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2024年11月24日日曜日

朝永振一郎

科学者の墓からの続き

朝永振一郎の墓の話から繋がって,昔の週刊朝日がやってきた。1965年の10月21日に朝永振一郎(1906-1979)が「繰り込み理論の発明による量子電磁力学の発展への寄与」でノーベル物理学賞を取ったという連絡があった。「中間子理論の提唱」による湯川秀樹のノーベル物理学賞に次いで日本人で二番目である。

当時,小学校6年生だった自分は,朝日新聞と北國新聞の大きな見出しを見て,「量子電磁力学なにそれ,そんなもんきいたこともないわ」と思った。科学の児童書を沢山読んでいて何でも知っていると勘違いした小学生は,自分が何も知らないことが〈山〉のように控えていることに気づかなかったのである。まあ,60年後の今でもほとんどそのままなんだけどね。

週刊朝日では,「『ノーベル賞』の素顔」というタイトルの6pの記事が,6pのグラビア写真と共に掲載されている。門下生の伊藤大介の戦後すぐの話に「まるで人間の生活できるところじゃなかったが,研究ができる喜びは大きかった。私はこんな研究室に,馬場一雄さん(現奈良女子大教授)と一緒に寝泊まりしていたが,朝永先生も一緒に泊まり配給の酒を三人でチビチビ飲んだこともあった」とある。

森田研の先輩の久米健次さんが奈良女子大学の馬場一雄先生の研究室に助手として就職したのは,1976年ごろだったろうか。研究室にくるたびに馬場先生の話題が出ていたような。



写真:1965年11月5日号の週刊朝日の表紙を引用

2024年2月11日日曜日

プール

泉野小学校にはプールがなかった。

戦後の引き揚げ者が平和町に多く住むようになって,十一屋小学校の校区の人口が急増し,その分校として設置されたのが泉野小学校である。昭和34年(1959年)に独立した小学校として創立された。自分が入学したのは昭和35年(1960年)なので,第2期生というわけだ。

歴史のある十一屋小学校にはプールがあったのではないか。体育の水泳の授業は近くの野田中学校や,歩いて30分ほどの市営グラウンドに併設されている市営プールに半日がかりで行くことになる。

小学校1年のころには父親の会社の海水浴で千里浜に行ってばしゃばしゃしていたり,母親の実家の滑川は海のすぐ近くだったりしたのだけれど,小学校のころはほとんど泳げなかった。そんなわけで,例の勉強も良くできる大杉君が50メートルプールの短辺をバタフライで力強く泳いでいるのを指をくわえて見ているような子供だった。

その後の経緯は,金沢泉丘高等学校のプールで書いていた。


写真:思い出の金沢市営総合プール

2024年2月9日金曜日

直角

理科クラブと算数クラブからの続き

小学校4年の算数の時間のことだ。折り紙を2回折ると直角をつくることができるという話になった。そこで,先生がみんなに尋ねた。折り方によって直角はいくつくらい作ることができるでしょう。さっそく折り紙をもちながらクラスでわいわいと議論がはじまった。

クラスの中でもよくできて運動も得意で発言力のあった中田君が3000くらいかなあといった。それに賛同する子が多かった。選挙で自民党に票が集まるのと同じ原理だ。強いものが正義であり真理なのである。これに対して,転校生でちょっとみんなからはずれていた眼鏡の松村さんと自分が,それはおかしい,ほんの少しでも折り線をずらせば可能なので,無数にできるはずだと主張した。

教訓1:真理はかならずしも多数決では決まらない
教訓2:力(権威)が大衆の正義になることは多い

自分が苦手だった沢崎先生はどうやってその結果を集約したのだろうか。そのあたりははっきり覚えていない。


写真:おりがみで直角をつくる方法


2024年2月8日木曜日

理科クラブと算数クラブ

中国の小学生の数学からの続き

1964年,泉野小学校では,5年生になるとクラブ活動が始まった。モーターを使って自動車をつくる工作クラブもおもしろそうだったが,理科クラブのほうに入った。初回は担当の先生がこどもの名前を確認していくのだけれど,腰切と板書されて話がなかなか遠かった。上級生の活動発表では,水酸化ナトリウム水溶液で煮出した木の葉から葉脈標本を作るというのが印象的だった。

ともだちと数人のグループで何をテーマにしようかと相談した。その結果,ビーカーに入れた食塩水の濃度をかえたものをいくつか用意して,おたまじゃくしがどこまで大丈夫かを確かめようというとんでもない実験をすることになった。このあたり,先生の指導はほとんどいきとどいていない。結局食塩水の濃度計算だけ上達することになった。おたまじゃくしは結構の濃度まで耐えていたかもしれない。

さて,6年生になると学年のクラス数がこれまでの3組から4組に増えた。そこまで児童の数は増えていなかったはずなのだがどうしてだろう。5年2組の南毅先生(社会)から,6年4組の前多光子先生(理科)に担任は変わった。隣の6年3組には中薮先生(算数)が新しく着任した。どうやらかなり厳しく怖い先生だという噂がすぐに伝わってきた。

ある日,その中薮先生が新しく算数クラブを作ることになったというアナウンスがあった。思わずハイハイハイ,そのクラブに入りますと大きな声で訴えた。算数クラブには10人あまりのこどもたちが集まっただろうか。毎週一回のクラブの時間はとても刺激的で楽しかった。

ただ,覚えているのは,一筆書き三角数と四角数,図形の面積のパラドックスくらいだ。一筆書きでは,奇数点が0個か2個のときだけ可能だということを学んだ。三角数の規則性について説明があった後で,四角数はどうなるだろうかという設問に,わかったと思って挙手して答えたけれど,どうもうまくことばで説明することができなかった。中薮先生は,算数クラブではたいへんやさしく指導してくれた。


図:三角数と四角数(イミダスからの引用)

(注)大杉君は,中薮先生のクラスだったが,6年3組の算数の時間には,台形の対角線を結んでできた左右側の三角形の面積が等しいことを説明させるという授業が展開されていたことを教えてくれた。

2024年2月6日火曜日

中国の小学生の数学

中国の小学生が解いている数学の問題という触れ込みで次の面積を求める問いがあった。

図1:4分円と半円の交わる部分の面積を求める

小学生にも出来るはずだということで,いろいろ考えたけれど,どうしても解けない。いや,$ \tan^{-1} \alpha = 1/2, \tan^{-1}\beta = 2$によって,図の2つの角度さえ求めてよいならば,扇型AOEGの面積が $S_1=\alpha a^2$,扇型DOEGの面積が$S_2=\beta (a/2)^2$,そして四角形OAGDの面積が,$S_3=a^2/2$であることを用いて,求める面積は $S = S_1+S_2-S_3$となる。

あるいは,解析幾何学を使ってよいのならば,2つの円の式の交点からG$=(4a/5, 2a/5)$となり,面積は積分を使って,$S=\displaystyle \int_0^{4a/5} \Bigl( \sqrt{(a/2)^2-(x-a/2)^2}-a+\sqrt{a^2-x^2} \Bigr)\  dx$となる。

いずれにせよ,答えは,正方形OABCの一辺を$a=4$として,$S \approx 3.847$ である。
結局,中国の小学生はどうやってこの問題を解いているのだろうか


小学生のとき,似たような問題で長いこと未解決でクラスのみんなであれこれ議論したものがあった。それは図2右のようなもので,正方形の中の四つの四分円の交わる領域の面積を求めるものだ。図2左は授業でもよく出てくる問題であり,これならみんな解ける。

図2:小学校のときの未解決問題(右図)

あるとき,塾に通っていた友人たちが,塾の先生から答えを聞いてきて披露したことがあった。それはだめでしょう。せっかくみんなで自分たちで答えをだそうとがんばっていたのに。その解法には正三角形の面積を求める過程がふくまれていて平方根が登場する。小学生には無理な問題だったのだ。

いや,じつはそれほど無理でもない。小学校5,6年のときだろうか,学校で一番頭の良いことで有名だった大杉君というのが,平方根の筆算による計算法(開平法をどこかで学んできて,みんなに教えてくれたことがあった。なるほど,そういうことかと計算できるようになった友達は多い。たぶん,ピタゴラスの定理もどこかで聞きかじっていたかもしれないので,実はもう少しで解けるあたりまでの知識は蓄積していたはずなのだ。

2022年11月9日水曜日

ブルーダイアリー

久々に家人の所用で梅田まで出る。冬に入り来年の手帳を買う季節がやってきた。

手帳を使い始めたのは,中学校のころだ。父が,北國銀行の古い手帳の残部をくれることがあって,なんとなく持ち歩いていた。手帳というのは,自分が必要とする知識をコンパクトに収めて携帯するものだと認識していた。田舎の中学生に行事や業務の予定はない。

理科の図鑑を沢山読んでいた小学校低学年のころ,宇宙の重要なデータを小さな紙に書きまとめ持ち歩いていたことがある。最も重要だと考えたのが光の速度で,1秒間に30万km,2秒で60万km など,かけ算のテーブルよろしく表にしていた。他に何を記載していたかよく憶えていないが,太陽や月や惑星のデータだったかもしれない。まあ,こども理科年表ですね。

理科で月を扱う単元の最初の時間(小学校2年),「月について知っていることはありますか」との先生の発問に,ハイハイハイと大きな声いっぱいに手を上げて無事あてられたものの,「月は地球の衛星で・・・」と頭でっかちの思いばかり先走り,その後の言葉が続かなかった。

高校時代,米島君に北國銀行の手帳を見せて自慢していたら,彼は,タナベ経営ブルーダイアリーをどこからか探し出してきた。確かにそちらの方がスマートで機能的だった。自分でこのブルーダイアリー・ジュニアを毎年買うようになったのは大学に入ってからだろうか。それ以来50年は使っていることになる。手元の引き出しには1990年からの30年分が置いてある。

ブルーダイアリーはその後,行事予定記録帳やパスワードメモ帳として活用されるのだが,定年前後から書くべき予定もなくなってしまい,アイディア計算ノートに変貌してしまった。それでも毎年購入していないと落ち着かない。

阪急百貨店のこじゃれた文房具コーナーで探すものの,高橋書店の手帳や能率手帳しか置いていない。しかたなく,紀伊国屋書店までひとっ走りしたのだが,ここも高橋書店やモレスキンやシステム手帳に占領されている。店員さんに尋ねて探し回った結果,ようやく隅の方に埋もれていたブルーダイアリー・ジュニアが発掘された。

ネットで検索してみると,タナベコンサルティングのブルーダイアリーは店頭販売から撤退してネット販売だけになっていた。ようやく買い求めることができた2023年のブルーダイアリーは外装がシックな紺の網目に変更されていた。手書きの手帳はいつまで続くことだろう。


写真:外装が濃青から紺に変更されたブルーダイアリー・ジュニア

2021年6月12日土曜日

東京オリンピック(1)

東京オリンピック1964のときには,小学5年生だったので, オリンピックに対してはそれなりに刷り込まれたイメージがある。10月1日の開会式は,晴の確率が高いということで選ばれたが,金沢の家からみた庭の空も晴れていたような気がする。テレビでみた開会式はカラーだったのだろうか?

泉野小学校の各教室の掲示板にはメダル星取り表が配られた。金銀銅メダルのシールを種目別に貼っていくのがクラスの日課になっていた。メダルの結果を知るために4年生の教室に偵察にいったところ,まきびしならぬ押しピンで退散させられた。当時履いていたズックはすぐボロボロになるので,ほぼ裸足状態で校内を走り回っていたからだ。

当時,廊下のささくれが足の裏にささって痛みが続いていたところ,母が夜中に焼いた針でこれを取り除いてくれた。親心のありがたさが身にしみた。

近代オリンピックが,フランスのクーベルタンの提唱によって1896年にアテネで始まってから125年になり,その歪みがこのコロナ禍によって可視化されている。特に,IOCに巣くういわゆる五輪貴族と商業主義の弊害だ。そして,国内でも人材派遣のパソナや電通や大手ゼネコンやITベンダーと中抜きのシステムによって,税金がボロボロに食い荒らされている。

100年前の1920年アントワープオリンピックは,第一次世界大戦とスペイン風邪の後の大会として今回の東京2020と比較されることが多いが,開会式が4月20日,閉会式が9月12日,種目に綱引きがある時代だった。そして,多くの医療関係者や市民の反対にもかかわらず,東京2020は強行されそうだ。

2021年4月3日土曜日

若い力

 若い力作詞:佐伯孝夫、作曲:高田信一)は,1947年10月の第2回国民体育大会(石川県)の際に国民体育大会歌として作られた。金沢が非戦災都市だったので戦後すぐの石川県単独での国体開催となった。開会式は10月30日に金沢市営陸上競技場(金澤市運動場)で行われている。

この国体で,金沢市の小学校6年生男女 4000名による若い力の集団演技が披露された。その振り付けは,石川師範学校男子部付属小学校の稲場四郎と野町小学校の勝尾信子,文部省職員の3名で創作されたものである。それ以来,金沢市の小学校6年生は若い力の発祥の地である金沢市営競技場で開催される金沢市立小学校連合体育大会で,若い力の集団演技をするのが伝統となった。

というわけで,自分の小学生時代も若い力の演技をさんざん練習したのである。小学校の運動会の出し物にもなっていた。ここから記憶が曖昧になるのだけれど,泉野小学校の若い力運動会バージョンは六年生の男子児童のみが上半身裸で演技するということになっていた。ある日,その練習を体育館でやっていたのだけれど,女子は周りに座ってお喋りしているのである。その声がだんだん大きくなってきたので「静かにしろ」と切れて大声を出したのは私です。一瞬だけしずまったが,ほとんど効果はありませんでした。結局,この年の運動会は雨のため上半身裸の若い力の演技は中止になってしまったのだった。

[1]「若い力」と金沢(金沢文化スポーツコミッション)

[2]若い力〜金沢の伝統演技〜(かなざわスポーツねっと)


2020年2月22日土曜日

昭和のプログラミング教育(2)

昭和のプログラミング教育(1)からの続き

楠先生から,北國新聞2020年2月18日の紙面コピーが送られてきた。タイトルは「昭和40〜50年代のプログラミング,最先端教育記憶つなぐ,元泉丘高教諭・楠さん 教え子から感想文収集」であった。楠先生は,93歳で,1958〜77年に泉丘高で勤務しているので,我々が高校生だった50年前には,43歳ぐらいだった。

クスリのアオキの青木桂生さんが,日本経済新聞の2016年2月22日の記事「パチ先生の教え」で,楠先生(あだながパチ)の思い出と,実家の薬屋を継ぐように諭されたことを書いている。青木さんは1942年生まれくらいなので,我々よりほぼ10歳上,楠先生が30歳で泉丘高校に着任したころの生徒だ。クスリのアオキの会社沿革には,1985年に株式会社クスリのアオキを設立したときの本社所在地は,金沢市泉野出町4丁目になっている。泉丘高校のすぐ南になる。昔はほとんど田んぼだったが,円光寺線の道路沿いには,何かあったのかもしれない。

理数科2期生の我々8組のクラス担任は,1年が松川先生,2年が楠先生,3年が物理の谷口先生だった。松川先生は幼なじみの松川隆行君の父上で,東大の理学部数学科だったと思う。寺町2丁目の電車通りに面して,横山酒店のとなりが松川金物店で,泉野小学校の1,2年のときは同級生だった松川君のうちに時々遊びに行った。担任の川村先生に指名されて,2人で毎日クラス絵日記をかかされていた。その後,雪の市立工業高校のグラウンドをころげまわって帰っていた。その転がり方を○○流だといいあっていたのだが,彼が泉丘流だといったのが,はじめて「泉丘」という言葉を知ったときだ。

松川君にはお姉さんがいて,弟共々よくできるひとだった。お姉さんもお茶の水だったのではないか。3人でダイヤモンドゲームをして,自分がこてんぱんに負けた記憶がある。松川君は東大に進みその後,建設省だかどこかの高級官僚になったと思う。しばらく前は,日本木材住宅産業協会の専務理事の足跡がある。

かつての横山酒店の向いは,今は北國銀行の支店だが,当時は協栄のパン屋があった。その間の路地を入って100mほどで寺町のおばあちゃんの家に至る。途中に大杉和人君というのがいて,彼が泉野小学校の我々の学年で最も優秀だった。卒業式の答辞も読んだ。彼も東大に進学している。泉野小学校からは,他にも赤井勇一,西田荘平,山本賢正,山田晴美など計6人が東大に,片岡稔,山田良平,平崎鉄外喜など3人が京大に進んでいる。他にも忘れている人がいるかもしれない。昭和のプログラミング教育の話にたどりつかない。

P. S. 当時の泉野小学校は,1学年150人ほど,1年から5年までは3クラス,6年ではじめて4クラスになった。野田中学校は1学年450人で10クラス。

2020年1月18日土曜日

芳泉湯

小学校4年生から5年生にかけて,寺町の自宅を新築することになった。その数ヶ月の間笠舞の借家に一家で退避したのだが,使えるのは二階だけで部屋が狭い。そこで,自分だけは自宅のすぐそばにあるおばあちゃんの家に疎開することになった。応接間を勉強部屋として与えられ,寝るのは仏壇の前でおばあちゃんと一緒だった。土曜日曜には借家の父母のもとに通った。

寺町から長良坂を下って川沿いに上がり,上菊橋を渡ってそのまま進むと猿丸神社にぶつかる。ここを右に迂回して,やや登り勾配の道をさらに行くと右手に古い家があった。当時子どもは10円だった北鉄バスに乗ったこともあるが,寺町から歩いても20-30分で着く。

先ほどの道をさらに進むと左に大きく曲がって小立野台地を登る坂道になり,次の右に曲がる角の左手に銭湯があった。芳泉湯という名前で坂上からの眺望もよく,ゆったりした湯船の明るい風呂だった。父に連れられ,妹といっしょに何度か通った記憶がある。銭湯の前の道をさらに進むと金沢大学医学部附属病院前の石引の交差点に達する。

NHKの日曜美術館皆川明ミナ・ペルホネンが紹介されていて,店がどこにあるのかと調べていたら,金沢の石引2丁目にある大正時代の町屋を利用した渋い店が見つかった。グーグルマップで確認すると,先ほどの芳泉湯からすぐのところにある。だが,芳泉湯はもうなかった。かろうじて,痕跡の物置が確認できる程度だ。近くには石引温泉亀の湯という銭湯が新しい道沿いにできていた。

2020年1月10日金曜日

カニカマ

NHKの「所さん!大変ですよ」でカニカマ特集をやっていた。カニカマ製造機がうつるというので,カニカマを1972年に始めて開発した石川県七尾市のスギヨかなと思っていたら,山口県宇部市のカニ風味蒲鉾製造機で世界70%のシェアを持つヤナギヤが映った。ヤナギヤは,フィッシュスティック型のカニカマを最初に作った広島県広島市の大崎水産からカニカマの機械製造の許可をもらって,カニカマ製造機を開発したようだ。

いまではカニカマ=スリミ(surimi)の最大の消費国はフランス(ついでスペイン)で,最大の生産国はリトアニアだ

スギヨといえば,小学校5年生のときの修学旅行で,海水浴場で有名な柴垣の海岸から羽咋市の気多大社能登金剛(巌門)をまわって(このへんの記憶は曖昧),七尾にあるスギヨの工場を見学した。おみやげに出来立てのビタミンちくわをもらった。昼食は小丸山城趾公園で,おばあちゃんが作ってくれたタケノコご飯といっしょにちくわを食べた。これが生涯で一番おいしかった竹輪である。当時は実家の新築工事中だったので,実家から500mのところにある寺町のおばあちゃんのうちに疎開していたのだった。おばあちゃんはちくわがおみやげにならなくて残念そうだった。


写真:スギヨのビタミンちくわのページから引用

2019年11月7日木曜日

子ども提灯行列

中原中也の「金沢の思い出」には次の文があった。

「今以てそれは不思議といへば,一度町内の子供が全部揃つて,忠臣蔵の真似をして練り歩いたことがある。長い列であつた。その先頭ではホラ貝を吹いてゐた。子供達ばかりでやつたことゝしては統制があり過ぎた。あれは親達も手を貸したのであらうか? それともあゝした習慣が金沢にはあつたのであらうか?」

これ,百万石まつりのときに行われる小学生の子ども提灯太鼓行列のことかと思った。しかし,金沢百万石まつりが始まったのは,1952年の商工まつりから。あるいはルーツを辿っても,尾山神社での封国祭に合わせて,1923年(大正12年)から1945年(昭和20年)まで金沢市祭として行われてきた奉祝行事ということなので,中原中也が金沢にいた1912-1914年とはあわない。

自分たちが提灯行列に参加したのは小学校5年のときだったのではないかと思う。泉野小学校の校庭に集まり,兼六園の付近まで全員で移動する。そこには市内の小学生が終結しており,夕方になると各校下にむけて,赤い提灯を掲げながら行進した。寺町通りをある程度進むと自宅が近くなるので,流れ解散となったような気もするし,もう暗くなった夜道を小学生がばらばらと帰って行くのも危ないと思うがどうだったのか。

行列の行進の際は,金沢市民の歌(金沢市歌のほうではない)石川県民の歌など(小学校でよく練習している)をみんなで声を張り上げてうたい気勢をあげるのであった。たぶん,何かのDNAで中也の思い出と結ばれているような気がした。


2019年10月17日木曜日

第二室戸台風

1961年の9月16日に第二室戸台風が日本に上陸して四国・近畿・北陸を縦断した。当時,小学校2年だったが,金沢を通過したのは夜だった。父親が出張で不在であり,父の友人の七野昭治さんが家は大丈夫かと見に来てくれた。雨戸を閉め,台所などの窓を木の板でカバーしていたような気もするが,正しい記憶かどうか。停電になった暗い家の中で母親がバタバタしていた。小学校2年生にはいかんともすることができない。Wikipediaの情報を整理して下記に再掲するが,第二室戸台風はなかなか大きな台風だったようだ。

上陸直前気圧(hPa)の低い台風・・・(陸上での中心気圧の最低値ではない)
1 第2室戸台風 925 1961年 室戸岬西方
2 伊勢湾台風 929 1959年 潮岬西方
3 平成5年台風第13号 930 1993年 薩摩半島南部
4 ルース台風 935 1951年 木野市付近
5 平成3年台風第19号 940 1991年 佐世保市南
5 昭和46年台風第23号 1971年 大隅半島
5 昭和40年台風第23号 1965年 安芸市付近
5 昭和39年台風第20号 1964年 佐多岬
5 昭和30年台風第22号 1955年 薩摩半島
5 昭和29年台風第5号 1954年 鹿児島県西部

最大風速(m/s)の大きな台風・・・(最大瞬間風速ではない)
1 昭和40年台風第23号 69.8 1965年 室戸岬
2 ルース台風 69.3 1951年 細島
3 ルース台風 67.1 1951年 佐田岬
4 第2室戸台風 66.7 1961年 室戸岬
5 昭和29年台風第13号 65.0 1954年 都井岬
6 洞爺丸台風 63.3 1954年 神威岬
7 第2宮古島台風 60.8 1966年 宮古島
8 洞爺丸台風 58.8 1954年 佐多岬
9 昭和45年台風第10号 57.5 1970年 土佐沖ノ島
10 昭和5年台風 57.0推定 1930年 南大東島

(注)地球温暖化・気候変動によって近年台風の威力が増大しているという説は必ずしも正しくないかもしれないことが,上記の記録から見て取れる。

2019年10月4日金曜日

ノーベル賞飴

今年もノーベル賞の季節が巡ってきた。日本の学術論文数や引用数の国際順位の低下から,今後は日本からノーベル賞受賞者がでなくなるのではないかとささやかれている。これについての議論は,元三重大大学学長の豊田長康先生の分析から出発する必要がある。

それはそうとして,小学校6年生の頃(だと思う),アルフレッド・ノーベルの伝記を読んで読書感想文を書いたことがあった。偕成社の児童伝記全集か何かにノーベルの巻があったのだ。ではなぜ,あまたある偉人の伝記の中からノーベルを選んだのかというと,ノーベル賞が鍵だった。

「世界にはノーベル賞をもらうようなすごい科学者がたくさんいるが,その中から一人をえらぶのは難しい。しかし,それらの科学者はノーベル賞という基準で評価されている。とすれば,その共通の基準をつくりだしたノーベルについて知ることで,その他の科学者の全体をカバーできるのではないか」というイメージに近いことを子どもなりに考えて,ノーベルの伝記を読んだのだった。

いいのやらわるいのやら。

追伸:大阪教育大学の物理学教室の卒論発表会では,とてもよかった発表をえらんでノーベル賞飴をあげていたそうなのだが,自分が着任した年にはその習慣がなくなってしまっていた。ノーベル賞飴が製造中止になったためかもしれないが,その年代はよくわからない。ただ,しばらくは卒論要旨集の表紙の模様がノーベル賞のメダルのデザインとして残っていた。

2019年9月28日土曜日

なつぞら

今日はNHKの朝のテレビドラマ「なつぞら」の最終回。100作目ということで,これまでの朝ドラヒロインがオールスターで登場していた。日本アニメの黎明期がテーマなのでおもしろかった。そこで,自分のアニメ視聴史(〜中学生まで)を振り返ってみた。

映画館にて
1960 白蛇伝(寺町終点の映画館パレスに小学校2年生の映画鑑賞)
1961 西遊記(同上,小学校3年生の映画鑑賞)
1961 101匹わんちゃん大行進(喜代子おばあちゃんと)
1963 わんぱく王子の大蛇退治(喜代子おばあちゃんと金劇にて)
1964 わんわん忠臣蔵(喜代子おばあちゃんと金劇にて)
1965 ガリバーの宇宙旅行(喜代子おばあちゃんと金劇にて)
1965 ファンタジア(小学校6年生?の映画鑑賞@金劇)

テレビアニメ
1960 フィリックス君(いつからはじまったのだろうか)
1962 鉄腕ポパイ(これもいつからはじまったのだろうか)
1963 鉄腕アトム(床屋の少年でおなじみ,ムックでも読んだ,金属おもちゃも買った)
1963 鉄人28号(同上,単行本でも読んだ,プラモデルも作った)
1963 エイトマン(小学校のバス旅行で熱唱した)
1963 狼少年ケン(おばあちゃんの家でみることが多かった?)
1964 トムとジェリー(これもおばあちゃんの家でみることが多かった)
1964 ビックX(購読中の少年ブックでもおなじみ,プラモデルも作った)
1965 宇宙エース(タツノコプロ,同上)
1965 おばけのQ太郎(以下藤子不二雄シリーズが続く)
1965 JQ(ジョニークエスト,主人公JQが好きだった)
1965 スーパージェッター(流星号のプラモデルも作った)
1965 遊星少年パピィ(ピーーーパピィ)
1965 宇宙少年ソラン(小学校卒業式午後のお楽しみ会の出し物だった)
1965 ジャングル大帝(カラー作品のスタート)
1966 ハリスの風(ちばてつやシリーズの始まり)
1966 魔法使いサリー(妹のりぼんでおなじみ)
1966 おそ松くん(赤塚不二夫シリーズの始まり)
1966 遊星仮面(ピネロン星人ですよ)
1967 黄金バット(これを見ているときに踵を切ったイメージが想起)
1967 悟空の大冒険(この三蔵法師に似ていると米島君に指摘された)
1968 ゲゲゲの鬼太郎(畦地君の家で少年マガジンを読みふける)
1968 巨人の星(同上,スポーツ漫画の始まり)

2019年5月28日火曜日

「加賀」と「かが」

昔(昭和30年代後半),「少年」か「ぼくら」の付録に帝国海軍連合艦隊の紙模型がついてきたことがあった。月間漫画雑誌の付録なので,イ号潜水艦から空母,戦艦大和までのミニ模型の数は揃っていてもそれほどたいしたものでない。だがなんだかワクワクした。まだ戦後20年もたっていないころである。逆コースは始まっているにせよ,子ども向けの雑誌の付録にこれというのは今ではなかなか想像しにくいかもしれない。合衆国海軍の空母エンタープライズ(1961年就役)の大きな紙模型がついてきたこともある。

プラスチックモデルでも戦争物は多く,小学生の時分にはいろいろ買ってもらった。大きな木の模型の戦艦大和にも1度挑戦したが,低学年だったので最後まで作りきれなかった。一回り小さい70-80cmクラスのプラスチックモデルの戦艦大和やもう少し小振りの航空母艦大鳳などは最後までちゃんと作って水槽に浮かべることもできた。戦車のプラモデルも作ったような気もするが,友達のを手伝っていたのかもしれない。

そんなわけで,昭和30年代の子どもを取り巻く環境はなかなか楽しいものであった。それは一方で,憲法九条や防衛費GNP1%以下などの枠組みに守られた中のサンドボックスのようなものだった。

ところが,いつのまにか,ミッドウェー海戦で沈没した空母加賀(238m,29500トン)はヘリコプター搭載護衛艦かが(248m,26000トン)に生まれ変わり,さらに昨年度末はF35Bを搭載できるよう改修されることが決定し,事実上の空母化といわれるようになった。1年前には恐る恐る「かが」全容を報道していたマスメディアは安倍内閣のもとで変質した。いまや,トランプ大統領の視察にあわせてその内部でTV中継までするはしゃぎよう。過去の長期にわたって積み重ねられてきた政府の説明とはまったく異る,攻撃能力を持った空母の所有と運用が大手を振ってまかり通る時代になってしまった。


(写真:「艦船の戦い〜ミッドウェー海戦(NAVERまとめ)」から引用)


2018年12月9日日曜日

木村栄の孫

日本経済新聞の私の履歴書,今月は茅陽一。物理学者の茅誠司の妻が,天文学者の木村栄(ひさし)の娘の伊登子であるとのこと。つまり,茅陽一は木村栄の孫になる。金沢市立泉野小学校では(校区内に木村栄の育った家があった),かつて,地球の緯度観測でZ項を発見し,第1回の文化勲章を受賞した木村栄の業績をたたえる行事を毎年行っていたのだけれど(そういえば木村博士の歌もあった),残念なことに泉野小学校の現在のホームページには木村栄についての記載はない。金沢市郊外の野田山にある大乗寺の山門参道前には,木村栄の養父の木村民衛(私塾の教師)の大きな碑があったのだが,これも何年か前に撤去されてしまっていた。