2019年12月9日月曜日

膨張する個人と社会の均衡

高橋健太郎が,twitterで「膨張する個人と社会の均衡」について話題にしていた。きっかけは自民党細田派の松川るい(奈良市出身,四天王寺)の典型的な反個人主義的右翼的言論であり,米山隆一原口一博菅野完が反論を加えた。しかし,高橋の分析はさらに進んでいる。

SOGI(性的指向=Sexual Orientation・性自認=Gender Identity)や障害者・女性をめぐる問題については,ずいぶん社会的な意識がリベラル側になっている(もちろん日本会議的な反発も強いが)一方で,日本会議的な思想を十全に体現している安倍政権支持率が高い水準を維持していることの矛盾がどうも引っかかって仕方なかった。それを解きほぐす糸口の一つを提示されたような気がする。

高橋健太郎の2019.12.8の一連のツイートを以下に引用する。
「今,RTした三人のツイート,興味深いポイントだ。僕の思うところは,また違うのだが。「膨張する「個人」を抑えられなくなって社会が均衡を失いつつある」ってのは,正しいのではないだろうか。」 
「ただし,それはこれまでフツーにあったはずの「社会規範」が失われ,「社会が均衡を失いつつある」ということだ。法に定めなくても,あったような共同体の規範。あるいは,野間通易がいうところの,「だいたいの正義」でもいい。それが失われてきている。」 
「そうした個人主義の膨張が,価値相対性や新自由主義への道を辿る一方で,社会規範から解放されたいと願い,解放されたかのように感じている個人が,「社会」ならぬ「国家」と添い寝するようになったのが,今の日本の状況ではないだろうか。」 
「「膨張する個人」は,身近にあった社会規範を嫌う一方で,肉屋が好きな豚のように,国家によるコントロールなら喜んで受け入れるし,そこに同化して,他者をコントロールすることに快楽さえ見出している。そんな光景を見ているように思うのだよね,僕は。」 
「モリカケサクラもつまりは,これまでフツーにあったはずの社会規範,法に定めずともあったような共同体の規範,当たり前の正義だったり,人としての道だったりするものが,政府の中枢で完全に失われ,国家がいいように私物化されている図な訳でしょ。」 
「その意味では,安倍晋三は社会規範から解放されたいと願う「膨張する個人」の権化であり,写し鏡なんだよ。自分の力が及ぶスモール・ワールドでは,同じように振る舞いたいと思っている人々の。」 
「だから,彼らはモリカケサクラを前にしても,糾弾するどころか喝采を送り,安倍と同化して,フツーの社会規範,当たり前の正義を求める側こそを叩くわけだ。それこそ,「膨張する「個人」を抑えられなくなって社会が均衡を失いつつある」光景だよ。」
大阪での維新勢力の跋扈も全く同根であるように見える。そこには利権の顔を隠すためのうっすらと反権力的なニセ化粧さえ施されている。そして,共同体を支えてきたのが,主体的な個人間の万有引力ではなく,権威主義的な殻による社会的な斥力だったことも話を複雑化している。維新に攻撃されている学校や行政には確かに大阪人の反発を招く種もなかったとはいえない。

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