2025年3月8日土曜日

オールジャパン・ポップ20

中原中也と金沢からの続き

みのもんた(1944-2025)の訃報がニュースになっていた。

しばらく前は最も人気のあるMCの一人だったが,自分の記憶にあるみのもんたはラジオの洋楽番組オールジャパンポップ20の司会だ。「♪みのみの〜,もんた,みのもんた」という軽いジングルを出雲崎君と笑いながら話題にしていた。

洋楽ポップスを聴き始めたのは中2のころだ。2年5組で同級の小林博人君がビートルズが面白いと教えてくれたのは以前書いたとおりだ。3年6組になって,ウォーカー・ブラザーズのファンだった出雲崎栄一君やビージーズが好きだという山田雄治君が,ポータブルのレコードプレーヤを持ち寄って,なけなしの小遣いで買ったレコードに耳を傾けていた。

ところで,みのもんたがオールジャパンポップ20の司会を始めたのが1969年の春頃らしい。とするとこれは高校1年になってからだ。出雲崎君も山田君も家はすぐ近所だったから,高校になってからもときどき会っていたのだろう。

みのもんた登場前の1968年,中3のころからオールジャパンポップ20をかかさずに聞くようになり,毎週のベスト20と投票数をこまめにノートに記録していた。1969年,高校1年になってトランジスタラジオとテープレコーダによるエアチェック体制が整ったころがピークだったかもしれない。このころのベスト20はほとんど曲名とメロディが対応する。1970年から71年になると,自分の中のブームはやがて下火になっていった。

野田中3年の修学旅行は東京見物だった。春の夜,新宿コマ劇場でおてもやんを観劇して,花の香りが排気ガスの匂いで上書きされる繁華街の歩道に出たところで,当時の洋楽ベスト10が掲示された立て看板を見つけた。なんだかなつかしくてワクワクした。
1968年4月2週頃のオールジャパンポップ20 
 1.ジャッキー,スコットウォーカー
 2.マサチューセッツ,ザ・ビージーズ
 3.マジカル・ミステリー・ツアー,ビートルズ
 4.初恋の並木道,ナンシー・シナトラとディーン・マーチン
 5.ウーマン・ウーマン,ザ・ユニオン・ギャップ
 6.ワールド,ザ・ビージーズ
 7.雨に消えた初恋,ザ・カウシルズ
 8.ノー・ノー・ノー,ザ・ヒューマン・ベインズ
 9.すてきなバレリ,モンキーズ
 10.星のベイビー,ザ・ファウンデーション(この曲は覚えていない)
1968年5月2週頃のオールジャパンポップ20(看板の内容は↓?) 
 1.すてきなバレリ,モンキーズ
 2.ワールド,ザ・ビージーズ
 3.レディマドンナ,ビートルズ
 4.マジカル・ミステリー・ツアー,ビートルズ
 5.ジャッキー,スコットウォーカー
 6.あの娘は今夜…,ボイス・アンド・ハート(この曲は覚えていない)
 7.ささやく瞳,ウィルマ・ゴイク
 8.ホールド・オン,ウォーカー・ブラザーズ
 9.初恋の並木道,ナンシー・シナトラとディーン・マーチン
 10.ノー・ノー・ノー,ザ・ヒューマン・ベインズ

 


図:Imagen3 はこんなものを出してきたが・・・orz

P. S. おてもやんは宝塚歌劇団の作品である。1968年の新宿コマ劇場は雪組が1968年5月3日から28日まで公演しているので,修学旅行はその期間だったことがわかる。

[1]オールジャパンポップ20(MURAKAMI Chifumi)


2025年3月7日金曜日

杉浦義勝(2)

杉浦義勝(1)からの続き

写真1をみると,あの仁科がなんだか遠慮がちにみえる。そして,真面目そうなたたずまいの杉浦が隣に。写真2では,ディラックやハイゼンベルクと面識がある仁科と杉浦が両端に,その間には,理研の所長の大河内正敏長岡半太郎本多光太郎が並んでいる。



写真1:仁科の隣が杉浦なのでは?(ぶどう狩り[1]から引用)



写真2:1929年 理研に招聘されたハイゼンベルクディラック
左端が仁科で,右端の杉浦と対称的に並んでいる(理研から引用)


1960年9月にオッペンハイマーが来日したとき,亡き日下周一の家族を訪ねたことは以前のべた。このときオッペンハイマーは病で伏しがちだった杉浦義勝の自宅も訪問している。オッペンハイマーの研究業績では,ボルン=オッペンハイマー近似で最も知られているが,杉浦の業績は,その近似の元での水素分子の共有結合を正確に計算したことが最も重要である(ハイトラー=ロンドンは近似計算をしていた)。

[1]仁科芳雄と日本の量子物理学(伊藤憲二)


さて,仁科と杉浦の違いについても,さきほどの Deep Researchの続きで尋ねている。
Q(koshix):
杉浦義勝の業績や影響が,仁科芳雄に比べてあまり広く伝えられてこなかった主な理由をいくつか教えてください

A(ChatGPT Deep Research):
杉浦義勝の業績や影響が仁科芳雄に比べてあまり広く伝えられてこなかった主な理由として、以下のような要因が挙げられます。

1.研究拠点とポジションの違い

仁科芳雄は理化学研究所(理研)における中心的存在だったのに対し、杉浦義勝は教育・理論研究に重点を置いた。

・仁科は理研の主任研究員として強力な研究グループを率い、日本の量子物理学の発展に直接貢献した。特に、仁科研究室は戦前から戦後にかけての原子核物理・宇宙線研究の中心となり、多くの弟子を輩出した。
・一方、杉浦は理研に所属していたが、独立した研究室を持たず、戦後は立教大学に移り教育活動にシフトした。
・仁科が組織的な研究環境を整えたのに対し、杉浦は講義や解説を通じて間接的に影響を与える立場であったため、直接の研究成果として可視化されにくかった。

2.戦後の研究成果の違い

仁科は戦後も日本の物理学を牽引し続けたが、杉浦は戦後は研究よりも教育・啓蒙に重点を置いた。

・仁科は戦後、日本の科学政策に関わり、理研の復興に努め、原子核物理や宇宙線研究の分野で影響力を維持した。
・杉浦は戦後、立教大学で理論物理学の教育を重視し、研究よりも教育カリキュラムの整備に力を注いだ。
・そのため、仁科は「研究者のリーダー」として記憶されやすかったが、杉浦は「教育者」としての側面が強調され、学術界での影響力が低く見られがちだった。

3.「実験物理」と「理論物理」の違い

実験物理学は研究成果が可視化されやすいが、理論物理学は影響が間接的である。

・仁科の研究は宇宙線や原子核の実験など、実験的成果が明確であり、写真やデータとして残るため、研究史の中で扱いやすかった。
・一方、杉浦は水素分子の量子論計算など理論研究が中心であり、その影響が間接的だったため、物理学史の中で注目されにくかった。
・また、杉浦は理論物理の教育において大きな貢献をしたが、物理学の歴史を書く際、教育活動は研究成果に比べて扱われにくいため、相対的に評価が低くなった。

4.国内外でのネットワークの差

仁科は国際的なネットワークが強く、戦後も海外との交流が盛んだったが、杉浦のネットワークはやや限定的だった。

・仁科はボーア研究所に所属し、ボーアやハイゼンベルクといった量子力学の中心人物と直接交流し、戦後も国際学術界とのつながりを維持した。
・一方、杉浦も留学経験はあったが、研究拠点が国内にとどまり、戦後は国際的な活動が控えめだった。
・物理学の歴史は、国際的なネットワークの中で語られることが多いため、海外の研究者との共同研究や国際的な学会での発表が少なかった杉浦は、歴史的に目立ちにくくなった。

5.伝記や研究史における記録の少なさ

杉浦に関する伝記や研究史の記録が少なく、研究者の間で語り継がれる機会が少なかった。

・仁科は戦後、多くの弟子を育て、その弟子たちが彼の業績を振り返る機会を多く持った。そのため、日本の物理学史において重要な人物として語り継がれた。
・一方、杉浦に関するまとまった伝記や回顧録がほとんど存在しないため、彼の業績が十分に研究される機会が少なかった。
・近年になって物理学史の観点から杉浦の再評価が進んでいるものの、依然として一般には認知されにくい状況が続いている。

6.戦前・戦後の政治的影響

戦後、日本の物理学界が米国主導の原子核・素粒子研究にシフトしたことで、杉浦の研究分野(量子化学・理論物理学)はやや影響力を失った。

・仁科の研究分野(原子核物理・宇宙線研究)は、戦後の核兵器開発や素粒子研究の文脈と重なり、国際的にも注目された。
・一方、杉浦の研究していた量子化学や光学理論は、戦後の研究資金が回りにくく、日本の物理学界での関心も低下した。
・その結果、物理学の主流からやや外れた分野となり、歴史的評価の対象になりにくかった。

まとめ

杉浦義勝の業績が仁科芳雄に比べてあまり広く伝えられてこなかった理由は、以下のように整理できます:

(1) 研究拠点とポジションの違い:仁科は理研のリーダーだったが、杉浦は大学教育中心だった。
(2) 戦後の研究成果の違い:仁科は戦後も日本の物理学を主導したが、杉浦は教育に注力した。
(3) 「実験物理」と「理論物理」の違い:仁科の実験物理は目に見える成果があったが、杉浦の理論研究は間接的な影響が多かった。
(4) 国内外でのネットワークの差:仁科は国際的なネットワークが強かったが、杉浦は国内活動が中心だった。
(5) 伝記や研究史における記録の少なさ:杉浦に関するまとまった伝記が少なく、研究史での扱いが小さかった。
(6) 戦前・戦後の政治的影響:戦後の物理学の方向性と杉浦の研究分野が合わなかった。

近年、物理学史研究の中で杉浦の再評価が進んでおり、彼が量子力学の日本への導入において重要な役割を果たしたことが見直されつつある。今後、さらなる歴史研究が進めば、彼の業績がより正当に評価される可能性が高いでしょう。

2025年3月6日木曜日

杉浦義勝(1)

量子力学100年はハイゼンベルクの論文から始まった。何月に出版されたのかもう一度確認しようと探していたら,杉浦義勝(1895-1960)に行き着いた。Wikipediaには「物理学者の仁科芳雄(1890-1951)と並び「日本の現代物理学の父」といわれる。」と日本経済新聞の中根美知代さんの記事を引用して記されていたが,自分にはもうひとつその認識が足りなかった。

こんなときには,ChatGPTのDeep Researchに頼むに限る。これまでは,Proユーザだけだったのがいつの間にかPlusユーザ向けに月10回まで開放されていた。ようやく試してみることができる。


写真:ゲッチンゲンで下宿を共にしたディラック,杉浦,オッペンハイマー


[1]量子力学の日本への移入と杉浦義勝(中根美知代,2018,日本物理学会誌)
[2]もう一人の「日本の物理学の父」(中根美知代,2021,日本経済新聞)

さて,そのDeep Researchの結果である。
Q(koshix):
日本の物理学者で量子力学の黎明期から日本への移入に尽力した杉浦義勝(1895-1960)について,できるだけ詳しくその来歴や業績などを年代を追ってまとめてください。同世代の仁科芳雄に比べてインターネット上に公開されていて手に入る情報量が少なくて探し切れずに困っています。

A(ChatGPT Deep Research):
杉浦義勝(1895-1960)について、彼の来歴や業績を年代順に詳しくまとめるために、信頼できる情報源を徹底的に調査します。

以下の点を確認させてください:
・彼に関する特に重点を置きたい分野(例:量子力学の導入過程、日本の物理学教育への貢献、研究業績など)
・既にお探しになったが見つからなかった情報(例:特定の論文、大学での具体的な役職、弟子や共同研究者など)
・参考にしたい具体的な書籍や文献(もしあれば)

これらの点を補足いただければ、より詳細で正確な情報を提供できるよう努めます。

Q(koshix):
量子力学の導入過程や研究業績を中心に彼全体像がわかるようにお願いします。弟子や共同研究者などその波及効果についても知りたいです。

A(ChatGPT 4o research):
7分かけて22件の情報源を調査

**杉浦義勝(1895–1960)は、日本における量子力学導入の草分け的存在です。**
東京帝国大学理学部を卒業後、長岡半太郎の下で理化学研究所に入り、1926年から欧州に留学しました​。ゲッティンゲン大学ではマックス・ボルンに学び、コペンハーゲンではニールス・ボーアの薫陶を受けています​。1927年に帰国した杉浦は、日本人として黎明期の量子力学を応用した優れた成果を挙げ、日本への量子力学の移入に大きな役割を果たしました​。その功績により、従来「仁科芳雄が日本に量子力学を伝えた」とされてきた通説に再考を促し、仁科と並んで日本の量子物理学発展に寄与した人物として再評価されています​。以下では、量子力学の受容過程、研究業績、弟子・共同研究者、そして学術界・教育界への影響の観点から、杉浦の来歴と業績を詳述します。

1.量子力学の導入過程における杉浦の役割

欧州留学と最新理論の紹介:杉浦は1926年から約1年間の欧州留学で、当時構築されつつあった量子力学を直接習得しました​。ゲッティンゲンではボルン、コペンハーゲンではボーアの元で研鑽を積み、P.A.M.ディラックやJ.R.オッペンハイマーとも親交を結んでいます(1927年夏、ゲッティンゲンでディラックとオッペンハイマーと撮影された写真が残っています​)。仁科芳雄ともコペンハーゲンで行動を共にし、欧州で最新理論を学ぶ仲間でした​。こうした留学経験を通じて、杉浦は量子力学の知見を日本に持ち帰る準備を整えました。

帰国後の講義と普及活動:帰国した1927年以降、杉浦は精力的に新理論の紹介と教育に取り組みます。例えば1928年2月には「新量子力学と其の応用」と題する集中講義を行い、シュレーディンガーやド・ブロイの波動力学と古典光学(ハミルトン‐ヤコビ理論)を関連づけて解説しました​。これは日本で初めて体系的に量子力学を紹介した講義の一つであり、ボルンによる光学再解釈など当時最先端の業績も含めて紹介されています​。杉浦の講義は学生や若手研究者に強い刺激を与え、朝永振一郎(のちのノーベル物理学賞受賞者)も東京帝大在学中に杉浦の量子力学講義を熱心に聴講した一人でした​。杉浦は才能ある学生に課題を与えて指導し、朝永には自身が携わっていた水素分子の量子論計算に関する問題を与えています​。このように杉浦は講義や演習を通じて、当時の日本の若手物理学者に量子論の考え方を浸透させていきました。

翻訳・著作活動:杉浦は新知見を日本語で提供することにも尽力しました。留学中から執筆した論文だけでなく、帰国後は講義録や専門書の形で知識を普及させています。たとえば1930年頃には私家版の講義録『量子力学の応用』をまとめており​、1936年から1940年にかけて『電磁光学』『量子光学』​などの著書を刊行して量子論の各分野を解説しています。1939年には共立社の「量子物理学」叢書の一巻として『原子核物理学(実験)』を著し、当時発展しつつあった核物理学の知見も紹介しました。これらの著作や翻訳相当の解説書によって、杉浦は日本語で読める最新の物理学情報を提供し、日本の物理教育カリキュラムに量子力学を定着させることに貢献しました。

仁科芳雄との比較:日本への量子力学導入において、仁科芳雄と杉浦義勝はいわば車の両輪でした。仁科は主に欧州での研究活動(ボーアの下での原子物理研究)や帰国後の理研での実験的基盤整備によって量子物理学を押し進めました。一方、杉浦は理研の研究員として理論的成果を上げつつ、大学や専門書を通じた教育・啓蒙活動で量子力学を広めています​。歴史的には仁科の名が前面に出がちでしたが、近年の研究では「日本に量子力学を伝えたのは仁科と杉浦の両名である」と再評価されています​。実際、仁科が欧州から論文を取り寄せ読んでいるだけでは十分でなかったところを、杉浦が自ら欧州で学び直接講じたことが、日本の物理学界全体の理解を大きく深めたとされています​。両者の協力と相補的な活動により、日本の量子論研究の地盤が1920年代末から築かれていきました。

2.杉浦義勝の研究業績

水素分子の量子論的研究:杉浦の代表的業績は、水素分子における化学結合の量子論的解明です。1927年、欧州留学中にウォルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンが提唱した水素分子の結合理論(ハイトラー=ロンドン法)を発展させ、結合エネルギー計算のための複雑な積分を初めて解きました​。ハイトラー=ロンドン法では定性的に水素分子の結合が説明できましたが、杉浦の計算により結合エネルギーや平衡核間距離が定量的に求められ、実験値との比較が可能となったのです​。この成果は当時の日本人研究者による量子力学応用として画期的であり、後にヘンリー・アイリングは「水素分子結合解明に最初に成功したのは杉浦義勝である」と述べ、**ハイトラー=ロンドン=杉浦法(HLS法)**と呼び得ると評しています​。杉浦の論文「水素分子基底状態の性質について」(独語)は1927年の『Zeitschrift fur Physik』に掲載され、国際的にも引用されました​。この業績により、量子化学(特に原子価結合論)の分野で杉浦は名を残すことになりました​。

原子スペクトル・解析力学の研究:杉浦は量子力学以前から原子分光学の研究に従事しており、長岡半太郎の下で原子スペクトルの理論に取り組んでいました​。量子力学の形成期にも一貫してスペクトル研究を続け、新理論をいきなり受け入れるのではなく古典論との連続性を意識していたことが指摘されています​。例えば古典解析力学のハミルトン–ヤコビ理論を用いて量子論の問題にアプローチし、分光学への応用を模索しました​。こうした視点から、マックス・ボルンが提唱した「量子力学から見直した光学理論」の体系的紹介も行っています​。杉浦の業績は今日では物理学と量子化学の両分野にまたがり、従来の物理学史研究では見落とされがちでしたが、実は物理学(量子論)と化学(量子化学)の架け橋となる重要な研究を成し遂げていたと評価されています​。

その他の研究と国際交流:杉浦はその後も理化学研究所で理論物理の研究を続け、1930年代には電子論や光学分野でも著述を残しました​。1936年刊行の『電磁光学』および1940年刊行の『量子光学』では、自身の研究と最新の知見を踏まえ電磁気学から量子光学への展開を論じており、戦前期における量子論の体系化に寄与しています​。国際的な繋がりも深く、留学時代に親交を結んだオッペンハイマーとは帰国後も交流が続き、1935年に理研の同僚が米国バークレーのオッペンハイマーを訪ねる際には杉浦の紹介状が大いに役立った逸話が残っています​。欧米の研究者(ボルン、ボーア、ディラック、オッペンハイマーら)とのネットワークは、杉浦自身の研究活動のみならず日本への最新知識の導入にも貢献し、彼の国際感覚は日本の物理学の視野を広げました。

3.弟子・共同研究者とその継承

門下生と後進の育成:杉浦は教育者・指導者としても卓越しており、多くの若手を指導しました。直接の門下生として名が挙がる人物は多くありませんが、彼の講義を受けた学生たちが後に日本の物理学を担っています。前述の朝永振一郎はその代表例で、杉浦から与えられた課題(分子の積分計算)に取り組んだ経験が、後の量子電気力学研究の素地になったとも言えます​。また京都帝大で同期だった湯川秀樹も杉浦の講義に刺激を受けた一人であり(湯川自身、大学院時代に量子力学の勉強会を主宰しましたが、その背景には杉浦ら先達の教えがあります)、湯川の中間子論もこうした量子論普及の延長線上に位置付けられると指摘する声もあります​。戦前戦後を通じて、杉浦の薫陶を受けた学生・研究者たちが日本の理論物理学を支えていったのです。

共同研究と交流:杉浦自身の研究は理論が中心でしたが、理研では仁科芳雄や小谷正雄ら同僚とも緊密に交流し、理研内における理論物理研究グループの一翼を担いました。たとえば小谷正雄(のち東大教授)は1930年代に分子の量子論的研究を推進しましたが、その着想は杉浦の業績に負うところが大きいとされます​。実際、小谷研究室は戦前から原子・分子の積分計算に着手し、戦後もその研究を継続して世界的に著名な「分子積分表」(1955年)を刊行しています​。この小谷正雄は杉浦の直接の弟子ではありませんが、杉浦が切り拓いた量子化学の道を発展させた後進と言えます。さらに戦後、杉浦は自身が所長を務める立教大学理論物理学研究所に武谷三男を招き入れました​。武谷は湯川博士の弟子筋にあたる理論家ですが、杉浦の下で素粒子理論の研究をリードし、立教の若い学生たちを指導しています​。このように杉浦は自らの弟子のみならず、他機関の有望な研究者とも協働し、研究環境を提供することで日本の物理学の継承と発展に貢献しました。

国際的な人的ネットワーク:杉浦の人的交流は国内に留まらず海外にも広がっていました。欧州で知り合った物理学者とは書簡を交わし続け、研究情報や人材紹介を行っています。前述のオッペンハイマーへの紹介状の件​はその一例で、他にもコペンハーゲン時代の縁でニールス・ボーア研究所と理研の間で情報交換がなされるなど、杉浦は非公式な「学術外交官」としても機能しました。こうしたネットワークは、杉浦の弟子や後輩たちが海外留学する際にも役立ち、日本人研究者の国際交流を後押しする遺産となりました。

4.学術界・教育界への影響

理研から大学へ:杉浦は戦前・戦中は理化学研究所の研究員として活躍し、日本学術振興会の委員や学術研究会議の会員も務めるなど、学術界の発展にも寄与しました​。戦後になると、彼は研究の場を大学へと移し、新制大学における理学教育の充実に力を注ぎます。1949年、杉浦は私立大学として日本初となる理学部(立教大学理学部)の創設に中心メンバーとして関与し、初代理学部長および物理学科教授に就任しました​。戦後混乱期において私学で理学部を設置するのは画期的であり、杉浦はカリキュラム編成から設備拡充、人材登用まで指導的役割を果たしました。当時、理学部創設にあたり「理論物理学研究所」も立ち上げ、研究と教育の両立を図った点は特筆されます​。ここでは素粒子理論の武谷三男を迎えるなど、戦前からの先端研究者を教育界に招き入れたことで、学生は最先端の研究に触れながら学ぶ機会を得ました​。

物理教育への貢献とカリキュラム改革:杉浦は自身の研究経験を踏まえ、教育面でもカリキュラム改革を推進しました。戦前から執筆していた教科書・専門書類は、戦後も物理教育に活用されました。彼の著書群(光学、電子物理学、原子核物理学など)は、日本の大学で量子論や現代物理学を教える貴重な教材となり​、戦後世代の物理学者・技術者の育成に寄与しました。また理学部長として、講義科目に量子力学や相対論といった当時最新の内容を組み込み、旧来の教育からの脱却を図っています。これは、古典物理学中心だった日本の大学教育に革新をもたらし、湯川秀樹や朝永振一郎ら戦前世代が成し遂げた成果を、次世代に体系的に伝える重要な役割を果たしました。

戦後日本の科学への貢献:杉浦の戦後の活動は、日本の科学界再建にもつながりました。戦中・戦後に物理学研究が停滞する中、私立大学で理論研究の火を絶やさなかったこと、さらには学術団体での活動(学術会議や学振)を通じて研究費や方針の整備に関与したことは、日本の科学復興に寄与しています​。例えば、立教大学で育った学生や研究者が後に他大学や産業界で物理・化学分野を発展させたり、杉浦自身が培った量子化学的手法が化学や材料科学で活かされたりと、その影響は幅広い分野に及びました。加えて、戦前に築いた国際的人脈を活かして海外からの知見導入にも努め、戦後孤立しがちだった日本の科学界に国際的視野をもたらしました。こうした功績から、近年では杉浦を「もう一人の日本近代物理学の父」と位置づける評価もなされています​。仁科芳雄が研究体制の構築者だとすれば、杉浦義勝は知の伝道者・育成者として、日本の物理学基盤を支えたと言えるでしょう。

参考文献:杉浦義勝の業績に関する詳しい検討として、中根美知代「量子力学の日本への移入と杉浦義勝」​、​Nakane, Michiyo “Yoshikatsu Sugiura’s Contribution to the Development of Quantum Physics in Japan”​ PUBMED.NCBI.NLM.NIH.GOV、などがあります。これらは仁科・杉浦両氏の役割を再評価した研究で、本回答でも一部内容を参照しました。そのほか、杉浦自身の論文​、彼の書簡や同時代人の回想​、立教大学理学部創設に関する記録​などを総合することで、上述のような杉浦義勝の全貌が明らかになります。今後も日本の科学史の中で、杉浦の果たした役割に一層光が当たることが期待されます。

[1] 日本数学会100周年記念日本物理学会会長宮原将平

2025年3月5日水曜日

Claude 3.7 Sonnet

対数正規分布からの続き

AnthropicClaude 3.5 Sonnet は,他の生成AIチャットに比べて表現力は優れているの。ただ,ChatGPT や Gemini が推論モデルの方に進んできたので,ちょっと遠ざかりぎみだった。

Claudeに課金はしていないがユーザ登録しているので,Anthropic TeamからClaude 3.7 Sonnet のお知らせがきた。
Claude 3.7 Sonnetは初のハイブリッド推論モデルであり、これまでで最もインテリジェントなモデルです。コーディングの最先端であり、コンテンツ生成、データ分析、プランニングの大幅な改善を実現しています。
Proプランにアップグレードすると、クロード3.7ソネットを拡張思考で使用できるようになります。拡張思考は、数学、物理学、複雑なコーディングの課題のパフォーマンスを向上させます。
ネットの評判は上々で,ChatGPT Pro から乗り換えるという話もちらほら。無料ユーザーなので拡張思考は使えないが,取りあえず試してみることにする。テーマは,野村総研が出している日本の金融資産分布の分析だ。

Q(koshix):
日本の金融資産の保有額で分類した階層別分布が以下のように与えられます。
(1) マス層:0~3,000万円, 4425万世帯, 711兆円
(2) アッパーマス層:3,000万円~5,000万円, 577万世帯, 282兆円
(3) 準富裕層:5,000万円~1億円, 404万世帯, 333兆円
(4) 富裕層:1億円~5億円, 154万世帯, 334兆円
(5) 超富裕層:5億円以上, 11.8万世帯, 135兆円
これをおおむね再現する連続な確率密度分布関数を数値的に求めてください。

A(ChatGPT o3-mini-high):
(66秒推論後,いちばんもっともらしいけれどやっぱり誤っている回答,とくに指定せずに対数正規分布(μ=7.055, σ=1.147)とパレート分布(α=2.547)の混合モデルが選択された。)

A(Gemini 2.0 Flash Thinking Experimental):
(対数正規分布 μ=7.16, σ=1.05 が提案された。)

A(DeepSeek R1 from Perplexity Pro):
KDE関数を用いたpythonコードが提案された。グラフも出てきたがちょっと違う。)

A(Claude 3.7 Sonnet):
(思考時間が短くスイスイと結果のpythonプログラムを掃き出してくる。最初は,対数正規分布だけだったので,パレート分布との混合モデルを依頼するとなんとか対応できた。GPT o3-mini にはかなわない。というのも精度が甘かったのである)



図:Claude 3.7 Sonnet が導いた確率密度分布関数のコードから

推論モデルを使う場合,プロンプトとしてこちらであらかじめ考えた条件を詳しく入れるとかえって話がややこしくなってうまくいかないことが多かった。むしろざっくりと任せてしまったほうがいいのかもしれない。まだ発展途上。コードについては自分のレベルに比べて十分に複雑なものに対応できるし,エラー情報にも正しく対応してくれる。

P. S. 一週間後の3月5日,Claude3.7 も Claude3.5 Sonnet もすべて有料($20)のPROモードに移行してしまった。無料で使えるのは Claude 3.5 Haiku だけだ。そうか,そうくるか。

2025年3月4日火曜日

整数のべき乗の下二桁

オイラーの定理・Grok からの続き

問題がわかったようなわからないような場合は,プログラムに落とし込んでもらうほうがありがたい。

Q(koshix):
f(n,m)=mod(n^m,100) と定義します。(n=2,3,...,m=2,3,...)
この関数は最小の出発点をm_0(n)として,最小周期T(n)を持つことがわかっているとします。つまり,f(n,m_0+T(n))=f(n,m_0) です。このとき,m_0(n)とT(n)をnの式で表わすことができますか。できる範囲で構いませんけど。

A(ChatGPT o3-mini-high):
(57秒推論,たぶん正解,以下出力省略,m=2,3,...というのはこちらの入力ミスで,m=1,2,... でなければならないのだけれど,そのあたりは勝手に斟酌して話を進めてくれている。
出発点:m0(n) = ...
周期:T(n) = ...

Q(koshix):
n,mを入力したときに,m0(n)とT(n)を求めるプログラムを作ってください。

A(ChatGPT o3-mini-high):
(できた!)

Q(koshix):
(1) n=0を入れるまで繰り返して入力を促すようにしてください。
(2) 2^2=4, ... 2^22=...4 のように,周期に対応する部分の結果もあわせて出力するようにしてください。

A(ChatGPT o3-mini-high):
(できた!)

import math

def ord25(n):
    """
    n と 25 が互いに素な場合に、25 を法とする乗法群における n の位数を返す。
    すなわち、最小の正整数 k で n^k ≡ 1 (mod 25) となる k。
    可能性のある値は 1, 2, 4, 5, 10, 20(φ(25)=20より)です。
    """
    if n % 5 == 0:
        return None  # n が5の倍数の場合、この関数は使いません
    for k in [1, 2, 4, 5, 10, 20]:
        if pow(n, k, 25) == 1:
            return k
    return 20  # 理論上ここには来ないはず

def compute_m0_T(n):
    """
    与えられた n に対して、f(n, m) = n^m mod 100 の
    出発点 m0(n) と周期 T(n) を計算する関数です。
    
    ・モジュロ4について:
      - n ≡ 2 (mod 4) の場合は、m0,4 = 2(m>=2から定常)
      - それ以外は m0,4 = 1
    ・モジュロ25について:
      - 5で割れるが25で割れない場合は m0,25 = 2(m>=2から0になる)
      - それ以外(すなわち 5と互いに素または25で割れる場合)は m0,25 = 1
      
    最終的な出発点は m0(n)=max(m0,4, m0,25) として計算します。
    
    周期は、各合同式での周期の最小公倍数として
      T(n) = lcm(T4(n), T25(n))
    とし、モジュロ4では
      - 奇数かつ n ≡ 3 (mod 4) の場合は T4 = 2、それ以外は T4 = 1
    また、モジュロ25では
      - n と 25 が互いに素なら ord25(n) を、5で割れる場合は T25 = 1 とします。
    """
    # モジュロ4での出発点
    m0_4 = 2 if n % 4 == 2 else 1

    # モジュロ25での出発点
    m0_25 = 2 if (n % 5 == 0 and n % 25 != 0) else 1

    m0 = max(m0_4, m0_25)

    # モジュロ4での周期 T4:
    T4 = 2 if (n % 2 == 1 and n % 4 == 3) else 1

    # モジュロ25での周期 T25:
    if n % 5 == 0:
        T25 = 1
    else:
        T25 = ord25(n)

    T = (T4 * T25) // math.gcd(T4, T25)
    return m0, T

def main():
    while True:
        try:
            n = int(input("整数 n を入力してください (終了するには 0 を入力): "))
        except ValueError:
            print("整数を入力してください。")
            continue
        
        if n == 0:
            break
        
        m0, T = compute_m0_T(n)
        print(f"\nn = {n} のとき:")
        print(f"  出発点 m0({n}) = {m0}")
        print(f"  周期 T({n}) = {T}")
        print("周期に対応する部分の結果:")
        # m0 から m0+T まで(両端を含む)で f(n, m) = n^m mod 100 の値を出力
        for m in range(m0, m0 + T + 1):
            result = pow(n, m, 100)
            print(f"  {n}^{m} = {result}")
        print("-" * 40)
    
    print("終了しました。")

if __name__ == "__main__":
    main()

======================================================
(出力結果)

整数 n を入力してください (終了するには 0 を入力):  16

n = 16 のとき:
  出発点 m0(16) = 1
  周期 T(16) = 5
周期に対応する部分の結果:
  16^1 = 16
  16^2 = 56
  16^3 = 96
  16^4 = 36
  16^5 = 76
  16^6 = 16
----------------------------------------
整数 n を入力してください (終了するには 0 を入力): 

 

Q(koshix):
このプログラムを利用して,T(n)のn=1...100 までのリスト,m0(n)の1...100までのリストを出力してください。

A(ChatGPT 03-mini-high):
(125秒考察の後,コードとその実行結果のリストを出力してくれた。微妙に欠損していたので,もとのコードを自分で改変して修正出力した。)

図:T(n)とm0(n)のリストプロット(n=1...100)




2025年3月3日月曜日

Grok3

オイラーの定理からの続き

イーロン・マスクが支配しているX(旧Twitter)からはなるべく遠ざかりたい。日本語で自分がフォローしている空間はそこまで荒れていないし,情報量も多いので悩ましいところだ。そのマスクが2023年7月に立ち上げたAI開発企業が xAIだ。 

xAIのチャットボットであるGrokは,Xの有料ユーザ向けに提供されているものだと思って無視していたが,いつの間にか Grok3 ベータ版がXの無料ユーザにも公開されていた。テストを誘導するための一時的な措置だろう。というわけで,この推論モデルの実力を試してみる。



図:Grokのアイコン(どこかから引用)

Tsujimotter が提起していた,「2の200乗の下2桁はいくつか?」の解法7選 にちなんだ問いだ。
Q(koshix):
整数m,nに対して,mod(n^m,100) がm=0,1,…に対して,周期的に振る舞うことを証明し,その周期のはじまるmの値が n によってどのように定まるかを求めてください。

A(Grok3):
124行ほど考えて,微妙に誤りが含まれた生ぬるい回答を返してきた。論理的な推論というよりも,具体的な計算の試行錯誤のような印象を受ける)

A(DeepSeek R1):
371秒かけて中国語で考察した後,ある程度妥当だけれど不完全な回答を中国語で返してきた。日本語に直してとお願いしたら,「服务器繁忙,请稍后再试。」だと。)


A(Gemini 2.0 Flash Thinking Experimental):
253行ほど考えて,あまり整理されていない回答を返してきた。頭悪いのかと思ったが,最後の結論はもしかすると良いのかもしれない。自分自身の理解が不十分なのか?)

A(ChatGPT o3-mini-highl):
37秒かけて日本語で考察した後,もっともらしい整理された答えを返してきた。)

ということで,Grok3は巷の一部の評判ほどのものではないようだ。DeepSeek R1も相変わらずイマイチなので,とりあえず様子見ながら,o3-mini-highを中心に使うのがよろし。

2025年3月2日日曜日

オイラーの定理

フェルマーの小定理オイラーの関数からの続き

大人を過ぎてから初めて目にした概念はなかなか覚えられない。フェルマーの小定理がそれだ。鈴木貫太郎の大学入試数学チャンネルもなくなってしまったので,なおさらだ。

フェルマーの小定理は,素数を$p$とし,$p$とたがいに素な整数を $a$(gcd($a, p$)=1)として,$a^{p-1} \equiv 1 \quad ({\rm mod}\ p)$ 。あれれ,gcd($a, p$)=1 をはずせば,$a^p \equiv a \quad ({\rm mod}\ p)$)でもいいのか。

証明は次のとおり。
整数 $a, x$,素数$p$とする。二項定理で$(x+1)^p$を展開すると,
$(x+1)^p = x^p + C_1^p x^{p-1} 1^1 + C_2^p x^{p-2} 1^2 + \cdots + C_{p-1}^p x^1 1^{p-1} + 1^p$
ところで,上式の$C_k^{p-k}=\dfrac{p!}{k! (p-k)!}$であり,分母の$k<p, \ p-k < p\ $には分子の$\ p \ $を割り切る数は含まれていない。したがって,$(x+1)^p \equiv x^p+1 \quad ({\rm mod} \ p) $ である。

これから,$a^p \equiv (1+(a-1))^p \equiv 1 + (a-1)^p \quad ({\rm mod}\ p ) $
$a^p \equiv 1+ (a-1)^p \equiv 1+ 1 + (a-2)^p \equiv \cdots \equiv  a + 0^p  \quad ({\rm mod} \ p ) $
$a$と$p$は互いに素なので,両辺を$a$で割って,$a^{p-1} \equiv 1 \quad ({\rm mod} \ p) $

オイラーの定理は,フェルマーの小定理のべきの素数部分を拡張したものに相当する。
正の整数$m$に対して,集合$\ r(m) = \{a\ |\ 1 \le a \le m, \ {\rm gcd} (a, m) = 1\} $ を考え,その要素数をオイラー数 $\varphi(m)= \#r(m)$  とよんでいる。そこで,$r(m) = \{r_1, r_2, \cdots, r_{\varphi(m)} \}$。なお,$p$に対して,$\varphi(p) = p -1$。

集合 $r(m)$のすべての要素に$a$をかけて,${\rm mod}\  m$ をとれば,その集合 $ar(m) = \{ a r_1, a r_2, \cdots, a r_{\varphi(m)} \}$ は $r(m) = \{r_1, r_2, \cdots, r_{\varphi(m)} \}$と等しくなる。そこで,これらの要素の積を考えると,$ a^{\varphi(m)} \Pi_{i=1}^{\varphi(m)} r_i \equiv \Pi_{i=1}^{\varphi(m)} r_i \quad ({\rm mod }\ m )$ なので,
オイラーの定理,$a^{\varphi(m)} \equiv 1 \quad  ({\rm mod }\ m )\ $ が得られる。

(注)なお,$ar(m) = \{ a r_1, a r_2, \cdots, a r_{\varphi(m)} \} \quad ({\mod \ m }) \equiv \{ r'_1, r'_2, \cdots, r'_{\varphi(m)} \} \ $の要素$\ r'_i \ $はすべて,$a, m$と互いに素であり,同じものは含まれない。

(1) $p, q$を素数として,$m=p q\ $である場合,$\varphi(m) = \varphi(p) \varphi(q)$ となる。
$\varphi(m)\ $は,$\{1,2, \cdots, m \}$から,$p$の倍数と$q$の倍数を除いたものになるので,それぞれ,$q$個,$p$個あるが,$p q$は両方で重なっている。そこで,$p, q$の倍数でないものの個数は,$ \varphi(m) = pq -p - q +1 = (p-1) (q-1) = \varphi(p) \varphi(q) $ となる。3個以上の場合も同様。

(2) $p$ を素数,$k$を正整数として,$m = p^k\ $である場合,$\varphi(m) = p^k - p^{k-1} \ $ となる。これは,$\{ 1, 2, \cdots , p^k \} $ の中で,$ \{ 1 p, 2 p, \cdots , p^{k-1} p\}$ は$m$と互いに素でないので,その個数を引けばよいからだ。

(3) これらを組み合わせると,$m = p_1^{k_1} p_2^{k_2} \cdots p_n^{k_n}\ $ として,$\varphi(m) = m (1-1/p_1) (1-1/p_2) \cdots (1-1/p_n) $ となる。


図:オイラーのファイ関数のグラフ(Wikipediaから引用)

[2]オイラーのファイ関数のイメージ(高校数学の物語)

2025年3月1日土曜日

終戦の詔勅

日本でラジオ放送が始まって100年,NHKでは放送100年として様々な資料映像を流している。そのなかに,名物アナウンサーの和田信堅(1912-1952)の映像があった。

和田は,双葉山69連勝でストップの放送でも有名だが,1945年8月15日正午からの玉音放送の担当であり,終戦の詔勅の朗読をしていた。あれは,裕仁天皇の玉音盤を流しただけかと思っていた。それだけではわかりにくかったからか,アナウンサーによる朗読や解説などで補っていたのだ。

1967年の夏,中学生の頃に家族でみた「日本のいちばん長い日」の映画ではじめて玉音放送を巡るエピソードを知ることになった。映画では日本放送協会の関係者も奮闘していたが,放送員(アナウンサー)として,加山雄三(1937-)が館野守男小泉博(1926-2015)が和田信堅を演じていた。東宝のゴジラ映画でもおなじみの小泉は元NHKアナウンサーだったのか。



写真:玉音盤の副盤(Wikipediaから引用)

[1]厳禁の広告放送(和田信賢)