2020年8月26日水曜日

つるつるいっぱい

喫茶店で出てきたアメリカンがカップすれすれだったのを見て,「なにこれ,つるつるいっぱいや」といったところ,それどこの方言なのとつっこまれた。「えーと,この前テレビでやっていた青森・・・東北じゃないか」と返事しながら検索すると,なんのことはない,福井・金沢だった。そうか,それで自然に出てきてしまったのか。それにしては,これが金沢弁であるという認識がなかったというのも困った話である。完全に金沢弁だとわかっているものも多い中,一部が意識の表層から脱落しつつあるのかもしれない。




[1]金沢弁(Wikipedia)
[2]金沢の方言(金沢市)
[3]金沢の言葉(金沢のくらしの博物館)
[4]金沢の方言(金沢日和)
[5]金沢方言の成立と今(金沢大学公開「e」講座)

2020年8月25日火曜日

出穂期

奈良県農業研究開発センター水稲「ヒノヒカリ」を作りこなすための7つのポイントによれば,8月下旬が出穂期(しゅっすいき)だ。朝の散歩でも稲の白い細かな花が目につくようになった。

この田んぼからどれだけのお米がとれるのだろうか。上記の資料によれば,ヒノヒカリの精玄米重は560-610kg/10aである。10アール=1000㎡(25m×40m)は約1反であり,散歩でよく目にする一区画に対応している。なお,10反が1町歩で約1ヘクタール=10000㎡。

さて,我々老人は2人で1.5日に3合(450g,水浸前)程度のお米をたべている。1人1日1合150gに相当する。一方,炊き上がったごはんは3合で1050gであり,3合で650g程度の水が必要だ。また,カロリーでいうと,ごはん100gで170kcalなので,600kcalの熱量をごはんから,同じくらいをパンやめん類から摂取している。同量のカロリーを副菜などから取っているので1人1日2400kcalになるということか。

田んぼにもどれば,1反の収量は600kgなので,自分たちの量を基準にすれば,4000人日分になる。けっこうあるのだ。1ヘクタールで100人養えるから,奈良県の全人口140万人分をまかなうには,1.4万町歩≒140 ㎢ の水田があればよい。奈良県の面積,約3690㎢のうち可住地面積は23%の855㎢(全国最小)だ。必要となる水田の面積はその1/6に相当するが,実際に耕地面積のうち田は148㎢となっており,老人程度の食の部分はまかなえるのかもしれない。


写真:朝の散歩写真から(2020.8.25)


2020年8月24日月曜日

豊竹嶋太夫

豊竹嶋太夫が8月20日に 88歳でなくなっていた。最後にお見かけしたのは,奈良の西大寺の奈良ファミリーで買物をしているときだった。思わずサインをもらおうかと思ったが踏みとどまった。師匠もご家族といっしょに何か探しておられたようだった。

いつも日の当たるところにいた住太夫とは異なり,一度文楽から離れて再び戻ってきたという経歴の持ち主だ。残念なことに人間国宝になってからわずか半年で引退している。しかし,住太夫と違って嶋太夫は多くの弟子を育ててきた。津國太夫,靖太夫,芳穂太夫,睦太夫,千歳太夫(越路太夫から),呂勢太夫(呂太夫から),故始太夫など。これからの文楽太夫を担う面々だ。嶋太夫の2016年の引退興行の「関取千両幟」もこれらの弟子たちに囲まれていた。

嶋太夫の語りは発音にクセがあったので,はじめは聞きにくくて苦手だった。ところが,どの演目だったかはっきり憶えていないが,すごく熱のある語りを聞いてから,この嶋太夫の語りが好きになってしまった。その一部は,靖太夫に伝わっているように感じる。


2020年8月23日日曜日

やきとりの秋吉

福井市内,足羽川沿いの宿の近くで夕食の店を探してうろうろしていると,ソースカツ丼で有名なヨーロッパ軒の総本店を発見。ヨーロッパ軒の敦賀店には行ったことがあり,候補のひとつにはあがっていたけれど,店の前には長い行列。これはだめだわ,と,その向いに焼き鳥屋があったので入った。それが,やきとりの名門秋吉の本部直営福井片町店だった。店内はお客さんでいっぱいだったけれど,時間が早かったのでまだ行列はできる前だった。その後,待ち行列がどんどん伸びていく。案内されたカウンター席の前には炭焼きの場所がいくつかあって,炎が舞い上がり透明マスクの職人さんたちが手を休めるまもなく串を焼き続けている。やきとりはこぶりの5串1皿を標準として,310〜360円ほどの値段にそろっている。はじめに二種類のタレがやってるが,みそ焼きには酸っぱいたれが追加された。すごく安くておいしい。この秋吉は本部のある福井が発祥地で,福井27店,石川14店,富山14店など,北陸から大阪,東京を中心に,全国で100店舗展開している。

こんなやきとりの店は大阪にはなかったなあと思ったけれど,実は,石橋にもあった。そういえば,中田博保さんと豊中キャンパスからの物理教育学会総会の帰りに,「あきよし」という名前の最近評判のおいしいやきとり屋があるということで,店を覗いたことがあった。残念ながら満席だったのでいつもの「とり竹」の方に入ったのだった。


写真:やきとりの名門 秋吉 (2020.8.13)


2020年8月22日土曜日

福井大仏

福井大仏は,足羽川にかかる九十九橋を北に5分くらいの光照寺にある。もともとは朝倉氏の一乗谷にあった石仏が,江戸時代に現在地あたりの天台宗光照寺に移されたものだ。これが,1945年の福井空襲や1948年の福井地震で損壊したものを,1958年に金銅製の大仏として再建したものらしい。座高は7mで,胎内に一千余年前の弘法大師の自作と言い伝えられる伽羅木の聖観音像を持っているようだが,これは見られなかった。

なお,座高17mの屋内仏である越前大仏が勝山市にある。いろいろややこしい経緯を経ているのをテレビでも放映していた。いまも拝観できるのだろうか。なお,東大寺の大仏は座高15mなので,これより2mも大きなものだ。勝山の福井県立恐竜博物館恐竜渓谷ふくい勝山ジオパークに行く機会があれば立ち寄ろうか。


写真:福井大仏(2020.8.14)


2020年8月21日金曜日

グリフィス記念館

 足羽川沿いの宿のすぐそばに福井市グリフィス記念館があった。ウィリアム・グリフィス(1843-1928)は,明治維新の頃,ラトガース大学で福井藩士の日下部太郎と出会ったのを契機に,1870年に来日して福井藩校の教師となる。この記念館は,その当時外国人教師のための居住用としていた建物を復元したものである。グリフィスはその後東京大学の前身である開成学校に移籍して,1875年にはアメリカ合衆国に帰国し,日本を紹介する「皇国(The Mikado's Empire)」を執筆する。亡くなる前年の1927年には日本を再訪し,福井でも大歓迎を受けた写真が展示されていた。


写真:福井市グリフィス記念館(2020.8.13)



2020年8月20日木曜日

気比神宮

福井県敦賀市にある 気比神宮は,越前国一宮の官幣大社。おとなりの加賀国一宮の白山比咩神社は国幣中社,能登国一宮の気多大社は国幣大社。気比神宮は畿内から北陸道への入口に位置しており,北陸道総鎮守として古代から重要な位置づけがされていた。

朱塗りの大鳥居を見逃してしまった。Wikipediaによれば,三大鳥居の定義も様々なので,まあいいことにする。敦賀赤レンガ倉庫まではいったが,肝腎の日本三大松原のひとつである気比松原も見逃した。これも次回にしよう。


写真:敦賀の地名の由来となった角鹿神社(2020.8.13)

2020年8月19日水曜日

一乗谷朝倉氏遺跡

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のせいで, 福井市の一乗谷朝倉氏遺跡への観光客は増えていたようだが,お盆休みの最中にもかかわらず新型コロナウイルス感染症のためにそこまで混雑してはいなかった。が,猛暑炎天下に影のない遺跡を歩き回ることになる。

福井市の中心を流れる足羽川を東に上ってクルマで30分ぐらいのところから南に向う支流の一乗谷川をはさんで南北に3kmにわたって一乗谷朝倉氏遺跡がひろがっている。手前の足羽川沿いには福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館があったがここはパス。当主の館や侍屋敷,寺院,職人や商人の町屋,庭園から道路に至るまで戦国時代の町並みのうち一部が再現されている。こちらは福井市が管理しているようだ。春や秋で行楽シーズンをずらして人が少ないときにゆっくりと散策するのがおすすめ。


写真:一乗谷朝倉氏遺跡当主館跡(2020.8.14)


2020年8月18日火曜日

かこさとし ふるさと絵本館

ならの大仏さま:かこさとし とつながる

かこさとし ふるさと絵本館「砳」(らく)は,彼の生地である福井県の越前市にあった。敦賀の気比神宮から雨とトンネルの8号線をくぐり抜けてなんとかたどりついた。来場者はほどんどいないが,検温とアルコール消毒ののち連絡先を記帳した。ここでは,かこさとしの作品が収蔵・展示されている。1階には,絵本や紙芝居を読める絵本の部屋,工作のできる遊びの部屋があり,2階には原画や複製原画が展示されていた。館外にはだるまちゃんの遊具などもあって,こじんまりしているがかこさとしファンにはたまらない場所である。近くの8番ラーメン武生店も繁盛していた。

写真:かこさとし ふるさと絵本館の駐車場辺り(2020.8.13)



2020年8月17日月曜日

永平寺

永平寺は福井駅から東にクルマで 30分ぐらいの山中にある。永平寺門前の新しい宿をチェックアウトして土産物屋が並ぶ道をたらたらと上がっていくと右手に寺の入口がある。境内は巨木と苔の絨毯に覆われており,今夏は観光客も少ない。山門をくぐって外から拝観するのかと思っていたらそうではなく,参禅者向けの宿泊施設でもある吉祥閣に誘導された。中に入ってしばらく待っていると,雲水による5分くらいの拝観順案内があって建物の上階に向う。このあたりの雰囲気は天理教の施設内と少し似ている。ここから絵天井のある傘松閣を経由して,僧堂・仏殿・承陽殿・法堂・大庫院・山門と回った。たくさん居るはずの修行僧はどこにいあるのか,写真撮影は禁じられていたけれども,それほど目にすることもなかった。これまでにいろいろと拝観したお寺の中では最も規模が大きいものの一つだろうか。あ,土産物屋のボリュウムも含めれば,モンサンミシェルには負けるかも。その後,てらまえで昼食をとって福井駅に向う。


写真:永平寺境内(2020.8.15)


2020年8月16日日曜日

(夏休み 7)

「蒲の穂は剪るべくなりぬ盆の前」 (水原秋桜子 1892-1981)

2020年8月15日土曜日

2020年8月14日金曜日

2020年8月13日木曜日

2020年8月12日水曜日

2020年8月11日火曜日

2020年8月10日月曜日

2020年8月9日日曜日

さよなら三角

妹のおかげで,少女マンガに触れる機会が多かった。月刊少女マンガ雑誌といえば,少女クラブ(講談社:1946-1962),少女(光文社:1949-1963),なかよし(講談社:1954-),りぼん(集英社:1955-)などだった。どれを購入していたのだろうか。あるいは,週刊誌の少女フレンド(講談社:1962-1974),マーガレット(集英社:1963-1988),セブンティーン(集英社:1968-)だったか。

砂糖や脂肪がふんだんに使われている洋菓子や和菓子のようなフレーバーでなくて,自分にも楽しく読めたのは,恐怖マンガ系の楳図かずお(へび少女とか),ギャグマンガの土田よしこ,あるいは巴里夫(ともえさとお)などに限られていた。巴里夫のデビュー作が「さよなら三角」となっているが,それだったかあるいは別のマンガのエピソードのひとつだっだような気もするけれが,さよなら三角の最初のフレーズだけが印象的だった。

 さよなら三角 また来て四角
 四角は豆腐 豆腐は白い
 白いはウサギ ウサギは跳ねる
 跳ねるはカエル カエルは青い(みどり)
 青い(みどり)は柳(葉っぱ)
 柳(葉っぱ)はゆれる
 ゆれるは幽霊 幽霊は消える
 消えるは電気 電気は光る
 光るはおやじのハゲ頭

また,単行本で萩尾望都のシリーズを揃えていたのを読ませてもらったのは,大阪に出てきてからかもしれない。

中でも最も印象深かったのは水野英子ファイヤー!だった。ちょうど自分が高校生の頃で,洋楽ポップスにはまっていた時期なので強く引かれた作品だった。いまだと,クイーンのボヘミアン・ラプソディー,昔だとロマン・ロランのジャン・クリストフか。

2020年8月8日土曜日

涼風至

きのう立秋を迎えた。朝夕に少し秋めいた風や空も感じられるが,日中の猛暑は続いている。

新型コロナウィルス感染症の第1波第2幕もまだ峠にはさしかかっていない。沖縄や愛知や大阪や東京が特に心配なのだけれど,あいかわらず,PCR検査を抑制しようという日本特有の雑音はいっこうにおさまらない。それどころか大阪維新はあいかわらずのクオリティで在阪TV局の吉本芸人と結託してとんでもない洗脳放送を続けている。一方で官邸政府与党は,いわゆる『低死亡率』を根拠として,積極的な対応を忌避してひたすら逃げ回っている。

それにしても驚いたのは,理科教育畑で日本の教育実践に最も影響力があると自負している大学教員が,家人の緊急連絡によってイソジンを買いに薬局に走ったということを,なんのためらいも,恥じることもなく,フェイスブックで開陳していたことだ。そう,日本の科学教育は確実に失敗の道を進んでいるのだろう。それがすべての分野に染みついている国民的で非合理的な判断態度を下支えしている。

まあ人のことはいえないのである。さんざん否定しておいたGOTOキャンペーンにいそいそと申し込んだのは,もろもろの事情があるのでと言い訳している私です。それにしても日本のITクオリティはすごすぎる。GOTOキャンペーン公式サイトのSTAY NAVIで手続きを進めてみたところ,最終段階で画面遷移せず割引クーポンが発行されなかった。さっそく問い合わせたが,たぶん週明けまで返事はないだろう。こんなポンコツシステムのために大量の税金が湯水のように投入されている。


2020年8月7日金曜日

日の丸

昭和30年から40年にかけては,少年マンガ雑誌は月刊誌がその中心だった。やがて,少年サンデー(小学館:1959-),少年マガジン(講談社:1959-),少年キング(少年画報社:1963-),少年ジャンプ(集英社:1969-),少年チャンピオン(秋田書店:1970-)などの週刊誌が主流となっていく。

小学校低学年のときに,母親からマンガの雑誌を定期購読してもいいという話をとりつけた。少年マガジンやサンデーなどの週刊誌もあるよとすすめられたけれど,付録もついている月刊誌を選択した。それが日の丸(集英社:1958-1963)だった。どちらかといえば最もマイナーだったのだが,どうしてそれが気に入ったのかよくわからない。ナンバーセブン(手塚治虫)やテレビ小僧(石森章太郎)があったのは憶えている。

当時の月刊誌といえば,少年クラブ(講談社:1946-1962),少年(光文社:1946-1968),冒険王(秋田書店:1949-1983),少年画報(少年画報社:1950-1971),まんが王(秋田書店:1952-1971),ぼくら(講談社:1954-1969),少年ブック(集英社:1959-)などがあった。

各社2冊のところがあるので,対象年齢層が少しずれていたのかもしれない。日の丸は小学校3年の終わりに休刊となって,同じ集英社の少年ブックに引き継がれたため,そのまま少年ブックを購読していた。少年ブックは日の丸と違って付録も充実しており,毎号楽しみだった。小学校5年生の時に実家が新築されたので,それを潮時として購読をやめたのかもしれない。やがて小学校が終わるころには,月刊誌のピークも終わりに近づいていた。

定期購読していないものでも,貸本屋,床屋,病院,友達の家などで読む機会は多かったので,各雑誌の主要マンガの印象は大きい。また,少年ブックに連載されていた,ビッグX(手塚治虫)や宇宙エース(吉田竜夫)などは,鉄腕アトムや鉄人28号などのメジャーではない作品がアニメ化されていく過程のさきがけのひとつだった。