2019年3月5日火曜日

円周率の計算

電子計算機と人間からの続き)

現代科学シリーズの「電子計算機と人間」では,円周率の計算のためのFORTRANプログラムが書かれていたが,高校1年生の自分にはなぜそれで円周率が求まるのかがさっぱり分からなかった。50年ぶりに,図書館でその本を手にとると,たしかに分かりやすくはなかったが,アークタンジェントのマクローリン展開に1を代入した単純な公式なのであった。
\begin{equation}
\begin{aligned}
\arctan(x) & = x - \frac{x^3}{3!} +  \frac{x^5}{5!} - \frac{x^7}{7!} + \cdots \\
\frac{\pi}{4} & =  1 - \frac{1}{3!} +  \frac{1}{5!} - \frac{1}{7!} + \cdots
\end{aligned}
\end{equation}
この公式は収束がとても悪い見本のような式なので,1000項でようやく3.14が0.1%精度で求まる始末である。

そこで,いくつかの代表的な公式をJuliaプログラムに落としてみた。BigFloatの精度がeps(BigFloat) = $10^{-77}$程度なので,有効数字は77桁弱である。そのBigFloatの使い方が,いまひとつわかっておらず適当に入れているが,たぶん冗長だと思われる。

円周率の計算で,有効数字77桁程度の精度を出すには,昔よくみかけたマチンの公式で 54項,なんだかすごいのだけれど今回初めて使った ラマヌジャンの公式で 9項,スマートなガウス=ルジャンドルの方法で5項が必要であった。もっと楽しそうなJuliaでのπの話はこちら

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f=ones(BigFloat,1000)

function fact(f,n)
# calculation of factorial 1!..n!
  for i in 2:n
    f[i]=BigFloat(i)*f[i-1]
  end
# println(f[n])
end

function pie1(n)
# Gregory-Leibniz Formula
# pi=4*arctan(1)
  sum=BigFloat(0)
  for i in 1:n
    sum=sum+(-1)^(i-1)/BigFloat(2*i-1)
  end
  println(4*sum-pi)
end

function pie2(n)
# Machin's Formula
# pi = 16*arctan(1/5)-4*arctan(1/239)
  sum=BigFloat(0)
  sun=BigFloat(0)
  for i in 1:n
    sum=sum+(-1)^(i-1)/((2*i-1)*BigFloat(5)^(2*i-1))
    sun=sun+(-1)^(i-1)/((2*i-1)*BigFloat(239)^(2*i-1))
  end
  println(16*sum-4*sun-pi)
end

function pie3(n)
# Takano-Kikuo's Formula
# pi = 48*arctan(1/49)+128*arctan(1/57)-30*arctan(1/239)+48*arctan(1/110443)
  sum1=BigFloat(0)
  sum2=BigFloat(0)
  sum3=BigFloat(0)
  sum4=BigFloat(0)
  for i in 1:n
    sum1=sum1+(-1)^(i-1)/((2*i-1)*BigFloat(49)^(2*i-1))
    sum2=sum2+(-1)^(i-1)/((2*i-1)*BigFloat(57)^(2*i-1))
    sum3=sum3+(-1)^(i-1)/((2*i-1)*BigFloat(239)^(2*i-1))
    sum4=sum4+(-1)^(i-1)/((2*i-1)*BigFloat(110443)^(2*i-1))        
  end
  println(48*sum1+128*sum2-20*sum3+48*sum4-pi)
end

function pie4(n)
# Ramanujan Formula
  sum=BigFloat(1103)
  for k in 1:n
    sum=sum+f[4*k]/(f[k]^4*BigFloat(396)^BigFloat(4*k))*BigFloat(1103+26390*k)
  end
  println(BigFloat(9801)/(sqrt(BigFloat(8))*sum)-pi)
end

function pie5(n)
# Chudnovsky formula 
  sum=BigFloat(13591409)
  for k in 1:n
    sum=sum+f[6*k]/(f[3*k]*f[k]^3*BigFloat(-640320)^BigFloat(3*k))*BigFloat(13591409+545140134*k) 
  end
  println(BigFloat(640320)^1.5/(BigFloat(12)*sum)-pi)
end

function pie6(n)
# Gauss-Legendre algorithm
  z=BigFloat(2)
  a=BigFloat(1)
  b=1/sqrt(z)
  t=1/(z*z)
  p=BigFloat(1)
  for k in 1:n
    o=a
    a=(o+b)/z
    b=sqrt(o*b)
    t=t-p*(a-o)*(a-o)
    p=z*p
  end
  println((a+b)*(a+b)/(4*t)-pi)
end

fact(f,160)
@time pie1(10000000)
@time pie2(54)
@time pie3(22)
@time pie4(9)
@time pie5(5)
@time pie6(5)
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-9.999999999999975000000000000312499999999990468750000000541015625007904590936847e-08
  5.580711 seconds (60.04 M allocations: 3.131 GiB, 4.69% gc time)
3.454467422037777850154540745120159828446400145774512554009481388067436721264971e-77
  0.055656 seconds (76.18 k allocations: 3.601 MiB, 7.32% gc time)
-6.908934844075555700309081490240319656892800291549025108018962776134873442529942e-77
  0.071662 seconds (123.15 k allocations: 5.740 MiB)
-6.908934844075555700309081490240319656892800291549025108018962776134873442529942e-77
  0.057192 seconds (93.11 k allocations: 4.357 MiB)
-3.454467422037777850154540745120159828446400145774512554009481388067436721264971e-77
  0.068310 seconds (106.84 k allocations: 5.084 MiB)
0.0
  0.036871 seconds (53.77 k allocations: 2.544 MiB)

ネイピア数の計算に続く)



2019年3月4日月曜日

若冲の樹花鳥獣図屏風

旧三井家下鴨別邸からの続き)

旧三井家下鴨別邸の望楼特別公開にあわせて,2階では伊藤若冲の樹花鳥獣図屏風の高精細複写品(キャノン)が展示されていた。本物は静岡県立美術館にあって,これは実際にみたことがある。たぶん平面にして展示してあったと思うが,今回は屏風立てで,床に置いたロウソク風のLED照明をあてている。以前の印象より小振りに見え,表現もすっきりしているように感じた。
写真:若冲の樹花鳥獣図屏風の高精細複写(2019.3.4)

それは,プライスコレクション「鳥獣花木図屏風」のイメージと比較したからだろうか。2006年に「若冲と江戸絵画」という展覧会があって,愛知県美術館で「鳥獣花木図屏風」をはじめてみた。白象の背中に敷物があるほうだ。これがこの屏風を見た初めての機会であったがとても印象深かった。最終日に近く,ちょうどジョー・プライス夫妻も来ていてので図録にサインをもらうことができた。静岡県立美術館の方はその数年後に訪れたが,設置の位置のせいか,プライスコレクションのそれより小さく感じたのだった。

「樹花鳥獣図屏風(静岡)」と「鳥獣花木図屏風(プライス)」については,佐藤康宏と辻惟雄の間に真贋論争がある。


2019年3月3日日曜日

旧三井家下鴨別邸

京都の下鴨神社の南にある旧三井家下鴨別邸で,平成31年2月7日から3月19日まで,主屋の三階望楼の特別公開をしていたので夫婦で行ってみた。毎年この時期に一ヶ月程度公開しているらしい。明治の末に三井家の祖霊社がこのあたりに移されたので,大正の末に木屋町にあった別邸を休憩所として移築したそうだ。戦後は国に譲渡され,家庭裁判所の所長宿舎として使われた後,近代和風建築として重要文化財に指定された。一帯の敷地は八千坪にもなるが,一部は京都家庭裁判所となっている。

あいにくの雨模様だったが,到着すると順番に十名程度ずつ登ってもらいますとのことだった。二階の待合室で説明を聞いてから,それほど待たずに登ることができた。昔は五山の送り火もすべて一望できたようだが,いまは,左大文字と妙法の一部がみえるにとどまる。南側の木立を整理すれば,鴨川と高野川の合流地点がきれいに見えるはずなのに惜しい。

三井家から広岡家に嫁入りした広岡あさをモデルにした「あさが来た」が2015年度下半期のNHKの朝ドラとして放映され,その縁の品なども展示されていた。この建物が当時の撮影にも登場したそうで,放送当時は表まで行列ができるほどのにぎわいだったそうだ。

二階から急な階段の脇に張った太い組み紐につかまりながら,恐る恐る登っていくと三畳ほどの四方が開けた望楼になる。雨戸が下から引き出す方式が珍しいという説明を受けた。プライバシーの問題があるので,三階の望楼からの撮影は禁止である。

十分ほど説明があって,降りた二階には,伊藤若冲の「樹花鳥獣図屏風」の高精彩複製品(キャノン)が展示されていた。一階にはしゃれたデザインの洗面所や風呂場などがあり,瓢箪池のあり庭園にでて散策したが,そこからは建物の全体が一望できた。

 
写真:三井下鴨別邸(2019.3.3)

若冲の樹花鳥獣図屏風に続く)

2019年3月2日土曜日

電子計算機と人間

SSS 現代の科学シリーズというのが,1967年から1980年にかけて,河出書房新社から出版されていた。ちょうど中学の終わりから高校にかけて何冊かそろえていた。講談社のブルーバックスよりも少し上といった感じのシリーズである。最初に買ったのが,アイザック・アシモフの「化学の歴史」であり,中学の時に理科クラブで化学に取り組んでいたことに関係があるかもしれない。この本は今では,ちくま学芸文庫に収録されていているので入手しやすい。

もう一冊よく憶えているのがドナルド・フィンクの「電子計算機と人間」である。あと何冊かあったような気がするが,タイトルをみてもどれもピンとこないのである。もしかすると2冊だけしか持っていなかったのかもしれない。

「電子計算機と人間」は,石田晴久先生が最初に手がけられた本のようである。情報処理 Vol.50 No.7(2009年)に「あの時代」に想いをはせて−証言者たちからのメッセージ−として,2009年の3月に亡くなられた石田晴久の追悼特集が載っている。その中に,元bit誌編集長の小山透さんが石田先生の著述物の一覧を整理されている。その第1号が,1969年に出版された,高橋秀俊先生との共訳によるこの本なのだった。

写真:電子計算機と人間(アマゾンより引用)

金沢泉丘高等学校の理数科の1年でプログラミングのさわりを学ぼうとしていた自分にとっては,まさに時宜を得た読書体験であった。ところで,この本には,FORTRANのプログラミングで円周率を求めるという話が延々と書いてあったのだが,どうして円周率が求まるのかがさっぱりわからず,狐につままれたような思いが残っているのだった。いったい,どんなアルゴリズムを用いようとしていたのだろうか。

円周率の計算に続く)

2019年3月1日金曜日

NHK-FM放送開始50周年

NHKが1969年の3月1日にFM放送を開始してから50周年を迎え,3月1日から3日間にわたって,特別番組を放送している。1969年といえば,高校1年生だった。その頃,親にねだって買ってもらったSONYのテープレコーダサーボマチックF1(TC-222)と家にあった古いトランジスタラジオでAM放送のエアチェック(洋楽ポップス+日本のフォーク少々)をするのが趣味となっていた。その後,半裸ケーブルでイヤホンジャックから結線していたラジオから,SONYのトランジスタラジオ(TFM-110F)に更新してもらったように思う。

写真:SONY TC-222 ヤフオクより引用
写真:SONY TFM-110F ゴールデン横丁より引用
写真:SONY-TAPE 100 オープンリール復刻図鑑より引用

ノートに楽曲名や演奏者を記録しながら,SONYの直径5インチ(テープ幅1/4インチ)の家庭用オープンリールテープ10数枚に楽曲がたまっていった。サーボマチックF1は,テープスピードが 4.8 cm/sと 9.6cm/s に切り替えられるようになっていたが,テープ代を節約したい高校生は,音質を無視して 低速で録音していた。この場合の1本のテープの録音時間は1時間くらいだったと思う。したがって1本に15-20曲程度入ることになる。10本で200曲か。いまだと,iPhoneに楽々4000曲保存できるのであった。

写真:SONY CF-1600 ヤフオクより引用

1972年に大学に入ってしばらくすると,もうオープンリールの時代ではないということで,SONYのラジカセ(CF-1600)に乗り換えた。なんと景気の良い時代であったこと。NHK-FMでは大学の同級生の佐藤秀明君の影響でクラシックを聴くようになり,やはり同級生の佐藤正泰君にならって,FM-fanを何度か購入したこともあった。


2019年2月28日木曜日

小山内宏

ハノイでの第二回米朝首脳会談であるが,ベトナム戦争で米国に勝利して,その後の経済発展が目覚ましいベトナム社会主義共和国朝鮮民主主義人民共和国のモデルとなるかどうか,ということで話題になっているのか,どうだろう。

1972年にジェーン・フォンダが北ベトナムのハノイを訪れて物議をかもしていたころ,大学に入学したばかりだったが,ベトナム反戦はキャンパスの学生運動における主要なテーマではなかったような気がする。それでも,外部から識者をよんでベトナム戦争の現状について学習するための講演会があった。ベトナム戦争が実質的に終結するのは,1975年4月のサイゴン陥落と南ベトナム政府崩壊の時点である。その2年ほど前だろうか,すでに戦況が北ベトナム有利となりつつあるころに,ベトナム戦争の状況を説明してくれた講師が,軍事評論家の小山内宏先生小山内薫の次男)だった。

阪大豊中キャンパスのロ号館の中教室に集まった学生はそれほど多くはなく,当時阪大キャンパスの学生運動の実権を握っていた民学同系の団体の主催だった。小山内さんは,黒板にチョークで絵を描きながら,ベトコンの移動・輸送路の網目が如何に北爆の影響を回避しながら活動しているかをわかりやすく説明してくれた。

写真:秋田書店「拳銃百科」奥付けより引用

P. S. ここには1924年生まれとあるが,経歴からして,Wikipediaの1916年が正しいのではないか。


2019年2月27日水曜日

Sofitel Legend Metropole Hanoi

今日,明日とベトナムのハノイにある,ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ハノイで,第二回の米朝首脳会談が行われている。あいかわらず,Wikipedia日本語版には記事がなく,英語版のSofitel Legend Metropole Hanoiはこちら

2016年の5月に家族旅行でベトナムのハノイを訪問した。ハロン湾ハノイ市内の観光である。そのとき,後半の2泊ほどをこのホテルに宿泊した。そのときの写真。

写真:ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ハノイの中庭(2016.5)

いろいろな著名人も宿泊している歴史のある重厚なホテルである。ベトナム戦争が終結する少し前に,ジェーン・フォンダが泊まったときの資料が展示されていた。ベトナム戦争のキーワードによって,脳内でジョーン・バエズに変換して記憶されていたのを今回訂正した。ジェーン・フォンダはSFマガジンの解説でドキドキしたあのバーバレラロジェ・ヴァディム監督作品)であった。

2019年2月26日火曜日

折田先生像

昨日今日は,国立大学の個別学力検査,前期試験の日。
ネットでは例年のように京大の折田彦市先生の像が話題になっていた。

写真:折田彦市(Wikipediaより)

折田彦市先生は,旧制第三高等学校の初代校長で,1950年に製作された銅像が今に伝わっている。1991年ごろから落書きの連鎖が始まり,これを避けるために1997年には像が総合人間学部図書館の地下に収納された。しかし,このムーブメントは治まることはなく,台座と像のパロディが受験シーズンなどに毎年繰り返して作られることになった。

ちょうどその1991年から1997年にかけて,総合人間学部の情報科学実習を担当していたので,折田先生の像の変化はしばしば目にしていたのだった。例えば,こんなページや,そんなページや,あんなページからのリンク)が見つかる。そして,そのリンクの先には1996年の日本のWWWサーバ一覧(なつかしい)などもある。

P. S.  折田先生の胸像は,現在は,京都大学の百周年時計台記念館1Fの歴史展示室に安置され,やすらかな余生を過ごしていらっしゃるようだ。

2019年2月25日月曜日

辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否(2)

辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否(1)からの続き

昨日の沖縄県民投票の結果が出た。ざっくりまとめると,

有権者数[A]: 115万人
投票数[B](投票率=B/A): 60.5万票(52.8%)
有効投票数[C](有効投票率=C/A): 60.2万票(52.2%)

賛成票[D](賛成比率=D/C|賛成割合=D/A): 11.5万票(19.1%|10.0%)
反対票[E](反対比率=E/C|反対割合=E/A): 43.4万票(72.2%|37.6%)
どちらでもない票[F](中間比率=F/C |中間割合=F/A ):5.3万票(8.8%|4.6%)

・有権者数に占める割合が最も多いものは反対の37.6%で,判定基準の25%を越えた。
・沖縄県民の7割以上が反対している(と普通は表現するであろう)。
・玉城デニー知事の県知事選の得票数 39.7万票を43.4万票で上回っている。
・NHKや産経新聞や読売新聞などは,結果を極力過小に示すような報道を続けた。
・政府はこの結果を無視して引き続き埋め立て工事を進めるとした。

参考: 元山仁士郎さんのTwitter

写真:沖縄県名護市辺野古(CC-BY-SA Kugel~commonswiki

2019年2月24日日曜日

辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否(1)

沖縄県のウェブサイト(2/24/2019)ではこうなっている。
平成31年2月24日(日)は県民投票です。
辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票について
県民投票とは、通常の選挙とは異なり、特定の候補者に投票するものではありません。『普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画している米軍基地建設のための埋立て』について、県民の意思を示すための投票です。
琉球新報(2/24 5:00)ではこうなっている。
沖縄県民投票、午後11時ごろ大勢判明 期日前に23万人、辺野古に直接審判

沖縄タイムズ(2/24 5:00)ではこうなっている。
きょう沖縄県民投票 辺野古埋め立て賛否を判断 得票数・率に注目

日本経済新聞朝刊(2/24)は5面の5段の小さな記事でこれ。
沖縄きょう県民投票
米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設を巡る県民投票が...
(いきなりテーマが誘導されている)

TBSの報道特集(2/23)では,金平さんの現地取材を含めて長時間取り上げていた。

NHKのNW9(2/23)では,棄権派とどちらでもない派だけを取り上げていた。2/21の特集では,22年前の移設賛否投票に関する防衛施設庁・防衛庁関係者の意見とりあげて,県民分断や沖縄の苦悩という感情的フレーズにまぶして投票忌避を誘導していた。

辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否(2)に続く)

2019年2月23日土曜日

はやぶさ2

2019年2月22日の午前7時半ごろ,小惑星探査機はやぶさ2が小惑星リュウグウへの最初の着陸(タッチダウン)に成功した。2010年の6月,はやぶさイトカワからサンプルを持ち帰った。これに関して,当時大阪大学理学研究科宇宙地球科学専攻惑星物質学グループ教授だった土山明先生(2012年から京都大学大学院理学研究科地球惑星科学専攻鉱物学講座教授)に,日本物理教育学会近畿支部の講演でお話をうかがったことを思い出した。

イトカワは直径390 m(体積0.018 km^3),質量3.5 × 10^10 kgであり,その密度は1.9 g/cm^3 である。地球表面に持ってくればグズグズにくずれそうな物体である,と聞いたような気がする。

リュウグウはどうかと思い Wikipediaをみると,直径 700 m(この辺が日本のWikipediaの限界か,英語版では 865±15 mとして参考文献も示されている),質量が 4.5 × 10^11 kgであり,イトカワより一回り大きいことがわかる。体積や密度は記載されていないので,体積を直径の3乗の半分だと仮定すると(立方体の周囲を半分だけ削ったような形だと想像)0.7 g/cm^3となる。おかしいな,水より軽い。やはり体積の式が間違っているので,その結果が報告されるのを待つほうがよろしい。

リュウグウは炭素質コンドライトからなるC型小惑星であり,それらの平均の密度は1.38 g/cm^3 程度のようだ。M型小惑星はニッケルや鉄などの金属からできていて,その平均の密度は 5.32 g/cm^3 になる(Wikipedia のStandard asteroid physical characteristics より,これも中文版はあるが日本語版はまだない)。

写真:小惑星リュウグウ(Wikipedia 英語版より)


2019年2月22日金曜日

NeXTの話

1985年にアップルから追いやられたスティーブ・ジョブズが立ち上げたのが,NeXTである。1990年の6月にMITで,素粒子と原子核(の中間領域)の国際会議PANIC XIIが開催された。森田正人先生に連れられて,一年先輩の佐藤透さんといっしょに,ワシントン経由でボストンに着いた。

会場のMITでは,コンピュータルームが参加者のオープン利用に供されていた。そこにあったのが,初代のNeXT Cubeであった。1990年の3月に天王寺分校のデータステーションにS4/330が導入されて,ワークステーションにはなじんでおり,NeXTの感触を確かめることができた。Mathematicaも使えてこれはすごいということで,翌1991年に,大阪教育大学物理1研の予算を工面してもらって,NeXT Station(CPU 68040 25Hz, 主記憶 8MB, ディスク120MB?)を1台購入することができた。天王寺分校は移転を控えてバタバタしていたので,そのどさくさである。

写真:NeXTstation(Wikipediaより)

天王寺分校のデータステーションでは,1990年にサンのワークステーションS/4-330を導入すると同時に室内にはイーサネット(10BASE5 イエローケーブル)を張って室内の端末等と接続していた。垣本さんと相談して,学内ネットワークの練習のためにその一部を延長して,同じ2階で2-30m離れた私の研究室までシン・イーサネット(10BASE2)の同軸ケーブルを引き回した(ケーブルは日本橋で自費で調達し,コネクタは垣本さんにもらったのだった)。彼は技術教育専攻の出身で,ハンダ付けのプロだったので,コネクタ部分はお願いして作ってもらった。

これにより,晴れて(ヤミか?),研究室のNeXT Stationはインターネットにつながることになった。次の年の1992年にはデータステーションは情報処理センターとして教養学科とともに柏原キャンパスに移転し,引き続いて,我々教員養成課程も1993年から新キャンパスでの生活が始まった(柏原キャンパスでは,各研究室への情報コンセントを整備していた)。

若くして亡くなられた山口英(阪大基礎工情報科学)さんが,1990年から1991年にかけて情報処理教育センター(豊中)の助手をされていた。そのとき,阪大の情報教育用のシステムとしてNeXT stationを400台導入するというので,豊中地区に行ったついでに旧豊中データステーションに立ち寄り,資料をもらうことができた。自分の記憶の中では,気軽に資料をくれた当時の山口さんはヒゲを生やしていたが,すずきひろのぶ氏と混線しているのかもしれない。

2019年2月21日木曜日

スーパーコンピュータ登場前夜

大阪大学大型計算機センターニュースセンター25周年のあゆみ:出口弘)によると,センターシステムは1980年代の前後には次のように変遷している。我々がRCNPから大型計算機センターに乗換え始めたのは,1980年に入出力棟が新設されたころからである。

1969.05 大型計算機センター開設
1976.09  ACOS700導入
1977.12  ACOS800導入
1978.10 ACOS900導入
1979.05 センター設置10周年
1980.03 入出力棟新設
1981.12 ACOS1000導入
1982.05 ACOS1000増設・IAPサービス開始・FORTRAN77
1985.01 HFPサービス開始
1986.06 SX-1サービス開始
1987.04 学術情報ネットワーク・大学間ネットワーク
1987.11 ACOS2020サービス開始
1988.01 SX-2Nサービス開始
1993.02 SX-3Rサービス開始
1994,01 ACOS3900サービス開始
1994.05 センター設置25周年
2019.01 大型計算機センター法制化50周年(記念シンポジウムのページが保護中...orz)

1970年代の半ばに,CRAY-1が開発されたのに続いて,国産の大型汎用機メーカーがスーパーコンピュータの開発を進めていた。日本電気の開発したベクトル型スーパーコンピュータのSXシリーズが登場する前,汎用機であるACOS1000に統合アレイプロセッサ(IAP)とよばれるベクトル計算機構が導入されて,1982年からサービスが始まった。ちょうど,大阪教育大学に就職したときで,天王寺のデータステーションから阪大大型計算機センターのTSS利用が可能になったころである。

1983年ごろの研究ノートをみると,FORTRAN66からFORTRAN77へのプログラム書き換えや,ACOS1000のTSSのジョブ処理手順への変更などで四苦八苦している。FORTANのコンパイル時の最適化オプションで実行時間が1/3になり,IAPオプションでさらにその1/2になるというのが,最も効果のある場合の例だった。

1985年には,ACOS1000のバックエンドシステムとして高速FORTRANプロセッサ(HFP)が導入され,ここでもIAPが使えた。これが,SX-1の導入イメージのための練習用システムとなっていたようだ。翌1986年にはSX-1が使えるようになった。

1986年に核物理センターの計算費をもらって,大型計算機センターでSX-1を利用した話(スーパーコンピュータと原子核殻模型計算 1987)は,Juliaでパズル(5)で紹介したとおりである。

2019年2月20日水曜日

RCNPの計算機

原子核理論を専門としていたので,1976年に大学院に入ると電子計算機を使って研究を進めることになる。当時は物理分野で電子計算機を縦横無尽に使うのは,X線結晶解析と原子核物理というのが相場だった。1950年代のサイエンスの状況をイメージすると,DNAと核エネルギーなので,そんなことになるのだろう。

さて,大阪大学の全国共同利用施設のひとつとして1971年に発足した核物理研究センター (RCNP)は,AVFサイクロトロンを備えた原子核の実験施設であり,阪大の吹田地区の北端に位置していた。東大の原子核研究所や理化学研究所と並び,西の原子核実験物理の拠点として位置づけられていた。歴史的経緯を考えると納得できるものではある。

核物理センターを正面からみて左手が研究棟でスタッフの研究室,会議室や事務室が入っており,右手が実験棟(サイクロトロン棟)になっていた。実験棟の2Fに計算機室やデバッグ室が設けられていた。当時はTSSではなく,オープンバッチ処理なので,計算するためには豊中地区からここまで足を運ばなければならない。

設置されていたのは,東芝の中型の汎用計算機(TOSBAC 5600)であった。実験グループのデータ解析を行うのが主目的であるが,共同利用を進めるために,原子核理論グループにもマシンタイムが無料で開放されていた。理論屋では,基礎工学部数理教室の上田保先生(核力,少数多体系),澤田達郎先生(少数多体系)や,村岡グループの養老憲二さん(殻模型),松岡和夫さん(核反応),そして森田研の我々がよく出入りしていた。実験グループだと当時RCNPの助手だった藤原守さんくらいしか記憶にない。

キーパンチャーはIBMのもので,デバッグ室の棚にカードデックの箱を置いていた。冷房の効いた主機室に入ると空調の音がうるさく,自分のフォートランカードの束にコントロールカードを重ねて,カードリーダーに読み込ませる。しばらく待って結果はラインプリンタに出力される。うるさかったのは空調のせいだけではなかったかもしれない。ときどき,ラインプリンタの紙送りが詰まると自分で紙をセットし直す。

豊中と吹田の往復にはバスの学内便を使うことが多かったが,天気が良ければ,原付で中央環状線を疾走したりした。まだ,ヘルメットが義務化されていない時代である。制限速度30kmのところを50km近く出して白バイに捕まったことが一度ある。よく事故らずに無事に過ごせたものだと思う。

1997年1月からは,阪大大型計算機センターと阪大レーザー核融合研究センターと核物理研究センターの大型計算機は統合され,ベクトル型パラレル計算機 SX-4 として共同運用されることになり,現在のSX-ACEに至っている。

写真:RCNP全景 (RCNP写真ギャラリーより)

2019年2月19日火曜日

大阪大学大型計算機センター(3)

大阪大学大型計算機センター(2)の続き)

我々がTSSによる大型計算機センターの利用をはじめた1980年前後は,ちょうどマイコン=パーソナルコンピュータが登場して普及が始まろうとしている時期と重なっている。

阪大豊中地区のデータステーションに設置されていたTSSの端末は,最初の内はドットプリンターにキーボードがついたものであった(ディスプレイはまだない)。そのうちバドミントンプリンタとよばれる,少しだけしゃれた端末も増えたが速度は速くはなかった。中には,記号が並んだAPLキーボードの端末もあったが,使ってはいない。


写真:TSS端末 Silent-700 (Wikipediaより) 。これではないが,こんな雰囲気のもの

プリンタ型のTSS端末はテキサス・インスツルメンツのものが有名で,それかどうかはわからないが,1200bpsの高速端末が研究室にも導入された。まもなく,アンリツのグリーンCRTディスプレイによるスクリーン・エディタ端末も入ったような気がする。

そうこうしているうちに,日本電気(NEC)からPC-8001,PC-8801,PC-9801とパーソナルコンピュータのシリーズが発売され,BASICや機械語で動く自作ターミナルのブームがやってくる。大型計算機センターニュースにはこうした記事が頻繁に登場していた。専用の端末に比べれば,ずっと安い価格で,かつそれなりに高機能のTSS端末が誰にでも仕える時代になったのだ。大坪先生もアセンブリ言語を駆使して,ターミナルソフトを開発されており,阪大大型計算機センターニュースの記事(1)(2)になっている。

大阪教育大学のデータステーションにも,阪大大型計算機センターの専用TSS端末が4台入り,これに加えて,PC8801が端末として導入された。N88BASICの端末エミュレータプログラムがあちこちで公開されていたので,自分でもこれを参考に適当にカスタマイズして使っていた。

P. S. 大阪教育大学のデータステーションの教務員の加藤清さん(垣本徹さんの前任者)が作ったN88BASICのプログラムを参考にしていたのではないか。これも,阪大大型計算機センターの藤井博さんの記事(1982)がオリジナルかもしれない。加藤さんはその後,岐阜経済大学から大阪工業大学に移られたようだ。その後一度だけどこかでお会いした記憶がある。


2019年2月18日月曜日

大阪大学大型計算機センター(2)

大阪大学大型計算機センター(1)からの続き)

1975年の理学部物理4回生の数値計算法(村岡光男先生)の授業は,FORTRANによるプログラミング演習であった。豊中地区のデータステーションにパンチカードを預けると,学内便によって吹田地区の大型計算機センターに運ばれ,計算結果のプリントアウトが翌日学内便で豊中地区に戻ってきた。ということで,2日かけてようやく1ジョブが実行されるのだ。これを繰り返してFORTRANのブログラムをデバッグしていた。


写真:カード穿孔機(上)とパンチカード(下)
( Wikipedia のキーパンチ より)

さて,1969年に発足した阪大大型計算機センターの初代のセンター長は基礎工学部数理教室の高木修二先生で,1979年までの10年間にわたってセンター長を務められた。高木先生(1914-2006)は原子核理論(多体問題)がご専門であり,岩波講座現代物理学の基礎第10巻原子核論を執筆されている。

その高木先生がセンター長を退任される直前に,1979年からの新システムについてセンターニュースで紹介された記事(システムの拡充とシステムの更新について)がある。1979年から導入された汎用機が NECのACOS900であり,このころには大型計算機の利用は遠隔端末からのTSSが大きな割合を占めるようになった。そのタイミングで,わが研究室でもTSSによる大型計算機センターの利用を始めたのであった(大学院に入ってからは核物理研究センターの中型汎用機を無料で使っていた)。

ACOS900のスペックは,主記憶8MB,計算速度12MIPS,磁気ディスク6GBである。うーん,そのへんの子どもでも持っている現在の iPhone とは比べてはいけないが,たった40年でこれだ。そしてその有り余るコンピュータリソースがSNSによる自己顕示的な動画やネトウヨ言説空間の構築に費やされている。

阪大大型計算機センターでは,1982年からはACOS1000が,1986年からはベクトル型スーパーコンピュータのSX-1が運用されることになる。1980年代から90年代にかけて,全国の大型計算機センターが競ってベクトル型スーパーコンピュータを導入し,それに対応して,日立,富士通,日本電気の各社が開発競争していた時代が夢のようであった。

P. S. 阪大大型計算機センターでは,JUKI のカード穿孔機が設置されていた(写真はIBMのものである)。

大阪大学大型計算機センター(3)へ続く)


2019年2月17日日曜日

大阪大学大型計算機センター(1)

旧帝大には全国共同利用施設として大型計算機センターがそれぞれに設置されていた。東大では1965年から,その他の6大学では1969年から運用が開始されている。今ではこれらのセンターは,学内共同利用施設であった情報教育系のセンターと統合するなどして,全学の情報環境を提供する機構やスーパーコンピュータのファシリティに変化している。

その大型計算機センター時代の話である。大阪教育大学に着任した翌1983年にはデータステーションの運営委員となった。そのころ大阪教育大学には,京都大学と大阪大学の両大型計算機センターのリモートステーションとしてデータステーション(地区連絡所)が設置され,リモート回線で結んだミニコンでジョブ処理が行われていた(その話はまた別の機会に)。

全国の大学は,それぞれの地区の大型計算機センターを核としたブロックにわけられ,大型計算機システムやデータベースの共同利用が推進されていた。大阪大学の大型計算機センターは第6地区のセンターとして,大阪・和歌山・奈良・兵庫・岡山・香川・愛媛・高知・徳島がサービスエリアだった。そして,地区の各大学には阪大大型計算機センターの利用支援のため「プログラム指導員」が1名づつ置かれた。

この他に,阪大大型計算機センターに常駐して相談に当たるのが「プログラム相談員」だった。プログラム相談員は,週1回2時間の常駐で,利用負担金の7万円/半年の免除やマニュアルの無償提供,ジョブの優先実行などの特典があった。一方,プログラム指導員の方は,随時の対応であり(そもそも相談もそんなにないわけで),マニュアルが一定限度で無償提供された。その後,マニュアル以外のコンピュータ関係の図書を2〜3万円/年程度購入することもできるようになった。

年1回のプログラム指導員の協議会が吹田キャンパスの阪大大型計算機センターで開かれ,センターの教職員の方々と意見交換させていただいた。大中幸三郎先生や後藤米子先生などがいらっしゃった時代である。1990年代になると,大型計算機センターはネットワーク,ワークステーションやUNIXへと守備範囲を広げ,現センター長の下條真司さんの時代がやってくる。プログラム指導員や相談員では,家本修先生,武知英夫先生,藤本益美先生の名前が懐かしい。阪大で同期の平井國友さんも奈良県立医科大からこられていた。

さて,1983年までは本学の物理化学研究室の南波嘉幸先生が大阪教育大学のプログラム指導員を務めておられたが,1984年から私と交代することになった。その指導内容はFORTRANとしていたが,プログラム相談されることはほとんどなかった。生物学・生命医学分野のデータベースBIOSIS利用のためのセンターへの利用登録の話があったかどうか。1994年には,指導内容をインターネット,Mathematica,Fortranとしている。1995年には,連絡先メールアドレスを記載するようになった。1999年にプログラム指導員は利用指導員と名前を変え(コンピュータの利用の様子がすっかりかわってしまったのだった),これが最後のお勤めとなった。

その後,阪大の大型計算機センターは情報処理教育センターと統合して,2000年からサイバーメディアセンターとなり,現在に至っている。

大阪大学大型計算機センター(2)へ続く)

2019年2月16日土曜日

総合人間学部の情報科学実習(2)

総合人間学部の情報科学実習(1)からの続き)

さて,全学共通の情報学科目に対応する情報科学実習であるが(今ならば情報基礎演習[全学向]に相当),システムとしては情報処理教育センターの日立の汎用機HITAC680(大型計算機センターは富士通でした)のVOS3上のFORTRANで,川崎辰夫先生と冨田博之先生が書かれたテキストを使ったプログラミングの演習であった。

普通教室の机に埋め込んで固定されたノートブック型パソコンを端末として使うというもので(机の蓋をすると普通教室に戻る),なんだかややこしかった。実習室の確保のための苦肉の策のようだ。システム更新の後は,普通のデスクトップPC(コンピュータ端末)の並んだ実習室になった。

最初は汎用機OS上のFORTRANをTSS端末から使うという形だったものが,UNIXも使えるようになったので,UNIXのfortranでの実習に変えてもらった。最後の方は,Cでやって下さいとのことで,言語はCに変わったが,例題のレベルもつくりも,fortran実習に毛が生えた程度。ようやく電子メールも使えるようになると,受講生との連絡は楽になった。

授業中でも空いている端末は,受講していない学生さんが自由に使ってよいことになっていた。あるときその様子を見ているとIRCを使ったチャットだった。BBSは大型計算機センター時代からROMだったし(阪大大型計算機センターのBBSでは西野友年さんが活躍していた),netnewsのfjグループにもなじんでいたが,なるほどこんな時代なのかと思った。

実習室の前に端末が数台並んだ部屋(総合人間学部の情報関係の方々のたまり場?)があり,はじめのうちはここで午前中から授業の準備をさせていただいた。やがて使えなくなってしまい,普通の非常勤講師控え室でまわりの会話に耳を澄ませながらお弁当を食べていた。

1990年の末に欧州原子核機構(CERN)ティム・バーナーズ=リーが World Wide Web を開発するのだが,1993年 NCSA Mosaic の登場で爆発的に普及して今日に至る。そのできたてのMosaicが実習室の後ろの端末にインストールされていた。テキストベースのgopher/ archieは使っていたけれど,イメージが付加されるのは画期的であった。


情報科学実習でお会いした方々:

川崎辰夫先生:一度だけご挨拶してお顔を拝見したかも。2011年に80歳で亡くなられた。

冨田博之先生:お世話係なのだけれど,年に一度お会いするかどうだった。あのディラックが晩年を過ごしたフロリダ州立大学に行かれたとおしゃっていた。その後,「ケルビンの 「19世紀物理学の二つの暗雲」に関する誤解(2003)」という面白い記事を拝見することになる。

櫻川貴司さん:当時,一世を風靡していたProlog-KABAの岩波本の著者であったのでお名前は知っていた。この実習のもろもろのお世話は,基本的には櫻川さんにしていただいた。大変お忙しそうで,つかまえてシステムのパスワードを教えてもらうのに苦労した。

新出尚之さん:最初は情報処理教育センターの所属だったが,奈良女子大の助手になられ,非常勤講師として情報科学実習を担当されていた。システムトラブルの時に助けてもらった。

筒井多圭志さん:当時京大の医学部の大学院に所属されていて,櫻川さんといろいろだべっていた(ペンギンとよばれていたみたい)。後に,ソフトバンクのCTOやCS(チーフサイエンティスト:最高研究者)になるとは。ウェブの仕組み等を教えてもらった(例:チルダはどこを指しているのか)。

青木薫さん:青木さんとはちょうど入れ替わりで(青木健一さんが金沢大学に移られるタイミングだったのかな),冨田先生の打ち合わせで一度だけお目にかかった。京大の原子核理論(クラスター模型や反対称化分子動力学AMD法で有名な堀内先生の研究室)出身なので,夏の学校や学会などでちょっとすれ違ってはいたのだが,覚えてらっしゃらないようだった。

村上正行さん:私の授業のTAをつとめてくれた院生さん。総合人間学部の一期生であり,その後,京都外国語大学に就職された。教育工学や高等教育がご専門である。TAは何人かいたのだが,なぜか彼だけが記憶に残って現在に至る。

2019年2月15日金曜日

総合人間学部の情報科学実習(1)

田村松平が1967年3月に63歳で京都大学の教養部を定年退官してから,25年後に教養部は廃止され,その半年前の1992年に総合人間学部が設置された(京都大学総合人間学部,大学院人間・環境学研究科の沿革)。

ちょうどその頃に,当時の教養部,引き続き総合人間学部の非常勤講師となって,情報科学実習を担当した。1991年から1997年にかけてである。京大の非線形動力学研究室で木立さんの先輩にあたる,川崎辰夫先生や冨田博之先生が教養部の所属で,FORTRANによる情報科学実習を担当されていた。木立さんから白羽の矢を立てられた私は,毎週1回京大の教養部(後に総合人間学部)に通うことになった。

その当時,大阪教育大学も大阪府下の三分校から柏原キャンパスへの統合移転が進んでいた。私自身も1991年には,附属学校池田地区の裏手にあった大阪教育大学の池田宿舎から,奈良県天理市に引っ越した。京都までは近鉄京都線で1本である(まあ,そこから地下鉄とバスを乗り継ぐのでなかなか百万遍にはたどりつかないのだが)。

京都大学情報環境機構(2005-)を構成している学術情報メディアセンター(2002-)は,全国共同利用の京大大型計算機センター(1969-)と総合情報メディアセンター(1997-)にルーツをもつが,後者の源流が情報処理教育センター(1978-)であった。私が担当した情報科学実習は,この情報処理教育センターの第4次システムと第5次システムを使って運用されていた期間に対応する。

1991年から1997年というと,1991年の12月には大阪教育大学に情報処理センターが設置され,1992年には柏原キャンパスが開校して共通講義棟A205(現在の講義準備室)に情報処理センター管理室が開設されたころ。1996年には540㎡の情報処理センター棟(E棟)も竣工しており,ちょうど本学ではキャンパスネットワークの整備が急速に進んだ時期でもあった。

総合人間学部の情報科学実習(2)に続く)

2019年2月14日木曜日

田村松平

田村文庫の続き)

田村松平について,ネット上での情報をさらに調べると次のようなものが見つかった。

(1)日本における量子力学の受容の最初期のものとして,京都大学学術情報リポジトリ紅に,量子力学の紹介記事「新量子論,物理化學の進歩(1928),2(1):1-38」が掲載されていた。「物理化學の進歩」は,京都大学の物理化学教室が発行している学術誌であり,バックナンバーの電子化も行われているようだ(吉村洋介さん)。

(2)田村松平の没年は1995年ではなく1994年であった(Wikipediaはさきほど修正済)。
京大リポジトリにある京大広報 No. 474 855p 1994.11.01 に次の記事があった。

訃報 田村松平 名誉教授
 
 本学名誉教授 田村松平 先生は,9月24日逝
去された。享年90。             

 先生は,昭和2年京都帝国大学理学部物理学科
を卒業,本学理学部副手,講師,助教授を経て同
25年本学教授(分校)に就任,物理学及び科学史
の講義を担当された。同38年教養部に配置換,同
42年停年により退官され,京都大学名誉教授の称
号を受けられた。              
 先生の専門は素粒子論で,特に,場の量子論を
中心とする研究は,その後のこの分野における研
究に対する先駆的な役割を果たしたものであり,
高い評価を受けている。また,先生は物理学史を
中心とする科学史に対する造詣が深く,該博なる
学識と透徹した論理に基づいての科学史研究が評
価されている。               
 先生は教養部における講義以外に大学院理学研
究科の教育も担当され,深い学殖と円満な人格を
もって後学の育成に尽力された。       
 ここに謹んで哀悼の意を表します。     
              (総合人間学部)

(3)田村松平と60年安保の関わりについての二次資料があった。
田村文庫のところで紹介した記事には,安保でデモにいった話があった。

(4)物理教育学会の論文誌,物理教育6巻3号(昭和33年)に,昭和33年度の物理教育シンポジウム(昭和33年10月20日,京都大学)の特集記事(高校や大学における物理実験について)が掲載されている。そのシンポジウム「物理実験をはばむものとその対策」に田村松平が参加している。田村は昭和25年に分校の教授に就任しており,昭和38年に正式に制度化された教養部に配置替えとなる。学生の教養教育を長年担当していたのでシンポジウムによばれていたのだろう。ただ,田村は理論物理(素粒子論)が専門であり,学生実験は持っていないのでシンポジウムの発言もなかなかコメントがしづらそうな様子がみられる。

P. S. 旧制の第三高等学校を前身として,京都大学の分校を経由して教養部が設置されるまでの経緯は複雑であり,京都大学百年史,部局史編2第14章(旧教養部)を参照する必要がある。