2025年12月11日木曜日

正しいAI教育

教科「情報」超批判的分析からの続き
Q(koshix):
「そもそも高校でAIを教えるとは何か」哲学的批判をお願いします

A(ChatGPT-5.1):
了解しました。ここでは 「そもそも高校でAIを教えるとは何か」 を、教育哲学・認識論・技術哲学・政治哲学の交差点から徹底的に批判的に組み立て直します。これは賛否両論の“紹介”ではなく、現在の日本のAI教育政策が内包する哲学的矛盾そのものへの批判です。

Ⅰ.まず問いを正確に定義する
✓「高校でAIを教える」とは何を意味しているのか

現在の政策文書における「AI教育」とは、実質的に次の三層を混同しています。
・AIを「道具」として使う能力:生成AIの操作,データ分析ツールの利用
・AIを「技術」として理解する能力:アルゴリズム,機械学習の仕組み
・AIを「社会現象」として批判的に扱う能力:倫理,法制度,雇用・監視・権力の問題

哲学的に重大なのは、この三層は本来、発達段階上まったく異質の能力であるという事実です。にもかかわらず、現行の高校AI教育はこれを同一教科・同一評価軸・同一時数に押し込めようとしています。これは認知発達論的にも、学問体系論的にも不可能な設計です。

2.認識論的批判
✓高校生にAIを教えるとは「ブラックボックスを理解したことにする教育」である

生成AI・機械学習は、次の三重のブラックボックスを含みます。
数学的ブラックボックス:線形代数,確率統計,最適化理論
工学的ブラックボックス:大規模分散計算,GPUアーキテクチャ,API・ソフトウェアスタック
社会的ブラックボックス:学習データの出所,バイアス,商業的インセンティブ

しかし高校教育では、この三重のブラックボックスのいずれも本質的には開示できない。結果として生徒は「よく分からないが動くものを、よく分かったつもりで扱う」という “擬似理解”状態に置かれる。
これは哲学的に言えば、知識(epistēmē)ではなく,技巧(technē)でもなく,単なる操作習慣(habit)しか育てない教育です。
つまり現在のAI教育は、認識論的に「無理解の制度化」を行っていると言えます。

3.発達心理学的批判
✓高校生は「メタAI倫理」を引き受けられる段階にいない

AI倫理・AIリスクは、本質的に以下を要請します。
・確率論的思考
・統計的誤差理解
・社会制度設計
・権力と資本の構造分析
これはピアジェ的に言えば後期形式操作期のさらに先、ヴィゴツキー的に言えば高度な社会的足場が必須の思考領域です。

ところが高校教育では、
・「偏りがある」
・「使い方に注意」
・「倫理的に考えよう」
といった 道徳教育にすり替えられた疑似哲学として処理される。
これは結局、「考えさせているふりをした“従わせる教育”」に変質します。倫理とは本来、体制への問いであるにもかかわらず、現実には 体制順応の訓練に使われています。

4.技術哲学的批判
✓現在のAI教育は「技術を中立的存在と偽装している

ハイデガーは技術を『技術とは単なる道具ではなく、世界の現れ方そのものを規定する「存在開示の様式」である』と喝破しました。
しかし日本のAI教育は、
・AIは便利なツール
・正しく使えばよいもの
・使い方次第で善にも悪にもなる
という 「道具的中立主義」 に終始しています。これは技術哲学的に明確に誤りです。

AIはすでに
・労働構造
・知識の価値
・言語の意味
・判断の主体
・創造の定義
そのものを不可逆的に変形させている存在論的装置です。高校教育はここを完全に失明しています。

5.政治哲学的批判
「高校AI教育」は国家による事前適応型人材動員である。政策文書の裏にある論理は明確です。
・国際競争
・人材不足
・DX
・生産性
これは純然たる 国家動員論理 です。高校生は「市民」として育てられているのではなく、「将来のAI労働市場に供給する予備資源」として最適化されています。

これはハンナ・アーレント的に言えば、
・行為(action)
・思考(thinking)
を否定し、
・労働(labor)
・作業(work)
だけを拡張する全体主義的機能主義の教育化です。

6.教育哲学的カタストロフ
高校教育は「人間を教える場」から「非人間への適応訓練所」へ転落している
本来、高校教育の核心は次の問いでした。
・私は何者か
・世界とは何か
・善とは何か
・働くとはどういうことか
・知るとはどういうことか
しかしAI教育は、これらの問いをこう置き換えます。
・どう使うか
・どう効率化するか
・どう失敗しないか
・どう市場価値を高めるか
これは教育の哲学的自己否定です。

7.結論(核心)
「高校でAIを教える」とは、
本来 “AIを問い直す主体” を育てることであるべきだった
しかし現実には、
“AIに適応させられる人間” を量産する制度になっている

認識論的に:擬似理解の制度化
発達論的に:未成熟な倫理の強制
技術哲学的に:存在論の隠蔽
政治哲学的に:国家的人材動員
教育哲学的に:人間教育の自己否定
この五重の破綻が、現在の「高校AI教育」の本質です。

8.では、哲学的に正しい「AI教育」とは何か(対案の原型)
もし高校でAIを教えるなら、内容はむしろ逆であるべきです。
・AIを使わせない
・AIが人間に何をしたかを徹底的に考えさせる
・「判断を奪われるとは何か」「創造が外在化するとは何か」を考えさせる
・AIを“できるだけ使わずに”社会を設計させる

つまり必要なのは,AI操作教育ではなく、AI拒否能力の教育,です

最終総括(断定)
現在の高校AI教育は、哲学的に見て
21世紀型の従順な非思考的大衆」を生産する制度装置である
それは教育を名乗ってはならない。

(以下略)

図:ChatGPTがよくわからない考えたイメージ

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