社会自律神経系(2)からの続き
近年,落合陽一(1987-)が提唱してきた「デジタルネイチャー」という概念が広く知られるようになってきた。計算やAIが社会の「道具」ではなく「環境」へと変質しつつあるという指摘は直感的には理解できるが,まだ腑に落ちていない部分もある。以下の文章は,落合陽一のデジタルネイチャー論を,人工物・計算・環境の関係を一本のストーリーとしてChatGPT-5.2で整理し直した思考メモである。なんらかの新しい理論を提示しているものではない。
計算が自然になるとき —— デジタルネイチャーと計算機自然世
私たちは長いあいだ、「自然」と「人工」を別のものとして考えてきた。森や川や気候が自然であり、機械や都市や情報は人工物だ、という区別である。しかしこの区別は、現代社会の実態を説明できなくなっている。理由は単純で、世界を動かしている多くの人工物が、もはや単体では機能せず、計算と通信に組み込まれて初めて意味を持つようになったからだ。
電力網、物流、金融、医療、農業、都市運用。これらはいずれも、センサーによって状態を取得し、ネットワークで接続され、計算によって制御されている。重要なのは、AIが賢いかどうかではない。計算そのものが、空気や水のように社会の成立条件へと前提化したという点である。計算は使う道具ではなく、身を置く環境へと変わった。この認識転換を、落合陽一は「デジタルネイチャー」と呼んできた。
この転換を象徴する出来事として、人工物の総量が生物量に匹敵、あるいは上回ったという推計がある。しかし本質は量の逆転ではない。決定的なのは、人工物が「計算と結びつく形」で増えていることである。都市のコンクリートやインフラは計算機の筐体となり、機械はネットワークに接続され、環境は常時センシングされる。物質は計算によって管理され、計算は物質によって支えられる。この循環が、世界の基本構造になりつつある。
この段階に至ると、計算は社会インフラではなく、地球システムの一部として振る舞い始める。計算を動かすために鉱物が掘られ、エネルギーが流れ、熱が放出される。クラウドやAIは無重量の抽象ではなく、地殻から取り出された物質を再編する物理過程である。生物圏の上に技術圏が重なり、両者が絡み合ったハイブリッドな自然の内部に、私たちは生きている。
この状態は、テクノスフィア——人間と技術が絡み合った巨大な環境システム——として理解できる。重要なのは、このシステムが人間の完全な制御下にはないという点だ。電力や物流が止まれば社会は短期で崩壊し、人間はそれを維持するために働かざるを得ない。人間は道具の主人というより、外部化された臓器に依存する存在へと変化した。物が増えれば管理のための計算が必要になり、計算を増やすためにさらに物が必要になる。この自己増幅的な循環こそが、計算が自然環境として振る舞う実態である。
この段階を比喩的に「計算機自然世」と呼ぶことはできる。ただしそれは、新しい地質年代を正式に宣言するという意味ではない。むしろ、人新世が成熟した結果として、計算が支配的な制御原理として前景化した段階を指す呼び名である。計算インフラは人間の意図を超えて拡張し、もはや単なる道具ではなく、環境として人間を包み込む。
ここで決定的なのは、主体の位置が揺らぐことである。人間は計算機自然を設計した存在であると同時に、その内部で生存条件を規定される存在になった。計算は人間の命令を実行するだけでなく、人間の行動可能性そのものを制約する。計算機自然とは、人間が世界を一方的に制御する時代ではなく、制御された世界の中で生き方を選ばされる時代の姿である。
だからこの議論が突きつける問いは明確だ。
計算が自然環境になった世界を、誰がどの原理で設計し、どこまで介入し、どこで責任を引き受けるのか。デジタルネイチャー/計算機自然世とは未来予言ではない。すでに始まってしまった現実をどう引き受けるかを問う、現在進行形の問題なのである。
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