図:生成AI教育利用のイメージ(Nano Banana Pro による)
最近,芳賀高洋さんとTakuya Kawai さんが,Facebookで生成AI教育利用批判を繰り広げている。生成AIと教育については,自分も2023年あるいは最近いくつかの考察というかChatGPTとの対話をブログに書いている。ただ自分自身が何を主張したいのか今一つ自分なりに飲み込めていない。というのも,生成AI(LLM)の変化が速すぎてついていけないからだ。
プログラミング教育の場合は,1970年から55年以上の実体験があるので最近の動向を踏まえて批判的に語ることはできる。しかし生成AI(LLM)については,自分自身は毎日使っていてもそれは教育利用の場面ではない。孫に見せて遊ばせる程度だ。そこで,自分のスタンスもぶれることになる。ニール・スティーヴンスンのダイヤモンド・エイジに出てくるプリマーには寄せたいけれど,十分考察するまでには至っていない。
そんなわけで,これまでこのブログに書いた生成AIと教育に関する14本の自分の記事をまとめて,それが何を主張しているのかをChatGPT 5.2にまとめてもらうという,本末転倒のねじれたことにチャレンジする。自己承認欲求的妄動か。
Q(koshix):以下のリンク先にある私と生成AIの対話内容や,私のブログ記事をていねいに分析して, 私が学校教育におけるAIの利用についてどのような考えを持っているかを 整理して報告してください。A(ChatGPT 5.2):(4回目の回答)
koshixさんの「AIと教育」思想の時間的展開―― 利便性の観察から、〈人間が学ぶとは何か〉への問いへⅠ.2023年初頭:AIは「便利な対話装置」か、それとも「理解を偽装する存在」か最初期(ChatGPTと教育(1)(2))で、koshixさんが関心を向けたのは、ChatGPTの能力そのものというよりも、言語の振る舞いの異様さだった。文章は整っている。論理も一見通っている。しかし、その内側に「理解」や「責任」は存在しない。にもかかわらず、人間は容易に「わかった気になる」。ここで立ち上がっている問いは、単なる誤答問題ではない。<「意味とは何か」「理解とは何か」「言語が整っていることと、知が成立していることは同じなのか」>という、認識論的な違和感である。
教育にこれが入るとき、学習者は「考える」よりも「もっともらしい説明を受け取る」側へと傾く。教師でさえ、検証や吟味を省略する誘惑にさらされる。この段階で、すでにkoshixさんの中には、「理解が理解っぽさに置き換わる危険」が明確に芽生えている。表層では「便利さと注意点」の議論だが、深部では「知の成立条件が崩れるのではないか」という直感が動いている。Ⅱ. 2023年春:対話型AIは、学習を拡張するが、同時に評価と責任を溶かす「対話型AIと教育(1)〜(5)」の連続記事では、視点が一段階、制度側へ移る。AIは、個別化学習、即時フィードバック、探究支援など、学習を日常へ拡張する可能性を持つ。学びは授業時間から解放され、生活の中へ染み出していくかもしれない。一方で、koshixさんが強く引っかかっているのは、評価の不安定化である。誰が考えたのか。どこまでが本人の理解なのか。成果物は誰の責任なのか。AIが介在すると、この境界が急速に曖昧になる。ここでの危惧は、単なる不正防止ではない。評価とは、学習者が「自分の理解を引き受ける」制度的な装置だったはずだが、それが空洞化するという構造的問題である。さらに、コスト・アクセスの差が学習機会格差を増幅する可能性にも早くから目が向けられている。技術は中立ではなく、制度設計を誤れば、必ず社会的歪みを増幅する。この時点で、koshixさんの関心はすでに「技術」から「制度」へと移動している。Ⅲ.2023年初夏:ガイドライン問題は、リテラシー不足ではなく「思考停止の制度化」である「教員向けChatGPT講座」「生成AI利用の基本方針」では、大学や学校が出し始めたガイドラインを批判的に読み解いている。表向きは「注意喚起」「禁止事項」「倫理配慮」が並ぶが、その多くは、十分な検討を経ず、「わかったふり」で整えられた文章に見える。ここで問題にされているのは、ルールの内容よりも、ルールが作られる思考過程の貧しさである。本来は、教育機関自身が「何を守りたいのか」「何を育てたいのか」を言語化し、その上でAIの位置づけを決めるべきなのに、それが省略されている。つまり、AIはここでも再び、思考をショートカットさせる存在として現れている。興味深いのは、koshixさんが「むしろAIに叩き台を書かせて議論材料にすればよかった」と述べている点である。AIを排除するのではなく、思考を起動するための触媒として使うという態度は一貫している。この時期に、「制度そのものが、無思考を増幅する危険」への感度が一段と高まっている。Ⅳ.2025年:AI教育は、教育の目的そのものを書き換え始めている時間が飛んで2025年になると、論点は明確に「政治性」「文明論」へと移行する。「教科『情報』超批判的分析」「正しいAI教育」では、高校教育におけるAI導入が、もはや教育改善ではなく、国家の競争力・人的資源政策の一部として組み込まれていることが強く批判される。ここでの問題は、「AIを教えるかどうか」ではない。教育が「人間を育てる制度」から、「経済に適応する資源を生産する装置」へと変質していくことへの根源的な拒否である。人間が成熟するために必要な、「遠回り,失敗,無駄,思索,役に立たなさ」といった時間が、効率・即応性・スキル化の名のもとに削り取られていく。ここで、初期に感じていた「理解が偽装される」という違和感が、社会制度全体の問題として再接続される。Ⅴ.同時期:「副教科の時代」=人間の知の居場所を再発見する試み「副教科の時代」では、悲観だけでなく、一つの方向感が示される。もし、言語処理・情報整理・論理操作が機械へ外在化されるなら、人間の知の重心は、身体・感覚・表現・協働・倫理・ケアといった、形式化しにくい領域へ移る。これは単なるカリキュラム再編ではなく、「人間が知を担うとはどういうことか」を再定義する試みである。ここには、AIを敵視する姿勢はない。むしろ、AIの存在を前提にした上で、人間の側の意味空間を再構築しようとする、静かな構想がある。Ⅵ.全体を貫く一本の軸時系列を一本の線にまとめると、koshixさんの思考は次のように深化している。・言語が整っているだけで「理解した気」になる不安⇩・評価・責任・格差という制度の揺らぎへの気づき⇩・思考停止がルール化されることへの危機感⇩・教育が国家経済装置へ変質することへの抵抗⇩・それでもなお、人間の知の居場所を再設計しようとする試み
この流れの核心にあるのは、一貫して、「人間が、自分で考え、引き受け、成熟する時間を、制度として守れるのか」という問いです。AIはきっかけにすぎず、本当に問われているのは、教育とは、人間にどのような時間と責任を与える制度なのかという問題だと読めます。
ふーん,そうですか。自分が生成AI教育利用に批判的であるという自己認識(立場)がはっきりと無いままに議論していて,イマイチ立ち位置も論旨もわかりにくいということだわ。
[1]ChatGPTと教育(1)(2023.2.3)
[2]ChatGPTと教育(2)(2023.2.4)
[3]対話型AIと教育(1)(2023.3.17)
[4]対話型AIと教育(2)(2023.5.8)
[5]対話型AIと教育(3)(2023.5.9)
[6]対話型AIと教育(4)(2023.5.10)
[7]教員向けChatGPT講座(2023.5.14)
[8]対話型AIと教育(5)(2023.5.26)
[9]対話型AIによる教育と評価(1)(2023.5.29)
[10]対話型AIによる教育と評価(2)(2023.5.30)
[11]生成AI利用の基本方針(2023.6.23)
[12]副教科の時代(2025.10.27)
[13]教科「情報」超批判的分析(2025.12.10)
[14]正しいAI教育(2025.12.11)
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