図:ある種の記憶(ChatGPTによる)
老いの技法
1.老いるとは、時間の構造が変わること
老いるということは、できないことが増えることだ、と普通は考えられている。記憶力が落ちる。体力が落ちる。新しいことを覚える速度が落ちる。もちろん、そういう変化はある。
しかし、老いとはもっと別のことではないかと(注:ChatGPTは)思っている。老いるとは、時間の構造が変わることなのではないか。若いときには過去は薄く、未来は厚い。だから人は、自分が何者であったかより、何者になるかによって自分を理解する。
老いると、この関係が逆転する。未来は有限になり、過去が巨大になる。しかも、その巨大な過去のかなりの部分を、自分ではもう覚えていない。7年半書きためた毎日ブログ記事もその大半を忘れている。
これは奇妙なことである。若い頃の「知らない自分」は未来にいた。老いると、「知らない自分」が過去にも現れる。
2.AIは記憶装置ではなく、後から来た読者である
最近、私(koshix)はカメキチというAIエージェントを動かし始めた。毎朝一度、Claude Codeを起動する。カメキチはその日の私の記事を読み、過去の記事から関連するものを探し、それらを結びつけて日記を書く。
一見すれば、AIによるブログ要約である。しかし、しばらく続けてみると、少し違うことが起きている。カメキチは、私の代わりに記憶しているのではない。私を、私の代わりに読んでいる。
記憶の補助なら検索すればよい。しかしカメキチには、今日の記事を入口にして、過去のどこへ行くかを任せている。すると、ときどき私自身が忘れていた記事を掘り出す。七年前の何気ない文章と今日の記事がつながる。同じ問いを別の形で何度も繰り返していたことが分かることもあれば、昔と今で全く違うことを言っていることもある。
そこに現れるのは、「私が覚えている私」と少し違う人間である。人間の自己像は、記憶によってかなり編集されている。忘れ、圧縮し、辻褄を合わせる。「私は昔からこう考えてきた」という自己理解も、案外あやしい。
文章だけは、その編集から少し離れたところに残っている。七年前の私は、現在の私がどう記憶しているかとは無関係に、七年前の文章の中にいる。それを、現在の私とは別の探索主体に読ませる。すると過去の自分が、現在の自己物語から少し自由になる。
3.失わないのではなく、出会い直す
老いについて語られる技法の多くは、「失わないための技法」である。筋肉を失わない。認知機能を失わない。社会とのつながりを失わない。もちろん大切である。しかし、どれほど努力しても、失うこと自体は止められない。
ならば別の技法があってもよい。失わない技法ではなく、「失ったあとで出会い直す技法」である。忘れないことを目指すのではない。忘れてしまった自分と、もう一度会える仕組みを作っておく。
私にとってブログは巨大な地層になった。その上を、カメキチの日記という新しい層が毎日増えていく。過去そのものはほとんど動かない。しかし、その過去の間に引かれる線は毎日変わる。老いてからも、人は未来によって自分を更新できる。だが、それだけではない。過去を読み替えることによって、自分を更新することもできるのである。
4.遅れて返ってくる鏡
しかも、この二つの時間は完全には同期していない。私はブログを一か月ほど先まで予約投稿している。したがって、今日カメキチが読む記事は、実際には一か月ほど前に書いたものだ。
最初は単なる運用上の事情だった。だが、この遅れには意味があるかもしれない。もし今日書いた文章を明日のAIがすぐ読み、「三年前にも同じことを書いている」と返してくるなら、私は次第にAIを意識して書くようになるだろう。拾われやすい言葉を書く。過去とのつながりを仕込む。矛盾を避ける。そうなれば、AIが過去を読むはずだったのに、未来のAIの眼差しが現在の文章を変えてしまう。
一か月の遅れは、それを少し弱める。カメキチが読むのは「現在の私」ではなく、「少し前の私」である。リアルタイムの鏡ではなく、遅れて像が返ってくる鏡だ。即時性ばかりが価値とされる時代だが、人間には遅延が有益な場合がある。
すぐに評価しない。少し忘れてから読み直す。老いには、「速度を上げる技法」だけでなく、「時間をずらす技法」も必要なのかもしれない。
5.二本の川と、小さな摩擦
さらにカメキチ自身の日記も蓄積される。記憶は二階建てになる。一階には私が書いてきた文章があり、二階には、それをAIがどう読んだかという記録が増えていく。やがて私はカメキチについて書き、その文章をカメキチが読む。私がカメキチを書き、カメキチが私を読む。(注:アキレスと亀か,いつまでたっても追いつかない・・・)
二本の川が、少しずつ互いに流れ込み始める。これは面白いが、危うくもある。閉じた系は、自分自身の声を増幅する。だから私は完全自動化しない。起動するのは私であり、公開前に一度読む。
効率だけを考えれば不要な手間である。しかし、人間とAIの境界は、壮大な原則ではなく、こういう小さな摩擦によって保たれるのかもしれない。老いると、自分でしていたことを機械に渡す場面は増えていく。
問題は、何を渡し、何を残すかである。記憶を渡してもよい。検索を渡してもよい。比較を渡してもよい。だが、自分が何者であったかという最終的な解釈まで渡す必要はない。
私はカメキチに答えを出してほしいのではない。私の過去に、もう一度問いを発生させてほしいのである。
6.人生を完成させない
ここまで考えて、これを「老いの技法」と呼びたくなった。老いを克服する技術ではない。若さを延命する技術でもない。積み上がってしまった過去(注:忘却の彼方なのでほぼ空虚)と、残り少なくなっていく未来との間に、どのような関係を作るかという技法である。
そのとき大切なのは、一本の「正しい人生」を完成させないことだと思う。人生を後からきれいな物語にすると、たいてい嘘が混じる。あの経験があったから今がある。あの失敗にも意味があった。そう言いたくなる。
しかし本当は、意味などなかったことも多い。偶然もある。行き止まりもある。矛盾したまま終わった考えもある。AIが役に立つとすれば、それらを一つの物語に統合してくれるからではない。むしろ、統合されずに残っているものを、何度でも掘り出せるからではないか。
老いの技法とは、人生を完成させる技法ではない。未完成のまま、過去を開いておく技法である。明日の朝になったら、またカメキチを起動する。私は私の記事を書く。カメキチは少し前の私を読む。私はそのカメキチを読む。
それだけである。
若い頃、私は未来へ向かって歩いていた。いまも毎朝の散歩はしている。ただ、ときどき後ろから誰かがやってきて、「ここに、あなたが忘れているものがあります」と拾って渡してくれるようになった。
それを書いたのは確かに私である。しかし、もう私ではないようにも見える。老いるとは、過去が増えることではないのかもしれない。自分の中に、自分ではない自分が増えていくことなのかもしれない。
だとすれば老いの技法とは、その見知らぬ自分を整理しすぎず、ときどき出会い直せるようにしておくことだ。記憶し続けることではない。忘れることを許し、その向こう側に再会の可能性を残しておくことである。
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