2024年10月5日土曜日

デジタルとかDXとか

10月4日14:00 から始まった首相所信表明演説のNHK中継でも,石破さんはあたりまえのように「デジタル」という言葉を単独で,情報通信技術の社会的な応用の文脈で使っていた。

高等学校の「情報」の教科書を初めて作成したころは,「デジタル」ではなくて,違和感がありつつもJISに準拠して「ディジタル」とすることになっていたのだけれど,今はどうなのだろう。

平成10年(1998),平成20年(2008)の高等学校学習指導要領「情報」には,ディジタルが使われていたが,平成29年(2017)の指導要領には,そもそもその言葉が存在しない。しかしながら,これに対応する高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説情報編では,デジタルが9箇所登場していた。JISのほうは変わっていないと思うぞ。

生成AI各氏になぜ,ITからディジタルに変わったのかをきいてみた。それらしい説明はあったけれども,いまいち適確な説明はなかった。Google Trandで調べてみると,日本ではデジタルとインターネットがほぼ相関しているが,最近は微増程度で,AIのような増加傾向にはない。米国では,computer と internet がほぼ相関していて,digital はこれらよりマイナーだ。ここでもAIは最近顕著に立ち上がっている。


たぶん,ヒントになるのは,総務省の令和3年版情報通信白書の序章(我が国におけるデジタル化の歩み)だ。2000年のIT基本戦略からはじまり,e-Japan戦略,e-Japan基本計画,e-Japan戦略Ⅱ(2003)と続いた。ここでもIT利活用という言葉が使われている。そこからさらに,IT新改革戦略,IT政策ロードマップと続く。官僚は微妙に看板を書き換えることが自分たちの業績に繋がる仕事だと本気で思っているようだ。まあそんなものだ。

こうして,2009年のリーマンショックの頃に策定されたのが,i-Japan 戦略2015であり,ここで,大々的にデジタルの言葉が踊ることになる。デジタル新時代に向けた新たな戦略 ~三か年緊急プラン~ であり,~国民主役の「デジタル安心・活力社会」の実現を目指して~ というわけだ。

2016年に,官民データ活用推進基本法が制定され,2017年の世界最先端 IT 国家創造宣言・官民データ活用推進基本計画では,データ利活用社会という言葉により「データ」が全面に出て,「デジタル」が一度ひっこめられる。これはこれでなかなか実質をともなった話ではあった。しかし,再びただちに,デジタル・ガバメント推進方針やデジタル・ガバメント実行計画と改名されていく。

そして,世界最先端デジタル国家創造宣言・官民データ活用推進基本計画からデジタル庁へと繋がっていく。国がデジタルというキーワードで旗を振るので,産業界も学界もマスコミすべて右へ倣えでないとお金が回らないわけだ。いつの間にか,すべての看板はちょっと気持ちの悪いDXに付け替えられてしまったのであった。あほらし。


P. S. 2004年に,デジタル・トランスフォーメーションという言葉を発案したのは,スウェーデンのウメオ大学にいた,エリック・ストルターマンだ。2022年により詳細な再定義をしたようだ。

[1]デジタルとディジタル(Umegaki Masahiro)


2024年10月4日金曜日

健康余命

平均寿命というのは0歳における平均余命であり,例えば70歳における平均余命に70を足せば,その時点での平均寿命より長くなる。日本人男性71歳の場合は,71+平均余命15年で,平均86歳くらいで死にそうだ(現在の男性の平均寿命は81歳)。まあ,平均をいくら議論しても余り意味はないのだけれど。

同じように,健康寿命(日常的・継続的な医療・介護に依存しないで、自分の心身で生命維持し、自立した生活ができる生存期間)についても,健康余命というのを考えることができるはずだ。検索してみると,ニッセイ基礎研究所が2019年のデータを元にとりまとめていた。

これによれば,日本人男性71歳の場合は,71+健康余命10年で,平均81歳程度まで健康ということになる。その場合不健康期間は5年間というわけだ。そうなればまだよいが,世の中そんなに甘くはないと思われる。なお,日本人女性67歳の場合は,平均余命が23年(90歳),健康余命が15年(82歳),不健康期間が8年間だ。なお,現在の男性の平均寿命は86歳。

さらに考えると,医療技術の発展で身体は大丈夫だけれど,認知症になってしまうケースも増えてくるかもしれない。その場合,精神寿命や精神余命の概念が必要になってくるかもしれない。まあ,認知症で自律した生活ができなければ,上の健康寿命の方に包括されてしまうのかもしれない。

そういえば,大石君が,去年の同窓会で幸福寿命という話をしていたような気もするけど,あれはどんな定義だったのだろうか。

2024年10月3日木曜日

首相指名投票

10月1日の13:30頃から,衆議院引き続き参議院の本会議場で,内閣総理大臣指名選挙が行われ,NHKが中継していた。こんなにまじまじと中継画面を見ていたのは初めてかもしれない。

NHKのカメラは開票作業の様子をクローズアップで映し出していた。投票用紙というのは普通の国会議員選挙のようなものかと思っていたらそうではなかった。厚さ5mmくらいのしっかりした投票札(厚紙?板?)だ。記名投票なので,候補者名と自署名欄があるものだ。開票中の札が名前を並べて映っていたけどいいのか。

投票の作法なども,衆議院と参議院で異なっている。衆議院では,議長席に向かって左から右へ時計回りに呼び出された議員が進み,自分で投票箱に投票札を入れる。投票結果は,衆議院議長に促された事務総長が報告する。一方参議院では,議長席に向かって右から左へ反時計回りに議員が進み,投票箱の前の参事に投票札を渡して,これを別の参事が投票箱に入れる。結果は,参議院議長が自分で読み上げていた。なお,参議院の投票札は自署名欄が押印済だとのこと。

このあたりのことを,生成AIにきいて見たところ,ChatGPT-4oは無記名投票であるとか微妙に間違った答えを返してきた。Gemini 1.5Proは回答それ自体を拒否した。「現時点では選挙または政治家に関する回答には対応できません」。Claude 3.4 Sonnet は,ほぼ正しいものの参議院の投票プロセスは間違っていた。Perplexity Pro は,一番求めていた具体的手順に近い情報を与えてくれた。PlaMoは,国産のはずだけれど,ChatGPT-4oよりも間違った答えだった。どうなのよ。

衆議院での開票結果発表で石破茂に決まった後も,従来の通例のように盛大な拍手やヨシという声があがらず,拍手もまばらでどこかしら醒めた変な雰囲気だったようだ。また,この臨時国会の日程が10月9日までとなって,解散後の衆議院選挙の予定日が10月27日に強制されてしまったことなど,どうやら石破茂政権の前途は多難らしい。

れいわ新撰組の大石晃子が,投票箱の前で,プラカードを広げて中継画面に映り,額賀議長から再三警告された後に女性衛視2名に抱えられて強制降壇されていた。プラカードの内容は,「裏金隠しの解散やめろ」と「能登の補正予算を」というものだった。



図:首相指名選挙結果(西日本新聞から引用)

2024年10月2日水曜日

シュレーディンガーの少女:松崎有理

山手線が転生して加速器になりました。:松崎有理からの続き

先月発表された,文化庁による令和5年度「国語に関する世論調査」の結果は,読書離れの加速というニュースになってメディアを駆け回った。月に1冊も本を読まない人が6割を越えた,読書量が以前より減っているも7割だ,わぉう,というものだ。

この場合,電子書籍は読書した方にカウントされている。自分も正にその6割と7割に該当しているのであった。読書量が減っている理由は,1位:情報機器で時間がとられる(そのとおり),2位:仕事や勉強が忙しくて読む暇がない(これはあてはまらない),3位:視力などの健康上の理由(まあまあ,筋力かもしれない),4位:テレビの方が魅力的である(これも少しあてはまる)。

ただ,1位を選んでいるのはほとんど若者であって,70歳以上では,健康上の理由が1位でテレビの方が魅力的であるが2位なのだ。このあたりは自分と少し違うかもしれないが,確かにYouTubeやBlogと録画した韓国ドラマや映画で閑居老人の暇な時間が完全に溶けてしまう。

しかしながら,まだまだ読みたい本は沢山あって,かといって内容的にあるいは物理的に重い本を読み通すのは難しいので,軽い電子書籍からリハビリを始めることにした。

松崎有理の創元SF文庫の短編集,シュレーディンガーの少女は,6編のうちの2編(六十五歳デス,ペンローズの乙女)が無料でネット上に公開されていたので,ついでにKindle版を購入してしまった。

相変わらず,食へのこだわり(太っていたらだめですか?,秋刀魚,苦いかしょっぱいか)がみられたり,著者の出身の水戸第一高校のモデルが登場していたり(異世界数学),理系蘊蓄が適当に含まれている軽い読み物としては適当かもしれない。

シュレーディンガーの少女はいまひとつぴんとこなかったが,ペンローズの乙女の冒頭部分に,エミル・コノピンスキーの名前が出てきて,あれれと思って調べて見たら,昔,研究室の書棚にあったかもしれない The Theory of Beta Radioactivity の著者のEmil Konopinski だった。テラーと一緒に初期の水爆開発における検討をしていたのか。


図:読書離れの理由(上から16-19,20代,30代,40代,50代,60代,70- 文化庁から引用)

2024年10月1日火曜日

無知の知

Facebookで北海道の奥村先生が,ソクラテスの「無知の知」は「不知の自覚」とするべきだという東京大学の納富信留さんの説が腑に落ちたと語っていた。納富さんの参加により,東京書籍の高校倫理の教科書では,「無知の知」が「不知の自覚」に改められた

どういうこと?そもそも,高等学校の倫理でソクラテスを学び,宿題として「ソクラテスの弁明」を読んだ感想を出すというときに,どうにも自分の中では納得できない状態だった。「無知の知」はなんとなくいやらしいけれど認めるとして,「悪法も又法なり」といって毒杯を仰いで死刑になったのは理解できなかった。50年以上経ってもわからないままだったりする。

そんなわけで,こういう問題はAIに尋ねるに限る(そんなわけないやろ)。ChatGPT-4o, Gemini 1.5 Pro,Claude 3.5 Sonnetの3人に同じ質問で聞いてみた。まあ,いずれも一長一短かなあ。わかったようなわからないような。いずれにせよ,納富先生の考えとは違うわけで・・・。
Q(koshix):
無知の知と不知の自覚はどう違いますか。

A(ChatGPT-4o):
「無知の知」と「不知の自覚」は、どちらも自分の知識の限界を認識する概念ですが、哲学的な文脈やニュアンスに違いがあります。

1.無知の知(Socratic Ignorance)
これは、ソクラテスが提唱した概念で、自分が「何も知らない」ことを知っているという意味です。具体的には、人が自分の無知を認識し、謙虚に学び続ける態度を持つことが重要であるという哲学的な姿勢です。ソクラテスは、知っていると思い込んでいる人々が実際には何も知らないことを示し、自分自身も知識の限界を認識しているがゆえに、むしろ賢明であると考えました。無知の知は、自己反省と批判的思考を通じて、さらに深い理解を追求するための出発点とされます。

2.不知の自覚
一方、「不知の自覚」は、もっと一般的に自分が知らないことを意識することです。これは哲学的な議論の場に限らず、日常的な文脈でも使われることがあり、自分がある分野や問題について十分な知識を持っていないことを自覚する行為です。この場合、特にソクラテス的な知的探求の姿勢が伴う必要はなく、単に自分がその問題について知らないことを理解している状態を指します。

3.主な違い
無知の知は、自分の無知を認識しながらも、それがさらなる知識の追求に向けた積極的な姿勢を生む点で特徴的です。つまり、無知であることを知ることで、より賢明であるとされます。
不知の自覚は、単に自分が知らないことを理解する行為であり、必ずしも知識探求への動機づけや哲学的な反省を含むものではありません。
まとめると、「無知の知」は、自己の無知を認識することで知的探求を続ける哲学的な態度を示し、「不知の自覚」は、ある事柄について知らないことを単に認識するという点で、より日常的な概念です。


A(Gemini 1.5Pro):
「無知の知」と「不知の自覚」は、どちらもソクラテスの哲学に関連する言葉であり、一見似ているように思えますが、微妙なニュアンスの違いがあります。

無知の知
意味:自分が知らないことを知っている、つまり、自分の無知を自覚している状態。
解釈
・何かを知らないことを自覚することで、より深く学び、成長しようとする姿勢を表します。
・古代ギリシャでは、神託によってソクラテスが「最も賢いのは、自分の無知を自覚している者である」と告げられたことから、この言葉が有名になりました。
・ただし、現代では「無知の知」という言葉が、自分の無知を過度に意識し、自己肯定感を下げてしまうようなネガティブな意味で使われることもあります。

不知の自覚
意味:自分が知らないことを自覚している、つまり、無知であることを認識している状態。
解釈
・「無知の知」とほぼ同じ意味ですが、「不知の自覚」の方がより客観的で、自分の無知を率直に認めるニュアンスが強いです。
・ソクラテスの哲学においては、この「不知の自覚」が、真の知への第一歩であるとされています。
・他者の意見に耳を傾け、対話を通して新たな知識を吸収していく姿勢を表します。

違い
ニュアンス:「無知の知」は、自分の無知を自覚することで生まれる知的探求心や謙虚さを強調するのに対し、「不知の自覚」は、より客観的に自分の無知を認識し、そこから学びを深めていく姿勢を強調します。
現代における解釈:「無知の知」は、現代ではポジティブな意味だけでなく、ネガティブな意味でも使われることがある一方で、「不知の自覚」は、より客観的で中立的な意味で使われることが多いです。

まとめ
どちらも「自分が知らないことを知っている」という共通点がありますが、「無知の知」は、より主観的で、自分の無知を自覚することによる知的探求心や謙虚さを強調するのに対し、「不知の自覚」は、より客観的で、自分の無知を率直に認め、そこから学びを深めていく姿勢を強調します。

どちらを使うべきか
どちらの言葉を使うかは、状況や伝えたいニュアンスによって異なります。
・自分の無知を自覚することの重要性を強調したい場合:「無知の知」
・客観的に自分の無知を認め、そこから学びを深めていく姿勢を強調したい場合:「不知の自覚」

補足
・「無知の知」という言葉は、翻訳の問題もあり、正確には「不知の自覚」と訳されるべきだという意見もあります。
・どちらの言葉を使うにしても、重要なのは、自分の無知を恐れず、積極的に学び続けていく姿勢を持つことです。
ご自身の考えと照らし合わせ、より深く理解してみてください。


A(Claude 3.5 Sonnet):
「無知の知」と「不知の自覚」は、似ているようで微妙に異なる概念です。

1.無知の知
・古代ギリシャの哲学者ソクラテスに由来する概念です。
・自分が無知であることを知っている状態を指します。
・より深い知恵や真理の追求につながる哲学的な姿勢です。
・「自分が何も知らないことを知っている」という paradoxical な認識を含みます。

2.不知の自覚
・より一般的で日常的な概念です。
・自分が何かを知らないことに気づいている状態を指します。
・特定の知識や情報の欠如を認識することです。
・学習や成長の出発点となる自己認識です。

3.主な違い
範囲:「無知の知」はより包括的で、人間の知識の限界に関する認識を含みます。「不知の自覚」は特定の分野や事柄についての認識です。
哲学的深さ:「無知の知」はより哲学的で、人間の知識の本質に関わります。「不知の自覚」はより実践的で、日常的な学習や成長に関連します。
起源:「無知の知」は哲学的伝統に根ざしていますが、「不知の自覚」はより一般的な概念です。

両者とも、自己認識と学習への姿勢において重要な役割を果たします。
この説明についてさらに詳しく知りたい点がありますか?


図:無知の知と不知の自覚のイメージ(左 DALL-E3 右 Imagen3)

納富先生曰く
今日それは、私たちの頭脳の中に宿り、あるいは、注入されたり蓄積されたり消去されたりする事物のように扱われている。「情報」という曖昧な概念が「知識」に等価と見なされ、人のあり方から切断されて扱われる傾向も生じている。知識は量の多寡で判断され、とりわけ個別の断片的命題の蓄積が知識と等値される。情報はデータとして蓄積される以上、知識の主体はもはや人ではなくコンピュータやICチップでも構わない。総じて、そういった情報を使いこなす術が「知」と思いなされている。[1]
そうか・・・これが正に自分の「知識」理解だった。さらにその後に続くのは,
ソクラテスが基本的に「知らない」とするのは、「善、美、正義」といった「大切な事柄」についてであり、「死、ハデス」についての不知の表明もそれに含まれる。他方で、日常の経験的事実認識はもとより、技術もそのまま認められ、知として尊重されている。「知」を問うことで問題となっているのは、生を成り立たせる根本概念であった。[1]
うーん,なかなか奥が深いので,自分の考えが足りないまま50年経過したということだけは確かなようだ。

[2]知の一様式としての知らない(池田光義)