皇の地位を「主権の存する日本国民の総意に基く」と定めます。ところが今回の改正の正当化に使われた言葉は「立法府の総意」でした。この二つは同じものではない。国会が立法権を持つのは当然ですが,憲法1条の「総意」は与野党協議の産物より広い概念です。そして世論調査は長年,女性天皇容認が国民の圧倒的多数――近年の各種調査でおおむね8割前後――であることを示し続けてきた。つまり今回の立法は,国民の意見が最も明確に存在する論点を注意深く迂回して作られた。ヒュームの原理に照らせば,意見の上に立つ統治が,意見を避けて制度を組んだのです。これは安泰の処方ではなく,正統性の債務の繰り延べです。
常磐 その世論調査の読み方に異議があります。「女性天皇を容認するか」への賛成8割と,「男系継承の原理を廃棄せよ」という積極的要求とは別物です。多くの国民は継承原理の神学に関心がない。関心がないという事実こそ,性急な原理変更を避ける理由になる。エドマンド・バークが言ったように,長く続いた制度への「推定(presumption)」は,個々の世代の理屈に勝る重みを持ちます。国民の8割が容認しているから変えてよい,というのは,バークが最も警戒した「思弁による一括清算」です。
早瀬 バークを引くなら最後まで引きましょう。バークは『フランス革命の省察』で,保存のための変更手段を持たない国家は保存の手段を持たない,とも言った。私が問題にしているのは変更の速度ではなく,変更の方向です。第二の点に進みます。養子案の内部構造を見てください。旧宮家の男系男子を養子に迎える。しかし養子本人には継承資格を与えない。資格を持つのは,養子となった後に生まれる男子だけです。この設計が何を意味するか。皇族という法的身分と,皇位への適格性とが,公然と分離されたのです。適格性の根拠は身分でも養育でも公務の実績でもなく,Y染色体の系譜だけになった。明治典範は少なくとも身分と血統を一体として擬制していた。今回の改正は,擬制を剥ぎ取って遺伝子系譜だけを裸で取り出した。これは伝統の保守ではなく,伝統の生物学化です。折口信夫が大嘗祭論で示唆したのは,天皇の資格が霊威の継承――外来魂を受ける儀礼的身体――にあるという理解でした。血のみを残して儀礼的・文化的な資格論をすべて捨てる改正が「伝統的」だという主張は,思想史的には成立しません。
常磐 鋭いが,一つの混同があります。あなたは「制度が明示するもの」と「制度が可能にするもの」を混同している。養子の子に継承資格を認める規定は,たしかに男系原理の明文化です。しかし同時にこの改正は,第12条の削除によって,女性皇族が皇室に留まり続ける恒久的な法的基盤を初めて作った。将来,国民の意見が女性天皇・女系天皇へと熟したとき,皇室の中に内親王方がいるのといないのとでは,選択肢の幅がまったく違う。第12条が残ったままなら,議論が熟した頃には当事者がもう皇室にいない。今回の改正は男系派の勝利のように見えて,実は将来の女性天皇論のために――意図せずにかもしれませんが――退路ではなく橋頭堡を確保した。制度の歴史では,こういう「意図せざる保存」がしばしば決定的に働きます。
淡海 早瀬さん,これは正面からの応答に値する論点だと思いますが。
早瀬 値します。そして半分は認めます。第12条の削除それ自体は,将来の選択肢を物理的に残す効果を持つ。私が争うのはその先です。常磐さんの議論は「時間が味方をする」ことを前提にしている。しかし正統性の侵食は,選択肢が温存されるのと同じ時間の中で進行します。考えてください。改正後の女性皇族は,結婚しても皇族に留まる。しかし夫は国民のまま,子も国民のまま。本人は住民基本台帳に記載されながら投票権を持たない。一つ屋根の下に,参政権を持つ国民と持たない皇族が同居する世帯が制度的に量産される。これは「開かれた皇室」の像ではなく,権利制限身分の世襲的拡大です。近代立憲主義の語彙では説明のつかない身分が,改正によって減るのではなく増える。国民はこの光景を数十年見続けることになる。橋頭堡が生きているうちに,橋頭堡の立っている地盤――国民の敬意という地盤――が痩せていくというのが私の見立てです。
常磐 その光景を国民がどう見るかは,あなたの言うほど自明ではない。同じ光景を「気の毒な籠の鳥」と見る者もいれば,「公に身を捧げる家」と見る者もいる。ヴィクトリア朝の英国民はバジョットの言う「威厳的部分」に,まさに自分たちと違う生を送る一族を見て敬意を抱いた。
早瀬 バジョットはこうも言いました――魔法に日光を当ててはならない,と。今回の改正プロセスは,まさに日光を当てる作業でした。誰に継承資格があり,誰にないか。養子の何親等まで,何歳以上,配偶者の有無。皇位の神秘が,官報の条文の粒度で国民の眼前に分解された。しかも審議の過程で,与党の重鎮が「愛子さまの皇位継承はあり得ない」と公言して撤回に追い込まれる一幕まであった。国民が見たのは威厳ではなく,特定の家系の特定の性別を守るための行政的配管工事です。魔法は,配管を見せた瞬間に効力を失い始める。
淡海 日が暮れてきました。第一日をまとめると,両者はヒュームの原理――統治は意見に基づく――を共有した上で,常磐さんは「意見の変化速度に合わせた漸進」として改正を擁護し,早瀬さんは「意見の迂回と矛盾の制度化」として批判した。争点は二つ残りました。第12条削除は将来への橋頭堡か,それとも権利制限身分の拡大か。そして養子案の血統主義は伝統の保守か,伝統の生物学化か。明日はこの第二の争点,つまり天皇の身体の問題から始めましょう。
第二日 二つの身体,一つの染色体
淡海 昨日の宿題から始めます。エルンスト・カントロヴィチの『王の二つの身体』を補助線に置きましょう。中世の法学者たちは,王には死すべき「自然的身体」と,決して死なない「政治的身体」があると考えた。天皇制も同型の構造を持ちます。個々の天皇は崩御するが,「天皇」は途切れない。今回の改正は,この二つの身体の関係をどう変えるのか。常磐さんから。
常磐 カントロヴィチの枠組みで言えば,今回の改正は政治的身体の存続を,自然的身体の偶然――誰が生まれ,誰が結婚するか――から少しだけ切り離す試みです。養子制度は歴史的に,まさにそのための装置でした。ローマ帝国の五賢帝は養子継承の産物です。日本の皇室も,明治以前には世襲親王家という「血のリザーバー」を持っていた。伏見宮系の四親王家は,直系が絶えたときの保険として数百年機能し,実際に後花園天皇や光格天皇を供給した。旧11宮家はこの伏見宮系の末裔です。今回の養子案は,戦後占領政策によって切断されたリザーバー構造の,部分的な復元と見ることができる。前例のない革新ではなく,前例の回復です。
早瀬 その歴史記述は正確ですが,決定的な一点で現代と非対称です。世襲親王家は,生まれたときから親王家の内部で,皇族として育った。彼らの正統性は血統プラス身分プラス儀礼的養育の複合体だった。今回の養子案の対象は,戦後80年,一般国民として生まれ育った家系の,15歳以上の男性です。しかも制度は本人に継承資格を与えず,その男性が皇族となった後にもうける息子にだけ与える。つまりこの制度が皇室に迎え入れるのは人格ではなく,端的に言えば生殖能力です。国家が特定の家系の男性を,将来の男子出産の期待において公的身分に組み込む。これを国民が数十年観察したとき,そこに見えるのは「万世一系の尊厳」でしょうか。それとも,人間を系譜の運搬体として扱う制度の即物性でしょうか。カントロヴィチの言葉を使うなら,今回の改正は政治的身体を守るために,自然的身体を――女性皇族の婚姻も,養子候補の人生も――あからさまに手段化した。政治的身体の威厳は,自然的身体への手段化が見えないことに依存していたのに。
常磐 手段化という批判は,しかし世襲制そのものに向かう批判ではありませんか。世襲君主制とは定義上,生まれを公職に変換する制度です。プラトン的に言えば「銀の嘘」の一種で,近代人の権利論と原理的に整合しない。それを承知で日本国憲法は第1章に天皇を置き,第14条の平等原則の例外として世襲を明記した。憲法自身が抱え込んだ緊張です。今回の改正がその緊張を新たに作り出したわけではない。
早瀬 作り出してはいない。可視化し,増幅したのです。ここが私の議論の核心なので,丁寧に言います。制度の矛盾は,それが慣習の霧の中にある限り耐えられます。トクヴィルが『旧体制と大革命』で示したのは,旧体制が最も危険になったのは抑圧が最も苛烈なときではなく,改革によって残存する特権の恣意性が照明を浴びたときだった,ということです。今回の改正は三つの照明を一度に点けた。第一に,女性皇族は残れるが君主にはなれないという線引きが,条文の対照によって誰の目にも読めるようになった。第二に,養子本人と養子の息子の間の資格の断層が,血統原理の純粋に遺伝子的な性格を白日の下に晒した。第三に,30年見直し条項という付則が,立法者自身がこの制度の持続可能性を確信していないことを制度の内部に書き込んだ。安泰を意図した立法が,不安定性の告白を三重に含んでいる。
常磐 三点目は逆に読めます。30年条項は不安の告白ではなく,可謬性の制度化です。伊勢の式年遷宮を考えてください。20年ごとに社殿を壊して建て直す。あの制度の天才は,「永遠」を不変の物体にではなく,更新の反復に預けた点にあります。常若とはそういう思想です。今回の見直し条項は,皇室制度を一度きりの立法で凍結せず,世代ごとの再審議に開いた。ポパー的に言えば,反証可能性を組み込んだ制度設計であって,ドグマ化よりはるかに健全です。あなたの用語系で言えば,これは制度の式年遷宮ではないのですか。
淡海 早瀬さん,これはあなたの土俵に投げ込まれた球のようですが。
早瀬 見事な球なので,正確に打ち返します。式年遷宮が更新の制度でありうるのは,何を更新し何を保存するかの区別――様式は保存し,材木は更新する――が儀礼の内部で確定しているからです。ところが30年条項が見直しの対象とするのは材木ではなく様式そのもの,つまり継承原理でありうる。しかも「必要があると認められるとき」という留保付きで。これは常若ではなく,決定の無期限延期です。さらに言えば,30年という期間設定は残酷な計算を含んでいる。現在の内親王方の生殖可能年齢が過ぎ,女性天皇論の当事者性が消滅するのに十分な長さです。更新の反復ではなく,選択肢の時間切れを待つ装置として機能しうる。
常磐 それは意図の忖度であって,制度の分析ではない。
早瀬 では制度の分析として言い直します。ユルゲン・ハーバーマスの正統化危機の図式を借りれば,後期近代の統治システムは,実質的正統性の調達に失敗すると,手続きの複雑化によって時間を買おうとする。有識者会議,立法府の総意,付帯決議,30年条項――この重層的な手続きの堆積は,正統性調達の成功ではなく,その困難の症候として読める。国民の8割が支持する選択肢を採用できない政治過程が,採用できないという事実を隠すために手続きを増殖させている。天皇制にとって最悪なのは,天皇制が政党政治の力学の人質であることが国民に見えてしまうことです。象徴の価値は政治からの超越にあるのに,その存続様式が族議員の勢力図で決まると知られたとき,象徴は政治の一部門に降格する。
常磐 降格のリスクは認めます。しかし対案の側のリスクと比較してください。仮に今回,女性天皇・女系天皇容認へ一気に舵を切ったとしましょう。国論は二分され,皇位継承の正統性そのものが党派的争点になる。旧宮家系を推す勢力と直系を推す勢力が,特定の個人を担いで争う。これは南北朝の構図です。天皇制が最も傷ついてきたのは,継承ルールが不確定になり,皇位が政治勢力の旗になった時代でした。今回の改正は,その最悪の事態――継承の党派化――を避けるために,あえて継承問題を凍結し,皇族数だけを確保した。あなたはこれを矛盾の制度化と呼ぶが,私は係争の凍結と呼ぶ。憲法学者が「暫定協定(modus vivendi)」と呼ぶもの,ロールズ的に言えば重なり合う合意が成立するまでの時間を稼ぐ装置です。不完全な平和は,原理的な内戦に勝る。
淡海 今日は両者とも一歩ずつ譲りましたね。常磐さんは象徴の政治への降格リスクを認め,早瀬さんは第12条削除の橋頭堡効果を昨日認めた。残った対立は,こう定式化できそうです。この改正は「係争の凍結」か「決定の腐敗」か。凍結された係争は,解凍のときまで保存されるのか,それとも凍結庫の中で制度への信頼そのものを腐らせるのか。明日はこの時間の問題を,正面から扱いましょう。
第三日 凍結と腐敗,あるいは時間の政治学
淡海 最終日です。問いを研ぎ直します。エルネスト・ルナンは国民を「日々の人民投票」と呼びました。憲法1条の「国民の総意」も,一度きりの制憲行為ではなく,更新され続ける黙示の同意と読むべきでしょう。とすれば問題はこうなる。今回の改正は,この日々の人民投票における得票を,今後数十年にわたって増やすのか,減らすのか。早瀬さんから,解体のメカニズムを具体的に。
早瀬 解体と言っても,革命や廃止の国民運動を予想しているのではありません。私が予想するのは,マックス・ウェーバーの伝統的支配が近代社会で衰弱するときの標準的な経路,つまり無関心による蒸発です。段階を追って言います。第一段階,現在。改正は成立し,当面の皇族数は確保される。世論は特に反発しない。常磐さんの言う通り,大多数の国民は継承の神学に関心がないからです。第二段階,10年から20年後。改正の帰結が人間の顔を持ち始める。結婚しても皇室に残った内親王の家庭――国民の夫,国民の子,投票できない母――が報道の日常になる。旧宮家からの養子が実現すればその人物の「元一般人」性が,実現しなければ制度の空転が,それぞれ可視化される。次世代の継承資格者が事実上一人である構造は変わらないまま,その一人の結婚と家庭に,国家の存続問題としての重圧が集中する。眞子内親王の結婚をめぐって起きたことを思い出してください。制度の重圧は,メディアと世論を経由して,特定の個人への人格的干渉として現象するのです。第三段階,30年条項の見直し期。そのときの若い世代にとって,男系維持の論理は説明を要する古語になっている。彼らは反対するのではない。単に,自分たちの規範の語彙――平等,個人の尊厳,選択――で記述できない制度への同一化を,静かにやめる。ヒュームの意見は,怒りではなく退屈によって撤回される。支持率の数字は残るかもしれませんが,それは敬意ではなく惰性の計測値です。制度は廃止されずに,空洞のまま立ち続ける。私が解体と呼ぶのはこの状態です。
常磐 精密な悲観論です。しかしあなたのシナリオには,天皇制の歴史が繰り返し示してきた一つの変数が欠けている。制度の自己刷新能力,より正確には,制度を生きる人間の演技の力です。考えてください。象徴天皇制は1946年,敗戦と占領という最悪の条件下で発明された地位です。多くの知識人が,神格を剥がれた天皇制は一世代で枯れると予想した。ところが昭和天皇の全国巡幸が,平成の天皇の被災地の膝と慰霊の旅が,条文には一行も書かれていない実践によって,この地位に新しい内容を注ぎ込んだ。ウェーバーの用語を正しく使うなら,戦後天皇制は伝統的支配の残骸ではなく,伝統を素材とした日常的カリスマの再生産に成功した稀有な事例です。あなたの三段階論は,制度を条文の静力学として扱っている。しかし天皇制の支持は条文からではなく,実践から調達されてきた。今回の改正が確保するのは,まさにその実践の担い手の数です。内親王方が皇室に残るということは,あなたの言う「気の毒な籠の鳥」の光景かもしれないが,同時に,被災地に膝をつく身体が次の世代にも存在するということです。私は条文の矛盾より,実践の継続に賭けます。
早瀬 その賭けの構造を直視しましょう。常磐さんの議論は,制度の欠陥を皇族個人の人格的卓越が埋め続けることを前提にしている。それは制度論として倒錯していませんか。平成の天皇の実践が象徴を再定義できたのは事実です。しかしそれは,制度が人格に依存する度合いを深めたということでもある。依存が深まるほど,一度の人格的躓き――一つのスキャンダル,一つの結婚問題――が制度全体を揺らす振幅は大きくなる。あなたの言う日常的カリスマの再生産は,再生産に失敗した瞬間の保険を持たない。しかも今回の改正は,その保険を作る機会――継承資格の裾野を広げ,制度を特定個人の双肩から降ろす機会――を,まさに見送ったのです。
常磐 見送ったのではない。順序を付けたのです。ここで私も自分の議論の限界を言っておきます。私は今回の改正が十分だとは考えていない。女性天皇の問題は,いずれ正面から決着させるほかないと考えています。私が擁護しているのは改正の内容の完全性ではなく,改正の順序の合理性です。バークの漸進主義は,しばしば現状維持の口実に堕落する。その危険は認める。しかし逆もまた真で,原理の即時実現を求める政治は,しばしば実現の条件を自ら破壊する。1968年に大学の解体を叫んだ世代は,大学を解体できずに,大学改革への信頼だけを解体した。私はあの失敗の型を,天皇制で繰り返したくないのです。
淡海 早瀬さんも,自説の最も弱い箇所を開示してください。それが本対話の作法です。
早瀬 認めましょう。私の三段階論の急所は,反実仮想の弱さです。今回の改正が解体を招くと言うためには,より良い現実的代替案が存在したと言えなければならない。しかし女性・女系容認への即時転換が政治的に可能だったか,可能だったとして常磐さんの言う継承の党派化を避けられたかは,正直に言って不確実です。私に言えるのは条件文までです。すなわち,もしこの改正が終着点として扱われるなら解体の入口になり,もし通過点として扱われるなら橋頭堡になりうる。そして現在の政治過程には,これを終着点にしたい勢力が明確に存在し,30年条項はその勢力の時間稼ぎに使える形をしている。私の悲観は制度の条文からではなく,条文を運用する政治の生態から来ています。
常磐 ならば最終的な対立点は,制度でも思想でもなく,日本の政治社会の学習能力への信頼の度合いだ,ということになる。私はそれを,あなたより少しだけ高く見積もっている。それだけの違いかもしれません。
早瀬 少しだけ,ではないでしょう。あなたの立場は,国民の意見が熟すのを制度が待てると考える。私の立場は,待っている間に意見の側が制度への関心を失うと考える。ルナンの人民投票は毎日開かれている。投票所に誰も来なくなった制度は,反対票で倒れるのではなく,開票する者がいなくなって終わるのです。
淡海 結論を私が与えることはしません。ガリレオの対話も,公式にはコペルニクス説を仮説として扱ったまま終わっています。ただ,三日間で確定したことを記録しておきます。第一。両者とも,天皇制の存続が最終的に条文ではなく国民の意見に懸かることを認めた。第二。両者とも,今回の改正が両義的であること――女性皇族の身分保持は将来の選択肢を残すと同時に権利制限身分を拡大し,養子制度は歴史の回復であると同時に血統原理の裸形化であり,30年条項は可謬性の制度化であると同時に決定の延期であること――を認めた。第三。したがって「安泰か解体か」は,この法律の条文の中では決まらない。決まるのは,30年後の見直しの席に,誰が,どんな語彙を持って着くかによってです。その席を用意したことがこの改正の功績であり,その席まで問題を持ち越したことがこの改正の罪過である。功績と罪過が同一の条項であるところに,象徴天皇制という制度の――あるいは,決定を先送りすることで千数百年続いてきたこの国のかたちの――正確な肖像があるのかもしれません。
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宿の外はもう暗い。山辺の道の向こうに,三輪山が黒い。あの山を神体とする信仰には社殿がなく,したがって遷宮もない。壊して建て直すものを持たない永続と,二十年ごとに壊すことで続く永続と。天皇制がそのどちらでもありえた時間は,たぶんもう,終わりかけている。
(了)
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