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2024年11月24日日曜日

朝永振一郎

科学者の墓からの続き

朝永振一郎の墓の話から繋がって,昔の週刊朝日がやってきた。1965年の10月21日に朝永振一郎(1906-1979)が「繰り込み理論の発明による量子電磁力学の発展への寄与」でノーベル物理学賞を取ったという連絡があった。「中間子理論の提唱」による湯川秀樹のノーベル物理学賞に次いで日本人で二番目である。

当時,小学校6年生だった自分は,朝日新聞と北國新聞の大きな見出しを見て,「量子電磁力学なにそれ,そんなもんきいたこともないわ」と思った。科学の児童書を沢山読んでいて何でも知っていると勘違いした小学生は,自分が何も知らないことが〈山〉のように控えていることに気づかなかったのである。まあ,60年後の今でもほとんどそのままなんだけどね。

週刊朝日では,「『ノーベル賞』の素顔」というタイトルの6pの記事が,6pのグラビア写真と共に掲載されている。門下生の伊藤大介の戦後すぐの話に「まるで人間の生活できるところじゃなかったが,研究ができる喜びは大きかった。私はこんな研究室に,馬場一雄さん(現奈良女子大教授)と一緒に寝泊まりしていたが,朝永先生も一緒に泊まり配給の酒を三人でチビチビ飲んだこともあった」とある。

森田研の先輩の久米健次さんが奈良女子大学の馬場一雄先生の研究室に助手として就職したのは,1976年ごろだったろうか。研究室にくるたびに馬場先生の話題が出ていたような。



写真:1965年11月5日号の週刊朝日の表紙を引用

2024年11月20日水曜日

谷川俊太郎


11月13日,谷川俊太郎(1931-2024)が92歳で亡くなった。

最初に谷川俊太郎を意識したのは,世界SF全集の第35巻「日本のSF現代編」が配本された1969年4月なので高校1年になったばかりだった。と思う。この巻に採録されているのは「21世紀の教養」というものだ。内容はまったく覚えていない。そのとき,彼の最初の詩集のタイトルが「20億光年の孤独」であることを知ったのだろう。いつか読んでみたいと思っていた。

手元には,角川文庫の谷川俊太郎詩集(大岡信解説,1972年4月30日初版第七刷)と谷川俊太郎詩集Ⅱ(北川透解説,1985年10月30日再版)がある。前者は大学に入学してまもなく手に入れたもの。後者は古本の値段があるので,子どもが二人産まれた後に買ったのかもしれない。谷川の処女詩集,「20億光年の孤独」は20編の詩集として文庫の谷川俊太郎詩集のほうに採録されている。タイトルにもなっている本編自身はちょっと拍子抜けするような軽いものなのだ。

阪大のマンドリンクラブに入部して間もない合宿で,緑地公園かどこかのユースホステルに泊まったとき,二段ベッド寝そべって谷川俊太郎詩集を読んでいた。セロの先輩の近藤さんが顔をのぞかせ「何読んでるの」といって手に取りパラパラと頁をめくって「ソネットか,14行詩だね」と。ソネットが14行の定型詩だということもわからずにありがたがって谷川俊太郎を読んでいた一回生なのだった。

谷川俊太郎は「にほんご」で子育て時代に大変お世話になった。いまや孫のすーちゃんが,きっときってかってきて,きっときってかってはってきて,を小学校1年の国語の教科書で勉強する時代になった。


写真:本棚にあった谷川俊太郎詩集とそのⅡの書影を引用

P. S. 
2013年に,岩波書店から自選 谷川俊太郎詩集がでていた。全2千数百編から173編を厳選したというものだ。その目次には採録した詩集のリストがある。これを年代順に並べ替えて,手持ちの角川文庫に収録されている詩集を◎でチェックしたリストはつぎのとおり。

◎『二十億光年の孤独』 (創元社 1952)
◎『六十二のソネット』 (創元社 1953)
◎『愛について』 (東京創元社 1955)
◎『絵本』 (的場書房 1956)
◎『あなたに』 (東京創元社 1960)
◎『21』 (思潮社 1962)
◎『落首九十九』 (朝日新聞社 1964)
 『谷川俊太郎詩集』 (思潮社 1965)
 『谷川俊太郎詩集』 (河出書房 1968)
◎『旅』 (求龍堂 1968)
◎『谷川俊太郎詩集』 (角川文庫 1968)
 『谷川俊太郎詩集』 (現代詩文庫 1969)
◎『うつむく青年』 (山梨シルクセンター出版部 1971)
 『谷川俊太郎詩集』 (角川書店 1972)
 『ことばあそびうた』 (福音館書店 1973)
◎『空に小鳥がいなくなった日』 (サンリオ出版 1974)
◎『定義』 (思潮社 1975)
◎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』 (青土社 1975)
 『タラマイカ偽書残闕』 (書肆山田 1978)
 『谷川俊太郎詩集 続』 (思潮社 1979)
◎『そのほかに』 (集英社 1979)
◎『コカコーラ・レッスン』 (思潮社 1980)
◎『ことばあそびうた また』 (福音館書店 1981)
◎『わらべうた』 (集英社 1981)
◎『わらべうた 続』 (集英社 1982)
◎『みみをすます』 (福音館書店 1982)
◎『日々の地図』 (集英社 1982)
◎『どきん』 (理論社 1983)
◎『対詩 1981.12.24~1983.3.7』 (書肆山田 1983)
 『手紙』 (集英社 1984)
 『日本語のカタログ』 (思潮社 1984)
 『詩めくり』 (マドラ出版 1984)
 『よしなしうた』 (青土社 1985)
 『いちねんせい』 (小学館 1988)
 『はだか』 (筑摩書房 1988)
 『メランコリーの川下り』 (思潮社 1988)
 『魂のいちばんおいしいところ』 (サンリオ 1990)
 『女に』 (マガジンハウス 1991)
 『詩を贈ろうとすることは』 (集英社 1991)
 『十八歳』 (東京書籍 1993)
 『子どもの肖像』 (紀伊國屋書店 1993)
 『世間知ラズ』 (思潮社 1993)
 『ふじさんとおひさま』 (童話屋 1994)
 『モーツァルトを聴く人』 (小学館 1995)
 『真っ白でいるよりも』 (集英社 1995)
 『クレーの絵本』 (講談社 1995)
 『谷川俊太郎詩集』 (ハルキ文庫 1998)
 『みんなやわらかい』 (大日本図書 1999)
 『クレーの天使』 (講談社 2000)
 『minimal』 (思潮社 2002)
 『夜のミッキーマウス』 (新潮社 2003)
 『シャガールと木の葉』 (集英社 2005)
 『すき』 (理論社 2006)
 『私』 (思潮社 2007)
 『62のソネット+36』 (集英社文庫 2009)
 『子どもたちの遺言』 (佼成出版社 2009)
 『トロムソコラージュ』 (新潮社 2009)
 『詩の本』 (集英社 2009)

2024年4月18日木曜日

オイラーのφ関数

MIPOの算数・数学コラムで,2024年阪大理系前期数学の問題が取り上げられていた。鈴木貫太郎のYouTubeで大学入試問題をながめていたので,甘く見ていたら,かなり難しくてちょっと手が出なかった。面白そうな整数論の問題は,オイラーのφ関数がストレートに取り上げられていた。以下ではすべて自然数 N = {1,2,...∞}の範囲に限定して考えることにする。


n∈Nに対して,集合A(n)={1,2,…n}を考える。このとき,φ(n)は,この集合A(n)におけるnと互いに素な数の個数を与える。さあ,ここからが苦難の道の始まりだ。最近はアルジャーノンの下り坂を急降下中なので,言葉の定義にいちいち引っかかってころぶのである。

約数:自然数 n を自然数m (≦ n)で割ったときの余りが0であれば,mはnの約数である。
 例:2は6の約数,1はnの約数,nはnの約数
互いに素:2つの自然数 m,n の共通の約数が1だけのとき,mとnは互いに素である。
 例:2と3は互いに素である,nと1は互いに素である,nとnは互いに素でない。

例:n=6のとき,A(6)={1,2,3,4,5,6}を考える。2の倍数の集合Pは{2,4,6}, 3の倍数の集合Qは{3,6}, 
6の倍数の集合はP∩Q={6}は,6と互いに素な数の集合はA-P∪Q={1,5}で, その要素数はφ(6)=2

オイラーのφ関数(トーシエント関数)φ(n)は,A(n)においてnと互いに素な数がなす部分集合B(n)の要素数を表す。A(n)-B(n) は nの約数の集合から{1}を除いた集合PQRである。

阪大の問題は,p,q,r が素数,a,b,c が自然数として n=p^a q^b r^cに対するφ(n)を求めるものである。とりあえず,A(n)における p,q,rの倍数の数をカウントすればよい。


図:φ(n) = n(B(n))=n(A(n)-PQR)   の図

n= p^a q^b r^c の場合,n= p^(a-1) q^(b-1) r^(c-1) p q r として,φ(n) = p^(a-1) q^(b-1) r^(c-1) φ(p q r )となる。また,φ(p q r) = (p-1)(q-1)(r-1) となるので,φ(n) =p^(a-1) q^(b-1) r^(c-1) (p-1)(q-1)(r-1) で与えられる。

2023年12月5日火曜日

物体O

10月1日では遅すぎるからの続き

小松左京(1931-2011)の1962年の短編「物体O」は,ハヤカワ・SF・シリーズ3088の短編集「日本売ります」に収録されている。たぶん,銀背シリーズの1冊で初めて買ったものだ。最初に読んだ小松左京のSF作品の一つでもある。

詳細な科学・社会スペキュレーションなどで,後の日本沈没首都消失などの系列につながる作品だ。そのルーツは日本アパッチ族にあるだろう。小松左京の主な関心は社会構造の変革可能性にある。阪大理学部核物理の三伏教授(伏見康治)が登場して,阪大というキーワードがインプットされたので,これが自分の後の進路選択に微かに影響したかもしれない。

ところで,再読してみるといくつか気になるところがあった。

(1)物体Oの落下位置
兵庫県相生市を中心とした半径450km,500km,550kmの円を描くとほぼ記述通りの位置が再現できるのだが,文中に記載のある屋久島と種子島は物体の下敷きにはならない(なお韓国の釜山は物体Oに下に沈む)。

(2)兵庫県豊中市などの地名
物体の落下を見たと気象台に報告したアマチュア天文家の在住地,これは大阪府です。小松左京は後に箕面に住むことになるのだけれど。物体Oが落下した関東の地名の一部も不正確かもしれない。

(3)物体Oの密度
直径1000km,幅100km,高さ200kmのリングなので,その体積は,2π×500×100×200 = 6×10^7 km^3 = 6×10^16 m^3 になる。一方文中にはその質量が2万兆トン=2京トン= 2×10^16 t とある。したがって,その密度は,0.3 t/m^3 = 0.3 g/cm^3になる。ところが,後の方では「比重は重金属−銀と同じ程度だ」という記述があって(銀は10.5 g/cm^^3)矛盾している。

(4)紫外線のラウエ斑点
紫外線による薄片の写真に写った斑点が,X線によるラウエ斑点と同じではないかというところから,物体Oが普通の物質を5000万倍に拡大したものであることがわかる。しかし,結晶構造をみるX線の波長は1Å=0.1 nm であり,紫外線の波長は 300nmなので,高々3000倍にしかならない。5000万倍にすれば,波長5mm のミリ波でなければならない。


図:物体Oの想定位置(半径450km, 500km, 550km)

2023年10月14日土曜日

物理学科同窓会(2)


先週の土曜日に新大阪のワシントンホテルプラザで,阪大物理学科の同窓会があった。1972年(昭和47年)入学なので,昨年が50年目だった。10年前からこの同窓会が概ね毎年開催されるようになった。参加者は順次定年を迎えていくので,だんだん変化に乏しい日々が続き,健康や病気の話題の割合が増えてくる。

今年は,藤原さんのリクエストに端を発して,元原研の佐藤さんに「核融合の最近の現状」というタイトルで話をしていただいた。慣れないzoom経由で,音声トラブルがあったけれど,わかったことは次のとおり。

・ITERもJT60SAも何だかトラブっている。
・ステラレーターは連続だけれど,トカマクは準パルス的な動作をする。
・レーザー核融合のQ=1は,実質は1/100程度になるので,トカマクが有利。
・国内ベンチャーには,研究者がかんでいるが,まとまった炉システムを目指していない。

尾崎さんの,太陽光発電パネルにつけて効率アップする集光シートの特許の顛末もおもしろかった。実用化しようとするとほんの小さな金型だけで2000万円くらいになって,なかなかうまくいかなかったらしい。

2023年5月3日水曜日

木庭二郎

木庭二郎(1915-1973)の話題をYouTubeでみかけた

木庭二郎といえば,ディラックの量子力学の教科書の邦訳(手元の原書第4版は,高尾書店で400円のもの)で,朝永振一郎とともに名前が出てくることでお馴染だ。YouTubeの内容は,日本物理学会誌素粒子論研究の記事をまとめたものだった。

物理学会誌の方は,1996年の小特集「回想の木庭二郎」であり,南部陽一郎,伊藤大介,小谷恒之,高木修二,H. B. Nielsen,西島和彦が書いている。素粒子論研究の放談室の記事は,木庭二郎が亡くなってまもなくのもので,野上茂吉郎,早川幸男,並木美喜雄によるものだ。この他,美谷島實によるポーランド時代の木庭二郎の話題がもとになっている。

木庭二郎は朝永振一郎のもとで,朝永グループの一員として場の理論における繰り込み理論の建設に寄与し,その後は中間子の多重発生に重点を移して,KNOスケーリングを見つけることになる。

初めて知ったのが,木庭二郎の兄弟のこと。兄の木庭一郎は文芸評論家の中村光夫(1911-1988)で,弟の木庭三郎も物理学者だった。

また,阪大教養部物理の小谷恒之先生が木庭二郎の指導を受けていた。当時の阪大物理の理論は統計物理の伏見康治グループと物性物理の永宮健夫グループから成り立っていて,伏見グループの助教授が内山龍雄先生だった。今後素粒子に力を入れるということで,別の講座から借りてきた助教授ポストに木庭二郎が着任したわけだ。木庭二郎はその後,京都大学の基礎物理学研究所を経て,ポーランドに移り最後はコペンハーゲンのニールスポーア研究所で病に倒れることになった。

木庭二郎が阪大の助教授として着任していたのは,1949.8〜1954.11である。小谷先生は1951.10〜1954.1まで東京の小林理研で朝永振一郎の助手をしていた後に都立大に移っている。そのため,小谷先生が大阪で木庭二郎の指導をうけて研究していた1949年から1951年の2年間ほどだった。なお,小林理研での朝永振一郎の助手のポストは,小谷先生から森田正人先生(1954.3〜1959.4),安野愈氏(1960.4〜1964.3)へと続いた。

[1]回想の木庭二郎(日本物理学会誌第51巻8号,1996)
[2]放談室 木庭二郎氏を悼んで(素粒子論研究第48巻3号,1973)

2023年5月2日火曜日

若杉山

朝の散歩中に,若杉山という言葉が頭に浮かんだ。

50年前の阪大物理学科には,11講座しかなかったが,そのうち3講座が原子核実験の講座だった。その教授の名前をつなげて若杉山とよんでいた。で,杉本健三先生と山部昌太郎先生はすぐ思い出したのだが,若がわからない。かなり重症である。あの理学部長から総長になった,あのお嬢さんが大阪教育大学の留学生センターに勤めていた,あの・・・。

10分ほど悩んでようやく思い出せた。若槻哲雄先生です。2019年にはちゃんと憶えていたのに

1971年に発足した核物理研究センターができて,原子核実験の分野がなにやら面白そうな気配を感じさせる時代だった。我々原子核理論のグループは杉本研とともにベータ崩壊の研究を進めていたし,若槻先生のあとをついだ江尻先生はその後ダブルベータ崩壊など,電磁相互作用や弱い相互作用に関わる領域へとテーマを展開していた時期だった。

学部3年の物理学実験では,放射線の実験が杉本研の野尻先生,電子回路だったか電位測定だったかが若槻研の柴田先生に指導された。野尻先生は,非常に厳しいという評判で越湖君といっしょにびくびくしながらレポートを持っていったが,なんとか無事にガイガーカウンターの原理に関する口頭試問をクリアできた。柴田先生の追加課題にサイクロトロンの磁場モデルを設計するというのがあって,かなりアバウトなレポートだったけれどやさしく許してもらえた。

インターネットで若杉山&原子核で検索すると,JPARC初代センター長の永宮正治さんのスライド(写真たっぷり)杉本健三先生との半世紀」と,江尻宏泰先生の「恩師の素顔」の4.4節,破格の若槻哲雄教授がでてきた。また,若杉山グループは菊池正士研究室の流れを組むことが,中井浩二先生の「私の加速器遍歴(Ⅰ)私が憧れた菊池研究室」でわかる。さらに,「日本加速器外史(その2)井上信」にも若杉山が登場していた。


[2]日本加速器外史(その1)(井上信)
[3]日本加速器外史(その2)(井上信)

2023年3月6日月曜日

プログラミング遍歴(1)

(1) FORTRAN:
高校理数科のとき,試験にも出たFORTRANは座学だけで学んだ,というか聞きかじった程度。参考書というわけでもないが,興味があって自分で買ったのが電子計算機と人間だったけれど,これを読んでもさっぱり分からない。テレビでは,森口繁一(1916-2002)のNHKコンピュータ講座フォートラン入門をやっていたが,これもたまにチラ見する程度で何が何だかやっぱりよく分からない。

阪大の物理学科に入ると,初年次セミナーというのがあった。意欲的な同級生らは,バークレーの統計力学やFORTRAN入門にエントリーしていた。自分は億劫でどれにも参加しなかったが,学籍番号が隣の越湖直人君が,FORTRANのプログラミングで,銀河系形成のシミュレーションをやっていると聞いた。残念ながら最終結果を得るにはリソースが足りなかったようだ。

さて,その森口繁一のJIS FORTRAN入門の第2版上下を買ってしばらくしてから,大学4年の村岡光男先生の数値計算法で,はじめてのFORTRANプログラミングを体験することになる。文法の説明が数回あった後に,課題に取り組んだ。豊中データステーションの様子は以前に書いたとおりだ。いくつかの課題があって,そのうち2つを選択してレポートとして提出すれば単位がもらえる。

最初の課題は単純な四則演算の組み合わせだったのでそれを選択したものが多かった。それではつまらないと思い,5次方程式の解法と行列の対角化の2課題に取り組んだ。それぞれについて結果を出した自信があったが,後で考えるとどうも答えが間違っている。実際,村岡研に進んだ楠本君から,当時の成績が悪かったらしいと聞くことになる。

そんなわけで,大学院に進学して修士論文に取り組み始めてからも,なかなか研究がはかどらない。業をにやした大坪先生が,簡単なルンゲクッタ法のプログラムを作ってみるように指示し,教育的配慮でほめてくれたので,それをきっかけに,FORTRANプログラミングへの抵抗はなくなった。

こうして,修士課程以降は2000年ごろまでは,普通にFortran77を研究に使っていた。1990年代には京大の総合人間学部(旧教養部)の科目の非常勤でFortran77の実習も担当した。そんなわけで,Macを使うようになっても,長らくabsoft Fortranのライセンスを維持していたけれど,実際にはほとんど使うことはなかった。absoft Pro Fortranは2022年の8月に販売終了していた

(2) BASIC:
大阪教育大学に勤めてまもなく研究室に導入したパーソナルコンピュータが,NECのPC-9801だった。これにはN88BASICがROMでプレインストールされていて,OSのように使われた。アプリケーションソフトもまだ高額だったので,BASICがなければパソコンが使いこなせない。学生の卒論もBASICで計算していたし,授業や公開講座などでも良く使った

もっとも,最初に,BASICに出会ったのは,1980年ごろに阪大附属図書館でアルバイトをしていたときに,図書館2Fの事務室に導入されたOKIのif800のBASICだった。チラッと眺めたけれど,四則演算は分かるがグラフィックスが皆目見当がつかない。同じアルバイトで1-2学年下の化学の学生が,スラスラと図形を表示させているのにビックリしてしまった。

さて,そのNECのBASICである。BASICコンパイラなども使ったけれど,自分の研究のための計算をすることはほとんどなかった。卒論にもそれほど使い込んだ記憶がない。そうこうしているうちに,8087に対応したTurbo Pascal 3.0 がやってきたからだ。非常に快適なプログラム作成環境で,コンパイルのスピードにほれぼれしていた。これは,斎藤昌久君が,グラフ作成ツールなどを作ってくれて重宝した。

BASICではないが,PC-9801に8087数値演算プロセッサを積んだころ,その能力を活かそうと,8080+8087のアセンブリ言語プログラミングに取り組んだ。当時のパソコン雑誌にはこうした記事がたくさんあったので,素人でも簡単に手を出すことができた。Clebsh Gordan係数やRacah係数のコードを作り,BASICと組み合わせて連立方程式の計算を高速で実行するというあたりで,若松正志さんにそれで何をしますかと聞かれて,そうですね・・・と終了を迎えることになった。

(3) C:
C言語は,カーニハン・リッチーのプログラミング言語C石田晴久訳)を買って少しだけ勉強した。そのころは,Lattice CLightSpeed C/Think CTurbo C など,あまたのC言語処理系が乱立していた。Oh PC にはCとアセンブリ言語の中間のようなコンパクト言語なども掲載されている時代だ。で,さきに述べたように,ポインタのあたりでつまづいてサンプルプログラムを越えるものは作れなかった。


2022年10月31日月曜日

門の会


阪大マンドリンクラブに門の会というOB会があるという話は,1970年代当時から聞いたことがあった。しかし実際にはその後の活動はなかったらしい。そこで,2019年の10月13日にあらためて規約が定められ阪大マンドリンクラブ同窓会「門の会」が設立された。

その規約によれば,「門の会」という名称の由来は,1966 年 5 月クラブ創立者の松本守氏(故人)の次の言葉によるものだとのこと。
 「我等 門に入り 門を出で 門に還る 幾星霜 この門に 変らざる事を」
ホームページには少しだけ過去の資料があったので,関係部分だけ抜粋転載してみる。
阪大マンドリンクラブの歴史 (注:昭和41年〜昭和52年まで)
S. 41. 1 松本守氏 阪大マンドリンクラブを創設
・・・(中略)
S. 47. 1 部長 塚本氏→西村氏
     教養部 スト突入
    4 高松にて合宿 合宿中流れたはずの後期試
     験がありとの報にあわてて帰阪するも試験
     は流れる
    5 箕面帝釈寺にて新入生歓迎合宿
     はじめて外国人留学生入部
     和歌山での選曲をめぐってビートルズ派と
     オリジナル派論争
    7 和歌山特別演奏会
     司会者のうまさか,とにかく部員と観客が
     一体となって演奏を楽しんだ
    8 信州黒岩にて合宿
     山の上の池で泳ぐ 合宿でもハイキング恒
     例化 はじめて酒が入る(コンパ以外で)
S. 47.12 第4回定期演奏会
     そのまま泊まり込みコンパへへ突入
S. 48. 1 部長西村氏→徳井氏
     大量留年時代に入る
    4 土庄(小豆島)にて春合宿 自動車(若者)バ
     ス(幼児)自転車組(老人)と分かれて小豆島
     を動きまわる
     銀杏祭に出演し大好評
      …酒を飲んで演奏した人がいたとか…
    7 九重高原にて夏合宿 寒さのためカゼ大流行
     ハイキングの帰り人と車の競争…人が勝つ
   10 服部緑地YHにて合宿
   11 第5回定期演奏会
S. 49. 1 部長 徳井氏→井元氏
    3 加古川演奏会に向けて加古川へ数十回でか
     ける
     (車の所有者ガソリン代に泣く 有留も泣く)
     小豆島にて4度めの春合宿
    5 加古川特別演奏会
     (会場前から長蛇の列,マンドリンの人気に
     一同驚くやら喜ぶやら)
     教養部スト突入 麻雀大流行
S. 49. 8 白馬大池(信州)にて夏合宿
   11 びわこ青少年の家にて強化合宿
     第6回定期演奏会
S. 50. 1 部長 井元氏→土岐氏
     ・・・
    6 奈良特別演奏会
・・・(以下略)

第4回定期演奏会 1972.12
  プロバンズ序曲・森の写影・海の悲劇
  LP「ABBY ROAD」より・カストリュークの歌・海に来たれ
  メリアの平原にて・マッサリア・劇的序楽

第5回定期演奏会 1973.11
  青春の思い出・夜想的間奏曲・情熱的組曲
  夢うつつ・過去への憧れ
  管弦楽組曲第2番序曲
  小英雄・マルネリラ・序曲ニ短調

第6回定期演奏会 1974.11
  バートバカラック特集
  祝典輪舞曲
  序曲5番ハ長調
  祈り・イタリアの覚醒・恵まれた結婚
自分が在籍したのは,1972年の5-6月から1974年の12月までだった。その間の定期演奏会や特別演奏会,合宿などにはいずれも参加しているので,いろいろ思い当たることも。信州黒岩の合宿ではボート遊びをしていた山の上の池で泳いだし,小豆島の合宿では老人組?の自転車ツアーに加わって小豆島を一周した。

三重県和具の海の家にいって,島のまわりをみんなで浮輪に捕まりながらまわった記憶があるのだけれど,あれは,クラブの合宿ではなかったのだろうか。同学年のメンバーの顔しか思い浮かばないので,クラブ全体の行事ではなかったのかもしれない。あるいは夢だったかも。

P. S. 塚本部長は金沢大学附属高校出身で,西村部長は兵庫県養父郡出身の西村さんの親戚らしく,徳井部長は金沢泉丘高校の先輩だった。

     

2022年10月30日日曜日

待兼山俳句会

せとちとせ(2)からの続き

瀬戸さんを探しているうちに,阪大の待兼山俳句会にたどりついた。2015年までの句会報が公開されていて,高齢化やコロナ禍のために活動も終息したのかとおもいきや。

Wix.comに新しい待兼山俳句会のホームページができて引き継がれていた。今年の5月の句会報までが公開されている。令和2年2月には合同句集「待兼山」第4集がf出版されていた。なんと,瀬戸さん(俳号:瀬戸幹三)が句会の選者になって,序文を書いていた。その著者紹介には下記のような説明があった。
二〇〇一年,(株)博報堂の社内俳句会「源八句会」に参加。二〇〇六年,待兼山俳句会に投句を始め,現在に至る。「雲」同人,俳人協会会員。著書に「たのしい回文」「笑う回文教室」(創元社)

瀬戸さんは 基礎工学部の情報工学科を卒業したのだけれど,本人もおっしゃっているように,文科系人間,言葉の人だったのだ。これにビートルズマニアが加わっている。 それは広告会社博報堂にぴったりの人材だった。

待兼山俳句会の会員は,ほとんど高齢者なのだけれど,つらつらと眺めていると向井邦夫先生の名前があった。大阪教育大学でフランス語を教えており,瀬戸さんより10歳年上だ。阪大の文学部・大学院を修了されている。フランス語の先生といえば,なんだか近寄りがたい人が多かったので,在職時代に向井先生とお話したことはなかった。

P. S. 半導体の大塚穎三先生や元総長の平野俊夫先生のお名前もあった。「待兼山」第4集に寄稿された会員の年齢構成は60代以下が2名,70代が8名,80代が19名,90代が6名だ。出身学部等は,文学部11名,薬学部6名,浪高6名などとなっていた。

[1]せとちとせ(Instagram)

2022年10月29日土曜日

せとちとせ(2)

せとちとせ(1)からの続き

阪大マンドリンクラブのOB会は門の会という名前で活動している。一度も参加したことはないのだけれど,メールは時々送られてくる。

最近,総会があったということで写真が送られてきた。知っている顔を探すと,指揮者だったギターの西尾君や人間科学部一期生の上条君の同期の他,セロパートの2学年先輩の近藤さんがケーナ演奏で参加していた。ベースの瀬戸さんが近藤さんの隣でギターを演奏しているという動画をみたが,昔の印象と全く違っているのだった。もっと顔が丸くて髪がモジャモジャでガッチリしていたように思うのだが,なんだかシュっとした髪の薄い小柄なおじさんに変化していた。

「この顔は瀬戸さんとちゃうんちがう」「いや,大阪芸術大学で広告制作を教えているみたいやで」「ほなやっぱり瀬戸さんやな」「でもその写真の顔やっぱりちゃうやん」「ビートルズのテーマで講演してはるよ」「ほなやっぱり瀬戸さんやな」「でもその写真の顔やっぱりちゃうやん」「阪大の待兼山俳句会に参加してはるで,俳号は瀬戸幹三や。昭和49年基礎工学部卒てかいたるで」「ほなやっぱり瀬戸さんやな」

2022年10月16日日曜日

山所池

物理学科同窓会からの続き

10月8日に久々に開催された同窓会の報告を関係者に送ったところ,当日欠席のS正泰さんからメールが来て「蛍池にあった池は学校になったみたいですね」とあった。正泰さんは蛍池東町に下宿しており,蛍池中町の文化住宅に住んでいた自分から最近距離の同級生だった。

幸荘という名前の文化住宅は阪急宝塚線西の蛍ヶ池公園の北西に隣接していて,大家さんは千林大宮に住んでいた。幸荘の近所にOさんという父の会社の人の知人が住んでいたので,その伝手で,この文化住宅に住むことになった。家賃は当初1.1万円で(数年後オイルショックのあとに値上げ騒動があった),隣接した一軒家に住んでいた管理人のSさんのところに通帳を持って毎月払い込みに行くのだ。

蛍ヶ池公園の南に道を挟んで山所池(やまんじょいけ)という戦国時代(1595)から続く由緒正しい大きなため池があり,これが正泰さんの指摘していた池だった。阪急蛍池駅に最も近い池なので,これが蛍池だと勘違いする人もいたが,そうではない。

蛍池のほうは,阪急蛍池駅東400mあたりの刀根山病院(元:刀根山療養所,現:国立病院機構大阪刀根山医療センター)にあるひとまわり小さな池の方らしい。当時は,どこにあるのかまったく気にも留めていなかったのだけど。

蛍ヶ池公園では,夏になると盆踊り大会が開催されていて,河内音頭などを踊った記憶がある。山所池は,大半が埋め立てられて,1986年に豊中市立第十八中学校となった。私たちは1981年には池田市石橋,1984年には池田市緑丘に住んでいたので,当時の状況はよく知らない。


図:蛍ヶ池公園=左上,山所池=左中,蛍池=右下(googlemapから引用)

2022年10月15日土曜日

物理学科同窓会(1)

阪大理物アラS51同窓会2022が10月8日土曜日に新大阪で開かれた。S51は卒業年の昭和51年,アラはアラフォーのアラなので,卒業年度には分散がある。当時の物理学科のクラス定員は40名,入学年度は1972年(昭和47年),今年でもう50年になる。

台風やコロナの影響でしばらく中断していて4年ぶりの対面の同窓会。去年一昨年はzoomを使っての開催だった。まだ,コロナの影響はおさまっていないので,出席者は9名,ビュフッェ形式ではなく,大きなアクリル板に仕切られた和洋折衷膳+フリードリンク(=ほとんどビールをサーブしてもらう)。

まだ健康寿命(男性70.4歳,女性73.6歳)に達していないので,皆おおむね元気そうだった。そういえば,健康寿命というものが存在することを教えてくれた大石君が,今は,幸福寿命だといっていたのだけれど,怪しいウェルビーイングキャンペーンが頭にあったので,ちゃんと説明を聞くのを怠ってしまった。そこで,自力で調べてみた。

日本語で幸福寿命を検索しても,腸内細菌とホルモンの宣伝しか出てこない。こりゃだめだ。その中で目を引いたのが昨年の日経ビジネスの記事のキーワード「幸福感」は60代以降に上昇傾向だ。ダートマス大学のブランチフラワー教授が145カ国の年齢別主観的幸福度の研究によれば、先進国でも発展途上国でも,欧米でもアジアでも,主観的幸福度は次の図のように「U字型」になっている。


図:年齢別の主観的幸福度(Blanchflowerの論文から引用)

内閣府の2019年の調査でも,60歳以上で主観的満足度が急上昇するとなっている。むむむ。どうなのだろうか。

[1]LWC指標利活用ハンドブック(スマートシティインスティチュート)
[2]世界幸福度調査World Happiness Report2020の概要(産業精神保健研究機構)
[3]国民の幸せな人生(well-being)を政策目標に(第一生命経済研究所)

2022年6月15日水曜日

熊ノ郷準

 日経朝刊の交遊抄に阪大医学部長の熊ノ郷淳(1966-)さんが,阪大医学部の1年後輩の竹田潔さん(阪大免疫学フロンティア研究センター拠点長,審良静男の弟子)との関係について書いていた。

熊ノ郷というのは珍しい名前だけれど,和歌山にルーツがあるらしい。たぶん阪大理学部数学科の教授だった熊ノ郷準(1935-1982)と関係があるのではと調べると,Web上にご本人の記事があった。やはり熊ノ郷淳は,熊ノ郷準先生の息子だった。

淳さんが中学3年のときに,父に脳腫瘍がみつかり1年の闘病生活の後に若くして亡くなっている。それが契機となって,大阪教育大学附属高校池田校舎から阪大医学部に進学する。最初は脳神経外科医を目指していたのだが,適性がないことに気付いて岸本忠三(1939-)の下で免疫学の研究に進んだ,というようなことが書かれていた。

学部のころ,豊中キャンパスの生協の書棚に,岩波書店から出版されていた熊ノ郷準の「擬微分作用素」をみかけた。例の薄いけれど高い本のシリーズだ。阪大理学部の廊下でご本人のお顔を見たこともあると思う。大学院を修了してから,森田研究室のセミナーに通っていたころ,理学部の掲示板に,熊ノ郷先生が亡くなられた(47歳だった)ので御遺児のための奨学金を募りますという張り紙があったのが強く印象に残っている。


2022年4月12日火曜日

真木悠介

 4月10日の夜7:00のNHKニュースで,見田宗介(1937-2022)の訃報が流れた。そういえば昔よく読んだものだと本棚を探したけれど見あたらなかった。何度か本の断捨離をしたときに,寄付に回してしまったようだ。

テレビでは,「現代社会の理論 −情報化・消費化社会の現在と未来−」を見田の代表作の一つとしてあげていた。調べてみたらこれは1995年の岩波新書であり,そのころには読む気がしなくなっていたので買わなかった・・・たぶん。大学1,2年の頃に,筑摩書房の箱入りのシリーズで,真木悠介名義の「人間解放の理論のために」とか,見田宗介名義の「現代日本の心情と論理」を買って愛読していた。いずれも,1971年の出版である。

当時は,ディヴィッド・リースマンの「孤独な群衆」から始まって,社会学の本を何冊か読んでいた。大学の教養の人文科学・社会科学では,哲学,倫理学,心理学,政治学,経済学は履修したが,社会学は取らなかったので,その埋め合わせもあり,「社会学のすすめ」から始まって色々と読みあさった・・・たぶん。

社会学といえば,1972年に阪大教養部の助教授だった井上俊(1938-)の「死にがいの喪失(1973)」はまだ本棚で生き延びていた。当時は真木悠介の本の方が良いと思っていたはずなのだけれど。

2021年12月13日月曜日

嗚呼黎明

旧制大阪高等学校(2)からの続き

旧制大阪高等学校の全寮歌が「嗚呼黎明」だ。大正12年に作られた曲だが,面倒なことに歌詞・楽曲ともにJASRAC管理の下にある。なわけで,歌詞を全文引用することは憚られる。前詞はいいのかな。歌詞本文は,岡林信康の「友よ夜明け前の闇の中で・・・夜明けは近い」と同じ趣旨に違いない。

東天紅を染むる金剛の峯にこれを嘯かば
  天下の惰眠一時に破れ,
夕陽沈む茅渟(ちぬ)の海にこれを叫ばゝ
  魑魅魍魎も影を潜めん。
     (大正十五年三月佐々木喜市
当時の体育会系の部活動か応援団ならばこれを歌っていたのかもしれないが,なぜか我々昭和47年入学の阪大理学部物理学科のクラス(定員40名)の2年の研修旅行(赤目四十八滝)ではみんなで肩を組んで歌うことになった。引率は,クラス担任である教養部数学の水野克彦先生だった。多分,それ以前のコンパなどで「これくらいはちゃんと歌えるようにしておかないと」というアドバイスがあったからのような気もする。

そんなわけで,研修旅行には,歌の栞を作ってバスの中で練習していたのではないか。この辺の記憶もほとんど曖昧なので単なる幻想かもしれない。高校の修学旅行で歌の栞を作ったこと(挿絵を担当したら隣のクラスにパクられてしまった)や,小学校の修学旅行では歌の栞なしにアニメソングを歌いまくっていたのは確かな記憶だと思われる。

大学のクラスで作ったその歌の栞に掲載したかどうかは定かでないが,当時クラスのみんな(一部かもしれない)でよく歌っていた,「嗚呼黎明は近づけり」や流行歌(主にフォークソング系)以外の曲といえば,「インターナショナル」「ワルシャワ労働歌」「原爆を許すまじ」「差別裁判打ち砕こう」というラインナップなのであった。時代を感じさせる。

[1]インターネットや携帯電話等 音楽利用の手引き(JASRAC 送信部ネットメディア課)

2021年12月12日日曜日

旧制大阪高等学校(2)

旧制大阪高等学校(1)からの続き

 戦後新制大学が発足する際に,旧制高等学校は新制大学の教養部として組み込まれることになった。阪大は,ナンバースクールの対応物がなくて,官立の大阪高等学校(旧制)と府立の浪速高等学校(旧制)がその役割を果たした。他の旧帝国大学は,北海道大学と九州大学を除いて,一高二高三高八高などがこれに相当している。四高五高六高七高は,旧帝大以外の新制大学の教養部を形成した。

東京大学
1877 東京大学
   開成学校(1872-),東京医学校(1874-)
1877 工部大学校
1886 帝国大学
1890 東京農林学校(1886-)
1897 東京帝国大学
1949 東京大学
   第一高等学校(1886-),東京高等学校(1921-)

京都大学
1897 京都帝国大学
1949 京都大学
   第三高等学校(1894-)

東北大学
1907 東北帝国大学
1912 仙台医学専門学校(1901-),仙台高等工業学校(1907-)
1949 東北大学
   第二高等学校(1887-),仙台工業専門学校(1906-),
   宮城師範学校(1943-),宮城青年師範学校(1944-)

九州大学
1903 福岡医科大学
1911 九州帝国大学
1949 九州大学
   福岡高等学校(1921-),久留米工業専門学校(1939-)

北海道大学
1876 札幌農学校
1907 東北帝国大学農科大学
1918 北海道帝国大学
1949 北海道大学
   函館水産専門学校(1935-)

大阪大学
1919 大阪医科大学
   大阪府立大阪医科大学(1915-)
1931 大阪帝国大学
1933 大阪工業大学(1929-)
1949 大阪大学
   大阪薬学専門学校(1917-),大阪高等学校(1921-),浪速高等学校(1926-)

名古屋大学
1931 名古屋医科大学
   愛知県立愛知医科大学(1920-)
1939 名古屋帝国大学
1949 名古屋大学
   第八高等学校(1908-),名古屋高等商業学校(1920-)
   岡崎高等師範学校(1945-)

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金沢大学
1949 金沢大学
   第四高等学校(1887-),金沢高等工業学校(1920-),金沢医科大学(1923-),
   石川師範学校(1943-),金沢高等師範学校(1944-)

熊本大学
1949 熊本大学
   第五高等学校(1887-),熊本高等工業学校(1906-),熊本医科大学(1929-),
   熊本薬学専門学校(1925-),熊本師範学校(1943-),熊本青年師範学校(1944-)

岡山大学
1949 岡山大学
   第六高等学校(1900-),岡山医科大学(1922-),岡山農業専門学校(1946-),
   岡山師範学校(1943-),岡山青年師範学校(1944-)

写真:旧制大阪高等学校の跡地の石碑(2021.11.21撮影)


2021年12月11日土曜日

旧制大阪高等学校(1)

安倍晴明からの続き

 11月21日に大阪の阿倍野あたりに散歩に出かけてからはや三週間経った。北畠のあたりから阿部野神社をまわり,安倍晴明神社にいたるコースだった。

その北畠の東を走るあべの筋の脇にURの阪南団地がある。ここはかつての旧制大阪高等学校の跡地である。それほど広いわけではない。大高跡地であることを示す石碑と,当時からあるチシャノキとその説明を書いた記念碑があった。青春の像もあるというので探したが見つからなかった。後で調べると阪大豊中キャンパスの大高の森に移設されていた。

天理大学の創設者で,天理教第二代真柱の中山正善(1905-1967)は,旧制大阪高等学校から東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科に進んでいるが,その縁から旧制大阪高等学校の学生集会所であった黎明館を天理大学に移築して今に至っている。

大阪帝国大学から新制の大阪大学へ移行する際に,旧制大阪高等学校(官立,1921-1950)と旧制浪速高等学校(府立,7年制,1926-1950)がその後の教養部を形成した。石橋から坂道を上ってきて最初に見える,街兼山の古い大学の建物(イ号館,ハ号館)などはその旧制浪速高等学校の建物だった。

かつて教養部長を務めた物性物理実験の大塚穎三先生(1929-2013,中田博保さんの師匠)は,旧制浪速高等学校の出身であり,「大塚穎三名誉教授に聞く : 大阪大学の思い出」というインタビュー記事の中に当時の話がでてくる。


写真:旧制大阪高等学校跡地のチシャノキ(2021.11.21撮影)

2021年8月20日金曜日

KEK50周年

KEK(高エネルギー加速器研究機構)50周年を迎えた。1971年4月に前身のKEK(高エネルギー物理学研究所)が筑波学園研究都市の北端でスタートしてから50年たった2021年4月には,各種記念行事の先頭を切ってKEK50周年記念オープニングセレモニーが開催されている。

高エネルギー物理学研究所(KEK)には一度だけいったことがある。設置されてから5年目の1976年3月に8GeVの陽子シンクロトロンが運転を開始した(12月に12GeVに増強)ので,たぶんその少し前の建設中のころだったと思う。大学3年の秋か4年の春に物理学科のクラス(40名)が,全国の物理の研究所を回るという研修旅行が杉本健三先生(1923-2012)によって企画されて,ほぼ全員が参加した。

このような研修旅行は,それまではなかったもので,どうもできが悪いクラスに刺激を与えるべく発案されたのかもしれない。名大プラズマ研,東大物性研,東大核研,高エネルギー研,ソニー中央研(盛田昭夫が社長の時代だ)をまわって横浜で解散した。

杉本先生らが引率し,各研究所で重要な役割を果たしていた阪大物理の先輩方が暖かく迎えてくれた。核研の古い宿舎で一泊(この朝食がたいへん貧しかった),できたての筑波大学の新しい寮で一泊(この朝食が最高においしかった)という2泊3日の行程である。

筑波の夕食後のミーティングで,原子力発電の安全性をめぐって,先生方と一部学生の間で険悪なやりとりがなされるなど,なかなか刺激的なツアーだった。東大核研では藤原さんと近所のパチンコ屋に繰り出して,初めての勝利を獲得したのが印象深い。

このツアーで一番すごかったのがKEK(高エネルギー研)の加速器群であった。750keVのコッククロフト・ウォルトン,20MeVリニアック,500MeVブースターシンクロトロンなどをみたけれど,肝腎の主リングの12GeV陽子シンクロトロンのトンネルはみていないかもしれない。


写真1:コッククロフト・ウォルトン(KEKギャラリーより引用)


写真2:20MeVリニアック(KEKギャラリーより引用)

2021年7月22日木曜日

AlphaFold2(2)

 AlphaFold2(1)からの続き

再びAlphaFold2が話題になっていたのでなにかと思ったら,「米Alphabet傘下の英DeepMindが、遺伝子配列情報からタンパク質の立体構造を解析するAI「AlphaFold v2.0」(以下AlphaFold2)をGitHub上で無償公開し、ネット上で注目を集めている」ということだった。

AlphaFold2解体新書をみれば詳細がわかりそうな気がする。論文は,Highly accurate protein structure prediction with AlphaFoldであり,実装が,alphafold@github となっている。ただし,実際にインストールしようとすると,最低でも,2.5TB以上のSSD/HDD容量 (必須),CUDA11に対応しているNVIDIA製GPU(推奨),大容量(32GB以上)のRAM(推奨)が必要なので素人は手を出してはいけません。

大学に進学するとき,第1志望を物理学科,第2志望を生物学科にしたほど,生物学というか生命科学がこれからは重要だという認識があった。大学の教養部では巌佐耕三先生の生物学を履修した。AlphaFold2のニュースから阪大で受けた生物学の授業が連想された。その授業の先生の名前が思い出せなくて調べていたら,巌佐耕三先生だったということがわかったが,2017年に亡くなられていた(阪大理生物同窓会誌 Vol. 14 2017)。

筑摩書房の「生物学のすすめ」をテキストとしていた巌佐先生の授業でたたきこまれたのが,生物の本質が,DNA/RNAからアミノ酸配列(1次構造)が定まり,これからタンパク質の立体構造(3次構造)が決まって様々な生理機能を果たすということに依拠しているということだった。

つまり,ゲノム配列を簡単に求められるようになった時代に,それからタンパク質の立体構造を容易に推定できることの重要性がどれほどのものかということだろう。

それにしても,物理科学も生物科学も機械学習全盛の時代に相転移しつつある。