2024年10月28日月曜日

デマゴギー

政党マップからの続き

NHKの開票速報から,カピバラのような政治部記者のもっともらしい話が聞こえてくる。大阪放送局には公明党を殲滅した日本維新の会しか出てこないので,気分が悪くなる。馬場や吉村が映ればすぐにチャンネルを変えるようにしている。かといって,情報量の少ない奈良に回しても喜びを抑制した風情の高市が大写しになるだけ・・・orz。

心の平安をとりもどすために,ChatGPT-4oに相談してみる。AIはこのように使われることになるのかもしれない。ただし,あらかじめ設定しなければ厳しいことは口にしてくれない。
Q(koshix):
政治とカネの問題」という,マスコミで多用される表現が気持ち悪くて仕方ありません。同様に「身を切る改革」というのもほとんどデマゴギーのように感じています。これは多くの日本人の持つ感覚とは違うのかもしれません。これについて腹に落ちるような分析をしてもらえないでしょうか。

A(ChatGPT-4o):
「政治とカネの問題」や「身を切る改革」という表現が気持ち悪く感じる理由には、いくつかの要素が関係していると思います。これらのフレーズは日本のメディアや政治家によって頻繁に使用されますが、その背後には単純化された説明や感情に訴えるメッセージが隠されていることが多いです。

1.感情に訴えるデマゴギー的要素
「政治とカネの問題」は、政治家が金銭的な不正や利益追求に巻き込まれている場合のスキャンダルを指す言葉です。メディアではしばしば、詳細な背景説明や具体的な証拠よりも、疑惑やスキャンダルとしての興味を煽るためのレトリックとして使用されることが多いです。このため、問題の本質や社会的な影響が軽視され、簡単なスローガンに落とし込まれてしまうことがあります。「身を切る改革」も同様で、主に政治家や官僚が自身の報酬を削減したり、無駄な支出を削減するという印象を与えるためのスローガンです。しかし、実際に行われる改革の内容が本質的なものであるかどうかは別の話であり、単なるパフォーマンスに終わることも少なくありません。このような表現が感情を揺さぶるための「デマゴギー」として使われていると感じることは、合理的です。

2.本質的な議論の欠如
これらのフレーズは、多くの場合、具体的な政策論議や改革内容に関する深い議論を避けるための便利なツールとして使われます。たとえば「政治とカネの問題」では、個別のケースが何が問題だったのか、その背景にある制度的な要因は何かという本質的な問いが棚上げされ、単純な「悪者探し」に終始する傾向があります。「身を切る改革」も、実際にどれだけの効果があるか、その影響が国民全体にどう広がるのかといった議論が抜け落ちて、表面的な削減だけが強調されがちです。このように、本質的な議論が欠けているため、これらの表現に対して不信感や気持ち悪さを感じるのは自然な反応です。

3.社会の共感形成と大衆操作
「政治とカネの問題」や「身を切る改革」は、特に大衆の共感を引き出すためにメディアや政治家が使うことが多い表現です。一般市民にとって理解しやすく、直感的に共感しやすいフレーズであるため、広く使われます。しかし、その裏にある意図が、実際の問題解決よりも支持率や注目度を上げるためのものだと感じることがあるでしょう。このような操作的な意図を感じ取ると、自然に不快感が生じます。

4.異なる視点の可能性
多くの日本人がこれらの表現に対して違和感を抱かない理由の一つは、メディアや政治家が長年にわたってこうしたフレーズを繰り返し使用してきたため、ある種の「慣れ」が生じているからです。社会的に受け入れられやすい表現として浸透し、特に考えずに使われたり受け取られたりすることが多いでしょう。これが大衆的な感覚とズレを感じる原因の一つかもしれません。

結論
あなたがこれらの表現に対して気持ち悪さを感じるのは、背後にあるメディアや政治家の操作的な意図や、本質的な議論を回避する傾向を敏感に感じ取っているからではないでしょうか。この感覚は、必ずしも少数派ではなく、深く考える人々や批判的な視点を持つ人々にとっては、自然な反応だと言えます。問題の本質を追求しないスローガン的な言葉遣いが、逆に事態を曖昧にし、大衆の関心を感情的に操作することに繋がっているためです。

 


図:「これを抽象絵画風のイメージにしてください」への回答(Claude 3.5 Sonnet)

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