2024年10月1日火曜日

無知の知

Facebookで北海道の奥村先生が,ソクラテスの「無知の知」は「不知の自覚」とするべきだという東京大学の納富信留さんの説が腑に落ちたと語っていた。納富さんの参加により,東京書籍の高校倫理の教科書では,「無知の知」が「不知の自覚」に改められた

どういうこと?そもそも,高等学校の倫理でソクラテスを学び,宿題として「ソクラテスの弁明」を読んだ感想を出すというときに,どうにも自分の中では納得できない状態だった。「無知の知」はなんとなくいやらしいけれど認めるとして,「悪法も又法なり」といって毒杯を仰いで死刑になったのは理解できなかった。50年以上経ってもわからないままだったりする。

そんなわけで,こういう問題はAIに尋ねるに限る(そんなわけないやろ)。ChatGPT-4o, Gemini 1.5 Pro,Claude 3.5 Sonnetの3人に同じ質問で聞いてみた。まあ,いずれも一長一短かなあ。わかったようなわからないような。いずれにせよ,納富先生の考えとは違うわけで・・・。
Q(koshix):
無知の知と不知の自覚はどう違いますか。

A(ChatGPT-4o):
「無知の知」と「不知の自覚」は、どちらも自分の知識の限界を認識する概念ですが、哲学的な文脈やニュアンスに違いがあります。

1.無知の知(Socratic Ignorance)
これは、ソクラテスが提唱した概念で、自分が「何も知らない」ことを知っているという意味です。具体的には、人が自分の無知を認識し、謙虚に学び続ける態度を持つことが重要であるという哲学的な姿勢です。ソクラテスは、知っていると思い込んでいる人々が実際には何も知らないことを示し、自分自身も知識の限界を認識しているがゆえに、むしろ賢明であると考えました。無知の知は、自己反省と批判的思考を通じて、さらに深い理解を追求するための出発点とされます。

2.不知の自覚
一方、「不知の自覚」は、もっと一般的に自分が知らないことを意識することです。これは哲学的な議論の場に限らず、日常的な文脈でも使われることがあり、自分がある分野や問題について十分な知識を持っていないことを自覚する行為です。この場合、特にソクラテス的な知的探求の姿勢が伴う必要はなく、単に自分がその問題について知らないことを理解している状態を指します。

3.主な違い
無知の知は、自分の無知を認識しながらも、それがさらなる知識の追求に向けた積極的な姿勢を生む点で特徴的です。つまり、無知であることを知ることで、より賢明であるとされます。
不知の自覚は、単に自分が知らないことを理解する行為であり、必ずしも知識探求への動機づけや哲学的な反省を含むものではありません。
まとめると、「無知の知」は、自己の無知を認識することで知的探求を続ける哲学的な態度を示し、「不知の自覚」は、ある事柄について知らないことを単に認識するという点で、より日常的な概念です。


A(Gemini 1.5Pro):
「無知の知」と「不知の自覚」は、どちらもソクラテスの哲学に関連する言葉であり、一見似ているように思えますが、微妙なニュアンスの違いがあります。

無知の知
意味:自分が知らないことを知っている、つまり、自分の無知を自覚している状態。
解釈
・何かを知らないことを自覚することで、より深く学び、成長しようとする姿勢を表します。
・古代ギリシャでは、神託によってソクラテスが「最も賢いのは、自分の無知を自覚している者である」と告げられたことから、この言葉が有名になりました。
・ただし、現代では「無知の知」という言葉が、自分の無知を過度に意識し、自己肯定感を下げてしまうようなネガティブな意味で使われることもあります。

不知の自覚
意味:自分が知らないことを自覚している、つまり、無知であることを認識している状態。
解釈
・「無知の知」とほぼ同じ意味ですが、「不知の自覚」の方がより客観的で、自分の無知を率直に認めるニュアンスが強いです。
・ソクラテスの哲学においては、この「不知の自覚」が、真の知への第一歩であるとされています。
・他者の意見に耳を傾け、対話を通して新たな知識を吸収していく姿勢を表します。

違い
ニュアンス:「無知の知」は、自分の無知を自覚することで生まれる知的探求心や謙虚さを強調するのに対し、「不知の自覚」は、より客観的に自分の無知を認識し、そこから学びを深めていく姿勢を強調します。
現代における解釈:「無知の知」は、現代ではポジティブな意味だけでなく、ネガティブな意味でも使われることがある一方で、「不知の自覚」は、より客観的で中立的な意味で使われることが多いです。

まとめ
どちらも「自分が知らないことを知っている」という共通点がありますが、「無知の知」は、より主観的で、自分の無知を自覚することによる知的探求心や謙虚さを強調するのに対し、「不知の自覚」は、より客観的で、自分の無知を率直に認め、そこから学びを深めていく姿勢を強調します。

どちらを使うべきか
どちらの言葉を使うかは、状況や伝えたいニュアンスによって異なります。
・自分の無知を自覚することの重要性を強調したい場合:「無知の知」
・客観的に自分の無知を認め、そこから学びを深めていく姿勢を強調したい場合:「不知の自覚」

補足
・「無知の知」という言葉は、翻訳の問題もあり、正確には「不知の自覚」と訳されるべきだという意見もあります。
・どちらの言葉を使うにしても、重要なのは、自分の無知を恐れず、積極的に学び続けていく姿勢を持つことです。
ご自身の考えと照らし合わせ、より深く理解してみてください。


A(Claude 3.5 Sonnet):
「無知の知」と「不知の自覚」は、似ているようで微妙に異なる概念です。

1.無知の知
・古代ギリシャの哲学者ソクラテスに由来する概念です。
・自分が無知であることを知っている状態を指します。
・より深い知恵や真理の追求につながる哲学的な姿勢です。
・「自分が何も知らないことを知っている」という paradoxical な認識を含みます。

2.不知の自覚
・より一般的で日常的な概念です。
・自分が何かを知らないことに気づいている状態を指します。
・特定の知識や情報の欠如を認識することです。
・学習や成長の出発点となる自己認識です。

3.主な違い
範囲:「無知の知」はより包括的で、人間の知識の限界に関する認識を含みます。「不知の自覚」は特定の分野や事柄についての認識です。
哲学的深さ:「無知の知」はより哲学的で、人間の知識の本質に関わります。「不知の自覚」はより実践的で、日常的な学習や成長に関連します。
起源:「無知の知」は哲学的伝統に根ざしていますが、「不知の自覚」はより一般的な概念です。

両者とも、自己認識と学習への姿勢において重要な役割を果たします。
この説明についてさらに詳しく知りたい点がありますか?


図:無知の知と不知の自覚のイメージ(左 DALL-E3 右 Imagen3)

納富先生曰く
今日それは、私たちの頭脳の中に宿り、あるいは、注入されたり蓄積されたり消去されたりする事物のように扱われている。「情報」という曖昧な概念が「知識」に等価と見なされ、人のあり方から切断されて扱われる傾向も生じている。知識は量の多寡で判断され、とりわけ個別の断片的命題の蓄積が知識と等値される。情報はデータとして蓄積される以上、知識の主体はもはや人ではなくコンピュータやICチップでも構わない。総じて、そういった情報を使いこなす術が「知」と思いなされている。[1]
そうか・・・これが正に自分の「知識」理解だった。さらにその後に続くのは,
ソクラテスが基本的に「知らない」とするのは、「善、美、正義」といった「大切な事柄」についてであり、「死、ハデス」についての不知の表明もそれに含まれる。他方で、日常の経験的事実認識はもとより、技術もそのまま認められ、知として尊重されている。「知」を問うことで問題となっているのは、生を成り立たせる根本概念であった。[1]
うーん,なかなか奥が深いので,自分の考えが足りないまま50年経過したということだけは確かなようだ。

[2]知の一様式としての知らない(池田光義)